Keso de Bola とは、 「表面は赤いのに中は黄色い」フィリピンのボール型チーズ。転じて日和見主義者。       かつてお世話になった、現地の言葉で「灯台」と呼ばれるマニラ湾岸のスラムを、ガラス越しに。
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モニタリング
 クリスマス。フィリピン人にとっては大祭典ですが、タイではいたって「普通の日」でした。
 そういえば昨年も、私はこの静けさを求めて、12月24の夜の飛行機でマニラからバンコクに逃亡してきたのでした。フィリピンの、あのギンギラギンのネオン、クリスマス・ショッピングでごったがえす商業地周辺の大渋滞、とても主の生誕を喜んでいるようにはみえない爆竹騒ぎ、そこここを平気で飛び交う現金…。ちょっと懐かしくもあるけれど、あんな大喧騒は数年に1回でじゅうぶん。1年に1回もやっていたら、気力も財力ももちません。(しかも、フィリピン人は9月頃からすでにクリスマス気分で浮かれ始め、12月はろくに仕事なんてしません。1年に1回どころか、1年の約4分の1はクリスマスなのですから、すごいエネルギーですよ…。)

 少し前のことですが、お世話になっている先輩のご紹介で、日本のNGOによる海外援助事業の「モニタリング」を担当させていただくことになりました。
 少々変わった形態の援助で、モニタリングの対象は、7団体の日本のNGOによる12事業。これらの事業経費はすべて某省からの資金によるもの。さらに、今回のモニタリング事業費の出所も某省。そしてモニタリングの実施主体は、同7団体を包括するネットワークNGO。つまりは官民連携のスキーム。いかんせん、理念に現実が追い付いていないのが残念きわまりないところですが、田中氏が大臣であった7年前からずっとこのスキームに関心を抱いていた私は、ありがたく、このお話を受けさせていただくことになりました。一度でいいから「NGO評価」の仕事をしてみたい、と、ここ数年、ずっと思っていたのも事実です。

 「私は日頃からNGOに対して批判的な立場をとっておりますが、それでもよろしいですか?」
と、私は何度か事業主体団体に尋ねましたが、返ってきた答えは「結構です」のみ。ほんとかしら、と思って、NGOで働く親しい友人にそのことを話すと、相手はしばし絶句した後、
 「君がモニタリングって…。僕がその対象NGOの職員だったとしたら、ショックで辞職するね。」
 おっしゃるとおり。前途多難です。

 今回のモニタリング事業には、けっこうな予算がついていました。さすが政府のお金です。レンタカーの借り上げ費も、助手や通訳を雇う予算は十分にあり、しかも、現地での車両や助手の手配は私に任せていただけるとのこと。
 私はさっそく、私の短所や思考パターンを隅々まで知りつつも私のフィールドワークの暴走をいつも冷静に牽制してくれている数年来の旧友たち(私よりずっと年上)に連絡を取り、助手(兼通訳)を依頼しました。詳細を話すと、彼らは、
 「よりによって、君があんなに嫌っている日本NGOのモニタリングを君が担当するなんて! …OK, 私たちが君をモニターします。その助手の仕事、有給とってやらせていただきます。」
と、非常に協力的(!?)。
 車両も、レンタカーではなく、いつもお世話になっている白タクのドライバーさんたちにお願いしました。白タクといっても、とても信頼できる人たち。値段はレンタカーの半分ですが、依頼すれば領収書にサインもしてくれます。私の家族や友人たちのためにも何度も車を出してくれたことのある、気心知れる数年来の知人。時給計算で時間を切り売りするようなレンタカー会社とは違って、多少の無理は聞いてくれます。時は折しも年末。何かと物入りなのに仕事はあまり入らず、ともすれば暇を持て余している彼らは、この仕事に飛びつき、思わぬ臨時収入に大喜びしてくれました。私としても心強い限り。実にwin-winです。

