Keso de Bola とは、 「表面は赤いのに中は黄色い」フィリピンのボール型チーズ。転じて日和見主義者。       かつてお世話になった、現地の言葉で「灯台」と呼ばれるマニラ湾岸のスラムを、ガラス越しに。
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20年ぶり集中豪雨@マニラ
 さきほど、やっと電気が戻ってきました。でもまだ、下宿の庭は水に浸かったままです。
 怖かった…本当に怖かったです。目に見えるくらいの速度で川がどんどん増水して、みるみるうちに下水のパイプが割れて汚水が流れて、たちまちのうちに、下宿の1階が水に浸かりました。
 「どうして、そうなる前に避難しないの?」って、フィリピン人以外ならおそらく、誰もが言うでしょうが、今回は本当に、避難する間もなかったのです。水の汚さ(路上のゴミや動物の死体やバイキンが渾然一体となって流れているわけですから)も、万が一にも川の堤防が壊れたときのダメージも、想像がつくはずなのに、私はどこにも行けませんでした。ただただ、気が動転していたのです。危ないと思ったときにはすでに浸水が始まっていました。そして、そういうときって、何も考えられなくなるのです。
 私たちはただ、1階にあった家具や書籍やあらゆるものを2階に移動させることや、8匹もいる犬(すべて庭で放し飼い)をどうやって家の中に入れるか、といったことしか考えていませんでした。
 
 下宿のご主人の車は水に浸かってエンジンがだめになってしまったし、首都圏マリキナ市やリサール州カインタの友人たちのところは大変なことになっているようです。

 災害にあわれたすべての方々のために祈りたいと思います。
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by saging | 2009-09-29 02:32 | フィリピン(全般)
フィリピノ・エリート
 私が現在お世話になっている下宿は、2003年の留学時にも一時期お世話になっていた、マニラ市の古き良き下町にあるL家のお屋敷の一室です。
 お屋敷、と書いたのは決して比喩でも揶揄でもなく、実際、文字通りのお屋敷だからです。パシグ川のほとりにたつ静かな木造2階建ての一軒家。表通りにはジープニーやトライシクルが走っていますが、家のなかは静かなものです。厚みある木の床や、重厚な窓枠、カピス貝の障子、マホガニーのテーブル、昔の写真現像用暗室、広いキッチン、古いランプなど、こここに、100年以上の歴史が宿っています。イントラムルスのCasa Manilaやマラカニアン宮殿の近くの老舗レストランであるLa Cosina de Tita Moningにも匹敵する歴史建造物だと思います。 私のお借りしている部屋は、時間によっては水が出なかったり外で繁殖した蚊が入ってきたりするのですが、それでも、お屋敷の荘厳さとJおばさまの人柄を思えば、そんなこと、なんでもありません。 

 L家のルーツは中国。1代目にあたるL夫妻が中国本土からマニラに渡来し、ビノンドで洗礼を受け、このお屋敷に住むようになったのが90年前。そして、現在このお屋敷に住んでおられるのは、L家の3代目の息子さんである故M.L.大使の奥さまにあたるJ叔母さま(97歳)。
 L家の2代目は中華系でありながらスペイン語を話す、典型的なフィリピン・エリートだったそうです。そして、3代目の息子さんであるM.L.大使は、フィリピン人(中華系ではあるにせよ彼はフィリピン人でした)で初めてハーバード・ロー・スクールを卒業した弁護士にしてフィリピン外務省のキャリア官僚。ロハス(Mar Roxas上院議員の祖父でフィリピン初代大統領)やオスメーニャと共にPhilippine Independent Missionのメンバーであったという、とんでもないフィリピノ・エリートで、のちに駐英大使を務められました。狩猟がご趣味だったったという大使、戦後まもなくは休暇を利用してアフリカにハンティング・ツアーに行かれていたそうで、いまでもお屋敷のいたるところに、鳥類はもちろん、サイやシカの首、果てはライオンのはく製までが飾られています。
 M.L.大使はハーバード留学中に出会ったキューバ系アメリカ人のJおばさまと恋に落ち、Jおばさまを連れて船で(!!)フィリピンに帰国しました。二人の間には7人の子供、32人の孫、2人の曾孫がいるので、L家はすでに6代目ということになりますが、4代目の7人のうち4人はアメリカに、1人は香港に居住していて、フィリピンに暮らしているのは長男(といってもアメリカで結婚しているので月の半分はアメリカに帰る)と三女(アメリカ暮らしが長かったものの最近フィリピンでNGOを立ち上げた)のみ。お二人とも社交的かつ多忙で、週に2回程度しかお屋敷には帰ってこないので、広い広いお屋敷には、Jおばさまと4人のメイドさんしか住んでいません。
 メイドさんたちはJおばさまのことを「セニョーラ」と呼びます。信じていただけないかもしれませんが、本当ですよ! 現代フィリピンにも、まだ、そんな家庭はあるのです!!

