Keso de Bola とは、 「表面は赤いのに中は黄色い」フィリピンのボール型チーズ。転じて日和見主義者。       かつてお世話になった、現地の言葉で「灯台」と呼ばれるマニラ湾岸のスラムを、ガラス越しに。
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あんへる・弘先生のお店
 今日は、お店の宣伝です。

 すでに1ヶ月以上前のことですが、博士論文の口頭試問を受けた日の夕方、神戸の下町で、弘先生(お名前じゃなくて、名字です――「ひろせんせい」です)に、お会いいただきました。
 弘先生は、私の高校時代の国語(現代文)の先生で、高校3年生のときには担任までしていただきました。当時63歳。私の父より一回り以上も上なのですが、とにかく、かっこいい先生でした。当時からツーリングで全国を回り、野宿や駅寝(ステーション・ビバーク:STB)を敢行され、STBの指南書まで出版されていて、留年した生徒には、「おまえさん、しばらくチャリで四国でも走ってこい」とコメント。
 私たちの卒業後まもなく定年退職された弘先生は、その後、フラメンコ教師の娘さんに触発されてスペインに魅了され、スペインをスクーターで走り抜け、スペイン語を学び、昨年10月、75歳にして、「人生の最後から2番目の夢」(←という表現がスペインにはあるそうです)として、神戸の下町に、スペイン雑貨・中古雑貨店をオープンされたのだそうです。そして近日中には近くにガラス工房もオープン予定。

 スペイン雑貨・中古雑貨店 あんへりーた ANGELITA
 ガラス工房あんへりーと ANGELITO
 
 どちらのお店についても詳細はこちら。ぜひクリックして、過去ログから、弘先生の独特の言葉遣いをお楽しみください。

 私は弘先生の授業が大好きで、もちろん、弘先生のことも大好きでした。
 文学作品を読まずに文学史を暗記だけしようと思っているやる気のない高校生に対して、名作のあらすじをかいつまんで紹介して下さることもありました。眠たそうな谷崎潤一郎や田山花袋の小説も、弘先生の説明のあとではぜひ読んでみたくなるのでした。授業では、「恋愛についてのブレーンストーミング」や、「デカダンスな作品についてのグループ発表」などなど、ユニークな課題を課せられました。おかげさまで、弘先生に担当していただいた高校3年生はやたらとデカダン(デカダンス、とすら発音しないのがツウ)に詳しくなりました。退廃的な行動をするクラスメイトのあだ名が「デカ」になるくらい。
 弘先生のお声や、独特のお話のしかたは本当に素敵で、先生が『三月記』や『舞姫』や『永訣の朝』を朗読されるたび、私を含め、何人かの女子生徒はしびれていたものです。
 
 時は90年代後半。女子高生がニッポン文化の中心を少しは踏んづけていた頃。私もご多分にもれず、茶髪にピアスを当然のようにたしなみ、飲酒と喫煙に多大なる関心を抱くダメ女子高生の一人でした。
 そして私も、高校時代は、いまよりもずっと、言いたいことがたくさんありました。少なくとも、いまよりもずっと簡単に言葉を使っていました。私は当時、ひたすら国際協力NGOの活動ばかりしていて、学校は平穏すぎて退屈な場所で、ペンを持つと言いたいことがあふれてきました。誰かに伝えたい、聞いてもらいたい。そんな思いから、私はただ言葉を垂れ流していました。その当時からすでに、一部の国際協力NGOや環境NGOの活動に疑念を抱いていた私は、弘先生の授業で課せられる小説やエッセイやレポートにそれらを盛り込み、マニアックかつ血気盛んな文章を提出していました。そんなものを読まなければならない高校の先生って、本当に大変な職業だと思いますが、弘先生は、非常に短いコメントでそれらを流して下さいました。
 高校1年のときにバングラデシュに2回も渡航し、高校2年でフィリピンに渡航し、高校3年の夏にはエチオピアでの国際会議に出席した私は、校内でかなり目立っていました。先生方からの特別扱いもすさまじく、
 「君は、NGOで活発に活動して、先生方からの評価も高いのに、なぜピアス?」
とか、
 「そんなに良い活動をしているのに、数学の成績が悪いなんて。」
とか言われるのです。NGOと関係ないでしょ!と私は思っていました。
 でも弘先生は私の活動について、最後まで何もおっしゃいませんでした。私はそのことがとても嬉しくて、夏休みの課題では、「国際協力NGOをやっている中高生がいかにフツーであるか」を主張するための小説を書きました。(ちっともフツーじゃないじゃない、と言われそうですが、高校生ですから、その熱さはフツーだと思うのです。)
 そんな私の文章を全部読んでくださって、とてもクールにシビアに最低限の言葉でコメントしてくださる弘先生に、私は、ずっと憧れていました。
 言葉を仕事にするというのはこういうことなのかな、と思いました。

 高校を卒業して数年たってから、弘先生からのお葉書で、先生がスペインに永住計画を立てておられることを知りました。そして私もフィリピンに留学し、私はてっきり弘先生はスペインに旅立っていかれたのだと思っていました。

 …ということを、昨年の7月に「八文字屋」を訪問したさいに経営者の甲斐さんにお話ししたら、甲斐さん曰く、
 「弘先生は現在、ガラス工芸をされていて、京都は百万遍の手づくり市に店を出しておられる。まだ当時のお家にいらっしゃるはず。」
とのこと。さすがは、京都一の情報家の甲斐さんです。
 私は、10年前の住所に宛ててお手紙を書きました。すると、わずか数日でお返事が。「あんへりーた」の開店の広告の上に、懐かしい弘先生の字がありました。

 念願かなって「あんへりーた」を訪れた日、その扉のガラス越しに、実に11年ぶりに、75歳の弘先生のお姿を拝見した瞬間、私はもう胸が一杯になってしまって、あまりきちんとしたご挨拶もできませんでした。「積もる話もあるだろうし」と近くの喫茶店に連れて行っていただいたのに、私は、懐かしい先生の口調に感激してしまって、用意していた言葉のひとつも言えないままでした。「海外にいたあいだ、ホームシックにもノイローゼにもならずか。」と訊かれ、咄嗟に「ならずですよ。」と答えると、先生は、「まあ君は、そういうの、ならなさそうだからなあ。」とおっしゃいました。私はとても幸せに思いました。ノイローゼなんて古い言葉を。弘先生にそんなふうに言っていただくと、実に本当に、何もなかったかのように思えました。後日、お礼の葉書とメールをお送りすると、弘先生はあいかわらず、短いお返事をくださいました。
 現在の弘先生は言葉を仕事にされているわけではなくて、まったく別のことをされていて、そして私はあいかわらず言葉を無駄にしているけれど、いつか私も、弘先生のように言葉を使えるようになりたいです。

なお、スペイン雑貨・中古雑貨店 あんへりーた ANGELITA(←もう一度、リンクしておきます)にはあまりお客さんが入っていないそうです。近くの方、近くなくてもスペイン好きの方、雑貨好きの方は、ぜひ行ってみてください。王子公園駅で降りると、お店に辿り着くまでに、下町情緒たっぷりの商店街もありますよ。そしてお店では、素敵な店主が、素敵な日本語で相手をしてくださることでしょう。
 なお、オープン時間は「13時から薄暮」だそうです。薄暮!
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# by saging | 2010-02-13 03:37 | その他
チョボチョボな話
 博士論文の口頭試問を受けてまいりました。4名の審査委員の先生方からは、事前に思っていたほど厳しい質問を受けることはありませんでした。
 「このモデルだけでスラム住民の行動原理をすべて説明できるのですか? 彼らはそんなにも合理的だと言えるのですか?」
という質問は、もちろん繰り返されました。これは口頭試問で、私は試されているわけですから、私はもちろん、使い古された言葉で、使い古されたことを反駁しました。そして例によって、「政治学VS地域研究」に関する定型のコメントが繰り返されました。よかった、想定内だ、と思いながら、私は、1年半前に「博士論文提出資格審査試験」を受けたときにも同じことを訊かれて、同じように無難に乗り切ったことを思い出しました。無難に乗り切れるようなことじゃないのに。
 だからこそ、指導教官の先生から最後にいただいた、
 「君の論文って、結局はみんなチョボチョボだよ、っていう話ですよね。なんというか、ロマンがないね。」
というコメント、決して褒められているわけではないのに、ほっとしました。

 本日は、論文にも含めることができないような、さらにチョボチョボなお話を。
  「資格審査論文」を書いていた2008年の6月、私が調査していたマニラの川沿いのスラムの方々が、自分たちで選択した代替地に移転することになりました。リサール州ロド●ゲスの移転地の住宅が完成したのは5月中旬。人々は5月20日に移転予定でした。移転当日は私も仕事を休んで見に行くつもりでしたが、移転の前夜に延期の連絡。その後、諸事情からさらに3回にわたって移転日が延ばされました。住民リーダーたちの話は以下の通りでした。
 最初の50世帯(主に住民組織のリーダー層)は、5月20日にロド●ゲスに移転を済ませるはずが、25日に延期。理由は政府側の都合。初めの50世帯の内訳は、オプション1(敷地面積36㎡)が36名、オプション2(敷地面積40㎡)が14名だったのですが、前日になって、オプション1の家々の扉と窓ガラスの取り付けが遅れることが判明。ならばオプション2への移転者のみ先に移動すればいいようなものですが、国家住宅庁の担当者曰く、
 「トラックの契約単位は50世帯。14世帯と36世帯に分けて移転させると2倍の費用がかかるので、オプション2の世帯の移転日も遅らせよう。」
 先週のうちに移転するものだと思っていたオプション2の世帯の人々は、当日未明になって移転日の延期を知らされてカンカン。翌日には引っ越すつもりで夜を徹してすべてをダンボールに詰めてスタンバイしていたのですから。10人家族なら衣類も食器も食品も×10! その梱包を解くのも大変です。さらに、皆それぞれに、引越しの人手が足りないからと親戚を呼んだり娘や息子に仕事を休ませたりしていたのですから、そのコストも馬鹿になりません。移転って、とにかく人手が要るのです。引越し用のトラックはスラムの狭い路地には入ることができませんから、冷蔵庫もテレビセットも椅子もテーブルも、各世帯が自分たちで表通りまで運ばなくてはならないわけで、皆、働き盛りの家族に仕事を休ませ、遠くの親戚を動員して引っ越しに備えていたわけです(移出元のマニラ市に申請すれば市が助っ人要員を派遣してくれますが有料)。それが延期になれば、そりゃ大変です。
 この時期、私は、複数の方々から借金を申し込まれました。私に頼むくらいだから、他には八方手を尽くしているのでしょう。何よりも、移転に予想外にお金がかかるという、その事情は痛いくらいわかります。
 彼らは皆、当時はオフィスワーカーであった私の活動時間を知っていて、夜の9時とか10時とか、絶妙な時間帯に電話をかけてきては、
 「どうしても●●ペソが必要で。来週には返すから。それにちょっと話したいことがあって。重要なのよ。」
と言うのです。
 夜遅く、現金を隠し持って訪問する私に、まずは食事を振舞おうとするおばちゃんたち。できるなら事務的にお金だけさっさと渡して、一刻も早く帰って自分のベッドで眠りたいと内心で思っている私ですが、そんな無礼は許されません。食事は断りつつも、お水とスナックなどをいただきながら世間話をして、だらだらとテレビを見たり、子どもたちと遊んだり。その後、相手は頃合いを見計らって、さりげなく話の根本に触れてきます。つまり、窮状を訴えるわけです。しかも、決して悲劇を強調するのではなく、自分がいかに努力して問題解決にあたってきたか、自分が金策に奔走したか、を語ってくれるのです。何の努力もせずにいきなりあなたに依頼をしているわけではないよ、との布石を、延々と打つわけです。黙って聞いていると数時間は続きます。本当に回りくどいのですが、それが彼/彼女たちのプライドなのです。
 「移転先にまだ電気が通っていない。とりあえずはランプでしのぎたいのだけど、ランプを買うお金がない。」
 「うちは女世帯なので、引越しにあたって娘の同級生の男の子たちの手を借りたいのだけれど、まさかタダ働きというわけにはいかないし、食事だって用意しないといけないし…。」
この辺りは事実なので、本当に同情します。
 「海外に出稼ぎに行っている娘に電話して振り込んでもらいたいが、うちの孫が携帯電話をいじっているうちに連絡先を消してしまった。」
…この辺りになると、どこまでが嘘か本当か…。騙された振りをするしかありません。そしてこうしたおしゃべりの間、あちらはずっと話の核心に触れるタイミングを見計らい、こちらはこちらで、現金を渡すタイミングを見計らっているわけです。あんまり急いで渡しすぎても気まずいし、躊躇しているとどんどん時間が経ってしまいます。相手のプライドを傷つけないように、あっさり渡さなくてはなりませんし、渡したら最後、尾を引かないようにすぐに話題を切り替えなくてはなりません。
 「それにしても、移転、もうすぐですね。いろいろあるでしょうけど、2年もかけて住民自身が移転先を選んで移転する、っていうケースは稀ですから、きっと、これはいいモデルになるんでしょうね。」
と、私から彼らに「未来」の話を振ると、
 「そうそう! 移転したら、通りごとに花を植えるんだよ。うちの前はブーゲンビリア、次はハイビスカス、ってね。そうすれば、来年の5月の花祭り(Flores de Mayo)には花が咲き乱れるからね。移転したら、土日にでも泊まりで遊びに来るといい。扇風機が要らないくらいに涼しいんだよ。」
と、自分自身に言い聞かせるように、遠い未来の夢を語るリーダーたち。
 「いいですね! 私、いまの仕事はあと1年の契約ですから、その後は大学に戻って、あなたたちの移転のストーリーを論文に書きたいと思っているんです。」
 「そりゃいいわ。私たちのこと、書いてくれるのよね、嬉しいわ。」
 「フィリピン大学に戻るなら、いつでもウチに下宿していいんだよ。フィリピン大学までジープで2本だし、渋滞はないし。」
 「そうそう、先週、移転先の町長とまた話したんだよ。そしたら、なんと、町役場の契約職員のほとんどが、マニラ首都圏からここ数年のうちに移転した元スクワッターなんだって。あの町長はスクワッターに偏見がないんだね。私たちにも、空きポストがあったら紹介してくれるってさ。」
こんな話をしているとあっというまに2時、3時を過ぎます。私はひたすら、相手借金の話を切り出してくれるのを待つのですが、一向にその話にならないのです。私が水を向けるとやっと、
 「あのねsaging, こういうことを言うのは非常に申し訳ないのだけど。…いや、恥ずかしいのだけど。」
…いえあなた、数時間前、電話で具体的な金額を言ってましたよね? 私はそのために来たのだから、いまさら恥ずかしいもなにもないでしょうに。
 そこからまた延々と話が続いて、お金を渡す頃には空が白くなりかけていて、そろそろ気持ちのいいシャワーを浴びるために自宅に戻ろうかな、と思って「そろそろおいとまを」と言い出す私に、相手は小さく折り畳んだ100ペソ札を差し出し、
 「まだ暗いから、タクシーに乗って帰りなさい。」
ちょっと! どうして、数分前に数千ペソのお金を貸した私に、100ペソを握らせますかね!? …でも、それが彼/彼女らのプライドなのです。表通りまで送ってくれて、サリサリ・ストアで3ペソのクラッカーを買って「朝ごはんに」と私の鞄にねじこみ、送り出してくれる彼らのプライド。
 「合理的」なんてものからはほど遠い、こんなチョボチョボな行動を繰り返す私たち。それをうまいこと論文に仕上げるのは、ゲームみたいなものなのかもしれません。

