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Keso de Bola とは、 「表面は赤いのに中は黄色い」フィリピンのボール型チーズ。転じて日和見主義者。       かつてお世話になった、現地の言葉で「灯台」と呼ばれるマニラ湾岸のスラムを、ガラス越しに。
管理人sagingより
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右へ左へ回転ドア
 今年の残暑は長かったですが、私はいつも、「1年中この暑さでも大歓迎!」と思っていました。夏が長ければ長いほど嬉しいのです。青すぎる空、蝉の声、モコモコと分厚い真っ白な雲。神田川沿いをこれでもかとばかりに生い茂る木々の緑、鬱陶しいに飛び交う虫たち、日本では夏にしか見られないような鮮やかな花の色。1日に何度も水シャワーを浴び、3日に1回はゴーヤチャンプルーを作っては冷奴と一緒に食べ、その美味しさに感動する毎日。
 こんな日が、ずっとずっと続いてほしいのにと思っていました。9月と10月は、1年でいちばんさみしい季節です。遠くから運動会の音楽が聞こえてくるたびに、かなしくてたまらなくなります。夏の空気がどんどん消えていって、あの暗くて重い冬がまためぐってくることが、怖くてなりません。あと数ヶ月もしたら、この視界から緑が消えてしまって、室内は暖房の淀んだ空気で満たされてしまって、私はきっとまたいっさい電車に乗れなくなり、デパートも地下街も歩けなくなり、書店やスーパーに行くことさえ困難になるのでしょう。
 先日、職場の近くで、とても鮮やかなピンクの花をつけた百日紅が剪定されていたので、業者の方にお願いして、落ちた枝をいくつかいただいて、事務所に生けました。いい色ですね、と上司に言われ、こんな色の花は夏にしか咲きません、と答えたら、とてもとてもかなしくなりました。
 上司は、秋には秋の花が咲きますよ、と言って、先週、すすきの穂までついた秋のアレンジメントを買ってきて、事務所に生けてくれました。
 落ち着いた色合いの花々を見ていると、今年こそは、秋や冬の美しさを楽しめる自分でありたいと思います。
 9月30日は、仲秋です。満月に向かう今日の月は、きらきらしてとびきり美しいです。

 この夏は、この数年間でいちばん充実していました。6月末に上司と示し合わせて決めた「朝7時に出勤して始業の10時まで研究活動をする」計画もおおむね達成。ドナーからのプレッシャーを受け、雑用に追われ、夜もついつい遅くなり、時間に追われるながら「援助」を行う仕事のなかで、ありがちな「援助バイアス」に呑みこまれたくはない、援助業界に毒されたくはない、研究者としての立ち位置やフィリピンで学ばせていただいたことをぜったいに忘れたくない、という思いがとても強くて、とにかく毎日、ものを読み、ものを書き続けました。朝の3時間くらい勉強したってどうにもならないのだと思うけれど、それでも、やらないよりはずっとましです。
 涼しいけれどすでに明るい5時台にベランダに出て、のびのび育ったゴーヤやレモングラスやパクチーに水を遣って、前夜に干しておいたランドリーがすでに乾いていることに感動して、お弁当を作ってトーストを焼いて新聞を読むときの幸福。ラジオ体操の出席カードを首からひらひらさせながら走っている小学生とすれ違いながら、ほとんど車の通らない道を自転車で走り抜ける解放感。日中の暑さを予告するかのように、川面をゆらゆらかがやかせている神田川の幻想的な美しさ。開け放したオフィスの窓からきこえる蝉の声のノスタルジー。
 海外にも海にも山にも花火大会にも行かなかったけれど、幸せな夏でした。海外に逃亡したいとは一度も思いませんでした。この小さな事務所で、とても狭い世界で、仕事と研究をしていられるだけで良かった。
 
 私の「NGO嫌い」はあまり払拭されていませんし、NGOで働くことのジレンマも解消されないままです。研究との整合性についても、悩み続けています。都内での生活はできるものの貯金はろくにできないようなこの薄給でいったいいつまで続けられるのかと、途方もない不安も抱えています。いつも何かに追われ、追い詰められています。役所に提出する数々のしょうもない書類の作成、「いいことしたい」オーラをまとった同業NGOのピュアな方々とのミーティング、常に温度差のある海外駐在事務所の職員からの愚痴や批判、とても苦手な簿記(だいぶ慣れましたが)や収支報告書の作成…。