 私は6年前の留学中、運命の導きによって、ジャーナリストのPさんのご紹介で、L家に出会うことになりました。当時私は、L家のお屋敷のちょうど真向かいにあるパシグ川沿いのスクワッター居住区(P地区)とトンドのPA地区で同時並行的にフィールド調査をしており、ケソン市に借りていた下宿を放置してP地区内で寝泊まりすることが多かったので、マニラ市内に引っ越すことを考えていました。そんなとき、Pさんのご紹介でJおばさまの長男のLさんに面会をいただき、状況を話すと、Lさんが当時アメリカにいたJおばさまに話を通してくださり、私はその翌週からL家のお屋敷の一室に寝泊まりのスペースを貸していただくことになったのです。
 お屋敷から、対岸のP地区にBangka(渡し舟、当時は1.5ペソ)で通い詰め、トライシクルやジープニーで移動する私に対して、LさんもJおばさまも、「おもしろい日本人だね」と言ってとても親切にしてくださいました。Lおばさまは現在に至るまで、私を誰かに紹介してくださるとき、
 「この子はunbelievableな外国人よ。うちから対岸のスクワッター・エリアに舟で渡って、調査をしてるの。」
と、笑いながらおっしゃいます。
 いまでこそ(前の職場で鍛えていただいたおかげで)レセプションやパーティーが大好きな私ですが、当時は、社交の場が苦手でした。そもそも、当時の私はフィリピンの上流階級の常識や作法についてまったく知らず、さらに、口語のアメリカン・イングリッシュにも弱く、たまにお屋敷を訪れるJおばさまの孫娘たち(同年代+5‐10歳)の英語も聞き取れず、私はそのことがコンプレックスで(いま思えば、アメリカン・イングリッシュが世界のすべてではないのだから、聞き取れない場合は「ゆっくりお願いします」と言えばいいのですが、当時の私はそんなことも考えられませんでした)、L家の方々にお誘いいただく社交の場にもあまり出ませんでした。L家の方々からは恐らく、
 「なんだか、明らかに我が家系に似つかわしくない日本人の娘が下宿しているみたいだなー。」
と思われていたと思います。

 3年前に私がマニラの以前の職場で働きはじめたとき、そのことを誰よりも喜んでくれたのはJおばさまでした。
 「あなたもSocial Lifeと本当のフィリピン政治を学ぶときが来たわね!」
って。私も、キャリア外交官の夫人であり「大使夫人」であったJおばさまのお話をきくのが楽しくて、実際、マニラに赴任してから家を決めるまでの半月間は、この「お屋敷」に住まわせていただいていました。
 その後3年間、私は、仕事でわからないこと―この「元大使」という方はどんな人なんですか?など―があるといつもJおばさまに電話をかけ、お屋敷に足を運んでいました。留学中はスラムに夢中だった私が、仕事柄、「有力政治家ファミリー」の顔と名前と家系図を覚えていくと、Jおばさまはその都度、微笑みながら、
 「まあ、よく勉強したわねー。うちからP地区に通っていたあなたとは思えないくらいだわ。でもまだスラムに行ってるんでしょ。…それでいいのよ。私はあんな舟に乗ったこともないし、P地区に行ったこともない。私の子どもたちはフィリピン育ちなのにタガログ語を話さないし、ジープニーに乗ったこともない。でも、いいのよ。私はあなたがジープニーや舟やスラムを基軸にしながら、マクロなフィリピン政治を学んでくれることを楽しみにしてるわよ!」
と言ってくださいました。数々のprotocolやカンリョーの制度をどう理解してよいかわからないとき、私はしばしば、おばさまを訪問しました。具体的な相談をしたことは一度もはありませんが、おばさまが語ってくださる、
 「あの政治家は昔はこうったのよ。」
 「あの官僚なんてね、昔は…。」
といったストーリーは、ものすごく参考になりました。
 このJおばさま、1月には98歳におなりですが、まったく「老い」を感じさせないほどお元気で、脳の回転が速く、記憶力は抜群。毎日インクワイラーを隅から隅まで読み、ANCとCNNをチェック。電話や来客も多く、現在もバリバリ働いていらっしゃいます。若い人の言葉にも耳を傾けるため、J叔母様自身はインターネットはおろかパソコンに触ることもなさらないのに、FacebookだのblogだのYouTubeだのといった言葉もよく知っておられます。英語でもタガログ語でも、洗練された美しい言葉をお使いになり、若者の言葉づかいは厳しく訂正されます。私の英語も、しょっちゅう直されます。kidsはchildrenに、housekeeperはhome engineerに…といった具合。気が抜けません。ファッションにも敏感で、TVキャスターの服装をどんどん批判。私が外出するときも、上から下までじっくり眺めた上で、
 「saging, そのワンピースならもっと大ぶりのネックレスがいいわよ。」
 「そのベージュのショールは地味すぎるわ。私の持っている緑のショールで素敵なのがあるから、貸してあげます。」
 「その服なら、昨日あなたが履いてたサンダルのほうがいいわよ, my dear?」
など、うちの母に負けるとも劣らない干渉ぶり。しかもまた、彼女のセンスは実際にかなり良いのです。(でも97歳ですよ!)

