Keso de Bola とは、 「表面は赤いのに中は黄色い」フィリピンのボール型チーズ。転じて日和見主義者。       かつてお世話になった、現地の言葉で「灯台」と呼ばれるマニラ湾岸のスラムを、ガラス越しに。
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フィリピン追憶写真 その4
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  マニラのセブンイレブンが5月の大統領選挙前に実施していた独自世論調査。候補者の似顔絵と名前入りのソフトドリンクの紙コップが積まれていて、注文をする人は自分の好きな候補のものを取っていくように、という注意書きがあり、コップの減りの早さで人気がわかる、という仕組み。GMA7などと協力して実施されていました。
 セブンイレブンではこのほか、レジ脇のTVで、「電子投票の仕組み」についてのガイダンス・ビデオがずっと流されていました。ガイダンス・ビデオと言ってもそこはいかにもフィリピンで、セクシーな女性たちが卵を持って踊りながら
♪マークシートのマルを塗りつぶしてね
マルは、タマゴのマル
マル以外はダメよ
ワオ! なんて簡単♪
と歌い続けるというもの。
 ……。

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 これはミニストップのレジ脇のTV広告。5月10日の投票日、投票したことを示す指先のインク(二重投票を防ぐために付けられる)を見せると、C2というペットボトル入りのアイスティー(甘い!)が10ペソで買えるというもの。画面右上には、Keep my Vote Cool &Cleanって書いてあります。
 ……。

 今日、選挙のときの資料を整理していて、投票日当日、記録代わりにテキスト・メッセージ(携帯電話メール)を利用していたことを思い出しました。投票開始前の午前6時から翌日未明までずーっとフィールドにいた私は、友人や調査地の方々、政党関係者の方々はもちろん、元職場の方々、在マニラの日系メディアの方々、そしてマニラにいらっしゃった指導教官に、投票会場で何が起こっているかをテキストで送りつづけていました。「投票開始1時間、まだ40人しか投票できず」とか、「投票時間が延期になったとラジオで言っていますよ」とか、「行列が長すぎて喧嘩が始まっています」とか。そして送信をしながら、
 「これをしていれば、何時何分に何が起こったか、ノートに書かなくていいんじゃない?」
と思いました。送ったテキストは送信フォルダに残るので、あとから読み返せばいいのです。画期的!
もし私がツイッターをしていれば、そんなときこそツイッターを使えばよかったのかもしれません。フィリピンの携帯ではそんなにさくさくツイッターなんてできないので、現実には無理な話なのですが。
 あとにも先にも、ツイッターの有用性を感じたのはそのときだけなのですが、せっかくネット回線のとても速い日本に戻ってきたことですし、日本の携帯も契約したので(携帯電話でのウェブ・ブラウジングがとても早いことに驚き!)、一度諦めたツイッター、やってみようかと思っています。
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by saging | 2010-08-31 22:47 | フィリピン(全般)
フィリピン追憶写真 その3
 フィリピン最後の晩は、4月からの4ヶ月の私の調査に多大なご協力をいただいた、5月のパシグ市長選で敗れた左派活動家Ric Reyes兄の60歳の誕生パーティー。
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 左派A●BAYANの元幹部なのに、中間層の活動家らは一人も招かず、パシグ市で彼のキャンペーンに奔走した貧しくて進歩的な人たち(各種左派からマ●ダロ・グループまで)のみを招き、地元パシグの質素な建物の屋上で開かれたパーティーは素敵でした。私がフィリピンを離れる直前に、調査に協力してくださった方々と一度にお会いできたことも、とても良かったです。
 Ric兄のキャンペーンの中枢にいたのは、とある芸術グループのAさん。この芸術グループは、歌って踊れてギターが弾けて絵が描けてコントができる人々を集めており、政治団体(おもに左派系グループ)からの依頼を受けて、デモのステージで即興で歌ったり、ラップやコントをやったりしているプロ集団です。(もっとも、フィリピンのデモで使われるすべてのパフォーマンスがこうした雇われプロによるものだというわけではありません。)
 現在39歳のAさんは10代のころからこのグループに所属し、途中で6ヶ月間エンタテイナーとして日本に出稼ぎに行った(!)以外は一貫して政治運動および芸術活動をやってきたそう。パシグ市とは縁もゆかりもないものの、Ric兄から依頼を受け、今回の選挙戦にはマネージャーとして参加。そのたぐいまれなるエンタテイメント精神でキャンペーンを大いに盛り上げつつ、キャンペーン会場との調整や電話かけなどの泥仕事も黙々とこなしていました。私は選挙期間中ずっと、彼がひたすらにロジスティックな仕事をしているところしか目にする機会がなかったので、キャンペーン最終日の演説会で彼がギターを抱えてステージに上がり、現パシグ市政を痛切に皮肉る歌を歌った姿に、心底びっくりしました。めちゃくちゃうまい! あんな有能なエンタテイナーを6ヶ月で帰しちゃうなんて、日本はなんて惜しいことをしたんでしょう。
 パーティーではAさんが、「選挙キャンペーン中の知られざる秘話」、「みんなの知らないRic兄のプライベートな生活」、といったテーマでコントを披露。キャンペーン中の些細な言い争いや色恋沙汰の噂をネタに小話をつくり、人々の口癖や物真似などを盛り込んで、ネタ帳をほとんど見ずにさらさらと話す様子に、皆、ゲラゲラ笑っていました。「われわれ」の実体験に基づいているぶん、TV番組のコントよりずっとおもしろい。あんなに楽しめるパーティーって、なかなかないですよ。
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 それに触発されたのか、キャンペーンに参加した人々が順番に前に出て、キャンペーンでの思い出話やこぼれ話をおもしろおかしく語りました。私も。「日本語でしゃべれよ! Aさんが通訳するから!」と言われてちょっとだけ日本語で話してみたらAさん、本当に通訳してくれました。たった6ヶ月の日本滞在なのに…このひと、天才です。
 その後は、タンドゥアイとエンペラドールでエンドレス。
 「ねえ、俺たち、怖い? それともかっこいい?」
 私のインタビューさせていただいたマ●ダロ文民グループのアホな兄ちゃんたち(いつも迷彩服を着ている)に絡まれながらアホな話をしつつ、夜は更けて行きました。まるで、スラムの日常をそのまま持ってきたような風景。でも、バックミュージックはずーっと、Aさんのお気に入りのPatatagのCDでした。
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by saging | 2010-08-30 00:23
フィリピン追憶写真 その2
 今年4月から7月まで私が行ってきた調査の目的は、非常に局地的なマニラの都市貧困層の運動と、国政選挙・地方選挙と、国際的な左派の社会運動、の3つがどのように相互に作用し、当事者たちが多層な運動をどう捉えているかという点を明らかにしようとすることでした。
 