 漱石の『道草』に、こんな個所があります。

 健三は漸と気が付いたように、細君の膝の上に置かれた大きな模様のある切地を眺めた。
 「それは姉から祝ってくれたんだろう」
 「そうです」
 「下らない話だな。金もないのに止せば好いのに」
 健三から貰った小遣の中を割いて、こういう贈り物をしなければ気の済まない姉の心持が、彼には理解出来なかった。
 「つまり己の金で己が買ったと同じ事になるんだからな」
 「でも貴夫に対する義理だと思っていらっしゃるんだから仕方がありませんわ」
 姉は世間でいう義理を克明に守り過ぎる女であった。他から物を貰えばきっとそれ以上のものを贈り返そうとして苦しがった。
 「どうも困るね、そう義理々々って、何が義理だかさっぱり解りゃしない。そんな形式的な事をするより、自分の小遣を比田に借りられないような用心でもする方がよっぽど増しだ」
 こんな事に掛けると存外無神経な細君は、強いて姉を弁護しようともしなかった。


 決して返ってこないことを理解しながらフィリピン人にお金を貸すとき、私はいつも、この個所を思い出します。私の博士論文のタイトルには「スラムの住民運動」という言葉が含まれています。スラムの住民運動を構成するひとつひとつの人間の行動はいつも実にチョボチョボで、こんな不合理ばかりです。
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# by saging | 2010-02-01 00:19 | フィリピン研究
モニタリング
 クリスマス。フィリピン人にとっては大祭典ですが、タイではいたって「普通の日」でした。
 そういえば昨年も、私はこの静けさを求めて、12月24の夜の飛行機でマニラからバンコクに逃亡してきたのでした。フィリピンの、あのギンギラギンのネオン、クリスマス・ショッピングでごったがえす商業地周辺の大渋滞、とても主の生誕を喜んでいるようにはみえない爆竹騒ぎ、そこここを平気で飛び交う現金…。ちょっと懐かしくもあるけれど、あんな大喧騒は数年に1回でじゅうぶん。1年に1回もやっていたら、気力も財力ももちません。(しかも、フィリピン人は9月頃からすでにクリスマス気分で浮かれ始め、12月はろくに仕事なんてしません。1年に1回どころか、1年の約4分の1はクリスマスなのですから、すごいエネルギーですよ…。)

 少し前のことですが、お世話になっている先輩のご紹介で、日本のNGOによる海外援助事業の「モニタリング」を担当させていただくことになりました。
 少々変わった形態の援助で、モニタリングの対象は、7団体の日本のNGOによる12事業。これらの事業経費はすべて某省からの資金によるもの。さらに、今回のモニタリング事業費の出所も某省。そしてモニタリングの実施主体は、同7団体を包括するネットワークNGO。つまりは官民連携のスキーム。いかんせん、理念に現実が追い付いていないのが残念きわまりないところですが、田中氏が大臣であった7年前からずっとこのスキームに関心を抱いていた私は、ありがたく、このお話を受けさせていただくことになりました。一度でいいから「NGO評価」の仕事をしてみたい、と、ここ数年、ずっと思っていたのも事実です。

 「私は日頃からNGOに対して批判的な立場をとっておりますが、それでもよろしいですか?」
と、私は何度か事業主体団体に尋ねましたが、返ってきた答えは「結構です」のみ。ほんとかしら、と思って、NGOで働く親しい友人にそのことを話すと、相手はしばし絶句した後、
 「君がモニタリングって…。僕がその対象NGOの職員だったとしたら、ショックで辞職するね。」
 おっしゃるとおり。前途多難です。

 今回のモニタリング事業には、けっこうな予算がついていました。さすが政府のお金です。レンタカーの借り上げ費も、助手や通訳を雇う予算は十分にあり、しかも、現地での車両や助手の手配は私に任せていただけるとのこと。
 私はさっそく、私の短所や思考パターンを隅々まで知りつつも私のフィールドワークの暴走をいつも冷静に牽制してくれている数年来の旧友たち(私よりずっと年上)に連絡を取り、助手(兼通訳)を依頼しました。詳細を話すと、彼らは、
 「よりによって、君があんなに嫌っている日本NGOのモニタリングを君が担当するなんて! …OK, 私たちが君をモニターします。その助手の仕事、有給とってやらせていただきます。」
と、非常に協力的(!?)。
 車両も、レンタカーではなく、いつもお世話になっている白タクのドライバーさんたちにお願いしました。白タクといっても、とても信頼できる人たち。値段はレンタカーの半分ですが、依頼すれば領収書にサインもしてくれます。私の家族や友人たちのためにも何度も車を出してくれたことのある、気心知れる数年来の知人。時給計算で時間を切り売りするようなレンタカー会社とは違って、多少の無理は聞いてくれます。時は折しも年末。何かと物入りなのに仕事はあまり入らず、ともすれば暇を持て余している彼らは、この仕事に飛びつき、思わぬ臨時収入に大喜びしてくれました。私としても心強い限り。実にwin-winです。

 さて、モニタリングとはいっても、きちんとした評価基準が定められているわけではありません。事前に実施団体に確認したところ、なんと、既定の質問票すらないとのこと。私は数週間、付け焼き刃で「評価」に関する書籍を読み漁り、国際援助機関によるモニタリングの指標やサンプルの質問票などをweb上で収集し、事業直前には、その道の専門家である元ADB職員&元世銀コンサルで現JICA職員のご夫妻(ご存知の方だったら簡単に特定できてしまうと思うのですが)のお宅にお世話になって調査上の注意点をご教示いただきました(I&Mご夫妻、そのせつは本当にありがとうございました)。
 そうしてなんとか自分なりの質問票(相手に見せるものではなく、それをもとにインタビューしていくもの)を作成し、当日、東京からいらした担当者とお会いしたのですが、そこで担当者から、
 「基本的には、日本のNGOが現在進行形で活動している地域を訪問して事業内容を見ることを我々はモニタリングと呼んでいます。」
と言われ、私はびっくり。私が想定していた状況とは、「日本のNGOがいないところで、現地カウンターパートや受益者から直接に話をきくこと」だったのですが、彼曰く、それは「事後評価」であって、「モニタリング」ではないとのこと(かといって、彼らが「事後評価」のスキームを別途有しているわけではありません)。
 「基本的には日本人のNGOスタッフに事業地を案内していただくことになります。」
という説明に対し、私は以下のように主張しました。
 「日本人スタッフの案内で事業地を訪問することで『モニタリング』ができるとは思えません。それは単なる『視察=site visit』ではないですか? 私は現地の住民の方と直接お話をしたいと思います。助手や通訳を雇っているのもそのためでしょう? 日本人スタッフの方がお見えになるなら、当たり障りのない限りでのお話はしますが、彼らとお話しすることはございません。日本人を介さずに、私は現地語でインタビューをさせていただきたいと思います。それでよろしいですか?」
 いきなり牽制をかける私に対して、その担当者は、たぶん、ものすごくびっくりしたと思います。その直前まで和やかにお互いの自己紹介をしていて、私が
 「実は日本のNGOで活動していたことがあるんです。10年以上前ですが。」
と言い、共通の知人たちの話題で盛り上がっていたところだったのですから。
 10分以上も黙ったあと、彼は、こう言いました。
 「sagingさんの方針を尊重します。日本人スタッフへの対応は私が担当しますから、sagingさんはその間、自由に調査をしてください。」
 今回、このお仕事で私とチームを組んでくださったその彼は、私より1歳上の、日本の某ネットワークNGO事務局員。某国の日本大●館で働いていた経験があるとはいうものの、事前メールは「チョーいい加減」だし、ロジスティックはいろいろと抜けまくりだし、挙句の果てには寝坊して飛行機に乗り遅れる始末。こんな人を事務局員員として雇っているNGOは大丈夫なのか…と、私は勝手に大いに心配していたのですが、彼は、「物事を丸くおさめる」という特殊才能をもっていたのです。
 彼はどこへいっても、当該事業を担当する日本NGOあるいは現地NGOの担当者とにこやかに握手し、そんなに上手ではない英語で和やかに談話し、当たり障りのない話をしながら写真撮影できる人なのです。彼のお蔭で、私と助手さんは、その隙に現地の住民の方々にインタビューをすることができました。
 評価対象となる現場を離れて車に乗り込んだあと、
 「ああ、びっくり! どうしてこんなNGOがファンドを得ているんですか?」
 「なんですか、この事業は!? いますぐ中止でしょ、中止!」
などのアナーキーな発言を繰り返す私(と助手さん)の話を十分に聞いてくれた上で、
 「確かに、対処しなくてはなりません。今夜にでも東京に報告しましょう。」
と、非常に冷静。また、私が書いた刺々しい報告書の表現をことごとくまろやかなものに変え、
 「いろいろな体面上、文面は丸くしておきましたが、sagingさんのおっしゃっていることは口頭で関係者に伝えますから、心配なさらないでくださいね。」
と笑顔。つまりは「大人」なのですね。そういうことって、事務処理能力よりも実はよほど大切なことなのかも。
 将来、私がもし、人生のパートナーを見つけたいと本気で思うような時期が来れば、そのときには、彼のような人を探したいと思います。HAHAHA. (かといって、大切な仕事の当日に寝坊して飛行機に乗り遅れるのは困るかも…。)

 今回、モニタリングの調査対象とさせていただいた7団体12事業のうち、日本人が入って現在進行形で行われている事業はたった3事業しかなく、あとの9事業はすでに終了して「事後評価」の段階に入っていたので、結果的には、私が杞憂したような「日本人スタッフに引きずられる」といった事態は起こらなかったのですが、それでもいくつかは問題が見受けられました。
 まず、7団体中の5団体はこれまでこの国での活動経験がないという状況。現地を初めて訪れたという日本人スタッフは「現地をスーパーバイズしている」気になっているのですが、まあ、彼らはとにかく、現場のことなんて何もわかっていません。
 「日本人スタッフが現地に駐在する役割をどのようにお考えですか?」
という私の質問に対し、
 「日本からの資金管理、これは現地の人間に任せておくことはできませんので、透明性が大切ですからね。あと、現場のスタッフの士気向上ですかね。現地のスタッフに任せておくとだれますので。」
と、いきなり「上から目線」で答える彼ら。資金管理といっても、彼らは現地での銀行口座の開設方法も知らずに現場に来たといいます。士気向上って言っても、あなた、どこから見てもワカモノだし、英語下手だし!
 現地のカウンターパートからお話を伺うと、
 「まあ、彼(日本人スタッフ)はいい経験をしてくれているだろう」
 「楽しんでもらえたなら何よりだ」
などの(プライドの高い)コメントが返ってくるなど、まったく戦力になっていない様子です。
 資金管理なんて現地NGOに任せて、必要なら後で監査すればいいじゃない。現地NGOのほうがよっぽど、会計と庶務に特化した優秀なスタッフを持っているのだから。初渡航の日本人の人件費と渡航費とホテル代のほうがよっぽど不透明よ。役に立たない日本人スタッフをよこすくらいなら、その分の人件費も含めて優秀な現地のNGOにお金を丸投げしてお任せしたほうがよほどいいじゃない?
 …と思うのですが、今回のスキームは日本人スタッフを現地に派遣することを前提としているので、そんな「そもそも論」を持ち出すわけにもいかず、私は黙っておりました。