 昨年、明●書店の社長がマグサイサイ賞を受賞されてフィリピンにいらっしゃったときは、Jおばさまはマグサイサイ会館に面会に訪れ、M.L.大使の遺された日本占領下のフィリピンに関する手記(フィリピンでは自費出版済み)を日本語にして出版できないかと相談されていました。そういうことを、さらっとしてしまえる人なのです。私はそのときに通訳をさせていただき、マグサイサイ関係者からの視線にあたふたしていたのですが、彼女から見ればマグサイサイ元大統領なんて「お坊ちゃん」にすぎないようです。

 L.M.大使は、ケソンやオスメーニャやレクトやロハスやアキノやマカパガルといった「フィリピン・エリート」と密接な関係をもっておられました。Jおばさまと一緒に上院公聴会のTV中継集計を観ていると、「この人は誰々の親戚、あの人はあの家の分家…」と、Jおばさまのお話は尽きません。またL家は、あのマドリガル家や、マニラ首都圏開発長官のB.F.氏の妻(現マ●キナ市長)とも親戚関係にあります。つい最近、Jおばさまに見せていただいたとあるパーティーの写真のなかでは、Jおばさまが、B.F.長官、彼の政党の幹部としてよく知られる政治家(閣僚級)、そしてイメルダ・マルコス女史と一緒に写っていました。
 いまさらながらに、フィリピンの有力者たちは本当にそうした家族同士で結びつくのだなあ、と思います。
 いま、Jおばさまは、自由党のNoynoy AquinoとMar Roxasがお気に入りです。ともにおじいさまが故M.L.大使の旧友だったのですから当然なのかもしれません。逆に、Chiz EscuderoやManny Villarといった、新興の(localでは地盤があるかもしれませんがNationalでは新興)政治家はあまりお好きではないようで、厳しく批判されます。おばさま曰く、ラモスは許せるけれどもエストラダは絶対に許せず、アロヨはいろいろあってもMacapagal家だから「良い」そうです。血統がすべて!?…私にはおおよそ理解できませんが、おばさまの日々の交際ぶりを拝見していると、こういう人たちのごく小さなサークルが国を動かしてきたのかもしれない、と思います。中間層とか貧困層とか、「民意」とかいったものとはまったく別の世界で、大きなことが動いているのを感じます。彼らにとってはアロヨ政権が心地よいのでしょうし、逆にエストラダ政権は我慢がならないものだったのでしょう。
 私はNoynoy本人のことはとても支持できないけれど、「Noynoyを支持する改革派の人たち」を支持したいし、とても尊敬しています、でも一方で、仮にNoynoyが勝利しても、彼も結局は、こうしたFamilyのパペットになるだけではないかと、私は思います。そして皮肉なことに、彼がこうしたFamilyのパペットになる/なれる、ことは、長期的には、フィリピンのためになるのかもしれません。

 結局、政治を動かせるのは彼ら。
 
 …そういったことを考えていると、ますますもって、スラムの貧困層の小さな集合行為を描くことに何の意味があるのだろうか、と思ってしまい、なんだか絶望的な気分になります。私の博士論文ではもちろん、「それでもやっぱり、意味がある」、と言わないといけないわけですから…。

※※※
 19日の土曜日には、Jおばさまの長女のC.L.女史の新著、"Beneath the Banyan Tree"のBook Launchingが、イントラムルスの比中協会(Kaila-Angelo King Herritage Center)にて開催されます。Banyan Treeは、お屋敷の庭にある大木。L家の一代目が中国からフィリピンに渡ってきてビノンドで洗礼を受けてから90年を記念しての刊行で、基本的にはLichauco家のストーリーです。中国人と結婚し、香港に住んで35年になるL家四代目のC.L.女史が書き記した、比中関係90年の歴史。
 ご関心のあるかたはぜひ、個別にご連絡ください。
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by saging | 2009-09-18 03:21 | フィリピン(全般)
普通の人たちの「運動」
 今年7月、まだ日本にいたとき、K大学での「グロー●ル化とマージナリティ」という研究会で報告をさせていただきました。科研にもガクシンにもCOE/GCOEにも応募したことがなく大学事情にも疎い怠惰な私をチームに入れてくださったこの研究会の皆さまに、ただただ感謝です。
 来週、その研究会のチームリーダーの方が、マニラに来てくださいます。ずっとヨーロッパの都市貧困地域を研究対象にしてこられた方なので、マニラのスラムをどんなふうに見て、どんなことを語ってくださるか、とても楽しみです。

 7月の研究会で私が報告させていただいたときのテーマは、「フィ●ピン・タイの都市貧困問題と国際的ネットワーキング」。前半はフィリピン、タイの都市貧困地区の住民組織/住民運動の系譜と、日本とフィリピンの「NGOなるもの」の世界の分断について、後半は以下の2つの事例(いずれも博士論文では別の角度から取り上げているもの)について、お話させていただきました。

事例1
 パシグ川沿岸に1,500世帯が居住するマニラ市P地区。ラモス政権主導の河川美化運動の一環で行政から組織化を受けていた住民組織がありました。1998年、あるNGOが介入し、「河川沿い住民の移転反対」をスローガンに住民組織リーダーを説得し、住民組織を運動体に転換させます。このNGOは、1970年初頭にマニラに持ち込まれたアリンスキ―(シカゴの黒人居住区の公民権運動オーガナイザー)型Community Organizingの手法を現在も忠実に再現していることを自称する組織。しかし、このNGOがP地区に介入した真の理由は、いまは退職した当時のオーガナイザーによると、「アジア開発銀行が融資するパシグ川開発プロジェクトに付随する住民移転問題にスポットを当て、国際的な注目を集めることで、1990年代初頭に盛り上がったカラバルソン開発計画(日本の円借款)への大規模な国際キャンペーンのようなものを再び立ち上げるため」でした。そうとは知らぬ住民組織はこのNGOの介入のもと、国や地方自治体の行政機関と交渉し、次々と成果を獲得。しかし2004年、このNGOが住民組織に対し、世界社会フォーラムへの支持と2004年5月大統領選におけるアロヨ不支持を説得すると、住民組織は「そちらの政治的立場を押し付けるな」と主張して、NGOからあっさりと離反。独自に行政と交渉を続け、さっさと移転してしまいました。…住民組織をグローバルな運動に利用しようとした「アリンスキ―方式を標榜するフィリピンのNGO」と、NGOからもらうものだけもらってさっさと離反してしまった、したたかな住民組織のお話です。