今回いちばん嬉しかったのは、調査対象とさせていただいた方々との密な意見交換、フィードバックを繰り返しながら調査を進めることができたことでした。一方的なインタビューとか、こちら側からの勝手な分析とかを論文にするのではなくて、こちらが記録したもの、書いたもの、あるいは書こうとしているものを相手に投げ返してコメントや反論をいただき、書き直す。
 人間関係のマナーの一般論としてはきっとそんなの、当たり前のことなのですが、調査者としてそれを実行するのは、少なくとも私にとっては、これまで、とても難しいことでした。

 このBlogにも随時書かせていただいているように、私は「貧困層を組織化しようとする自称市民社会組織、あるいは自称NGO」の態度に注目しており、博士論文では、「組織される側」である都市貧困層の視点を描くことで、「組織する側」である市民社会組織(左派やNGOや一部の政治団体)を批判的に書きました。といっても私は決して市民社会組織そのものを批判したのではなくて、市民社会組織を手放しで称賛するような研究者やNGOワーカーを批判しようとしたのですが、左派やNGOから見れば、自分たちの見せたくない側面(住民を利用したり動員対象とみなしたりする利己的な側面)ばかり描かれたのだから、一方的なものに映るはずです。私は何をどこまで書くか、どう発言するかということには注意を払っているし、博士論文の事例とさせていただいたNGOとはいずれも長くお付き合いさせていただいていて信頼関係はあるはずなので、彼らは決して私を拒絶したり責めたりはせずに私の「一方的な」分析を受け止めてくれましたが、それでも、アンフェアです。
 だから今回は、次の段階として、「組織する側」からの反駁を交えた論文を書きたいと思ったのです。