 受益者選定プロセスもかなりいいかげん(現職市長/町長派の住民しか裨益していないなど)なのですが、一部の日本人スタッフはそのあたりを何もわかっていない様子。
 最後に訪れた事業地で、大きなビニル袋に詰められた「貧困者への支援物資」の配給が行われている現場を拝見したのですが、行政側担当官はセレモニー会場で住民を何時間も待たせた揚句、もったいぶった演説を行い、市長への感謝の言葉と、現地の文脈では「物乞いの子供たちの歌」として知られている歌を唱和させていました。日本とは違って、行政は中立ではないのです…。
 同事業に関与している日本NGOはすでに同国で何度も活動経験があるそうで、派遣されている日本人スタッフも「現地経験豊富」との触れ込みだったのですが、彼女たちはステージ上で拍手をしてニコニコしているだけ。もし、あの歌の意味を知っていたら、それこそ、絶対に笑うことなどできないはずなのですが。
 セレモニー後、日本人スタッフの一人が微笑みながら私に、
 「私、住民の方々にたくさんインタビューをしたんですよ。皆さんおっしゃるには、ここの川では30年前は魚が捕れたそうなのですが、いまは上流からの工業廃水に汚染されてしまったそうで、彼らの責任じゃないのに、本当に可哀相。」
とおっしゃいました。「あの歌」をきかされた後で相当イライラしていた私は思わず、
 「これでしたら、川じゃなくて人口運河ですね。建設は10年前で、30年前は何もなかったはずですね。ですから、魚についても、再度住民の方にインタビューしてみなくてはわかりませんね。」
と、はっきり言ってしまいました。私の隣にいた助手さんも、
 「マダム、30年前にはここは川ではありませんでした。Please make a research again.」
とダメだし。すると、彼女はすーっと離れてしまって、それっきり私に口をききませんでした。私はこれ幸いと、その運河沿いの受益者にインタビューを試み、「物資支援を受けているのは市長支持派のみである」との証言を、複数筋から入手したのでした。
 あとで情報収集をしているとき、彼女のBlogを見つけたのですが、そこには、行政側担当官が住民から「マム」と呼ばれていることに触れて、
 「彼女はお母さんと呼ばれて慕われている」
と書かれていました。いやいや、そのマムじゃなくて、マダムのマムだってば! 大丈夫?

 ひどいことをしているとは思っていまます。いくら現地の事情を知らないといっても、他国ではそれなりに経験を積んでいるらしい日本のNGO。中には「海外への長期駐在は初めて」という日本人スタッフもいましたが、誰だって最初は初めてですし、彼らだって善意でやっているわけですしのでしょうし、きっと、私よりはるかに事務処理能力があって、行政に提出する経理の書類だって、私よりずっとサクサク書けるような人たちなのでしょう。そんな人たちが一生懸命にやっている現場を突然訪問して、専門的な質問を浴びせかけたり、彼らが言葉を通じ合わせることができない現地の人たちに対して直接に現地の言葉でインタビューをしたりする私は、彼らの目には、「あらさがし」、「弱いものいじめ」にしか映らないのでしょう。
 でも、仕方がないですよね。「善意」だけではどうにもならないのだから。この業界、熱くて情熱的な人は溢れているのだから、私は少し意地悪なくらいがちょうどいいんじゃない?

 私は決して、援助が不要だと思っているわけではないのです。よく言われるように、援助って、医療と同じです。多額のお金が動くものだからこそ、相手の症状にあったきちんとした処置と処方をしていただきたい。医師は、患者の日常生活を100パーセント監視することも、コントロールすることもできません。それでも、患者は状況改善を願っている。医療関係者にできることは、患者を病院に入れて監視したり叱ったりすることではなくて、患者を日常(自宅)に戻すこと。できるだけ患者のこれまでの生活に沿った形で薬の処方を行ったり、生活上のアドバイスを行ったりして、患者が、よりよい日常生活に復帰するのを支援することだと思うのです。
 私が何かを「提言」するなんて本当におこがましいけれど、最終報告書には、各国の事情なんてマニアックなことを書くのはほどほどにしておいて、
 「なぜ、現地事情をわかっていない日本人スタッフが現地に赴くべきではないのか?」
 「現地スタッフにすべてをゆだねる場合には何が必要なのか?」
…そうしたごく基本的な、当たり前のことを、一般の方々にわかっていただけるように書きたいと思っています。そのことが、次回の「援助」への少しの教訓に繋がれば、こんな嬉しいことはないと思います。

 日本政府、日本NGO, 現地NGO, そして現地の住民。こうした多層な関係を具体的に調査することが、実が、高校2年の時に初めてフィリピンを訪問してから数年間にわたって、私の目標となっていました。結局、それはできなくて、博士課程を終えようとする現在に至るまで、現地NGOと現地の住民の話に特化したストーリーしか紡ぎだせなかったわけですが、今回のモニタリングの仕事を通じて、初心を思い出すことができました。紹介してくださった先輩と、仕事を委託してくださった団体と、協力してくださったすべての方々に感謝します。いつか、このことをプラスのエネルギーに変えられるように、努力します。
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# by saging | 2009-12-26 22:29 | その他
博士論文提出
 少し前のことですが、所属する大学院に、博士論文を提出させていただきました。
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 博士課程に進学してから約5年。進学当初はまさか、こんなに時間がかかるとは思いもしませんでした。いえ、地域研究の場合、博士課程に5年以上在籍するのはごく当たり前のことなのかもしれませんが、私の場合は、5年のうち3年は調査地であるフィリピン・マニラに居住し、フィールド調査にも文献収集にも物理的にとても恵まれた環境にあったのですから、もっと早く書けたはず、もっと努力できたはず、という後悔が消えません。それでも、先日提出した最終稿は、現在の自分にとってのベストであり限界です。
 すべてを、今後の糧にしていこうと思っています。
 5年も在籍していながら、実はそのうち2年半は休学していた(=学費を払っていない)というのも、私の問題のひとつです。仕事を口実に、私は休学届を出しつづけました。そのせいで私はいまだに「博士課程は在学3年以上」という当然の条件を満たしていません。それはけっこうな問題です。いくら指導教官からのOKをいただいたとはいえ、こんなことで、今後の口頭試問と「教授会」を本当に通過できるのかどうか、まだまだ定かはありません。
 …というわけで、本当に3月に学位を取得して大学院を出ることができるのかどうかはきわめて依然として不透明なわけですが、とにもかくにも、長きにわたって指導をくださった所属大学の諸先生方、重要な示唆や励ましをくださったフィリピン研究者の大先輩の先生方や友人たち、フィリピンでお世話になった先生方、忙しいなかドラフトに目を通してとても的確なコメントをくださったPareng Wataru(あなたのも早く読ませてください)には、本当に感謝しております。ありがとうございました。
 口頭試問に合格した暁には、お世話になった方々には論文のコピーを郵送させていただくつもりですし、今後、さまざまな形で発信していきたいと思っています。

 博士論文の2/3は、今年4月までのマニラ勤務中に書きました。それも、自宅ではなくて職場で。「1日の仕事の後、場所を動かずにそのままの気分と頭で論文も書いてしまったほうが効率がいいから」というシンプルな理由からでした。パソコン以外の電力は浪費しないように努めましたが、職場の本棚に「明らかに仕事とは関係のない書籍」を置きまくり、お昼休みや終業時間後になると自分のデスクにフィールドノートを広げて「仕事ではない何か」をしている私を大目に見てくださった元職場の方々には、心から感謝しております。 
 残りの1/3は、日本で書きました。研究室ではなく、大学の図書館で。大学の「院生共同研究室」の机も鍵もいただいていましたが、ついに使用することはありませんでした。日本を離れすぎていたせいか、私は、大学院生棟の特殊な雰囲気や暗黙のルールにも、院生同士の特殊なグラマーにも、うまく馴染むことができなかったのです。学部生と一緒に図書館で勉強するほうが、ずっと楽でした。
 細部の訂正や誤字脱字の修正は、9月末にバンコクに移ってから、ホストファミリー宅でさせていただきました。私のホームステイ先には一人になれるようなスペースはなく、就寝時もホストマザーと同じベッドです。ですから、私は毎晩、家族がTVドラマやバラエティー番組を観ている居間の床にヨガマットを敷いて、そこでラップトップを叩きました。親戚の子供が来ると居間も9時には消灯されるので、そんなときは、椅子とラップトップと蚊取り線香を外に持ち出して作業を続けました。蒸し暑い晩、綺麗な月の下で論文の校正をするのは、とてもすがすがしいものでした。蚊さえ来なければ、東南アジアって極楽です。
 
 論文執筆という作業。大学という場所にいれば、もっと静謐で神聖なものなのになるのでしょうか。大学院の院生研究室なんかで論文の仕上げをやるとなれば、それこそ、期限が迫るにつれて集団の作用でどんどん気分が昂揚したり、集中できたりするものなのかもしれません。それはそれで楽しそうですし、そういう経験もしてみたかったけれど、私は、研究室ではない場所で論文を書くことをじゅうぶんに楽しみました。
 マニラで仕事をしていたとき、夜遅くにスラムの調査地に行き、ゴキブリとネズミだらけのインフォーマントの家に泊めていただいて、真夏の太陽の照りつける翌朝早くにジープで家に帰って、シャワーを浴びて出勤したこと。お昼休みに論文を読み、仕事後、またスラムを訪問したこと。もうあまりインタビューの必要はなかったけれど、私は、せっかくマニラにいるなら、彼らからあまり遠ざかりたくはないと思っていました。そんな日々の繰り返しの中で、本や論文に書かれているいわゆる「理論」や「モデル」、スラムの人たちの言葉や論理、そして一日のほとんどの時間を共に過ごしている職場の人たちの言葉や論理、その3つが確かに結びついていることを感じました。スラムの人たちも私も、そして職場の人たちも、同じ土俵で、同じ理屈で生活している。自分はこのことを論文に書きたいのだし、理論やモデルというものはそのために必要なのだと、ずっと、そう思ってきました。

 私は、研究者(=大学教員)とは別の種類の職を志望しています。研究もしたいけれど、それよりも、ずっとやってみたかった仕事があるのです。だからこそ、この段階で、私が尊敬してやまないマニラのスラム住民の方々の言葉を、そして「NGO」なるものの非力を、学術論文という形で世に残る形で残しておきたかったのです。そんな動機での博士号取得が良いのかどうか、そして果たして「博士号」とは何なのか、私にはまだ、判断がつきせん。論文を書いているとき、いつも思い出していたのは、あのスラムの人たちが、バランガイ選挙の直前に、
 「我々はもう利用されない!」
と叫んだ夜のことであり、別のスラムの住民組織のリーダーらが、
 「こんな辺鄙なとこ嫌よ。何言ってるの?」
と、行政の提案した移転地をことごとく退け、最終的には自分たちの思い通りの移転地を獲得した日のことであり、
 「私たちはデモに動員されるためにNGOとかかわってきたのではありません。」
という手紙を住民組織がNGOに宛てて書いた日のことでした。
 「行政だってNGOだって、なんでもいいのよ。うまくいけばいいのよ。」
と、彼らは言いました。彼らは彼ら自身の運動について語っていたのですが、私は彼らの言葉に力づけらていました。行政に利用されることはもちろん、NGOに利用されることにも非常に敏感だった、「ただのスラム住民」の彼ら。私は、彼らの言葉を、彼らの信念を、きちんと言語にしたくて、そのために博士論文を書いてきました。
 だったら、博士論文じゃなくてもよかったのかもしれない、と、最近はそうも思い始めています。
 より多くの方々に読んでもらえる文章を書くことが先じゃないかと。
 来年の前半には2本以上の投稿論文を書くこと、それが、私の次なる目標です。研究者以外の職業を志望している私にとって、このように自由に文章を書いて発表できるような甘い蜜月のような期間は、この先、もう二度とやってこないのではないかと思うからです。
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# by saging | 2009-12-26 21:46 | フィリピン研究
バンコク日常
 昨日の夕方、ラマ9世通りで、トゥクトゥクを運転しながら瓶ビールをラッパ飲みしている人がいました。唖然。周りのタイ人も唖然としていたから、まさか、「タイでは当たり前の光景」ってことはないですよね?