事例2
 ホワイトバンド運動で有名になったG-C●Pのフィリピン支部の公式イベントには決まって登場する、ケソン市の巨大スラム、N地区の住民組織リーダーたち。スラムのなかでホワイトバンドが流行り、社会派のシンガーソングライターが地区内のバスケットボールコートでアクティビスト・ソングを歌うN地区の光景は一種独特ですが、彼らがG-●APに賛同する理由はいたって単純。彼らはエストラダ派なのです。2001年の政変後、バランガイ役員らから目の敵にされ、市議や市長との交渉もままならず、そんな中、エストラダ政権の崩壊後も彼らに接触を続けてきたとあるエストラダ派+左派の政治団体のリーダーの義理の娘が、G-C●P Philippinesの当時のフィリピン代表だったというわけです。2007年中間選挙でも、2008年バランガイ選挙でも、彼らはG-C●Pと組んで非常に戦略的に選挙キャンペーンを繰り広げ、G-C●P側は「貧困層の声」を雄弁に語ってくれる彼らを広報戦略上もたいへん重宝しており、まさにwin-winの関係。しかし住民組織の側は、貧困削減のためのグローバルなネットワークづくりやミレニアム開発目標にはたいして関心などいだいてはいないのです。


 結論は、「都市貧困地区の住民組織はとてもしたたかで、使えるものは何でも柔軟に使うので、グローバルな運動もすんなりと受け入れる。そのため、傍目にはそのことがあたかも『マニラの貧しいスラム住民がグローバルな運動に参加している/巻き込まれている』ように見えるが、実は、当事者の関心はまったく別のところにある。」ということです。…おもしろくもなんともない、というか、あたりまえの結論でした。

 なお、当日は時間の都合上、割愛しましたが、もうひとつ、こんな事例もあります。

 2004年1月の大火災で焼け野原になったマニラ市のスラム、B地区から、焼け出された直後に世界社会フォーラム@ムンバイに参加したおばちゃん。フツーの人。参加動機は「火事の直後で避難生活をしていたところ、NGOに声をかけられたから。家を空けても何も盗まれる心配もないし、夫は出稼ぎ中だし、まあいいかと思って。」
 …このおばちゃん、カメラも持ってないから、ムンバイの写真なんて一枚もない。でもムンバイのお話はたくさんしてくれます。運動の話や集会の話ではなくて、ムンバイで会ったインド人活動家たちがどれだけオモシロかったかという話と、韓国人がどれだけ熱かったかという話。

 
 …いわゆる「運動」の話をすると、ついつい余計なことまで話してしまって、話がどんどんミクロになって、明らかに「関係者」っぽくなってしまうので、報告の途中でちょっといたたまれなくなって、最後には、自分が日本のNGO出身であることも白状してしまいました。友人Wさんに、
「初めて公の場で自分の出自について話したねー。」
って揶揄されて、恥ずかしくて逃げ出したくなるくらいでした。

 同じく7月に東京で開催されたフィ●ピン研究会では、「自らの出自/立場をもとにしたことが明らかである研究」が、例年にも増して多い気がしました。フィリピン人留学生による移民研究を別としても、です。懇親会でも複数の方々とそのことを話題にしました。
 私の周りには、フィリピン研究者にかぎらず、「在日」であることを「前面に出しながら/隠しながら/使い分けながら」移民研究やマイノリティの研究を続ける人もいれば、実はクリスチャンであること/ほかの宗教の門徒であることを「前面に出しながら/隠しながら/使い分けながら」宗教研究を続ける人もいます。
それと同様に、NGOでインターンをしたとか、いまもNGOで活動中であるとか、バリバリの運動家であるとか、そういったアイデンティティ(運動は後天的なものだから厳密には「出自」とは言えないと思うので中途半端にアイデンティティという言葉を使います)を「前面に出しながら/隠しながら/使い分けながら」続ける人もいます。フィリピン研究にかぎって言えば、多くの人が大学でフィリピンに関心をもつ契機って、NGOや運動であることが驚くほど多いです。
 私はNGOやスラムを研究テーマにしていますが、国際協力大嫌い、do-gooder大嫌い、スタディツアー大嫌いです。NGOインターン経験を前面に出しているキラキラした日本の人とお話するのは苦手だし、パ●タスとかで活動する日本のNGOも大嫌いだし、「フィリピン民衆と連帯する」タイプの運動も嫌い。ワークキャンプなんて、嘘も休み休み言え!って思っているくらい嫌いです。何かの場面でそういったお仕事をされている方々とお会いすると、もちろんご挨拶はするものの、上の空で大混乱して、「できるだけ早く離れたい」と思っています。ゴミ捨て場を描いたあの映画も大嫌い。どうして皆、そんなスラムやらゴミ捨て場やらが好きなの!? どうしてそんなに人様の国の貧困を見たいの? なぜ、ゴミ捨て場で活動する某国のNGOに数万円の「ガイド料」を払ってまで、ゴミ捨て場を「見たい」と思うの? どうしてそんなに子供たちの写真を平気でパシャパシャ撮れるの? 信じられない。
 だから私は、自分がNGO出身だなどということは普段は口にしません。万が一、私も実はNGO出身だなどということが知れたら、「彼らと一緒にされてしまう」、あるいは「あのキラキラした人たちに同類だと思われてしまう」からです。それだけは何としても避けたいのです。「なぜフィリピンに関心を持ったのですか?」って訊かれると、「英語が通じると思ったから」などとごまかしておきます。本当は「12年前にJI●Aの高校生エッセイコンテストに入賞してフィリピンに研修旅行に連れていっていただいたときに取り壊し直後のスモーキーマウンテンの跡地を訪れ、住民移転に関するさまざまな意見やさまざまなNGO, さまざまな運動の存在を知って感激したから」なのですが、そんな熱くて不気味なこと、恥ずかしくて言えません。