 今回の調査では、事例収集のために特にある政治組織(でも自称市民社会組織)にお世話になりました。私はそれ以前から、
 「組織する側の市民社会組織と、組織される側の都市貧困層の意図が違っていることを書きたい。」
 「たとえば市民社会組織が政治動員にどんな手法を使っていくら払っているかも書きたい。」
と、迷惑極まりないことを申し上げていましたが、この組織の幹部らは私を受け入れてくださいました。ありがたいことです。
 「(ある政党が)赤だったロゴを黄色に変えましたが、抵抗はなかったのですか?」
 「都市貧困層に対して、『アキノ新政権のもとではデモに行くな』と呼びかけているらしいですが、左派としてそれはいかがなものですか?」
 「都市貧困層を組織化するのは最終的には左派の大義実現のためだって前提で話を進めさせていただいていいですよね?」
 これまでもこのBlogに書いてきたような(おおよそ失礼極まりない)疑問や解釈を、私は逐一、彼らにぶつけてきました。それぞれに対し、彼らは本当に丁寧に回答し、反駁し、同意してくださいました。もちろんすべてを語っていただけるわけではないのですが、イデオロギーと現実のジレンマ、まだ整理されていない思い、EDSAⅡとⅢで味わった挫折感や自己矛盾、そして、デモへの動員に一人あたりいくら払っているかまで、とても率直に教えていただいてきました。逆に、
 「もっと批判してくれていいよ。」
と言われるくらいです。
 そして7月末、私が帰国する2週間前に、私の調査結果報告の時間を取ってくださいました。幹部および私が調査地とさせていただいた地域のエリア・コーディネーターらが集まってくださり、朝9時から午後3時まで、昼食をはさんで6時間! 私が話し、それに対して彼らが、事実関係の修正をしてくれたり、私の誤解を正したり、意見を述べたりしてくださる形で進行。それでも時間が足りず、そのあとさらに3晩、彼らの事務所の近くで飲みながら続きをやっていただきました。
 彼らの寛大さに、私は言葉を失うほどです。本当に。私はこれからもきっと彼らに批判的なことを書き続けるけれど、ものすごく尊敬していますよ。
 調査結果は、11月の学会で発表予定です。

 あるNGO事務所のゲートに貼られていたステッカー。
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 もうひとつ。マニラを去る1週間前には、調査地のひとつであるN地区のスラムで、私の調査結果報告会&お別れ会をしていただきました。
 スケジュールやセッティングはすべて彼らが綿密に計画。大雨のなか、パワーポイント用のプロジェクターとスクリーンまで、どこやらのNGOの事務所から借りてきてくれたのですから驚きです。タガログ語による私の拙い報告は、調査地の方々からガンガン突っ込まれました。
 「あなたが引用したその発言の意図はそういうことではない。」
 「あなたの分析は正しくない。それは2009年に決まったことだから、2010年選挙とは関係ない。」
などなど。…やらせていただいて本当に良かったです。
 報告会のあとはお別れ会。スラムでの独自の生産・消費活動がありますので、私が持参するのは日本酒のみで、お料理と飲み物はN地区で用意していただくことにしました。もちろん費用は私の負担。何人くらいの規模にするかを事前に決めて、料理の内容も相談。
 「料理は買うんじゃなくて、いつもどおり、住民組織の事務所で大鍋で作ろうと思うんだけど。」
 「お願いします! ●●さんところのヤギ(N地区ではなぜかヤギの養育がさかんで、ケソン市のど真ん中なのに、ヤギだらけ)をつぶしていただくのはどうですか?」
 「それは安上がりでいい! パンシット(焼きそば)かご飯かどっちがいい?」
 「皆さんにお任せします。」
 「ビデオケ・セットは使う?」
 「もちろんお願いしまーす!」
という感じで予算決定。
 このような調査地との関わりかたには批判もあるでしょう。私も以前は、自分がお金をもっていることを誇示するような行動は慎むべきだと思っていました。実際、ある別の調査地では、私はこのようなことはしませんし、N地区でも、私は最初のうちは当時の職場を言わず、日本の大学院生としか名乗っていませんでした。しかし、N地区の住民リーダーたちはさまざまなミドルクラスの政治集会やフィリピン大学でのシンポジウムに日常的に招かれている「やり手」でして、私が当時の職場から仕事で訪れた先々で、しょっちゅう鉢合わせする羽目になったのです。スラムに行くときはTシャツにジーンズですが、平日の昼間は(スラムの人たちから見れば)華美な服装をして、しかも運転手つきの職場の車で乗り付けるわけですから、いつまでも身分を隠し続けられるわけがありません。結局、私は自分の所属を告白しましたが、彼らは別に驚きもせず、態度も変えることなくお付き合いしてくださいました。
 彼らのほうから借金を申し込まれたことなんて一度もありません。私がごく最近驚嘆したのは、彼らが、彼らの住民組織の会長が2007年に市議会議員に立候補した際に私が寄付した金額を正確に覚えていたことでした。決してまとまった額をどーんと渡したわけではありません。当時、週末のたびに彼らの選挙キャンペーンに付きまとっては話をきかせていただいていた私は、キャンペーンが夜遅くまで長引いてしまった晩に皆さんの夕食代を出したり、予想外に多くのキャンペーン要員が集まってきてジープが足りないときにジープ1台の数時間分の借り上げ代金を提供したり、電話料金を肩代わりしたり…といったことを繰り返していました。どれも、数百ペソ~1000ペソ程度。彼らを陣営に取り込みたかったケソン市議らは数十万ペソ、NGOは数万ペソ単位の寄付をしていたわけですから、私の寄付なんて、寄付ともいえないショボショボのものです。にもかかわらず、彼らは、私自身が忘れている金額を、きちんと覚えているのです。私自身はすっかり忘れていたのに。