 こんな記事をみると、私ももっと本気でタイ語やらないといけないなって思います。数年前に大阪でで研修生通訳をしていた時は、日本に来るフィリピン人たちにさんざん、
 「日本語の覚えが遅い!もっと本気でやりなさい!」
 「まだカタカナ間違ってる! カタカナくらい完璧に書きなさいよ!」
とハッパを掛けていたものですが、そういう私はタイに来て1ヶ月半が経ついまでも毎日、子音を書き間違えます・・・。

 来週、少しだけ日本に一時帰国します。
 そのために入国管理局に再入国許可(re-entry permit)を取りに行きました。以前はシーロムにあったそうなのですが、最近、バンコク北部(ドンムアン空港近く)のチェーンワタナの政府庁舎内に移転したとか。政府庁舎には行ったことがあったので軽くみており、それでも一応、友人にもらった「入管ビルの入った建物の写真」を持って行きました。写真の建物はすぐに見つかったので行ってみると、ぜんぜん違いました。地図では大通りからすぐのように書かれていますが、入管の入っている建物はチェーンワタナ通りから1kmも入ったところにあるとのこと。そこからバイクタクシーで連れて行ってもらったのですが、政府庁舎の敷地はものすごく広大で、どのビルもデザインが似ていて、写真を持っていった意味がありません。
 帰宅してから検索したら、ここにちゃんと、日本語で懇切丁寧な解説が。
イミグレーションへ誰でも簡単に行ける方法
 今後バンコクで入管に行かれる方は、ぜひ、上のサイトをご参照ください。それ以外の方も、お暇があったら上のサイトを開いて、「説明がこんなに長いってことは、初心者にとってはよほど行きにくいのだ」ということを想像してください・・・。
 でも入管内はとても整然としていて、涼しくて清潔で、窓口も多く、職員の方も親切で、30分で用事が終わりました。マニラの入管に比べれば天国。今後ともお世話になります。
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# by saging | 2009-11-13 01:53 | タイ研究('09~'10年)
KANZEN KENKO
 先日、バンカピ(Bang Kapi)で見かけたサロン。
 タイにはさまざまな「変な日本語」があふれていますが、さすがにこれには笑ってしまいました。完全健康Authorized Centerって…!
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 バンカピはバンコク市内ですが、普通の「バンコク市街図」には載っておらず、「Greater Bangkok」という地図の端っこに載っている程度の小さな町。スクンビットエリアからは夜間なら車で30分、しかし日中は極度の交通渋滞のため2時間。渋滞知らずの「センセープ運河ボート」でも1時間余り(このボートは衛生面にかなりの問題があって乗り心地もジープニー並み)。
 バンコクっ子は、バンカピのことを「田舎」って馬鹿にします。
 実際、バンカピ中心部のマッサージ店の平均価格が1時間150バーツであることは、まぎれもなく田舎の証。マニラでいえばSM Fairviewかアラバンくらいでしょうか。
 …が、私のホームステイ先は実はバンカピからさらに遠いところにあります。Greater Bangkokの地図のギリギリ。運河ボートの終点からさらにバスで15分(渋滞時は30分)かかります。バンコクは外国人が多いことで有名ですが、ここでは私は自分以外の外国人に会ったことがなく、私が市場でちょっと買い物をすれば翌日にはその内容が近所の人に筒抜けです。マニラでいえばカロオカンとかモンテンルパとか、
「えーっ、そこってマニラ首都圏なの!?」
「えーっ、そこ、市外局番02なの!?」
っていうビミョーな地域。
 近所の方が全員、私の顔を覚えてくれていて、誰もが私にタイ語で話しかけてくれるので、タイ語学習には最適なのですが・・・。
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# by saging | 2009-11-06 22:09 | タイ研究('09~'10年)
タイのパキャオ
 先回、赤組の集会の話を書きましたが、そのときに気になって仕方がなかったのが、会場で売られていたこのTシャツ。
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 このTシャツに印刷されている人物は、赤組の主要リーダーの3人のうちのNattawut SaiGuar (ณัฐวุฒิ ใสยเกื้อ) 氏なのですが、小さく"Manny Pacquao"って書いてありますよね!(写真がぼけていて申し訳ございません。)
 なぜパキャオ?

 ・・・タ●サートの優秀な友人たちにメールできいてみたところ、以下の答えが返ってきました。

一人目の回答
 The meaning of it is that maybe his face looks like Pacquiao. Also, considering the texts above his face "นักชกข้ามรุ่น", it can be implied that Nattawut is just a small boxer who dares enough to fight someone much bigger than him.

二人目の回答
 I guess they try to compare Mr. Nattawut to Manny. Because this person try to have a debate with Gen. Prem Tinnasulanonda, the stateman of Thailand. He's much older than Nattawut. Many said both persons are in different classes and generations. I guess that Manny also did the same in the Phillipines. He might fight with the boxers who are in the different classes.

 どうやらパキャオは、「大物に対しても果敢に立ち向かう戦士」として引き合いに出されているだけのようです。

 それにしても、当のパキャオは納得しているのでしょうか。パキャオ本人もフィリピンでさんざん政治活動(自由党アチェンサ派)していて、2007年下院選では落選したもの、2010年では選挙区を変えてサランガニ州から下院選に出馬するようですが…。
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# by saging | 2009-10-26 00:15 | タイ研究('09~'10年)
赤組のロジはすごい
 先週末、行ってきました、赤組の集会。
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 2週間前の黄色の集会をはるかに上回る、すさまじい盛り上がり。報道では1万人と出ていましたが、3万人くらいいたのではないでしょうか?

 今年の4月にパタヤで予定されていたASEANサミットが赤組の妨害により中止になったとき、突如として日程短縮になったパタヤ出張から引き揚げてきた日本の某省の方々が、愚痴の合間に、
 「それにしても、赤シャツ隊のロジ(=ロジスティックス)はすごい。水も食事もシャワーもバッチリって感じだった。あの炎天下で座り込んでるのに、みんな、なぜか小綺麗。同じ赤いTシャツに見えるけど、実際はかなり着替えてるはず。どう手配してるのか知らないけど、とにかくすごい。」
と言っていて、そのことがとても印象的だったのですが、今回、納得しました。

 集会が始まるのは暗くなってからだと聞いていたので、私は家でのんびりしていたのですが、午後5時台のニュースを見ると、群衆はすでにかなり集まっており、スピーチも始まっている模様。あわてて家を出てタクシーに乗り、運転手に
 「ピサヌローク、行きたいデス。モブ。シーデーン(赤色)。タクシン。」
と告げると、運転手は、
 「OK! チョープタクシン!(タクシン好き!)」
と言い、ラマ9世通りをぶっとばしてくれました。途中、ひたすらアピシット首相の悪口を言っておられたようです。親指を下に向けて「アビシット」、親指を上に向けて「タクシン!」…わかりやすい。

 会場周辺には赤シャツを着た人たちがぞろぞろ歩いていました。車両の通行は規制されているのですが、機動力満点のモーターサイ(バイクタクシー)が会場まで連れて行ってくれます。そのドライバーも、交通整理をしているのも無線や携帯を持った赤シャツの方々。そして、お祭りかと思うくらいの屋台と赤のグッズ売り場が延々と続きます。立って食べられるような軽食屋台だけではなく、しっかり腰を落ちつけられるテーブル席もあちこちに。
 メインの集会会場に入る際には赤シャツの方々によるカバンの中身チェックがあり、周りには、救護室、相談センター、道案内場、何か揉め事が起こったときのための「非暴力ホットライン」、コーヒーの無料サービスに、マッサージまであります。政治集会の傍らでマッサージって!
 人々はゴザの上に座り込んでいます。その間を縫って、新しいゴザや飲み物、食べ物、グッズなどを売り歩くベンダーがたくさんいるので、立ち上がらなくても数時間くらいは楽に過ごせる仕組みです。フィリピンと同様にスピーチ(ジョークたっぷり、アジテーションたっぷりで人々は笑ったり声を上げたりと楽しそう)の合間には歌や踊りが入り、ステージから遠い席には大きなスクリーンが用意されており、エンタテイメント要素もばっちり。暑いことさえ我慢すれば、かなり快適な集会環境と言えるのではないでしょうか。
 混雑のなかを途中退席する人には出口までの道順をこれまた丁寧に教えてくれる赤シャツのスタッフがいて、とても統率がとれている感じでした。あれだけの数の群衆をまとめるのだから、かなりの数のスタッフが必要なはずです。
 赤シャツのデザインは軽く数十種類はあります。Tシャツもポロシャツも。誰がどうデザインしているのかわからないけれど、すごい。
 以下、写真でごらんください。 
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1) 赤組グッズ。すごい充実ぶり。
2) 足の形の鳴子と、ハート型鳴子。ハートは「タクシンの心」だそうです。
3) Tシャツ159バーツ。Tシャツだけで数十種類ありました。
4) このTシャツは唯一英語でした。
5) タクシン人形100バーツ。
6) クマも赤シャツ。かわいい。思わず買ってしまいそうになりました。
7) 犬も赤シャツ。
8) コーヒー売店。Coffee Redとありますが、普通の3in1のインスタントです。
9) 救護室・・・にみえますが、マッサージコーナーです。

下世話なことかもしれませんが、集会を開催する上では、ステージでだれがどんな順番で話すかよりも、いかに人々に来てもらって、いかに人々を心地よくさせてできるだけ長く会場に繋ぎ止めておくかのほうがずっと大事で、そのためのロジってすごく重要な部分だと思うのです。空港を占拠した黄色組のロジも相当だったと思いますし、タイのこの状況、この途方もないエネルギーの向かい方、ただごとではないですね。

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# by saging | 2009-10-25 15:15 | タイ研究('09~'10年)
手のひらグッズは中国製
 さきほどまで、タ●サート大学の友人たちと、カオサンの近くで飲んでいました。
 バンコクに来てからずっと、ホストファミリーに合わせて朝5時半に起き、暗くなるまでに帰宅するという超優等生な生活を送っているので、お酒を飲むなんて久しぶり。自分にとって心地よい言語で存分におしゃべりできるのも久しぶり。私は英語でしゃべりまくり、日々の生活の中で不思議に思っていたことやタイ語文法への疑問を彼らにあれこれぶつけてしまいました。私はバンコクでは特に語学習得に重点を置いているわけではないので、語学学校に通うこともせず、日常会話と発音はホストファミリーから学び、文字と文法はテキストで独学しています。そのため、文法上の些細な疑問点―たとえば、「美しい空」と、「空は美しい」はタイ語にすると同じじゃないかとか、コーとアオの違いとか―を、誰かに聞くことができないのです。

 親切な友人たちは、素敵な英語で私の疑問に丁寧に答えてくれ、私のもっている「指さし会話帳」をめくってひとしきり大笑い。そのほかにもたくさんおしゃべりをしたのですが、一番印象的だったのは、先回の投稿で写真を載せた「手のひらグッズ」のこと。

 彼ら(黄色系です)いわく、例の「パーの形をした鳴子」はもともと、中国のおもちゃで、数年前に反タクシン運動(aka PAD)が結成されたときにリーダーの誰かが目をつけてバンコクの市民運動に導入したのだとか。

 ちなみに赤色の集会では、手のひらではなくて足の裏の形をした同様の鳴子が使われるのだそうです。なかなかユーモアのある人たちですね~。

 「おもしろい!! 手も足も、チョー欲しい!!」
と言うと、
 「手のほうならいつでもあげるよ。でも足はダメ。来週の赤組のデモで自分で探せよ。」(←彼は黄色なので)
とのこと。
 こんなに軽いノリでいいのでしょうか。第一印象によらず、タイって本当におもしろいですね。

 愉快で能弁な彼らとは、数年前、日本の大学院で知り合いました。私は当時「留学生チューター」をしていたのですが、人あたりがよくて非常に優秀な彼らは、私の手を借りることなくさっさと日本での院生生活に順応し、私より先にPhDをとって、現在はタ●サート大学の政治学部で教鞭をとっています。日本では奔放でクレイジーな留学生活を送っていた彼らが名門校で政治学を教えている姿なんて想像もつかないけれど、11月から始まる来学期では、私のこともゲストスピーカーとして呼んでくれるそうです。楽しみ。すばらしい友人たちに恵まれていることに感謝しています。
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# by saging | 2009-10-17 01:38 | タイ研究('09~'10年)
バンコクからのつぶやき
 バンコクに来て2週間。

・タイ料理はおいしいけれど、こんなに辛いものばかり食べて高血圧にならないのか?
・毎晩放映されるタイのトレンディドラマはドロドロで怖すぎ。展開も早すぎ。
・ホームステイ先のある『ランカムヘーン通り』はまるで小説のタイトルのような素晴らしい名前だと思っていたら、実は私たちを悩ませ続ける不規則極まりないタイ語アルファベットを作ったスコータイ王朝の大王の名前であることがわかって幻滅。おまけに毎日大渋滞。格調高いと思っていたマニラの『コモンウェルス通り』の由来とその実態(交通事故数ナンバーワン)を知ったときと同じくらいショック。