 でも、自分が中高生のときにNGOで熱く熱く活動していたことが、現在の研究テーマに直接に結びついていることは確かです。
 私が論文を通じて伝えたいことのひとつは、運動とか活動とかいうのは、フツーの人の、フツーの生活の上で生まれるものだということ、それがあまりにフツーすぎるゆえに、フツーの人はわざわざそのことを言葉で説明なんてしない、周囲の人たちあるいは職業的運動家が勝手な言葉で解釈したり説明したりしているだけだということ、フツーの人たちはそれに気づいて困惑しながら次の道を考えているということ。

 私は、自分がテーマとするフィリピンの都市貧困者運動にパラレルであるはずの日本の野宿者運動やフリーター労組の活動のフロントラインに対しては、まったくコミットできないどころか、共感すらもできません。ちょうどその研究会の数日前に大好きな京都の 三月書房で買った、オルタの「居住革命」特集。ほとんどの記事が、週刊誌的なオモシロさはあるのだけれど、ぜんぜん頭に残らないくらいウスッペライ。熱すぎというか、力みすぎというか、運動運動しすぎというか。一言で言うと、現場の感覚から遠いんですよね。人間らしくない。石垣に立てこもるとか、家をもたずに泊まり歩くとか…、彼らはまさか、そういうのを「人間らしさ」って呼ぶのかしら? それって、単なるプチブルの奇行じゃない。そういう人たちが運動をつくるのかもしれないけれど、運動って、そんな奇抜な人たちのものじゃない。フツーの人がフツーにやるものだから、だから運動はおもしろいんです。
 
 何か変わったことしてやろう、とか、抵抗してやろう、とか、私たちのやり方で…とか、そういうのじゃない。自分たちのことを弱者弱者って強調する人たちはウットーシイ。ネットワークとか言われても、よくわからない。
7月のフィリピン研究会に参加した翌日、川崎に住む当時の活動家仲間(!)で現在は一児の母である友人に会って、思い出話をしていて、1996年(私が高校1年、彼女が大学1年だったとき)に私たちの団体が企画した3週間にわたる「飢餓撲滅のための日本縦断自転車ラリー」の公式イベント名が「ラブ&パッション」だったことを思い出しました。ラブって! パッションって! 本当に高校の文化祭のノリ。…でも、当時の私たちは大真面目で、そして、楽しかったからいいんです。ゴールの仙台で号泣したことも、良い思い出です。本当に楽しかっただけだなー、自分たちのためにやってただけだなー、と、思います。飢餓、ぜんぜん終わってないし。
私たち別に弱くないし、変わったことしたいわけじゃないけど、何か形にしたいものがあって、何か伝えたいこと、訴えたいことがあって、行動する。はじめは戦略も何もなくて。それがたまたま、運動っている形になっただけ。抵抗なんてしたくないから、誰が敵だとか味方だとか、そんなことに興味はない。目的を達成するためであれば右でも左でも前でも後でも、こちらのイベントの協賛してもらったり、あちらのイベントに顔を出したりしたいけれど、それは情報や人脈がほしいからであって、ベッタリの同盟関係に興味はない。

 10代の頃、大人たちに、「まだ10代なのに」「中学生/高校生なのに」と言われると、こう思いました。
問題関心が高くて感心だ、なんて言わないでほしい。好きでやってるんだから。
 「サッカー好きな子がサッカー部に入ってサッカーをやるように、音楽の好きな子がノリの合う友人たちとバンド組んでライブやるように、私たちはたまたまこの活動が好きで、この団体が心地よくて、活動やってるだけ。たまたま、この活動だっただけ。」
…メディアに取材を受けたとき、私はいつもそう答えていたのに、残念ながら誰もそれを理解してくれなくて、「世界を見つめる10代」とか書かれるのがとっても嫌でした。外部の人って、っていうか大人って、まるでわかってない。