 こんな感じで、私は「調査対象」に対する尊敬の念を新たにしながら、フィリピンを離れました。それは、調査者にとっていちばん幸せなことだと思います。その尊敬は決して、調査対象への勝手な思い入れとか、貧者のロマン化とか、調査を達成した自己満足のすり替えとか、しばらく遠ざかってしまうマニラへのセンチメンタリズムとか、そんなものではないと言い切れる自信があります。彼らはほんとうにすごい。私は彼らのすごさを、博士論文で書いたよりもっとうまく熱く、言葉にしたいと思っています。

 2007年5月選挙直前のN地区。
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 アキノ新大統領施政方針演説の日、G-CAP(Global Call to Action against Poverty)とともに下院近くでデモに参加するN地区の人々。
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by saging | 2010-08-29 21:49 | フィリピン研究
フィリピン追憶写真 その1
これから数回にわたって、撮り溜め、書き溜めていたフィリピンの写真をお送りします。

 6月、ドゥマゲッティとアポ島(4回目)、そしてシキホール(初めて)を訪れ、最後の海を堪能。美しい海中世界がただただ名残惜しく、ダイビングの前後や水面休息の時間も惜しんでシュノーケリングを楽しみ、朝に夕にとマーケットの新鮮な魚を見て回りました。

 2007年にライセンスを取ってから、フィリピンでのダイビング本数は80本。前の職場で働いていたときも、週末になると職場の同僚や友人を誘ってアニラオ(バタンガス)に行き、とても尊敬するフィリピン人インストラクターのもと、3本潜って日帰りで帰ってくるのが楽しみでした。3本2000ペソ(約4000円)。

 アニラオやミンドロ島もダイナミックで好きだったのですが、なんといっても素晴らしいのはアポ島。最高です。ナポレオンもカメもエイもいっぱい。フィリピンに旅行される方はぜひドゥマゲッティへ!