 さて、モニタリングとはいっても、きちんとした評価基準が定められているわけではありません。事前に実施団体に確認したところ、なんと、既定の質問票すらないとのこと。私は数週間、付け焼き刃で「評価」に関する書籍を読み漁り、国際援助機関によるモニタリングの指標やサンプルの質問票などをweb上で収集し、事業直前には、その道の専門家である元ADB職員&元世銀コンサルで現JICA職員のご夫妻(ご存知の方だったら簡単に特定できてしまうと思うのですが)のお宅にお世話になって調査上の注意点をご教示いただきました(I&Mご夫妻、そのせつは本当にありがとうございました)。
 そうしてなんとか自分なりの質問票(相手に見せるものではなく、それをもとにインタビューしていくもの)を作成し、当日、東京からいらした担当者とお会いしたのですが、そこで担当者から、
 「基本的には、日本のNGOが現在進行形で活動している地域を訪問して事業内容を見ることを我々はモニタリングと呼んでいます。」
と言われ、私はびっくり。私が想定していた状況とは、「日本のNGOがいないところで、現地カウンターパートや受益者から直接に話をきくこと」だったのですが、彼曰く、それは「事後評価」であって、「モニタリング」ではないとのこと(かといって、彼らが「事後評価」のスキームを別途有しているわけではありません)。
 「基本的には日本人のNGOスタッフに事業地を案内していただくことになります。」
という説明に対し、私は以下のように主張しました。
 「日本人スタッフの案内で事業地を訪問することで『モニタリング』ができるとは思えません。それは単なる『視察=site visit』ではないですか? 私は現地の住民の方と直接お話をしたいと思います。助手や通訳を雇っているのもそのためでしょう? 日本人スタッフの方がお見えになるなら、当たり障りのない限りでのお話はしますが、彼らとお話しすることはございません。日本人を介さずに、私は現地語でインタビューをさせていただきたいと思います。それでよろしいですか?」
 いきなり牽制をかける私に対して、その担当者は、たぶん、ものすごくびっくりしたと思います。その直前まで和やかにお互いの自己紹介をしていて、私が
 「実は日本のNGOで活動していたことがあるんです。10年以上前ですが。」
と言い、共通の知人たちの話題で盛り上がっていたところだったのですから。
 10分以上も黙ったあと、彼は、こう言いました。
 「sagingさんの方針を尊重します。日本人スタッフへの対応は私が担当しますから、sagingさんはその間、自由に調査をしてください。」
 今回、このお仕事で私とチームを組んでくださったその彼は、私より1歳上の、日本の某ネットワークNGO事務局員。某国の日本大●館で働いていた経験があるとはいうものの、事前メールは「チョーいい加減」だし、ロジスティックはいろいろと抜けまくりだし、挙句の果てには寝坊して飛行機に乗り遅れる始末。こんな人を事務局員員として雇っているNGOは大丈夫なのか…と、私は勝手に大いに心配していたのですが、彼は、「物事を丸くおさめる」という特殊才能をもっていたのです。
 彼はどこへいっても、当該事業を担当する日本NGOあるいは現地NGOの担当者とにこやかに握手し、そんなに上手ではない英語で和やかに談話し、当たり障りのない話をしながら写真撮影できる人なのです。彼のお蔭で、私と助手さんは、その隙に現地の住民の方々にインタビューをすることができました。
 評価対象となる現場を離れて車に乗り込んだあと、
 「ああ、びっくり! どうしてこんなNGOがファンドを得ているんですか?」
 「なんですか、この事業は!? いますぐ中止でしょ、中止!」
などのアナーキーな発言を繰り返す私(と助手さん)の話を十分に聞いてくれた上で、
 「確かに、対処しなくてはなりません。今夜にでも東京に報告しましょう。」
と、非常に冷静。また、私が書いた刺々しい報告書の表現をことごとくまろやかなものに変え、
 「いろいろな体面上、文面は丸くしておきましたが、sagingさんのおっしゃっていることは口頭で関係者に伝えますから、心配なさらないでくださいね。」
と笑顔。つまりは「大人」なのですね。そういうことって、事務処理能力よりも実はよほど大切なことなのかも。
 将来、私がもし、人生のパートナーを見つけたいと本気で思うような時期が来れば、そのときには、彼のような人を探したいと思います。HAHAHA. (かといって、大切な仕事の当日に寝坊して飛行機に乗り遅れるのは困るかも…。)