 でも、それでメディアに露出できて、募金や署名が集まったり、イベントの告知ができたり、問い合わせがきたりするなら、それはそれでいいじゃん! というわけで、私も10代なりに、大人への、あるいは、メディアへの演出のしかたを考えました。(当時の私にとっては、外部の人=大人=メディア。そして、時は90年代半ば。インターネットなんてないのですよ。ケータイもないのです。コギャル世代だった私たち女子高生にとっても、メディアといえば、ラジオかTVでした。)
 私は大人泣かせなフレーズを挨拶やスピーチや作文に盛り込むことを覚え、私たちのことを「大人に利用されてる」と批判した人たちに対しては、心の中で思いました。
バーカ、利用されてるふりしてあげてるだけじゃん。利用されてるって言われるのを覚悟で、信頼してもらうために母体団体のパンフレット出してんるじゃない。子供だけでやってるって言ったら話すらきいてくれないくせに、母体団体の名前出したら「利用されてる」だって。

 NGOの会議などで、「この活動を始めて自分自身がとても成長しました」って言いながら、心の中は複雑でした。
 成長したっていっても…。人前でうまくしゃべれるようになった、とか、リーダートレーニングを受けてワークショップを開催できるようになった、とか、巧みにメンバーを勧誘できるようになった、とか、そういうのって、「この団体に洗脳された」の裏返しじゃない? 自分の言葉で話せなくなるのは嫌だ。この団体のリーダーたちと同じ話し方しかできなくなるのは嫌だ。それじゃ、まるでコピーじゃない? 私にしか言えないことを言いたいし、私にしかできないことをしたい。活動を通して確かに成長はしたけど、いまだに、人前でしゃべるのは好きじゃないし、話すより書くほうが好き。でも、書くのが得意なのはこの活動を始めたからでも母体団体のトレーニングのお蔭でもなくて、もともとの私の能力でしょ。
 このまま活動に染まりたくなんてないし、周りから褒められるのもうんざり。活動がなくても自分がちゃんとやっていけるのかどうか確認したい。活動が生きがいだなんていうつまらない人間じゃないことを確認したい。大学生になれば猫も杓子もボランティアだ国際協力だと夢中になるんだから、別のことをやってみたい。この狭い組織のなかで大人たちにちやほやされたくない。いつまでも遊びでボランティアなんかしていないで、もし本当に国際貢献したいと思ったときにプロとしてそれができるように、英語とか専門の勉強をしたい。
 結局、私はそう思って、高校卒業を目前にして団体をやめました。ものすごくジコチューです。

 …私がいま考えていることは、上の文章の「大人」「外部者」「母体団体」のところを「オーガナイザー」に、「子供」のところを「スラム住民」に変えただけ。

 私たちは皆、すごく卑しくていやらしくて、ジコチューなのだと思います。
 そして、私たちが、「21世紀を担う若者」でも「輝く10代」でもなんでもない、ジコチューで、自己正当化のカタマリで、向こう見ずで、傲慢で、身の程知らずで、でも周りは気になって、プライドは高いのに頭の悪い、フツーの高校生だった…のと同じように、スラムの人たちは、美しくもなければ弱くもない、バリバリの活動家でもなければ魂の抜けた人形でもない、フツーの人間なのだと、私は考えています。スラムの人の目が輝いているなんて、どこの誰が言ってるんだか知らないけれど、もう、真っ赤なウソですからね。
 ずるくて、したたかで、でも肝心なところ抜けていて、ジコチューで貪欲で、でもわりとお人好しなところもあって、慎重かと思ったら大胆だったり、平気で人をだましたり、かと思うと驚くほど他人に献身的だったり、よくわからないけれど、スラムの人間関係って、そんなことの繰り返し。スラムに限らず、どんな人間関係でもそうですね。
 そんなフツーの人間が、ふとしたはずみで「活動」だの「運動」だのに足を踏み入れてしまって、傍から見ると熱心に運動している、あるいは熱心に運動させられている、ように見えるのだけれど、実はぜんぜん違って、当事者の意識はわりと冷静で、フツーの生活の延長線上にたまたま運動があったにすぎないんですよ…って、そういう行為の積み重ねこそが「政治」だと思うのです。

 フィールドワークについても同じこと。マニラは便利で楽しいところだから、スラムのフィールドワークといったって、体力的には何らつらいことも何もないのですが(いざとなれば近くのショッピングモールに逃避すればいい)、運動を見ようとするとどうしても、当事者同士のどろどろの人間関係にお邪魔してさらに泥を上塗りするというご迷惑な行為を繰り返さなくてはならないわけで、そこでは私は「無色透明のフィールドワーカー」どころか、勝手に入ってきて当事者みたいにして座っているヘンな外国人で、事態をややこしくしているトラブルメーカーで、そして時には相当な「ヒール(悪者)」ですらあります。
 先の「報告」で挙げた1つ目の事例で住民組織がNGOから離反したとき、私はNGOか住民組織かどちらかにつくことを迫られ(中立だなんていっていられないのです)、私は住民組織側についたものですから、一部のNGO幹部が怒ってしまって、ある時期、私の職場に毎日のように、
「あそこの立ち退きも、あそこの道路拡張工事も日本のODAだろう。」
と電話をかけてきました。
 「そんなプロジェクト、どこにもないってば! 新規円借款は2003年から止まってるし!(←当時のことです)」
と言っても聞いてくれず、私は職場の秘書さんに、
 「あの人から電話かかってきたら留守って言ってね。」
と頼んでいました。すると次は、同内容のFAXが! さらには、
 「sagingは政府側の人間になってしまった。なんだあの子は!」
というメールを、日本の共通の知人(野宿者運動の活動家など)に流す始末。さすが運動家、そんなネガティブ・キャンペーンなど朝飯前です。私は「これをほうっておいたら名誉毀損だ」とばかりに彼らとたたかいました。当時、私と親しかった若手オーガナイザーらが、
 「住民組織に離反されたからって腹を立ててsagingを逆恨みする奴にアリンスキ―方式のCommunity Organizingを説く資格はない!」
と私に加勢してくれた結果、話はさらにややこしくなり、それだけが原因でないにせよ、若いオーガナイザーらは次々にそのNGOを辞職して独立してしまいました。
 昨年、私は当時やりあったNGO幹部の一人とやっと和解し、例の離反した住民組織も昨年、私の同席のもと、彼と和解しました。他のNGO幹部とはまだ和解していませんが、辞職して独立したオーガナイザーらとはいまでもずっと親友です。