 ダイバーならみんな大好き、ギンガメアジの大群。
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 そのギンガメアジがドゥマゲッティの市場で売られていました。キロ100ペソ(1匹20ペソくらい)。水中で見るよりずいぶん小さく見えます。ロビンソン・スーパーにもありましたよ。
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 宿に持ち帰って、屋上のBBQセットを借りて炭火で焼いてみました。骨っぽいかと思っていたのですが、思いのほか白身が多くて(アジなのに)、おいしくいただけました。
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by saging | 2010-08-22 21:05 | フィリピン(全般)
日本帰国・新しい仕事
 通算6年以上お世話になったマニラを7月いっぱいで離れ、その後2週間のバンコク滞在を楽しみ、1週間前に日本に戻ってきました。
 そして、新しい仕事が決まりました。とても尊敬する国会議員の秘書として、永田町と●ヶ関の両方で勤務することになります。もともと私が議員秘書になりたいと思うようになったのは、以前の職場にいたとき、●ヶ関と国会議員の力関係に強く関心を抱いたから。ですから、その両方を見ることができるであろうこの仕事に、わくわくしています。永田町は未知の世界ですが、●ヶ関には以前の職場でお世話になった方々があちこちにいらっしゃるので、心強く感じます。
 数日のうちに、東京での新しい住居も決めることになります。ほとんど生活用品を持っていないので、最近は日本でも増えつつある「家具・家電つき物件」を限定で探しています。フィリピン研究者の友人の皆さまはご存知かと思いますが、私が2年前までマニラで住んでいた部屋はコンドミニアムの39階、家具・家電つきで90平米(家賃約11万円・自己負担額1割強)でした。それは極端にしても、先日までマニラで借りていた部屋は家賃約2万円で家具・家電つき45平米でしたから、東京のワンルームの価格と間取りには、ただただ、びっくりです。
 初めての永田町、初めての東京生活、それ以前に久しぶりの日本での生活。慣れるまでにはすこし時間がかかるかもしれませんが、ずっとやりたかった仕事なので、とにかく、がんばります。
 きっとやっていけるはず。ここ3年くらいずっと怖かった新幹線(速すぎる)にも地下鉄(深すぎる)にも、最近では平気で乗ることができるようになりました。いえ、そんなの当たり前のことなのですが、そんなふうにひとつずつ慣れていけると思います。
 しばらくはフィリピンともタイとも離れてしまいますが、これからも研究は細く長く続けたいと思っています。そんな欲張りな、と言われるかもしれないけれど、11月の国際フィ●ピン研究学会でも報告させていただく予定ですし、論文も書いています。
 研究者の皆さま、友人の皆さま、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

※※※

 勇ましい(?)言葉はここまで。
 以下は、バンコクから日本に戻ってくる直前に書いた文章です。読み返して、あまりにウダウダで気弱なのでアップしませんでしたが、いま書いておいたほうがいい気がするので、以下に貼り付けます。

 ※※※

 先日、通算6年間のフィリピン生活を終え、文字通りマニラから引き揚げてきました。最後の2週間は1日6件以上もアポを入れ、友人・知人へのご挨拶とディスペディーダ(お別れ会)三昧。名残惜しいのに慌ただしくて、時間はあっというまに過ぎてしまいました。
 いまは、日本に戻るまでの束の間のひとときを、バンコクで過ごしています。一応は調査が目的ですが、比較的ゆっくりしたペースでアポを入れ、友人たちに会い、タイ式マッサージの新たなライセンスも取得!
 渋滞のひどさをうっかり忘れてタクシーに乗ったらまったく動かなくなり、あきらめてラジオに耳を傾けていると「デデンデデーン、デデンデデーン」と、聞き覚えのある「でんでん太鼓みたいな音楽」が。そう、これは赤シャツ組の歌(デーンはタイ語で赤)。かかっていたのはラジオではなくて、赤シャツのサウンドトラックCDだったのでした。勇ましい音楽とは対照的に控えめに微笑む運転手が「別のもあるよ」と差し出してくれたのも、全部赤シャツCDばかり。結局ローテーションで2回くらい聴く羽目になりましたが、運賃のおつりは1バーツ単位でちゃんと返ってくる…そんなバンコク。とてもいいところです。

 明日、日本に帰って、そう遠くないうちに新しい仕事に就くことになると思います。念願かなっての就職のはずなのに、不安ばかりが増幅。
そして、フィリピンにもタイにも次はいつ行けるのか見当もつかないから、センチメンタリズムが一層加速されます。