…など、いろいろ突っ込みたいことが山積みなのですが、英語も日本語もタガログ語も使えない日々なので、ここでちょっと、つぶやかせていただきます。

フィリピン台風被害と「脆弱な人々」
 今回の一連の台風は確かにひどすぎましたが、貧困地区の人々にとって、毎年この時期に一度や二度の床上浸水は当たり前のようです。私の調査地であるパシグ川沿いやトンドの海沿いの居住区は軒並み冠水したようですが、心配してバンコクから電話をしても、「よくあることだから大丈夫」、「火事よりはまし」とのこと…。
 今回は、決して土地が低いわけではなかったリサール州やマリキナ市の中間層居住区もダメージを受けたようで、その衝撃的な映像は世界を回り、政府間援助はもちろん、日本を含む先進国のNGOからも支援が寄せられているようなのですが、「脆弱な人々」のほうが災害に強いって、皮肉なことです。
 先日、パシグ川沿いからリサール州の再定住地(土地が低い地域)に移って1年になる知人から電話をもらいました。冠水したことは以前にきいていましたから、洪水の後遺症がいかにひどいかという話かと思うと、
 「洪水はいいのよ。こういうのはパシグ川沿いにいたときからだから慣れてる。それより、きいてよ!!」
 彼女が言うには、彼女のご近所の未入居住宅(政府がパシグ川沿いのスクワッターの再定住地と定め、すでに入居世帯が決定している家々)に、リサール州の他の地域で被災した「家もあり、私たちみたいに貧しくはない人々」が避難してきていて、政府がそれを容認しているというのです。緊急事態なのだし、ずっといるわけじゃなく一時的なことだし、家具はおろか窓枠さえ入っていないコンクリ打ちっぱなしの空き住宅なのだから入れてあげればいいじゃない、と思うのですが、
 「同じことを私たちがやったらスクワッターだ、汚い、と言われるのに、どうして彼らは許されるのか。緊急事態だというけど、そんなことを言ったら私たち貧困層はいつも緊急事態だ。誰にも助けてもらったことはない。」
 「彼らこそスクワッターだ。彼らこそ真のプロフェッショナル・スクワッターだ。勝手に私たちのコミュニティに入り込んで!」
と、彼女の怒りはおさまりません。「彼らこそ真のプロフェッショナル・スクワッター」って…私は彼女のその世界観に圧倒されました。
…で、なぜ私に電話をしたかというと、借金の申し込みでも、「彼らを追い出すように政府に言って!」という相談でもなく、
 「いちばん腹が立つのは、NGOにそう言ったら、NGOに「ジコチューだ」って言われたことなのよね。どっちがジコチューよ。sagingはわかってくれるよね?」
…と同意を求めるためだったのでした。
 彼女のように「脆弱な」人々のなかには、国際的な関心が今回の洪水被害の全体像に向かうことで、自分たちの存在がいっそう覆い隠されてしまうような不安とフラストレーションを抱えている人々が無数にいるのかもしれません。

携帯電話屋さん
 私がこれまでフィリピンで使ってきた携帯は、SIMカードだけ入れ替えればタイでも使えるので、とっても便利です(実は、あるソフトを入れれば日本でも使えます)。
 が、当然ながら、私の携帯にはタイ語フォントが入っていません。
 先日、従来からとてもお世話になっているバンコク・バス・マスターのMさんに「携帯電話メール(SMS)でタイ語文字を入力するにはどうしたらよいか」を教えていただきました。そんなことタイ人に聞けばいいじゃない!言われるかもしれませんが、タイ人はフィリピン人と違ってあまりSMSを打たない上、外国人の私たちが抱く根本的な疑問―上下左右に奔放につきまくる母音と声調記号をどうやって入力すればいいかということ―の意味を理解してくれないのです。
 Mさんにはメールの打ち方を丁寧に指導していただき、タイ語フォント入りのNOKIAの一番安い機種が900バーツで買えることも教えていただき、大感謝。数日後、大きめのモールの携帯電話コーナーに行ってきました。私はフィリピン勤務中の3年間、職場貸与の携帯がSony Ericssonで、プライベートでも類似機種を使い続けてきたので、できればSony Ericssonがほしいと思っていました。NOKIAとSony Ericssonではボタン操作がかなり異なるのです。しかし、Sony Ericssonはバンコクでは割高。おまけに、キーパッドにタイ語表記がないものも多く、やはりNOKIAにしようかと思っていると、とても親切な店員さんが、私のSony Ericssonを見て、
 「その携帯にタイ語文字フォントをダウンロードすればそのまま使えるのでは?」
と言い出し、周りのスタッフも「そうだそうだ」と言うのです。
 「でも、この携帯のキーパッドにはタイ語が書かれていないので入力が不安。」
…と(非常に拙いタイ語で)伝えてみたところ、皆さんは、
 「カバーを取り換えればいい。」
といって、在庫をひっくり返して、私の機種に合致するカバーを探してくれました。しかし、見つかったカバーは英語アルファベットのものばかり。すると別のスタッフが、
 「カバーじゃなくて、キーのボタンだけ買って取り換えればいい」
と言い、どこか別のお店から、タイ文字の書かれた「キーパッドのみ」を探してきてくれました。さすがタイ。マカティ・シネマ・スクエアを超える細工っぷりです。
 こうして私の携帯は、たった30分で「タイ語の使える携帯」に変身。キーパッド交換+ダウンロードで600バーツ。さらに、「英語-タイ語辞書」のダウンロードも勧められ、言われるままに、入れていただきました。これは便利です!
 愛用の機種をそのまま使えることよりも、新品を買うよりもずっと安く済んだことよりも、スタッフの方々が親身になって相談に乗ってくれたことが、とても嬉しかったです。お店の携帯番号を聞いて、その場でさっそく「ありがとうございます」とSMSを送ろうとしたら、横にいたお客さんが私の画面を覗き込んで、
 「違う、それは『魚のP』だ。『葉っぱのB』はこっち。」
と、入力の練習にも付き合ってくれたのでした。

アリンスキーの亡霊
 先日、バンコクで「70年代初頭にフィリピンに輸入されたアリンスキー型のCommunity Organizingの手法を踏襲するアジアのCommunity Organizersの会合」が開催されました。私は数年前にフィリピンで3回、これらの会合に参加させていただいたことがあるのですが、まあ、何と言ったらいいのか、事情を知る人から見れば時代錯誤もはなはだしい、その道コテコテの人たちによる自己満足のイベントです。いわゆる「運動系」でもなければ「政府系」でもない、ただ「アリンスキー型」を名乗る人たち…。私はこの団体にとてもお世話になっていて、いまも友人がたくさんいるのですが、こうしたタイプの団体がいまだにきっちりと資金を得て存続していることにも、このような会合が毎年のようにアジア各国で開催されていることにも、いつも驚きを禁じえません。
 今回の会合自体には私は出席しませんでしたが、参加者の多くは私の知り合いでもあり、World Habitat Dayにあわせて開催された記念パーティーに参加させていただきました。会場となったHuman ●ettlement Foundationは、私を住まわせてくれているP姉の亡き夫のP兄がつくった団体。壁には、カリスマ的活動家だった彼の在りし日の写真が多く飾られています。
 でも、いろいろな人たちから話をきくにつけ、タイの居住運動の活動家たちは別にアリンスキーの影響をさほど受けているわけではなく、コテコテのフィリピンや韓国のオーガナイザーたちとはだいぶ違うようです。…って、実はフィリピンでもアリンスキー派なんてマイノリティで、声が大きいだけなのですが、良くも悪くも、この「大きな声」を出す人たちが市民社会のadvocatesであり政界にも進出しているので、そこが最大のポイントなのだと思います。これは博士論文で書いています。

黄色の集会
 10月7日、友人の案内で、反タクシン派(=PADなどの黄色グループ)の集会を見に行きました。昨年同日の国会議事堂占拠時の警官隊との衝突で死亡した方々の追悼集会です。規模は2000人程度でしょうか。演説をはさみながら、ドゥシット地区から民主記念塔を通ってそのままタマサート大学の講堂まで行進。民主記念塔に到着したところで激しい雨が降ってきましたが、皆さん準備がよくて、黄色の傘やビニルシートを広げて平然と行進を続けました。雨の中で黄色を身につけた群衆。同じような光景を2ヶ月前にフィリピンでも見ましたが、もちろん、黄色の意味合いは全然違います。
 タイの路上集会を見るのは初めてです。まず驚いたのは、一人で参加しているように見える身なりのよい中間層っぽい若い人々の存在! 一人で歩いている人たちがけっこういらっしゃいました。フィリピンでは、デモや 政治集会に一人で参加するって、そうそうないケースですよ。
 そうした人々に加え、楽しそうなグループ、田舎から動員されてきたような、肌の色の濃い貧しそうな身なりの人々(中高年が多い)、真剣な顔つきの活動家っぽい人々など、参加者はさまざまでした。学生っぽい人は少ないようでした。
 それぞれがいったいどういう動機で来ているのか、きいてみたかったのですが、事情もあまりよくわかっていない段階で聞くのはよろしくないと思い、まずは「黄色の集会」の雰囲気を感じるだけで満足して帰ってきました。
 かなりの割合の人たちが「10月7日」という文字の入ったTシャツやPADのTシャツを着ていました。無料で配られたのだろうと思っていたのですが、ゴール地点のタマサート大学の講堂ではさまざまなデザインのTシャツが販売されていて、これが、飛ぶように売れていました。配られるんじゃなくて個人で買うんですね! それも、けっこうな在庫数に、すごい売れ行き。圧倒されました。
 黄色の人たちは、手をパーに開いた形をしたプラスチック製の鳴子みたいなものを持っていました。テレビで見たことがあるのですが、振ると拍手のような音がして、思った以上にスグレモノのようです。欲しかったのですが、売られていませんでした。フィリピンや日本のデモにも類似品が導入されたら便利なのに。手軽に拍手ができて何かと役立ちそう。(もちろん、これは明らかに黄色組の記号なので、そんなものを日常的に使うことはできませんが…)。
 日常的に出会うバンコクの人たち―穏やかなホストファミリーといい、高架鉄道を利用するおしゃれな人々といい、私に対してゆっくりタイ語を話してくれる店員さんやバスの車掌さんたちといい、きちんとおつりを返してくれるタクシードライバーといい、マニラの貧困層よりもずっと落ち着いた雰囲気のスラムの人たちといい、活動家だのNGOワーカーだのというわりには穏やかであまり大きな声を出さない人たちといい、お酒好きで陽気ながらもフィリピン人よりはずっと静かな大学の友人たちといい―からは、非常にジェントルな印象を受けるのですが、黄色の集会では、タイ人の別の面を見たような気がしました。
 21日からはASEANサミットが予定されていますし、今週末からは今後は赤組(=UDDなどタクシン派)が集会を行うそうです。15日から25日まではドゥシット区に国内治安維持法発動とのこと。こちらのほうが大規模かつ(現政権に反対派ということで)過激なものになりそうなので、内情をよく知る人たちの助言を受けつつ、そっとobserveしたいと思います。

写真
1) 民主記念塔を過ぎたあたりで。
2) 手のひらグッズ
3) タマサート大学講堂でのTシャツ売り場。本やマグカップの売り場もありました。
4) タマサート大学講堂内

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# by saging | 2009-10-14 00:41 | タイ研究('09~'10年)
バンコク到着
 マニラの下宿の近所にはまだ浸水で通行止めの道が残っている中、29日の午後に、マニラから直接、こにバンコクに到着しました。リバイス中の博士論文にもとりあえずカタがついたので(来年3月卒業のために11月に提出する予定です)、これから5ヶ月あまりはバンコクに住まわせていただくことになります。新しい生活の始まりです。

 こちらでは、ありがたいことに、いきなりホームステイをさせていただいています。バンコクはもちろんマニラでも有名なスラムの活動家のリーダーS兄(2年前に逝去)の奥さまのS姉(クロン●イのスラムで勤務)のお宅にお世話になっています。S姉は、今年3月にマニラで初めてお会いしたときに、通訳してくださった方を介して私に、
 「バンコクに住むならうちに泊まったらいいよ。そうすればタイ語も覚えるでしょう。」
といってくださいました。いくら、日本にもタイにもフィリピンにも共通の知人がたくさんいるとはいえ、初対面の日本人にそんなことを言ってくださるなんて。しかも私はタイ語ができず、彼女はほとんど英語を話しません。

 できるだけご迷惑をかけないように、日常会話くらいは必死に覚えて、文字の読み書きもできるだけ勉強していったのですが…想像以上に相手の言葉はききとれず、私のタイ語はあきれるくらいに通じません。同じことを10回くらい繰り返してもらったりして、P姉にもご家族にも、ひたすら申し訳ないです。単語も発音も人名も知名もなかなか覚えられず、自分のダメっぷりに愕然としています。本当に本当に、悔しいというかただただ申し訳ないです。がんばります…。
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# by saging | 2009-10-01 01:14 | タイ研究('09~'10年)
20年ぶり集中豪雨@マニラ
 さきほど、やっと電気が戻ってきました。でもまだ、下宿の庭は水に浸かったままです。
 怖かった…本当に怖かったです。目に見えるくらいの速度で川がどんどん増水して、みるみるうちに下水のパイプが割れて汚水が流れて、たちまちのうちに、下宿の1階が水に浸かりました。
 「どうして、そうなる前に避難しないの?」って、フィリピン人以外ならおそらく、誰もが言うでしょうが、今回は本当に、避難する間もなかったのです。水の汚さ(路上のゴミや動物の死体やバイキンが渾然一体となって流れているわけですから)も、万が一にも川の堤防が壊れたときのダメージも、想像がつくはずなのに、私はどこにも行けませんでした。ただただ、気が動転していたのです。危ないと思ったときにはすでに浸水が始まっていました。そして、そういうときって、何も考えられなくなるのです。
 私たちはただ、1階にあった家具や書籍やあらゆるものを2階に移動させることや、8匹もいる犬(すべて庭で放し飼い)をどうやって家の中に入れるか、といったことしか考えていませんでした。
 