 そして今回、来週フィリピンにいらっしゃる予定のK大学の研究チームの方をマニラのあちこちのスラムにご案内するにあたっての相談に応じてくれているのは、やりあって和解したNGO幹部と、あのとき私に加勢してくれた挙句にNGOを辞めてフリーランスになった若手オーガナイザー。バトルになった当時は大変でしたが、いまや、お互いのジコチューなところもいやらしいところも知っている関係なので、なんだか、話しているとほっとします。NGOと住民組織との齟齬をネタにしたきわどいジョークに笑ったり、お互いへの毒のない(でも本心からの)皮肉を聞き流したりする時間は、本当にいとおしいです。バトルの後だからこそ深まる人間関係。
 社会運動や政治の世界にかぎらない、そんな当たり前の人間関係。
 こういうことの積み重ねが運動をつくっているのだと、私は、確かに、そう感じます。
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by saging | 2009-09-18 01:51 | フィリピン研究
タイのVisa取得に向けて
 タイのNon-Immigrant Visaを取得するための必要書類を、バンコクでお世話になるチュラ●ンコン大学の研究機関から送っていただいたので、さっそく、ビザの申請をすることにしました。
 ビザ申請なんて面倒な仕事はできれば一度で済ませたいものなので、私はもちろん、在フィリピンタイ大使館に事前に連絡し、ビザ取得に必要とされる書類を確認しました。その中で言われたのが、4cm×6cmの顔写真。ずいぶん縦長な、と思いながら、下宿から徒歩1分の写真屋さんに行き、
 「4cm×6cmのID写真って可能ですか?」
と訊くと、
 「もちろん!」
とのお返事。心配になって、
 「4cm×6cmですよ? インチじゃなくてセンチメーターですよ?」
と確認すると、受付の女性はたいへん面倒そうに、
 「これでしょ。Don’t worry!!」
と、ID写真の実物見本と価格表を出してきてくれました。そこには「パスポートサイズ」、「運転免許所サイズ」と並んで、”Saudi Visa Size 4cm×6cm" の見本が。サウジアラビアのビザってそういうサイズなのね~。
 お願いすると、たちまち別の方向から、
 「Saudi Visaの方、奥の部屋へ~!!」
との大声が聞こえてきて、受付の女性は「あなたの番よ」と、奥のドアを指差します。並んでいる人たちは一斉に私に注目。恥ずかしすぎます。
 「奥の部屋」は広いのですが、なぜか中央に大きな鏡が置いてあり、一心不乱にお化粧する老若男女の姿が!! 皆さん、持ち込みのファンデーションや口紅やヘアジェルを駆使しながら、一斉に鏡に向かっています。唖然として辺りを見回すと、
 「準備ができたら、このボタンを押してください。スタッフがまいります。」
と書かれた張り紙が!! そう、この人たちは、写真を撮られるための「準備」をしていたのでした!! 鏡の前には、”for rent”と書かれたヘアブラシとベビーパウダー。(フィリピン人は、老いも若きも、しばしばファンデーション代わりに顔にベビーパウダーをはたきます。本当ですよ!!)
 私がボタンを押すと、ほどなくしてスタッフが入ってきました。
 「マム、ブレザーを選んでください。」
…そう、このスタジオでは、ブレザーを貸してくれるのでした。サイズも色もさまざまで、これさえあれば、下はTシャツでも「襟付きの服」を着て撮影できるというわけです。どうりで、ID写真を撮りに来たにしてはやたらカジュアルそうな服装の人たちがいると思っていましたよ…。でも、貸出ブレザーの色はなぜか、黄緑とかピンクとか、ど派手でした。大阪のカラオケ喫茶じゃないんだから…。私はすでに襟付きブラウスを着てきたのでお断りして、とにかく、撮っていただきました。スタッフはデジカメで5枚も撮った挙句、
 「どれがいいですか、選んでください。撮り直しも可能です。」
とのこと。一昔前のプリクラみたい。
 私がその部屋を出るとき、老若男女はまだ、一心不乱に鏡に向かっておられました。…ほんとに、フィリピン人ってナルシストです。
 