 1年4ヶ月前に前の仕事の契約を終えて日本に帰ったとき、私はなんだか気が抜けたようになってしまって、前の仕事での自分を後悔ばかりしていて、そして久しぶりの日本に馴染めなくて、3年分の貯金額とは裏腹にただ不安で、もう二度とまっとうに社会で働くことはできないかもしれないと思っていました。特に、日本で働ける気がしませんでした。
 幸いなことに、私は当時まだ大学院に籍がありましたし、その数ヶ月後からはフェローシップで1年間、タイとフィリピンに滞在できることになっていましたので、この1年4ヶ月の間はずっと、無職のままで来ることができました。その間にちゃっかり博士論文も提出させていただき、恵まれた環境に包まれたまま、長い長い自由を堪能しました。
 この1年間、フェローシップでの研究活動をしながらも私がずっと考えていたのは、このフェローシップ期間が終わる2010年8月までにいかにして社会に復帰する自信をつけるかということでした。
 いえ、決してそんなにまで自信を失っていたわけではなく、いざとなればきっと普通に働けるとは思ってはいたのですが、確信がほしかったというか、不安から解放されたかったのです。私の不安はここ数年でどんどん膨らんでいて、3年くらい前には、日本の新幹線は速すぎて怖く、地下鉄は深すぎて怖いと思うようになり、一人では乗れなくなりました。そんなことで、まともに日本で仕事ができるはずがありません。
 1年のうちに、そうした問題をなんとか解決しなくてはならないと思っていました。
 そのために私がしたことは、心身ともにとことん健康的な生活の追求でした。私はもともとかなり健康なほうなのですが、前の職場で働いていたときはとても不規則な生活をしていて、特に最後の数ヶ月は、朝も昼も何も食べずに夜はジンか焼酎で睡眠薬を飲んで眠る、というような日も多く、いろいろなことがダメになっていました。それでも仕事はこなせたし、もともとお酒には強いから朝6時まで飲んでも7時には出勤できたのですが、このままでは取り返しがつかないことになるし(っていうか破滅まっしぐら)、そうした自堕落な生活が自分の果てしない不安の一因になっていることは明らかでした。

 昨年8月にフェローシップが始まり、最初の2ヶ月はまず、マニラに滞在することになりました。もう二度と外国で一人暮らしなんてできないと思っていた私は知人宅にホームステイをお願いしました。そして、それまでのすべての悪習慣を断ち切るべく、フィリピン人並みの早寝早起きを励行し、温かい家族に囲まれて過ごし、朝6時からスポーツジムに通い、インストラクターと栄養士の指導のもと、マニアックに健康増進を目指しました。もちろん、友人と会うときを除いて禁酒です。
 その後、昨年10月から今年3月まで滞在したバンコクでも、知人宅にホームステイをさせていただきました。ベッドも共有で、プライベートな空間はゼロに等しかったのですが、プライバシーより不安からの解放を求める私にはまたとない環境でした。そしてまたこのホストファミリーが、早寝早起き、ほぼ菜食、朝は豆乳・夜はフルーツを欠かさず、冷たいものは摂らない、飲み物は常にハーバルティー、といった超健康志向で、内面は熱いのにいつも穏やかな、非常にタイ的な活動家ファミリー。調査どころか日常生活レベルのタイ語もままならなかった私ですが、彼らはすべて受け入れてくれました。実り多く、幸せな6ヶ月でした。
 そのおかげか、今年4月に再びマニラに戻った私はかなり元気で、炎天下の選挙キャンペーンも、豪雨の下のフィールドワークも、友人との徹夜もばっちり。20代前半の頃の体力に戻ったかと思われるほどでした。実際は30歳なのだから当たり前のように体力の限界も浮き沈みもあるわけですが、やっと、自分の状況を自分で把握し、予測し、コントロールできるようになってきました。再び、週5日は朝6時からジムに通い、信頼できるインストラクターのもとでトレーニングを行い、さらなる体力向上に努めました。
 その結果、この4ヶ月のマニラ滞在は本当に充実していました。調査自体が心からおもしろかったし、人と会うことが楽しかった。前の職場にいたときに知り合ったフィリピンの方々にも、本当に良くしていただきました。私は勝手に、以前の仕事のカウンターパートは、あくまでも仕事上の付き合いであって、「限りなく無職に近い自称研究者」に戻った私の相手なんてしてくれないのだろうな、と思っていたのですが、そんなことはなく、皆、無職になった私と、友人として付き合ってくださいました。そのことがとても嬉しくて、一番力づけられました。