 下宿のご主人の車は水に浸かってエンジンがだめになってしまったし、首都圏マリキナ市やリサール州カインタの友人たちのところは大変なことになっているようです。

 災害にあわれたすべての方々のために祈りたいと思います。
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# by saging | 2009-09-29 02:32 | フィリピン(全般)
フィリピノ・エリート
 私が現在お世話になっている下宿は、2003年の留学時にも一時期お世話になっていた、マニラ市の古き良き下町にあるL家のお屋敷の一室です。
 お屋敷、と書いたのは決して比喩でも揶揄でもなく、実際、文字通りのお屋敷だからです。パシグ川のほとりにたつ静かな木造2階建ての一軒家。表通りにはジープニーやトライシクルが走っていますが、家のなかは静かなものです。厚みある木の床や、重厚な窓枠、カピス貝の障子、マホガニーのテーブル、昔の写真現像用暗室、広いキッチン、古いランプなど、こここに、100年以上の歴史が宿っています。イントラムルスのCasa Manilaやマラカニアン宮殿の近くの老舗レストランであるLa Cosina de Tita Moningにも匹敵する歴史建造物だと思います。 私のお借りしている部屋は、時間によっては水が出なかったり外で繁殖した蚊が入ってきたりするのですが、それでも、お屋敷の荘厳さとJおばさまの人柄を思えば、そんなこと、なんでもありません。 

 L家のルーツは中国。1代目にあたるL夫妻が中国本土からマニラに渡来し、ビノンドで洗礼を受け、このお屋敷に住むようになったのが90年前。そして、現在このお屋敷に住んでおられるのは、L家の3代目の息子さんである故M.L.大使の奥さまにあたるJ叔母さま(97歳)。
 L家の2代目は中華系でありながらスペイン語を話す、典型的なフィリピン・エリートだったそうです。そして、3代目の息子さんであるM.L.大使は、フィリピン人(中華系ではあるにせよ彼はフィリピン人でした)で初めてハーバード・ロー・スクールを卒業した弁護士にしてフィリピン外務省のキャリア官僚。ロハス(Mar Roxas上院議員の祖父でフィリピン初代大統領)やオスメーニャと共にPhilippine Independent Missionのメンバーであったという、とんでもないフィリピノ・エリートで、のちに駐英大使を務められました。狩猟がご趣味だったったという大使、戦後まもなくは休暇を利用してアフリカにハンティング・ツアーに行かれていたそうで、いまでもお屋敷のいたるところに、鳥類はもちろん、サイやシカの首、果てはライオンのはく製までが飾られています。
 M.L.大使はハーバード留学中に出会ったキューバ系アメリカ人のJおばさまと恋に落ち、Jおばさまを連れて船で(!!)フィリピンに帰国しました。二人の間には7人の子供、32人の孫、2人の曾孫がいるので、L家はすでに6代目ということになりますが、4代目の7人のうち4人はアメリカに、1人は香港に居住していて、フィリピンに暮らしているのは長男(といってもアメリカで結婚しているので月の半分はアメリカに帰る)と三女(アメリカ暮らしが長かったものの最近フィリピンでNGOを立ち上げた)のみ。お二人とも社交的かつ多忙で、週に2回程度しかお屋敷には帰ってこないので、広い広いお屋敷には、Jおばさまと4人のメイドさんしか住んでいません。
 メイドさんたちはJおばさまのことを「セニョーラ」と呼びます。信じていただけないかもしれませんが、本当ですよ! 現代フィリピンにも、まだ、そんな家庭はあるのです!!

 私は6年前の留学中、運命の導きによって、ジャーナリストのPさんのご紹介で、L家に出会うことになりました。当時私は、L家のお屋敷のちょうど真向かいにあるパシグ川沿いのスクワッター居住区(P地区)とトンドのPA地区で同時並行的にフィールド調査をしており、ケソン市に借りていた下宿を放置してP地区内で寝泊まりすることが多かったので、マニラ市内に引っ越すことを考えていました。そんなとき、Pさんのご紹介でJおばさまの長男のLさんに面会をいただき、状況を話すと、Lさんが当時アメリカにいたJおばさまに話を通してくださり、私はその翌週からL家のお屋敷の一室に寝泊まりのスペースを貸していただくことになったのです。
 お屋敷から、対岸のP地区にBangka(渡し舟、当時は1.5ペソ)で通い詰め、トライシクルやジープニーで移動する私に対して、LさんもJおばさまも、「おもしろい日本人だね」と言ってとても親切にしてくださいました。Lおばさまは現在に至るまで、私を誰かに紹介してくださるとき、
 「この子はunbelievableな外国人よ。うちから対岸のスクワッター・エリアに舟で渡って、調査をしてるの。」
と、笑いながらおっしゃいます。
 いまでこそ(前の職場で鍛えていただいたおかげで)レセプションやパーティーが大好きな私ですが、当時は、社交の場が苦手でした。そもそも、当時の私はフィリピンの上流階級の常識や作法についてまったく知らず、さらに、口語のアメリカン・イングリッシュにも弱く、たまにお屋敷を訪れるJおばさまの孫娘たち(同年代+5‐10歳)の英語も聞き取れず、私はそのことがコンプレックスで(いま思えば、アメリカン・イングリッシュが世界のすべてではないのだから、聞き取れない場合は「ゆっくりお願いします」と言えばいいのですが、当時の私はそんなことも考えられませんでした)、L家の方々にお誘いいただく社交の場にもあまり出ませんでした。L家の方々からは恐らく、
 「なんだか、明らかに我が家系に似つかわしくない日本人の娘が下宿しているみたいだなー。」
と思われていたと思います。

 3年前に私がマニラの以前の職場で働きはじめたとき、そのことを誰よりも喜んでくれたのはJおばさまでした。
 「あなたもSocial Lifeと本当のフィリピン政治を学ぶときが来たわね!」
って。私も、キャリア外交官の夫人であり「大使夫人」であったJおばさまのお話をきくのが楽しくて、実際、マニラに赴任してから家を決めるまでの半月間は、この「お屋敷」に住まわせていただいていました。
 その後3年間、私は、仕事でわからないこと―この「元大使」という方はどんな人なんですか?など―があるといつもJおばさまに電話をかけ、お屋敷に足を運んでいました。留学中はスラムに夢中だった私が、仕事柄、「有力政治家ファミリー」の顔と名前と家系図を覚えていくと、Jおばさまはその都度、微笑みながら、
 「まあ、よく勉強したわねー。うちからP地区に通っていたあなたとは思えないくらいだわ。でもまだスラムに行ってるんでしょ。…それでいいのよ。私はあんな舟に乗ったこともないし、P地区に行ったこともない。私の子どもたちはフィリピン育ちなのにタガログ語を話さないし、ジープニーに乗ったこともない。でも、いいのよ。私はあなたがジープニーや舟やスラムを基軸にしながら、マクロなフィリピン政治を学んでくれることを楽しみにしてるわよ!」
と言ってくださいました。数々のprotocolやカンリョーの制度をどう理解してよいかわからないとき、私はしばしば、おばさまを訪問しました。具体的な相談をしたことは一度もはありませんが、おばさまが語ってくださる、
 「あの政治家は昔はこうったのよ。」
 「あの官僚なんてね、昔は…。」
といったストーリーは、ものすごく参考になりました。
 このJおばさま、1月には98歳におなりですが、まったく「老い」を感じさせないほどお元気で、脳の回転が速く、記憶力は抜群。毎日インクワイラーを隅から隅まで読み、ANCとCNNをチェック。電話や来客も多く、現在もバリバリ働いていらっしゃいます。若い人の言葉にも耳を傾けるため、J叔母様自身はインターネットはおろかパソコンに触ることもなさらないのに、FacebookだのblogだのYouTubeだのといった言葉もよく知っておられます。英語でもタガログ語でも、洗練された美しい言葉をお使いになり、若者の言葉づかいは厳しく訂正されます。私の英語も、しょっちゅう直されます。kidsはchildrenに、housekeeperはhome engineerに…といった具合。気が抜けません。ファッションにも敏感で、TVキャスターの服装をどんどん批判。私が外出するときも、上から下までじっくり眺めた上で、
 「saging, そのワンピースならもっと大ぶりのネックレスがいいわよ。」
 「そのベージュのショールは地味すぎるわ。私の持っている緑のショールで素敵なのがあるから、貸してあげます。」
 「その服なら、昨日あなたが履いてたサンダルのほうがいいわよ, my dear?」
など、うちの母に負けるとも劣らない干渉ぶり。しかもまた、彼女のセンスは実際にかなり良いのです。(でも97歳ですよ!)

 昨年、明●書店の社長がマグサイサイ賞を受賞されてフィリピンにいらっしゃったときは、Jおばさまはマグサイサイ会館に面会に訪れ、M.L.大使の遺された日本占領下のフィリピンに関する手記(フィリピンでは自費出版済み)を日本語にして出版できないかと相談されていました。そういうことを、さらっとしてしまえる人なのです。私はそのときに通訳をさせていただき、マグサイサイ関係者からの視線にあたふたしていたのですが、彼女から見ればマグサイサイ元大統領なんて「お坊ちゃん」にすぎないようです。

 L.M.大使は、ケソンやオスメーニャやレクトやロハスやアキノやマカパガルといった「フィリピン・エリート」と密接な関係をもっておられました。Jおばさまと一緒に上院公聴会のTV中継集計を観ていると、「この人は誰々の親戚、あの人はあの家の分家…」と、Jおばさまのお話は尽きません。またL家は、あのマドリガル家や、マニラ首都圏開発長官のB.F.氏の妻(現マ●キナ市長)とも親戚関係にあります。つい最近、Jおばさまに見せていただいたとあるパーティーの写真のなかでは、Jおばさまが、B.F.長官、彼の政党の幹部としてよく知られる政治家(閣僚級)、そしてイメルダ・マルコス女史と一緒に写っていました。
 いまさらながらに、フィリピンの有力者たちは本当にそうした家族同士で結びつくのだなあ、と思います。
 いま、Jおばさまは、自由党のNoynoy AquinoとMar Roxasがお気に入りです。ともにおじいさまが故M.L.大使の旧友だったのですから当然なのかもしれません。逆に、Chiz EscuderoやManny Villarといった、新興の(localでは地盤があるかもしれませんがNationalでは新興)政治家はあまりお好きではないようで、厳しく批判されます。おばさま曰く、ラモスは許せるけれどもエストラダは絶対に許せず、アロヨはいろいろあってもMacapagal家だから「良い」そうです。血統がすべて!?…私にはおおよそ理解できませんが、おばさまの日々の交際ぶりを拝見していると、こういう人たちのごく小さなサークルが国を動かしてきたのかもしれない、と思います。中間層とか貧困層とか、「民意」とかいったものとはまったく別の世界で、大きなことが動いているのを感じます。彼らにとってはアロヨ政権が心地よいのでしょうし、逆にエストラダ政権は我慢がならないものだったのでしょう。
 私はNoynoy本人のことはとても支持できないけれど、「Noynoyを支持する改革派の人たち」を支持したいし、とても尊敬しています、でも一方で、仮にNoynoyが勝利しても、彼も結局は、こうしたFamilyのパペットになるだけではないかと、私は思います。そして皮肉なことに、彼がこうしたFamilyのパペットになる/なれる、ことは、長期的には、フィリピンのためになるのかもしれません。

 結局、政治を動かせるのは彼ら。
 
 …そういったことを考えていると、ますますもって、スラムの貧困層の小さな集合行為を描くことに何の意味があるのだろうか、と思ってしまい、なんだか絶望的な気分になります。私の博士論文ではもちろん、「それでもやっぱり、意味がある」、と言わないといけないわけですから…。

※※※
 19日の土曜日には、Jおばさまの長女のC.L.女史の新著、"Beneath the Banyan Tree"のBook Launchingが、イントラムルスの比中協会(Kaila-Angelo King Herritage Center)にて開催されます。Banyan Treeは、お屋敷の庭にある大木。L家の一代目が中国からフィリピンに渡ってきてビノンドで洗礼を受けてから90年を記念しての刊行で、基本的にはLichauco家のストーリーです。中国人と結婚し、香港に住んで35年になるL家四代目のC.L.女史が書き記した、比中関係90年の歴史。
 ご関心のあるかたはぜひ、個別にご連絡ください。
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# by saging | 2009-09-18 03:21 | フィリピン(全般)
普通の人たちの「運動」
 今年7月、まだ日本にいたとき、K大学での「グロー●ル化とマージナリティ」という研究会で報告をさせていただきました。科研にもガクシンにもCOE/GCOEにも応募したことがなく大学事情にも疎い怠惰な私をチームに入れてくださったこの研究会の皆さまに、ただただ感謝です。
 来週、その研究会のチームリーダーの方が、マニラに来てくださいます。ずっとヨーロッパの都市貧困地域を研究対象にしてこられた方なので、マニラのスラムをどんなふうに見て、どんなことを語ってくださるか、とても楽しみです。

 7月の研究会で私が報告させていただいたときのテーマは、「フィ●ピン・タイの都市貧困問題と国際的ネットワーキング」。前半はフィリピン、タイの都市貧困地区の住民組織/住民運動の系譜と、日本とフィリピンの「NGOなるもの」の世界の分断について、後半は以下の2つの事例(いずれも博士論文では別の角度から取り上げているもの)について、お話させていただきました。