 今回、モニタリングの調査対象とさせていただいた7団体12事業のうち、日本人が入って現在進行形で行われている事業はたった3事業しかなく、あとの9事業はすでに終了して「事後評価」の段階に入っていたので、結果的には、私が杞憂したような「日本人スタッフに引きずられる」といった事態は起こらなかったのですが、それでもいくつかは問題が見受けられました。
 まず、7団体中の5団体はこれまでこの国での活動経験がないという状況。現地を初めて訪れたという日本人スタッフは「現地をスーパーバイズしている」気になっているのですが、まあ、彼らはとにかく、現場のことなんて何もわかっていません。
 「日本人スタッフが現地に駐在する役割をどのようにお考えですか?」
という私の質問に対し、
 「日本からの資金管理、これは現地の人間に任せておくことはできませんので、透明性が大切ですからね。あと、現場のスタッフの士気向上ですかね。現地のスタッフに任せておくとだれますので。」
と、いきなり「上から目線」で答える彼ら。資金管理といっても、彼らは現地での銀行口座の開設方法も知らずに現場に来たといいます。士気向上って言っても、あなた、どこから見てもワカモノだし、英語下手だし!
 現地のカウンターパートからお話を伺うと、
 「まあ、彼(日本人スタッフ)はいい経験をしてくれているだろう」
 「楽しんでもらえたなら何よりだ」
などの(プライドの高い)コメントが返ってくるなど、まったく戦力になっていない様子です。
 資金管理なんて現地NGOに任せて、必要なら後で監査すればいいじゃない。現地NGOのほうがよっぽど、会計と庶務に特化した優秀なスタッフを持っているのだから。初渡航の日本人の人件費と渡航費とホテル代のほうがよっぽど不透明よ。役に立たない日本人スタッフをよこすくらいなら、その分の人件費も含めて優秀な現地のNGOにお金を丸投げしてお任せしたほうがよほどいいじゃない?
 …と思うのですが、今回のスキームは日本人スタッフを現地に派遣することを前提としているので、そんな「そもそも論」を持ち出すわけにもいかず、私は黙っておりました。

 受益者選定プロセスもかなりいいかげん(現職市長/町長派の住民しか裨益していないなど)なのですが、一部の日本人スタッフはそのあたりを何もわかっていない様子。
 最後に訪れた事業地で、大きなビニル袋に詰められた「貧困者への支援物資」の配給が行われている現場を拝見したのですが、行政側担当官はセレモニー会場で住民を何時間も待たせた揚句、もったいぶった演説を行い、市長への感謝の言葉と、現地の文脈では「物乞いの子供たちの歌」として知られている歌を唱和させていました。日本とは違って、行政は中立ではないのです…。
 同事業に関与している日本NGOはすでに同国で何度も活動経験があるそうで、派遣されている日本人スタッフも「現地経験豊富」との触れ込みだったのですが、彼女たちはステージ上で拍手をしてニコニコしているだけ。もし、あの歌の意味を知っていたら、それこそ、絶対に笑うことなどできないはずなのですが。
 セレモニー後、日本人スタッフの一人が微笑みながら私に、
 「私、住民の方々にたくさんインタビューをしたんですよ。皆さんおっしゃるには、ここの川では30年前は魚が捕れたそうなのですが、いまは上流からの工業廃水に汚染されてしまったそうで、彼らの責任じゃないのに、本当に可哀相。」
とおっしゃいました。「あの歌」をきかされた後で相当イライラしていた私は思わず、
 「これでしたら、川じゃなくて人口運河ですね。建設は10年前で、30年前は何もなかったはずですね。ですから、魚についても、再度住民の方にインタビューしてみなくてはわかりませんね。」
と、はっきり言ってしまいました。私の隣にいた助手さんも、
 「マダム、30年前にはここは川ではありませんでした。Please make a research again.」
とダメだし。すると、彼女はすーっと離れてしまって、それっきり私に口をききませんでした。私はこれ幸いと、その運河沿いの受益者にインタビューを試み、「物資支援を受けているのは市長支持派のみである」との証言を、複数筋から入手したのでした。
 あとで情報収集をしているとき、彼女のBlogを見つけたのですが、そこには、行政側担当官が住民から「マム」と呼ばれていることに触れて、
 「彼女はお母さんと呼ばれて慕われている」
と書かれていました。いやいや、そのマムじゃなくて、マダムのマムだってば! 大丈夫?

 ひどいことをしているとは思っていまます。いくら現地の事情を知らないといっても、他国ではそれなりに経験を積んでいるらしい日本のNGO。中には「海外への長期駐在は初めて」という日本人スタッフもいましたが、誰だって最初は初めてですし、彼らだって善意でやっているわけですしのでしょうし、きっと、私よりはるかに事務処理能力があって、行政に提出する経理の書類だって、私よりずっとサクサク書けるような人たちなのでしょう。そんな人たちが一生懸命にやっている現場を突然訪問して、専門的な質問を浴びせかけたり、彼らが言葉を通じ合わせることができない現地の人たちに対して直接に現地の言葉でインタビューをしたりする私は、彼らの目には、「あらさがし」、「弱いものいじめ」にしか映らないのでしょう。
 でも、仕方がないですよね。「善意」だけではどうにもならないのだから。この業界、熱くて情熱的な人は溢れているのだから、私は少し意地悪なくらいがちょうどいいんじゃない?