 それでも幸せで、生きているなー、と思いました。

 昨年の夏は、民主党の代表選で終わってしまいました。蝉の声を聴くたびにあの夏の選挙を思い出します…と言えたらそれはそれで素敵なのでしょうが、蝉が鳴いていたかどうかすら、まったく思い出せません。各陣営の選対本部はなぜか都内のホテルの小宴会場に、候補者控室はスイートルームに設置されていました(議員会館でいいのでは、と思うのですが、マスコミをシャットアウトしなければならない事情とか、いろいろあるのです)。合同演説会や代表選が実際に行われる別のホテルには別途、決起集会のための部屋が予約されていて、支持議員らが熱く政策議論を繰り広げる(=他陣営のワルグチを言ってお祭りを盛り上げる)場所になっていました。ホテルの利用料を知っている私は、ただただ、目が点でした。
 上司がそれらのホテルのスイートで演説原稿をチェックしたり先輩議員らと戦略を話し合ったりしている間、私はずっと部屋の入口に控えていました。他方、各関係者や報道機関用に向けた文書作成やメール・留守電のチェックもしなくてはならないので、議員が取材や演説会で席を外す2-3時間の隙を見計らってタクシーで議員会館に戻り、事務作業をして、またホテルに戻っていました。いったいどれだけ無駄なお金を使うのだろうと思いながら、各ホテルと議員会館を往復する毎日。夜は、議員の先生方が全員帰宅された後にスイートルームの鍵を閉め、議員会館に戻り、翌日の日程表をタイプして印刷し、議員宿舎の上司の部屋に届け、もちろん終電はないのでタクシーで帰宅し、数時間後にスイートルームの鍵を開けて清掃をお願いして、ルームサービスのコーヒーとサンドイッチを注文して先生方を出迎えます。
 あれはあれでものすごく勉強になりましたし、must do experienceだったと思っています。けれども、あの代表選に限らず、永田町での仕事は果てしなく空虚で、精神的にも肉体的にも、ただただ疲弊しました。政治というものが自分のすぐ手の届くところにあるというのに、ものすごく遠くて、一生触れられないもののように感じていました。自分で選択したことなのだから、これを承知で政治家の秘書になったのだから、と思い込もうとして、なんとか慣れようとすることで精一杯で、自分が主体的に何をしたいか、研究者としてどう生きていたいか、など、ほとんど考える余裕がありませんでした。国会審議に外交に、党内の人間関係や●●グループの人間関係。まるで難易度の高いテトリスのように、やってもやっても仕事が降ってきて、同時多発的にめまぐるしく物事が進行する毎日。地元事務所の先輩秘書との人間関係も難しすぎるし、他事務所の秘書さんや、上司のカウンターパートである官僚や経済界にも気を遣って、おまけにメディアとの付き合い方にも細心の注意を払わなくてはならない。影踏みをして走りながら手元でテトリスをして、口で歌って、なんだか足元が不安定だと思ったらそういえばやたらと揺れるバスに乗っていたんだ、そんなところで走ったり歌ったりしたら怒られるよ…、みたいな感じでした。

 NGOに転職して4ヶ月が経って、私は少しずつ、永田町の常識から脱しつつあります。この職場では、職員は自分のお湯呑を自分で洗います。男性職員がゴミを出そうとしたり、タオルを洗濯しようとしたりします。私が真っ青になって止めると、「sagingさん、古い」と言われます。議員事務所では考えられなかったことです。
 所詮は弱小NGOなので、組織のマネジメントにも会議の進め方にも予算の立て方にも人材育成にも問題だらけですが、議員事務所には雇用契約書も給与明細もありませんでしたし(さすがに源泉徴収票はありました)、事務所予算というものもありませんでした。収入も支出も不定期すぎて予測不能だからなのでしょうが…。