 新たな問題は、フィリピンとタイが心地よすぎたこと。
 特に、友達は20代の半分以上を過ごしたフィリピンに集中していて、弁護士、医師、薬剤師などのプロフェッションをもつ知り合いもたくさんいて、何かあったらいつでも相談することができます。調査地のスラムに行けば電化製品修理のプロ、裁縫のプロ、洗濯のプロ…といった草の根の専門家ばかり。何が壊れても大丈夫。銀行だって両替商だって旅行代理店だって郵便局だってコピー店だってぜんぶ行きつけで、みんな顔見知りで、携帯電話番号も交換しているくらいです。困ることなんてほとんどない。隅々まで張りめぐらされたセーフティネットの中で生きている感じがします。マッチョで優しいフィリピン人とのLove Lifeも楽しいし、お芝居もコンサートもライブバンドも格安で楽しめるし、いつも、とても豊かな生活を享受していました。
 タイも楽しかった。夜遅くなったときなどはたまに興味本位で、便利な場所にあるバックパッカーや「外こもり」の方々の泊まる1泊200バーツ(約600円)の安宿に泊まって、旅行者のふりをして宿泊者のお話をきいたり、ロビーのギターを練習したりして、「私も外こもりしたいなあ」と思いました。(いえ、私だってすでに半分くらい外こもりだったのですが…。)
 決していつも「フィリピン大好き」、「タイ大好き」と思っているわけではないし、不便だし不衛生だしゆるすぎるし、腹の立つことはたくさんあるのですが、私があの「ゆるさ」を生きやすいと感じていることは事実です。

 日本はシステマティックで洗練されていて生活しやすくて、帰国のたびに感動してしまいます。でも、医師の友人も弁護士の友人も、電化製品を直せる友人も思い当たりません。銀行でも郵便局でも普通の店でも、なにかと話しかけづらい感じがします。2年前、休暇でフィリピンから日本に帰ったとき、自分の銀行口座から現金を引き出そうとしてATMマシンにフィリピンの銀行口座の暗証番号を何の躊躇もなく入力すること3回。安全ロックが作動し、それっきり使えなくなりました。後日、恥を忍んで窓口で手続きをして、新規暗証番号を登録していただきましたが、あれ以来、日本のATMを使うたびに緊張します。そもそも私の貯金の9割はフィリピンの銀行のドル口座に入っているので日本円の残高はこころもとないし、フィリピンではカードを使うことなんてほとんどなかったから気が付けばカードの利用限度額は大学生レベルの「月10万円」のままだし…日本での生活を築くための基盤が、そもそも、とても脆いのです。電車の路線も複雑だし、人々はよそよそしいし、日本での生活を考えると不安になることがよくあります。

 日本には当分戻らないことにして、フィリピンで、あるいはタイの日系企業あるいは日系の組織に就職するという選択肢も、ずいぶん考えました。実際、そんなお話をいただいたことが何度もあり、本当に感謝しています。
 でも、私は日本に戻って、日本で働いてみたいのです。
 念願の議員秘書になりたいから、というのはもちろん理由の一つ。昨年脳溢血で要介護者になってしまった父と、そして家族と、できるだけ近いところにいたいから、という理由もあります
 そしてもうひとつの理由は、このタイミングでいいかげん日本社会に戻らないと、このままずっと戻れないかもしれないから。
 私はいまだに、マニラでの前の職場で自分が満足に職務を遂行できなかった、という思いを消すことができないのです。努力したし、内からも外からもまあまあの評価は得ていたし、もちろん仕事に穴をあけたことは一度もないし、博士論文の土台となる研究活動もできたし、傍から見ればむしろ順調に見えたと思うのですが、私はいつも自分のパフォーマンスに満足できず、自分自身の状況は良くありませんでした。
 今年6月にマニラのデ●サール大学の政治学部で講義をさせていただいたとき、前の職場の幹部が聴講に来てくださいました。2年くらい前、すべてのことがうまく回らない時期があり、私はある日、勢い余って、7枚綴りの手紙を彼に提出したことがあります。(どれだけ大人げないのって話ですが、当時のコンテキストではそうするしかなかったのです、たぶん。)…いろいろご迷惑をおかけし、その後もいろいろなことがあり、一時はかなり気まずいことになっていたのですが、なんとか再びご挨拶させていただけるようになりました。そして今回、彼は私の講義を聴きに来てくださり、事後のレセプションにも参加してくださいました。先方の大学の先生方は思わぬゲストの出席に大喜びで、
 「sagingは、研究に理解のある素晴らしい上司に恵まれていて、だから、働きながら博士論文が書けたんだね。」
と口々に言っておられて、私はただ、自分を恥じるばかりでした。
 私はもっと努力できたはずなのに、どうしてあんなに不満と不安ばかり感じていたのだろう、と思って、そのたびに、自己嫌悪に陥ります。どうしてあのときもっとうまく立ち回れなかったのだろうとか、3年間もマニラに住んでいて自分は何をしていたんだろうとか、仕事も研究ももっと頑張れたはずなのにとか、そんな思いが募るばかり。とにかく、いろいろなことがうまくいかない3年間でした。そしてそのことが、自分の周りにいつも漂う不安感につながっているのだと思います。