事例1
 パシグ川沿岸に1,500世帯が居住するマニラ市P地区。ラモス政権主導の河川美化運動の一環で行政から組織化を受けていた住民組織がありました。1998年、あるNGOが介入し、「河川沿い住民の移転反対」をスローガンに住民組織リーダーを説得し、住民組織を運動体に転換させます。このNGOは、1970年初頭にマニラに持ち込まれたアリンスキ―(シカゴの黒人居住区の公民権運動オーガナイザー)型Community Organizingの手法を現在も忠実に再現していることを自称する組織。しかし、このNGOがP地区に介入した真の理由は、いまは退職した当時のオーガナイザーによると、「アジア開発銀行が融資するパシグ川開発プロジェクトに付随する住民移転問題にスポットを当て、国際的な注目を集めることで、1990年代初頭に盛り上がったカラバルソン開発計画(日本の円借款)への大規模な国際キャンペーンのようなものを再び立ち上げるため」でした。そうとは知らぬ住民組織はこのNGOの介入のもと、国や地方自治体の行政機関と交渉し、次々と成果を獲得。しかし2004年、このNGOが住民組織に対し、世界社会フォーラムへの支持と2004年5月大統領選におけるアロヨ不支持を説得すると、住民組織は「そちらの政治的立場を押し付けるな」と主張して、NGOからあっさりと離反。独自に行政と交渉を続け、さっさと移転してしまいました。…住民組織をグローバルな運動に利用しようとした「アリンスキ―方式を標榜するフィリピンのNGO」と、NGOからもらうものだけもらってさっさと離反してしまった、したたかな住民組織のお話です。


事例2
 ホワイトバンド運動で有名になったG-C●Pのフィリピン支部の公式イベントには決まって登場する、ケソン市の巨大スラム、N地区の住民組織リーダーたち。スラムのなかでホワイトバンドが流行り、社会派のシンガーソングライターが地区内のバスケットボールコートでアクティビスト・ソングを歌うN地区の光景は一種独特ですが、彼らがG-●APに賛同する理由はいたって単純。彼らはエストラダ派なのです。2001年の政変後、バランガイ役員らから目の敵にされ、市議や市長との交渉もままならず、そんな中、エストラダ政権の崩壊後も彼らに接触を続けてきたとあるエストラダ派+左派の政治団体のリーダーの義理の娘が、G-C●P Philippinesの当時のフィリピン代表だったというわけです。2007年中間選挙でも、2008年バランガイ選挙でも、彼らはG-C●Pと組んで非常に戦略的に選挙キャンペーンを繰り広げ、G-C●P側は「貧困層の声」を雄弁に語ってくれる彼らを広報戦略上もたいへん重宝しており、まさにwin-winの関係。しかし住民組織の側は、貧困削減のためのグローバルなネットワークづくりやミレニアム開発目標にはたいして関心などいだいてはいないのです。


 結論は、「都市貧困地区の住民組織はとてもしたたかで、使えるものは何でも柔軟に使うので、グローバルな運動もすんなりと受け入れる。そのため、傍目にはそのことがあたかも『マニラの貧しいスラム住民がグローバルな運動に参加している/巻き込まれている』ように見えるが、実は、当事者の関心はまったく別のところにある。」ということです。…おもしろくもなんともない、というか、あたりまえの結論でした。

 なお、当日は時間の都合上、割愛しましたが、もうひとつ、こんな事例もあります。

 2004年1月の大火災で焼け野原になったマニラ市のスラム、B地区から、焼け出された直後に世界社会フォーラム@ムンバイに参加したおばちゃん。フツーの人。参加動機は「火事の直後で避難生活をしていたところ、NGOに声をかけられたから。家を空けても何も盗まれる心配もないし、夫は出稼ぎ中だし、まあいいかと思って。」
 …このおばちゃん、カメラも持ってないから、ムンバイの写真なんて一枚もない。でもムンバイのお話はたくさんしてくれます。運動の話や集会の話ではなくて、ムンバイで会ったインド人活動家たちがどれだけオモシロかったかという話と、韓国人がどれだけ熱かったかという話。

 
 …いわゆる「運動」の話をすると、ついつい余計なことまで話してしまって、話がどんどんミクロになって、明らかに「関係者」っぽくなってしまうので、報告の途中でちょっといたたまれなくなって、最後には、自分が日本のNGO出身であることも白状してしまいました。友人Wさんに、
「初めて公の場で自分の出自について話したねー。」
って揶揄されて、恥ずかしくて逃げ出したくなるくらいでした。

 同じく7月に東京で開催されたフィ●ピン研究会では、「自らの出自/立場をもとにしたことが明らかである研究」が、例年にも増して多い気がしました。フィリピン人留学生による移民研究を別としても、です。懇親会でも複数の方々とそのことを話題にしました。
 私の周りには、フィリピン研究者にかぎらず、「在日」であることを「前面に出しながら/隠しながら/使い分けながら」移民研究やマイノリティの研究を続ける人もいれば、実はクリスチャンであること/ほかの宗教の門徒であることを「前面に出しながら/隠しながら/使い分けながら」宗教研究を続ける人もいます。
それと同様に、NGOでインターンをしたとか、いまもNGOで活動中であるとか、バリバリの運動家であるとか、そういったアイデンティティ(運動は後天的なものだから厳密には「出自」とは言えないと思うので中途半端にアイデンティティという言葉を使います)を「前面に出しながら/隠しながら/使い分けながら」続ける人もいます。フィリピン研究にかぎって言えば、多くの人が大学でフィリピンに関心をもつ契機って、NGOや運動であることが驚くほど多いです。
 私はNGOやスラムを研究テーマにしていますが、国際協力大嫌い、do-gooder大嫌い、スタディツアー大嫌いです。NGOインターン経験を前面に出しているキラキラした日本の人とお話するのは苦手だし、パ●タスとかで活動する日本のNGOも大嫌いだし、「フィリピン民衆と連帯する」タイプの運動も嫌い。ワークキャンプなんて、嘘も休み休み言え!って思っているくらい嫌いです。何かの場面でそういったお仕事をされている方々とお会いすると、もちろんご挨拶はするものの、上の空で大混乱して、「できるだけ早く離れたい」と思っています。ゴミ捨て場を描いたあの映画も大嫌い。どうして皆、そんなスラムやらゴミ捨て場やらが好きなの!? どうしてそんなに人様の国の貧困を見たいの? なぜ、ゴミ捨て場で活動する某国のNGOに数万円の「ガイド料」を払ってまで、ゴミ捨て場を「見たい」と思うの? どうしてそんなに子供たちの写真を平気でパシャパシャ撮れるの? 信じられない。
 だから私は、自分がNGO出身だなどということは普段は口にしません。万が一、私も実はNGO出身だなどということが知れたら、「彼らと一緒にされてしまう」、あるいは「あのキラキラした人たちに同類だと思われてしまう」からです。それだけは何としても避けたいのです。「なぜフィリピンに関心を持ったのですか?」って訊かれると、「英語が通じると思ったから」などとごまかしておきます。本当は「12年前にJI●Aの高校生エッセイコンテストに入賞してフィリピンに研修旅行に連れていっていただいたときに取り壊し直後のスモーキーマウンテンの跡地を訪れ、住民移転に関するさまざまな意見やさまざまなNGO, さまざまな運動の存在を知って感激したから」なのですが、そんな熱くて不気味なこと、恥ずかしくて言えません。

 でも、自分が中高生のときにNGOで熱く熱く活動していたことが、現在の研究テーマに直接に結びついていることは確かです。
 私が論文を通じて伝えたいことのひとつは、運動とか活動とかいうのは、フツーの人の、フツーの生活の上で生まれるものだということ、それがあまりにフツーすぎるゆえに、フツーの人はわざわざそのことを言葉で説明なんてしない、周囲の人たちあるいは職業的運動家が勝手な言葉で解釈したり説明したりしているだけだということ、フツーの人たちはそれに気づいて困惑しながら次の道を考えているということ。

 私は、自分がテーマとするフィリピンの都市貧困者運動にパラレルであるはずの日本の野宿者運動やフリーター労組の活動のフロントラインに対しては、まったくコミットできないどころか、共感すらもできません。ちょうどその研究会の数日前に大好きな京都の 三月書房で買った、オルタの「居住革命」特集。ほとんどの記事が、週刊誌的なオモシロさはあるのだけれど、ぜんぜん頭に残らないくらいウスッペライ。熱すぎというか、力みすぎというか、運動運動しすぎというか。一言で言うと、現場の感覚から遠いんですよね。人間らしくない。石垣に立てこもるとか、家をもたずに泊まり歩くとか…、彼らはまさか、そういうのを「人間らしさ」って呼ぶのかしら? それって、単なるプチブルの奇行じゃない。そういう人たちが運動をつくるのかもしれないけれど、運動って、そんな奇抜な人たちのものじゃない。フツーの人がフツーにやるものだから、だから運動はおもしろいんです。
 
 何か変わったことしてやろう、とか、抵抗してやろう、とか、私たちのやり方で…とか、そういうのじゃない。自分たちのことを弱者弱者って強調する人たちはウットーシイ。ネットワークとか言われても、よくわからない。
7月のフィリピン研究会に参加した翌日、川崎に住む当時の活動家仲間(!)で現在は一児の母である友人に会って、思い出話をしていて、1996年(私が高校1年、彼女が大学1年だったとき)に私たちの団体が企画した3週間にわたる「飢餓撲滅のための日本縦断自転車ラリー」の公式イベント名が「ラブ&パッション」だったことを思い出しました。ラブって! パッションって! 本当に高校の文化祭のノリ。…でも、当時の私たちは大真面目で、そして、楽しかったからいいんです。ゴールの仙台で号泣したことも、良い思い出です。本当に楽しかっただけだなー、自分たちのためにやってただけだなー、と、思います。飢餓、ぜんぜん終わってないし。
私たち別に弱くないし、変わったことしたいわけじゃないけど、何か形にしたいものがあって、何か伝えたいこと、訴えたいことがあって、行動する。はじめは戦略も何もなくて。それがたまたま、運動っている形になっただけ。抵抗なんてしたくないから、誰が敵だとか味方だとか、そんなことに興味はない。目的を達成するためであれば右でも左でも前でも後でも、こちらのイベントの協賛してもらったり、あちらのイベントに顔を出したりしたいけれど、それは情報や人脈がほしいからであって、ベッタリの同盟関係に興味はない。

 10代の頃、大人たちに、「まだ10代なのに」「中学生/高校生なのに」と言われると、こう思いました。
問題関心が高くて感心だ、なんて言わないでほしい。好きでやってるんだから。
 「サッカー好きな子がサッカー部に入ってサッカーをやるように、音楽の好きな子がノリの合う友人たちとバンド組んでライブやるように、私たちはたまたまこの活動が好きで、この団体が心地よくて、活動やってるだけ。たまたま、この活動だっただけ。」
…メディアに取材を受けたとき、私はいつもそう答えていたのに、残念ながら誰もそれを理解してくれなくて、「世界を見つめる10代」とか書かれるのがとっても嫌でした。外部の人って、っていうか大人って、まるでわかってない。

 でも、それでメディアに露出できて、募金や署名が集まったり、イベントの告知ができたり、問い合わせがきたりするなら、それはそれでいいじゃん! というわけで、私も10代なりに、大人への、あるいは、メディアへの演出のしかたを考えました。(当時の私にとっては、外部の人=大人=メディア。そして、時は90年代半ば。インターネットなんてないのですよ。ケータイもないのです。コギャル世代だった私たち女子高生にとっても、メディアといえば、ラジオかTVでした。)
 私は大人泣かせなフレーズを挨拶やスピーチや作文に盛り込むことを覚え、私たちのことを「大人に利用されてる」と批判した人たちに対しては、心の中で思いました。
バーカ、利用されてるふりしてあげてるだけじゃん。利用されてるって言われるのを覚悟で、信頼してもらうために母体団体のパンフレット出してんるじゃない。子供だけでやってるって言ったら話すらきいてくれないくせに、母体団体の名前出したら「利用されてる」だって。

 NGOの会議などで、「この活動を始めて自分自身がとても成長しました」って言いながら、心の中は複雑でした。
 成長したっていっても…。人前でうまくしゃべれるようになった、とか、リーダートレーニングを受けてワークショップを開催できるようになった、とか、巧みにメンバーを勧誘できるようになった、とか、そういうのって、「この団体に洗脳された」の裏返しじゃない? 自分の言葉で話せなくなるのは嫌だ。この団体のリーダーたちと同じ話し方しかできなくなるのは嫌だ。それじゃ、まるでコピーじゃない? 私にしか言えないことを言いたいし、私にしかできないことをしたい。活動を通して確かに成長はしたけど、いまだに、人前でしゃべるのは好きじゃないし、話すより書くほうが好き。でも、書くのが得意なのはこの活動を始めたからでも母体団体のトレーニングのお蔭でもなくて、もともとの私の能力でしょ。
 このまま活動に染まりたくなんてないし、周りから褒められるのもうんざり。活動がなくても自分がちゃんとやっていけるのかどうか確認したい。活動が生きがいだなんていうつまらない人間じゃないことを確認したい。大学生になれば猫も杓子もボランティアだ国際協力だと夢中になるんだから、別のことをやってみたい。この狭い組織のなかで大人たちにちやほやされたくない。いつまでも遊びでボランティアなんかしていないで、もし本当に国際貢献したいと思ったときにプロとしてそれができるように、英語とか専門の勉強をしたい。
 結局、私はそう思って、高校卒業を目前にして団体をやめました。ものすごくジコチューです。