 8月のとある週末、職場の「先輩」と同僚の何名かで、横浜に停泊中のピースボートの見学会に行きました。…といっても、私たちはピースボートに関心があったわけではありません。船会社での経験の長い「先輩」(職務上は先輩ではありませんが、民間企業を早期退職してNGOに転職された人生の先輩)が、純粋に船そのものを見に行こう、と提案してくださったのでした。
 まずは、日本郵船氷川丸に集合。先輩の解説のもと、たっぷり2時間かけて内部を見学し、その重厚さと美しさに酔いしれ、ボイラー室の機械に「萌え萌え」で大興奮。
 その後はピースボートに移動し、その満員御礼ぶりを横目に、船体の塗装、従業員の国籍、図書館の品揃え…といったマイナーなところばかりを楽しみました。お盆休みに友人Wさんの研究室で古市憲寿『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 』を斜め読みさせてもらった(本当に斜め読みで十分だと思います)直後だったので、スタッフの説明に真剣に聞き入る若者やファミリーやご高齢の方々のことが気になりながらも、私も単純に、船そのものを満喫しました。ピースボートの「ピース」部分にはいっさい関心を向けず、ひたすらマニアックに船を観賞しつづける私たちがまさか、日常的に「平和」を扱うNGOの職員だなんて。

 その次の週末は、職場の上司に、東富士演習場で行われた陸上自衛隊の富士総合火力演習(通称「そうかえん」)に連れて行ってくれました。ピースボート見学の翌週が自衛隊の演習見学! 自分の左右のレンジの広さにもびっくりですが、うちのNGOの職員の多様さにも、改めてびっくりです。
 上司はNGO職員のくせにweapon studiesが大好きで(ミリオタではありません)、NGO職員のくせに自衛隊との協働などを模索する、安全保障の研究者。私は彼に感化され、肯定するにせよ否定するにせよ、軍や自衛隊についてもっと知らなくてはならないと思うようになり、「そうかえん」もぜひ見たいとお願いして、連れて行ってもらいました。
 …すごかったです。そもそも、私は軍による実弾使用を見たのは初めてでした。複数の戦車による同時着弾訓練、観測ヘリコプターOH1の変態機動、ヘリからの対戦車地雷散布、戦車用通路開通用の地雷原処理車。なかでも、10式(ひとまる式、って読みます)戦車のなんだか気持ちの悪いキャタピラーの動きとすさまじい変態機動――まるで流鏑馬みたいに、走りながら撃ったり、バックしながら目標に向かって発射したり――は、圧巻でした。初めて見る実弾発射に興奮したり、ぴったりと揃った同時着弾訓練のあまりの「美しさ」に息を呑んだり、地雷散布ヘリにショックを受けたり(あれはトラウマになりそうです)、離島攻撃を想定した陸・海・空の総合防衛演習のリアルさに恐ろしくなったりと、忙しい2時間でした。
 演習そのものだけではなく、会場の雰囲気も独特で面白かったです。もともとこの火力訓練には訓練中の若手隊員らの士気向上という目的があります。迷彩服姿の隊員の方々が客席にずらーーーーっと並んで座っておられる姿は圧巻でした。弾着(着弾のことだと思うのですが、自衛隊用語? 無線放送も「だんちゃーく!」って言います)のたびに、「おおおおおお!」というどよめきや拍手が彼らの一団から沸き起こるのがおもしろかったです。そして休憩時間になると、隊員たちが
 「久しぶりっ!いまどこに!?」
と肩を叩きあい、直立不動で再会を喜びあう光景があちこちに。
 JRの最寄駅からの往復には特別バスが用意されていて、その誘導を行う隊員の方々も実にユニークでした。御殿場駅で誘導してくださった方々は制服ではありませんでした(いくら演習場の最寄駅と言っても、御殿場駅前で迷彩服の人たちが誘導をしていたらいろいろと支障があるのでしょう)が、会場付近でで誘導してくださっていた方々は迷彩服でした。
 「Cの座席のチケットをお持ちの方はッ、そのまま前進してくださいッ!」
と独特のアクセントでアナウンスしたり(前進って…!)、長蛇の列に配慮して、
 「ご気分の悪い方はいらっしゃいませんかッ? お隣、前後の方々の顔色を確認してくださいッ。」
といったアナウンスをしたり、並んでいた参加者のリクエストにこたえて小さなお子さんを抱いて記念撮影に応じたり…。自衛隊もたいへんですね、って思ってしまいました。
 周りの参加者の方々もユニークでした。迷彩ズボン+迷彩帽の「いかにもミリオタ」みたいな男性たち、帽子に日の丸ピンバッチを付けた不思議青年たち、ものすごく性能の良さそうカメラで空に向かってカシャカシャ連写しまくっている戦闘機ファンと思われる男性、演習に出ている知人をオペラグラスで探す、自衛官の親類または知人と思われる家族連れ、「●●県自衛隊父兄会」の幟を立てているグループ、爆音のたびに泣きわめく子どもを一生懸命になだめていたものの結局中座してしまった男性…など、本当にさまざまな方がいらっしゃいました。(私たちのほかに、NGO職員がいたかどうかはさだかではありません。)
 夕方、都内に戻り、いつものようにジムに行くと、野球場のグリーンが演習場に見え、飛んでいる鳥が軍用機に見えてしまいました。自分の脳が怖くなりました。たった2時間演習を見ただけなのに、これはいくらなんでも危険すぎます。