 さて、タイ大使館領事部。受付担当は英語の堪能そうな、フィリピン外務省にいそうなタイプのフィリピン人男女。よかった、とりあえずは英語もタガログ語も通じそう。私は安心し、ビバ・フィリピン人スタッフ!と心の中で叫びました。勝手なものです。
 番号札をもらって待つこと2時間。まあ、以前の在マニラ日本大使館のことを思えばはるかに良い環境ですし、私は持参した本を読んでいたのでぜんぜん飽きなかったのですが、そうでない人にとって、2時間の待ち時間は過酷だったようで、窓口に苦情を申し立てる人多数。
 「あんたたち、どうしてそんなにくだらない書類ばかり追加的に要求してくるの!? 前回はこれでいいって言ったじゃない! タイに幻滅だわ。シンガポールだってマレーシアだってこんなひどくなかったわよ!」
 「総領事に会わせなさい! 抗議してやる!!」
と英語で怒鳴る白人女性も何人か。逆にフィリピン人は、決して激昂せず、あくまでも
 “Opo, sir, opo…. Sir, sir…”
と素直なのですが、なんだかんだと窓口で15分くらい粘る人もいました。だから時間がかかるんですね…。
 やっと私の番がくると、万全に用意していたはずなのに、事前に確認していたのとはまったく別の、「タイからの書類にサインした人物のThai National IDのコピー」が必要だと言われました。
 「そういう重要なことは前回言ってよ!」
と心の中で思いましたが、そこは我慢します。しかも、窓口対応フィリピン人スタッフったら、NRCT(外国人がタイで研究をする際に許可を得なくてはならない政府機関)からのレターを指して、
 「これにサインした人物のIDのコピーが必要です。」
と言うのです。
 「これはNRCTの書類で、NRCTって国家機関ですよね。これにサインした人物って、NRCTの課長級でしょ? だったら、IDを提出するまでもないのでは? または、私の所属機関であるチュラロンコーン大学からの私のVisaをエンドースしてくださった大学機関のこの教授のIDということですか?」
と私が訊くと、
 「あ、そうそう。この教授のIDです。」
 しっかりしてくださいよ…。一応はビザ用語に慣れている私だからスムーズにいったものの、ビザ申請に慣れない留学生などだったら、このスタッフの一言に翻弄されてNRCTに連絡をして、「そんなの知らない」と言われて、右往左往して…と、たいへんな時間のロスになるはず。ひどすぎ!
 以前だったら私も白人女性と同様に罵声を浴びせたと思うのですが、きっといまこの瞬間にも、我が国の大使館(というか入国管理局)は特にフィリピン人に対しては同じような条件をつけているのでしょうし、フィリピンの入国管理局はもっともっともーっとひどいし、そもそも、役所ってそういうところ。最近、在フィリピン日本大使館のビザ発給不祥事も表ざたになったことだし、あまり他国ばかり責められません。
 「…ほかに必要なものはありますか?」
 「あとは、ビザ申請料2800ペソのみです。」
…前回問い合わせたときは「申請料は申請時ではなく受け取り時に必要」って言ったじゃない…。
 「わかりました…じゃ、また明日来ますね、Thank you, Sir!!」
と、窓口のフィリピン人職員に笑顔で言った私は、ヤクニン社会に侵されてしまった「事勿れ主義者」なのでしょうか。
 ちなみに、ビザ申請書には「3cm×4cmの顔写真を添付のこと」とありました。4cm×6cmじゃなかったの!? 窓口でそのことを尋ねても、
 “Ma’am, it’s ok!”
とのこと。It’s OKじゃなくてさ、どっちなの!? (フィリピン的文脈からは、おそらく、「4cm×6cmでOK!」という意味なのだと思います。)

 翌日、指定された書類を持って出直し。途中、ビザ申請料(2800ペソ)を下ろすためにATMに寄ると、機械に向かう私の後ろにぴったりはりついてくる中年の女性が。フィリピンでは、他人がATMを操作しているときに平気で後ろや横から画面を覗いている人に遭遇します。多くの場合は決して悪意があるわけではなく、単なる好奇心のようなので、まったく、困ってしまいます。
 「あのー、もうちょっと離れていただけますか?」
と、私は丁寧に言ったつもりだったのですが、彼女のお気に障ったらしく、
 「プライバシーを気にするなら窓口に行けばいいじゃない!」
そうきますか…。彼女の脳内の辞書にはプライバシーという語彙がちゃんとあるのですね。だったら覗かないでいただきたいのですが。彼女は、
 「バストス! バランガイに訴える!」
 ”Wala naman mangnanakaw dito!”
と言い捨て、ガードマンに言いつけにいきました。バストスはあなただって! Kahit walang mangnanakaw, may mangloloko pala katulad mo! って心の中で悪態をつきました。

 そしてタイ大使館に行くと、書類は受け取ってもらえたものの、
 「申請料は今日は要りません。領事が書類をチェックしてビザの種類を正式に決定してから、申請料の金額を電話で連絡しますので払いに来てください。」
とのこと。とりあえず受け取ってもらえたのだからほっとしていますが、もしかすると、申請料の支払いとビザの受け取りで、最低でもあと2回は足を運ばなくてはならないということ? 私の下宿はタイ大使館に比較的近いからいいけれど、ケソン市居住者だったらブチ切れそう。

 本当に毎度のことながらフィリピンのダメっぷりといい加減さには心底辟易…と言いながらも、きっとフィリピンとたいして変わらないであろうタイに勝手に期待し、
 「まあ、変わらないといったら、役所なんて所詮、日本も変わらないって!」
などと勝手なことを思いながら、フィリピンとタイの織りなすこのなまぬるい雰囲気のハーモニーを、ちょっと楽しんでいる私です。期間限定なのでしょうね、こういう心地よさは。
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by saging | 2009-09-16 20:08