 私は決して、援助が不要だと思っているわけではないのです。よく言われるように、援助って、医療と同じです。多額のお金が動くものだからこそ、相手の症状にあったきちんとした処置と処方をしていただきたい。医師は、患者の日常生活を100パーセント監視することも、コントロールすることもできません。それでも、患者は状況改善を願っている。医療関係者にできることは、患者を病院に入れて監視したり叱ったりすることではなくて、患者を日常(自宅)に戻すこと。できるだけ患者のこれまでの生活に沿った形で薬の処方を行ったり、生活上のアドバイスを行ったりして、患者が、よりよい日常生活に復帰するのを支援することだと思うのです。
 私が何かを「提言」するなんて本当におこがましいけれど、最終報告書には、各国の事情なんてマニアックなことを書くのはほどほどにしておいて、
 「なぜ、現地事情をわかっていない日本人スタッフが現地に赴くべきではないのか?」
 「現地スタッフにすべてをゆだねる場合には何が必要なのか?」
…そうしたごく基本的な、当たり前のことを、一般の方々にわかっていただけるように書きたいと思っています。そのことが、次回の「援助」への少しの教訓に繋がれば、こんな嬉しいことはないと思います。

 日本政府、日本NGO, 現地NGO, そして現地の住民。こうした多層な関係を具体的に調査することが、実が、高校2年の時に初めてフィリピンを訪問してから数年間にわたって、私の目標となっていました。結局、それはできなくて、博士課程を終えようとする現在に至るまで、現地NGOと現地の住民の話に特化したストーリーしか紡ぎだせなかったわけですが、今回のモニタリングの仕事を通じて、初心を思い出すことができました。紹介してくださった先輩と、仕事を委託してくださった団体と、協力してくださったすべての方々に感謝します。いつか、このことをプラスのエネルギーに変えられるように、努力します。
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by saging | 2009-12-26 22:29 | その他
博士論文提出
 少し前のことですが、所属する大学院に、博士論文を提出させていただきました。
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 博士課程に進学してから約5年。進学当初はまさか、こんなに時間がかかるとは思いもしませんでした。いえ、地域研究の場合、博士課程に5年以上在籍するのはごく当たり前のことなのかもしれませんが、私の場合は、5年のうち3年は調査地であるフィリピン・マニラに居住し、フィールド調査にも文献収集にも物理的にとても恵まれた環境にあったのですから、もっと早く書けたはず、もっと努力できたはず、という後悔が消えません。それでも、先日提出した最終稿は、現在の自分にとってのベストであり限界です。
 すべてを、今後の糧にしていこうと思っています。
 5年も在籍していながら、実はそのうち2年半は休学していた(=学費を払っていない)というのも、私の問題のひとつです。仕事を口実に、私は休学届を出しつづけました。そのせいで私はいまだに「博士課程は在学3年以上」という当然の条件を満たしていません。それはけっこうな問題です。いくら指導教官からのOKをいただいたとはいえ、こんなことで、今後の口頭試問と「教授会」を本当に通過できるのかどうか、まだまだ定かはありません。
 …というわけで、本当に3月に学位を取得して大学院を出ることができるのかどうかはきわめて依然として不透明なわけですが、とにもかくにも、長きにわたって指導をくださった所属大学の諸先生方、重要な示唆や励ましをくださったフィリピン研究者の大先輩の先生方や友人たち、フィリピンでお世話になった先生方、忙しいなかドラフトに目を通してとても的確なコメントをくださったPareng Wataru(あなたのも早く読ませてください)には、本当に感謝しております。ありがとうございました。
 口頭試問に合格した暁には、お世話になった方々には論文のコピーを郵送させていただくつもりですし、今後、さまざまな形で発信していきたいと思っています。