 その翌日、都内のとあるカフェで、元フィリピン共産党員の某氏がフィリピンの左派と社会運動について語られる場にお邪魔しました。初めて行ったカフェでしたが、本棚にはチェ・ゲバラ本や日本の労働闘争史の本がずらーっと並び、どこの国籍だかわからないけれど「いかにも活動家」って感じの方々がお揃いでした。ドリンクがとても安く、バナナジュースがものすごくおいしいカフェでしたが、エアコンが故障中でものすごい暑さ。そんななか、1990年までのフィリピン共産党の軌跡について2時間もレクチャーを受けてしまいました。
 …「そうかえん」と足して2で割るとちょうどいい感じ。すごく中和されました。Neutralize(中和)というのはフィリピン国軍用語では「反政府分子の制圧」を意味しますので「殲滅」と訳すのが適切なのですが、そういう意味ではなくて、「中和」されました。

 先週は、「大規模災害発生時における民軍協力」をテーマに陸上自衛隊がアジア太平洋地域の軍関係者を招聘して実施した国際会議に参加させていただいてきました。会議のメインは、10名程度のグループに分かれての机上訓練(具体的なシナリオを想定してのディスカッション)。大規模災害が発生して地方自治体の機能が一時的に麻痺した場合、軍はどのような役割を担うのか(interim government機能を担うのか、あくまでもcivilian controlを尊重して中央政府からの出向や地方自治体の回復を待つべきなのか)、人命救助や医療活動を行ううえで地方自治体や文民組織とはどのように連携すべきなのか、軍による被害アセスメントと地方自治体によるそれが違った場合はどうすればよいのか、軍組織の一元的なcommand systemとはまったく異なる「多様で統一性のない」NGOと協力するにはどうしたらいいのか、国民に対する情報の一元化を目指すならば軍は政府発表を尊重すべきだが、現場でメディアに求められた際には答えるべきなのか、それとも露出は極力控えるべきなのか、など…。
 参加者の方々は軍人で、全員軍服。彼らから、”What do you think, Civilian?”と話を振られるのですが、「民」の代表として招聘されて参加していたのは、国連組織、国際赤十字、そして我が団体を含む4団体の国際NGOのみ。Civil-Military Corporationっていうなら、NGOや人道支援団体だけではなく、地方自治体なり総務省なり内閣府なりから役人を招聘すればいいのに、と思いました。それに、他の3つのNGOは緊急支援経験の蓄積があるのに、我が団体だけはなぜか「災害救援も緊急援助もしないけれど自衛隊に近いから招聘された団体」ですので、部外者感たっぷりでした。私は机上訓練の途中から、NGOとしてではなくて「かつて政および官で働いていた文民」として、政および官の論理を代弁する役割に徹しました。つくづく、自分のNGOアイデンティティの薄さを実感します。
 机上訓練の後半は、災害発生時における国内の民軍関係のみならず、他国軍の支援を受け入れたり、あるいは他国に応援に行ったりする場合の法的枠組みや各国の規制についての議論もなされました。そのときも、軍はもちろん、参加していたUNもNGOも、各国の官の果たす決定的な役割についてほとんど考えていないようでしたので、私は思わず、
 「その役割は軍じゃなくて大使館だと思います。」
 「そこは敢えて軍のリエゾンオフィサーが出てこなくても、Military Attache(駐在武官)がやりますよ。」
とNGOなのに「官」を代弁するかのような発言を繰り返してしまいました。なお、別のグループにいた我が上司も、文民のくせに途中からフロアの議論を横取りし、ファシリテーター役を買って出ていたようです。
 実際、こうした場面で本当に求められているのは、「自分の持ち場」からの話しかのできない人ではなくて、政・官・民に加え、学(academe)、軍、そしてNGOと、いろいろな世界の論理を理解し、壁を越えられる人材なのだと私は思っています。米国式に言えば「回転ドア式キャリア」をもつ人材。私が数年おきに転職を繰り返しているのも、究極的にははそのような形で日本と世界に貢献したいからです。
 …という熱い話はさておき、この会議、ものすごくおもしろかったです。それにしても、”You, civilian”って呼ばれたのも、「文民の皆さん」って呼ばれたのも、生まれて初めてです。