 …私がいま考えていることは、上の文章の「大人」「外部者」「母体団体」のところを「オーガナイザー」に、「子供」のところを「スラム住民」に変えただけ。

 私たちは皆、すごく卑しくていやらしくて、ジコチューなのだと思います。
 そして、私たちが、「21世紀を担う若者」でも「輝く10代」でもなんでもない、ジコチューで、自己正当化のカタマリで、向こう見ずで、傲慢で、身の程知らずで、でも周りは気になって、プライドは高いのに頭の悪い、フツーの高校生だった…のと同じように、スラムの人たちは、美しくもなければ弱くもない、バリバリの活動家でもなければ魂の抜けた人形でもない、フツーの人間なのだと、私は考えています。スラムの人の目が輝いているなんて、どこの誰が言ってるんだか知らないけれど、もう、真っ赤なウソですからね。
 ずるくて、したたかで、でも肝心なところ抜けていて、ジコチューで貪欲で、でもわりとお人好しなところもあって、慎重かと思ったら大胆だったり、平気で人をだましたり、かと思うと驚くほど他人に献身的だったり、よくわからないけれど、スラムの人間関係って、そんなことの繰り返し。スラムに限らず、どんな人間関係でもそうですね。
 そんなフツーの人間が、ふとしたはずみで「活動」だの「運動」だのに足を踏み入れてしまって、傍から見ると熱心に運動している、あるいは熱心に運動させられている、ように見えるのだけれど、実はぜんぜん違って、当事者の意識はわりと冷静で、フツーの生活の延長線上にたまたま運動があったにすぎないんですよ…って、そういう行為の積み重ねこそが「政治」だと思うのです。

 フィールドワークについても同じこと。マニラは便利で楽しいところだから、スラムのフィールドワークといったって、体力的には何らつらいことも何もないのですが(いざとなれば近くのショッピングモールに逃避すればいい)、運動を見ようとするとどうしても、当事者同士のどろどろの人間関係にお邪魔してさらに泥を上塗りするというご迷惑な行為を繰り返さなくてはならないわけで、そこでは私は「無色透明のフィールドワーカー」どころか、勝手に入ってきて当事者みたいにして座っているヘンな外国人で、事態をややこしくしているトラブルメーカーで、そして時には相当な「ヒール(悪者)」ですらあります。
 先の「報告」で挙げた1つ目の事例で住民組織がNGOから離反したとき、私はNGOか住民組織かどちらかにつくことを迫られ(中立だなんていっていられないのです)、私は住民組織側についたものですから、一部のNGO幹部が怒ってしまって、ある時期、私の職場に毎日のように、
「あそこの立ち退きも、あそこの道路拡張工事も日本のODAだろう。」
と電話をかけてきました。
 「そんなプロジェクト、どこにもないってば! 新規円借款は2003年から止まってるし!(←当時のことです)」
と言っても聞いてくれず、私は職場の秘書さんに、
 「あの人から電話かかってきたら留守って言ってね。」
と頼んでいました。すると次は、同内容のFAXが! さらには、
 「sagingは政府側の人間になってしまった。なんだあの子は!」
というメールを、日本の共通の知人(野宿者運動の活動家など)に流す始末。さすが運動家、そんなネガティブ・キャンペーンなど朝飯前です。私は「これをほうっておいたら名誉毀損だ」とばかりに彼らとたたかいました。当時、私と親しかった若手オーガナイザーらが、
 「住民組織に離反されたからって腹を立ててsagingを逆恨みする奴にアリンスキ―方式のCommunity Organizingを説く資格はない!」
と私に加勢してくれた結果、話はさらにややこしくなり、それだけが原因でないにせよ、若いオーガナイザーらは次々にそのNGOを辞職して独立してしまいました。
 昨年、私は当時やりあったNGO幹部の一人とやっと和解し、例の離反した住民組織も昨年、私の同席のもと、彼と和解しました。他のNGO幹部とはまだ和解していませんが、辞職して独立したオーガナイザーらとはいまでもずっと親友です。

 そして今回、来週フィリピンにいらっしゃる予定のK大学の研究チームの方をマニラのあちこちのスラムにご案内するにあたっての相談に応じてくれているのは、やりあって和解したNGO幹部と、あのとき私に加勢してくれた挙句にNGOを辞めてフリーランスになった若手オーガナイザー。バトルになった当時は大変でしたが、いまや、お互いのジコチューなところもいやらしいところも知っている関係なので、なんだか、話しているとほっとします。NGOと住民組織との齟齬をネタにしたきわどいジョークに笑ったり、お互いへの毒のない(でも本心からの)皮肉を聞き流したりする時間は、本当にいとおしいです。バトルの後だからこそ深まる人間関係。
 社会運動や政治の世界にかぎらない、そんな当たり前の人間関係。
 こういうことの積み重ねが運動をつくっているのだと、私は、確かに、そう感じます。
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# by saging | 2009-09-18 01:51 | フィリピン研究
タイのVisa取得に向けて
 タイのNon-Immigrant Visaを取得するための必要書類を、バンコクでお世話になるチュラ●ンコン大学の研究機関から送っていただいたので、さっそく、ビザの申請をすることにしました。
 ビザ申請なんて面倒な仕事はできれば一度で済ませたいものなので、私はもちろん、在フィリピンタイ大使館に事前に連絡し、ビザ取得に必要とされる書類を確認しました。その中で言われたのが、4cm×6cmの顔写真。ずいぶん縦長な、と思いながら、下宿から徒歩1分の写真屋さんに行き、
 「4cm×6cmのID写真って可能ですか?」
と訊くと、
 「もちろん!」
とのお返事。心配になって、
 「4cm×6cmですよ? インチじゃなくてセンチメーターですよ?」
と確認すると、受付の女性はたいへん面倒そうに、
 「これでしょ。Don’t worry!!」
と、ID写真の実物見本と価格表を出してきてくれました。そこには「パスポートサイズ」、「運転免許所サイズ」と並んで、”Saudi Visa Size 4cm×6cm" の見本が。サウジアラビアのビザってそういうサイズなのね~。
 お願いすると、たちまち別の方向から、
 「Saudi Visaの方、奥の部屋へ~!!」
との大声が聞こえてきて、受付の女性は「あなたの番よ」と、奥のドアを指差します。並んでいる人たちは一斉に私に注目。恥ずかしすぎます。
 「奥の部屋」は広いのですが、なぜか中央に大きな鏡が置いてあり、一心不乱にお化粧する老若男女の姿が!! 皆さん、持ち込みのファンデーションや口紅やヘアジェルを駆使しながら、一斉に鏡に向かっています。唖然として辺りを見回すと、
 「準備ができたら、このボタンを押してください。スタッフがまいります。」
と書かれた張り紙が!! そう、この人たちは、写真を撮られるための「準備」をしていたのでした!! 鏡の前には、”for rent”と書かれたヘアブラシとベビーパウダー。(フィリピン人は、老いも若きも、しばしばファンデーション代わりに顔にベビーパウダーをはたきます。本当ですよ!!)
 私がボタンを押すと、ほどなくしてスタッフが入ってきました。
 「マム、ブレザーを選んでください。」
…そう、このスタジオでは、ブレザーを貸してくれるのでした。サイズも色もさまざまで、これさえあれば、下はTシャツでも「襟付きの服」を着て撮影できるというわけです。どうりで、ID写真を撮りに来たにしてはやたらカジュアルそうな服装の人たちがいると思っていましたよ…。でも、貸出ブレザーの色はなぜか、黄緑とかピンクとか、ど派手でした。大阪のカラオケ喫茶じゃないんだから…。私はすでに襟付きブラウスを着てきたのでお断りして、とにかく、撮っていただきました。スタッフはデジカメで5枚も撮った挙句、
 「どれがいいですか、選んでください。撮り直しも可能です。」
とのこと。一昔前のプリクラみたい。
 私がその部屋を出るとき、老若男女はまだ、一心不乱に鏡に向かっておられました。…ほんとに、フィリピン人ってナルシストです。
 
 さて、タイ大使館領事部。受付担当は英語の堪能そうな、フィリピン外務省にいそうなタイプのフィリピン人男女。よかった、とりあえずは英語もタガログ語も通じそう。私は安心し、ビバ・フィリピン人スタッフ!と心の中で叫びました。勝手なものです。
 番号札をもらって待つこと2時間。まあ、以前の在マニラ日本大使館のことを思えばはるかに良い環境ですし、私は持参した本を読んでいたのでぜんぜん飽きなかったのですが、そうでない人にとって、2時間の待ち時間は過酷だったようで、窓口に苦情を申し立てる人多数。
 「あんたたち、どうしてそんなにくだらない書類ばかり追加的に要求してくるの!? 前回はこれでいいって言ったじゃない! タイに幻滅だわ。シンガポールだってマレーシアだってこんなひどくなかったわよ!」
 「総領事に会わせなさい! 抗議してやる!!」
と英語で怒鳴る白人女性も何人か。逆にフィリピン人は、決して激昂せず、あくまでも
 “Opo, sir, opo…. Sir, sir…”
と素直なのですが、なんだかんだと窓口で15分くらい粘る人もいました。だから時間がかかるんですね…。
 やっと私の番がくると、万全に用意していたはずなのに、事前に確認していたのとはまったく別の、「タイからの書類にサインした人物のThai National IDのコピー」が必要だと言われました。
 「そういう重要なことは前回言ってよ!」
と心の中で思いましたが、そこは我慢します。しかも、窓口対応フィリピン人スタッフったら、NRCT(外国人がタイで研究をする際に許可を得なくてはならない政府機関)からのレターを指して、
 「これにサインした人物のIDのコピーが必要です。」
と言うのです。
 「これはNRCTの書類で、NRCTって国家機関ですよね。これにサインした人物って、NRCTの課長級でしょ? だったら、IDを提出するまでもないのでは? または、私の所属機関であるチュラロンコーン大学からの私のVisaをエンドースしてくださった大学機関のこの教授のIDということですか?」
と私が訊くと、
 「あ、そうそう。この教授のIDです。」
 しっかりしてくださいよ…。一応はビザ用語に慣れている私だからスムーズにいったものの、ビザ申請に慣れない留学生などだったら、このスタッフの一言に翻弄されてNRCTに連絡をして、「そんなの知らない」と言われて、右往左往して…と、たいへんな時間のロスになるはず。ひどすぎ!
 以前だったら私も白人女性と同様に罵声を浴びせたと思うのですが、きっといまこの瞬間にも、我が国の大使館(というか入国管理局)は特にフィリピン人に対しては同じような条件をつけているのでしょうし、フィリピンの入国管理局はもっともっともーっとひどいし、そもそも、役所ってそういうところ。最近、在フィリピン日本大使館のビザ発給不祥事も表ざたになったことだし、あまり他国ばかり責められません。
 「…ほかに必要なものはありますか?」
 「あとは、ビザ申請料2800ペソのみです。」
…前回問い合わせたときは「申請料は申請時ではなく受け取り時に必要」って言ったじゃない…。
 「わかりました…じゃ、また明日来ますね、Thank you, Sir!!」
と、窓口のフィリピン人職員に笑顔で言った私は、ヤクニン社会に侵されてしまった「事勿れ主義者」なのでしょうか。
 ちなみに、ビザ申請書には「3cm×4cmの顔写真を添付のこと」とありました。4cm×6cmじゃなかったの!? 窓口でそのことを尋ねても、
 “Ma’am, it’s ok!”
とのこと。It’s OKじゃなくてさ、どっちなの!? (フィリピン的文脈からは、おそらく、「4cm×6cmでOK!」という意味なのだと思います。)

 翌日、指定された書類を持って出直し。途中、ビザ申請料(2800ペソ)を下ろすためにATMに寄ると、機械に向かう私の後ろにぴったりはりついてくる中年の女性が。フィリピンでは、他人がATMを操作しているときに平気で後ろや横から画面を覗いている人に遭遇します。多くの場合は決して悪意があるわけではなく、単なる好奇心のようなので、まったく、困ってしまいます。
 「あのー、もうちょっと離れていただけますか?」
と、私は丁寧に言ったつもりだったのですが、彼女のお気に障ったらしく、
 「プライバシーを気にするなら窓口に行けばいいじゃない!」
そうきますか…。彼女の脳内の辞書にはプライバシーという語彙がちゃんとあるのですね。だったら覗かないでいただきたいのですが。彼女は、
 「バストス! バランガイに訴える!」
 ”Wala naman mangnanakaw dito!”
と言い捨て、ガードマンに言いつけにいきました。バストスはあなただって! Kahit walang mangnanakaw, may mangloloko pala katulad mo! って心の中で悪態をつきました。

 そしてタイ大使館に行くと、書類は受け取ってもらえたものの、
 「申請料は今日は要りません。領事が書類をチェックしてビザの種類を正式に決定してから、申請料の金額を電話で連絡しますので払いに来てください。」
とのこと。とりあえず受け取ってもらえたのだからほっとしていますが、もしかすると、申請料の支払いとビザの受け取りで、最低でもあと2回は足を運ばなくてはならないということ? 私の下宿はタイ大使館に比較的近いからいいけれど、ケソン市居住者だったらブチ切れそう。

 本当に毎度のことながらフィリピンのダメっぷりといい加減さには心底辟易…と言いながらも、きっとフィリピンとたいして変わらないであろうタイに勝手に期待し、
 「まあ、変わらないといったら、役所なんて所詮、日本も変わらないって!」
などと勝手なことを思いながら、フィリピンとタイの織りなすこのなまぬるい雰囲気のハーモニーを、ちょっと楽しんでいる私です。期間限定なのでしょうね、こういう心地よさは。
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# by saging | 2009-09-16 20:08