 博士論文の2/3は、今年4月までのマニラ勤務中に書きました。それも、自宅ではなくて職場で。「1日の仕事の後、場所を動かずにそのままの気分と頭で論文も書いてしまったほうが効率がいいから」というシンプルな理由からでした。パソコン以外の電力は浪費しないように努めましたが、職場の本棚に「明らかに仕事とは関係のない書籍」を置きまくり、お昼休みや終業時間後になると自分のデスクにフィールドノートを広げて「仕事ではない何か」をしている私を大目に見てくださった元職場の方々には、心から感謝しております。 
 残りの1/3は、日本で書きました。研究室ではなく、大学の図書館で。大学の「院生共同研究室」の机も鍵もいただいていましたが、ついに使用することはありませんでした。日本を離れすぎていたせいか、私は、大学院生棟の特殊な雰囲気や暗黙のルールにも、院生同士の特殊なグラマーにも、うまく馴染むことができなかったのです。学部生と一緒に図書館で勉強するほうが、ずっと楽でした。
 細部の訂正や誤字脱字の修正は、9月末にバンコクに移ってから、ホストファミリー宅でさせていただきました。私のホームステイ先には一人になれるようなスペースはなく、就寝時もホストマザーと同じベッドです。ですから、私は毎晩、家族がTVドラマやバラエティー番組を観ている居間の床にヨガマットを敷いて、そこでラップトップを叩きました。親戚の子供が来ると居間も9時には消灯されるので、そんなときは、椅子とラップトップと蚊取り線香を外に持ち出して作業を続けました。蒸し暑い晩、綺麗な月の下で論文の校正をするのは、とてもすがすがしいものでした。蚊さえ来なければ、東南アジアって極楽です。
 
 論文執筆という作業。大学という場所にいれば、もっと静謐で神聖なものなのになるのでしょうか。大学院の院生研究室なんかで論文の仕上げをやるとなれば、それこそ、期限が迫るにつれて集団の作用でどんどん気分が昂揚したり、集中できたりするものなのかもしれません。それはそれで楽しそうですし、そういう経験もしてみたかったけれど、私は、研究室ではない場所で論文を書くことをじゅうぶんに楽しみました。
 マニラで仕事をしていたとき、夜遅くにスラムの調査地に行き、ゴキブリとネズミだらけのインフォーマントの家に泊めていただいて、真夏の太陽の照りつける翌朝早くにジープで家に帰って、シャワーを浴びて出勤したこと。お昼休みに論文を読み、仕事後、またスラムを訪問したこと。もうあまりインタビューの必要はなかったけれど、私は、せっかくマニラにいるなら、彼らからあまり遠ざかりたくはないと思っていました。そんな日々の繰り返しの中で、本や論文に書かれているいわゆる「理論」や「モデル」、スラムの人たちの言葉や論理、そして一日のほとんどの時間を共に過ごしている職場の人たちの言葉や論理、その3つが確かに結びついていることを感じました。スラムの人たちも私も、そして職場の人たちも、同じ土俵で、同じ理屈で生活している。自分はこのことを論文に書きたいのだし、理論やモデルというものはそのために必要なのだと、ずっと、そう思ってきました。

 私は、研究者(=大学教員)とは別の種類の職を志望しています。研究もしたいけれど、それよりも、ずっとやってみたかった仕事があるのです。だからこそ、この段階で、私が尊敬してやまないマニラのスラム住民の方々の言葉を、そして「NGO」なるものの非力を、学術論文という形で世に残る形で残しておきたかったのです。そんな動機での博士号取得が良いのかどうか、そして果たして「博士号」とは何なのか、私にはまだ、判断がつきせん。論文を書いているとき、いつも思い出していたのは、あのスラムの人たちが、バランガイ選挙の直前に、
 「我々はもう利用されない!」
と叫んだ夜のことであり、別のスラムの住民組織のリーダーらが、
 「こんな辺鄙なとこ嫌よ。何言ってるの?」
と、行政の提案した移転地をことごとく退け、最終的には自分たちの思い通りの移転地を獲得した日のことであり、
 「私たちはデモに動員されるためにNGOとかかわってきたのではありません。」
という手紙を住民組織がNGOに宛てて書いた日のことでした。
 「行政だってNGOだって、なんでもいいのよ。うまくいけばいいのよ。」
と、彼らは言いました。彼らは彼ら自身の運動について語っていたのですが、私は彼らの言葉に力づけらていました。行政に利用されることはもちろん、NGOに利用されることにも非常に敏感だった、「ただのスラム住民」の彼ら。私は、彼らの言葉を、彼らの信念を、きちんと言語にしたくて、そのために博士論文を書いてきました。
 だったら、博士論文じゃなくてもよかったのかもしれない、と、最近はそうも思い始めています。
 より多くの方々に読んでもらえる文章を書くことが先じゃないかと。
 来年の前半には2本以上の投稿論文を書くこと、それが、私の次なる目標です。研究者以外の職業を志望している私にとって、このように自由に文章を書いて発表できるような甘い蜜月のような期間は、この先、もう二度とやってこないのではないかと思うからです。
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by saging | 2009-12-26 21:46 | フィリピン研究