 …ただ、ここ数ヶ月、タイでもフィリピンでも、ちょうど、自分が以前にいた組織の類似のポストで仕事をしている友人と親しく話す機会が何度もあって、私は彼らと話すことで、自分の過去の問題点を少しずつ具体的に振り返れるようになりました。話を聞く限り、彼らの上司はなかなかの暴君で、仕事の量も内容もハード。私は当時、自分の上司のことをそうとう無茶な人だと思っていましたが、彼らの勤務環境はそれとは比べ物にならないくらいきつそう。でも、私が彼らを尊敬するのは、彼らが日々のきつさを超えて、現状をきちんと分析し、愚痴ではない言葉で話すことができる人たちだからです。
 「うちの上司がね…。自分の時間もなくて、大変なんですよ。」
なんて話だったら誰にでもできるけれど、彼らはそうではなく、雑務や上司の暴言のなかに組織の論理を見出し、忙しい仕事のなかでも課題を見つけ出して自分の研究テーマに結びつけています(お二人とも研究者)。彼らと話していると私は自分の何がダメなのかを具体的に考えることができて、とても建設的になれるのです。
 いまでも自信はないままだけれど、彼らと話すことをきっかけに、少しずつ、自分の問題点を「総括」できるようになって、もう一度日本の組織で働きたい、挽回したい、という気持ちが強く起こってきました。そんなにうまくはいかないかもしれないけれど、少なくとも以前よりはうまくできるはず。
 マニラのTさん、バンコクのMさん、二人とも絶対ここは見ていないと思うけれど、本当にありがとうございました。

 フィリピンに、あるいはタイにずっといれば、「ゆるく」、「不安の少ない」生活ができるのかもしれません。でも、それでもきっと将来への果てしない不安は消えることがないし、不満だってきっと消えることはありません。どこにいて何をするにしても、不安を飼いならし、不満を昇華(消化ではなく)していくしか道はないのでしょう。
 マニラを離れる直前、前の職場を訪問し、かつてお世話になった方々にご挨拶をさせていただいたとき、私が一番ご迷惑をおかけしたある方がこう言ってくださいました。
 「あなたは、こんなに恵まれていたこの職場にいたときですら不満や不安があったんでしょう。次の職場では、そうとう頑張らないといけないと思いますよ。僕には、あなたが日本で通勤電車に乗って仕事に行くという状況が想像できない。日本にはFX(乗り合いタクシー)はないんですよ。もう、新幹線が嫌だから夜行バスで移動とか言ってられないんですよ。」
 このように言ってくださる方がいるのは、幸せなことだと思います。恩返しのためにも、頑張って、いい仕事をしたいと思います。

 「Congratulations! 君ならどこででもやっていけるよ。」
といって送り出してくれた楽天的なフィリピン人、タイ人の友人たちの言葉にちょっと励まされながら、そして、
 「きっと、きついよ。」
 「まあ、もしダメだったら、いつでも帰っておいで。こっちでアパート探しておいてあげるから。タイでもフィリピンでも、きっと仕事はあるから。」
そう言ってくれる在タイ、在フィリピンの日本人の友人たちにだいぶ励まされながら、明日、日本に帰ります。本当にありがとう。きっと大丈夫。がんばりますよ。
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by saging | 2010-08-22 02:50 | 仕事('10年~)