 右なのか左なのか、と問われれば、私はどちらかといえば左なのだと思います。2年前にある会合で、フィリピンの選挙監視NGO(NAMFREL)を賞賛するマレーシア人研究者の報告をきいたときに私が、
 「選挙ガバナンスは政府の仕事なのだから、NGOを礼賛するだけでなく、中央選挙管理委員会(COMELEC)の能力強化を考えることが必要ではないか。」
と発言したところ、別のマレーシア人から、”You are very right-leaning”って言われたことがあります。それのどこがどうrightなのか。
 フィリピンにいたとき、私はThe Leftにものすごくシンパシーを感じていました。役所で働いていた時は「sagingさんはアカ」と言われていました。
 でも、NGO業界にあっては、私などはかなりの右なのかもしれません。

 右か左かなんて、ほんとうに、その国の文脈次第、あるいは個人の価値観次第なのだと思います。
 私は、左と言われても、右と言われても、かまいません。むしろ、NGO職員でありながら、そして「援助業界」にいながら「右寄り」であることを強みにしていたい、と思います。

 私は、いろいろな世界を同時に生きていたいのです。
 土日は研究者に戻って、職業研究者と一緒に、普通に学会や研究会に出席したい。
 役所や永田町で一緒だった方々とは、ずっと友人でいたい。
 私がいまのNGOに転職を決めたのは、この組織が、NGOなのにやたらと省庁に近い、という特徴をもっていたからです。私も何かというと役所に行っていますし、マニラの元職場で上司だった方々やカウンターパートだった方々に連絡をして、省庁の担当者を紹介していただいていますす。どの方も本当に親切に、メール1本、電話1本で気軽にそのようなことをしてくださり、「せっかくsagingさんがNGOにいるなら、こういうことができれば…」と提案してくださいます。役人の柔軟さに感激。
 永田町には遠くなってしまいましたが、それでも、お世話になっていた秘書仲間や政党職員の方々とはいまでも食事をしたり、メールをやりとりしたりしています。政党職員の方々とのコミュニケーションなんて、むしろ、以前より多いくらい。毎日一緒に働いていた頃は、お互いに勤務時間以外では会いたくもない、と思っていましたし、議員会館の食堂でランチ、なんて夢のまた夢で、5分でも時間が空いたら何か食べる、という感じの生活でしたので、誰かと食事を一緒にしたことは一度もありませんでした。いまのほうがずっと、普通の会話をしています。そして、
 「『近いうちに』会っておこう」
というのが合言葉です(笑)。


 右にも左にもレンジが広いということ、官僚に対しても民間に対してもオープンで柔軟であるということは、ものごとが順調にいっているときは、多様な層からの支持を集め、仲間を増やすことができます。ただ同時に、下手をすると、右にも左にも敵だらけ、四面楚歌という状況になります。
 …誰のことだと思いますか?
 もちろん、民主党のことです。そして、私の元上司のことです。
 私自身も同様なのだと思います。「回転ドア」でいることは、いつもリスクを伴います。これからもずっと、右だとか左だとか、おまえはどっちの見方だ、とか、さんざん責められたり、批判されたりすることはあるのでしょう。
 それでも、異なる世界を行き来しながら生きることの魅力にはあがなえません。
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by saging | 2012-09-29 01:15 | 仕事('10年~)