Keso de Bola とは、 「表面は赤いのに中は黄色い」フィリピンのボール型チーズ。転じて日和見主義者。       かつてお世話になった、現地の言葉で「灯台」と呼ばれるマニラ湾岸のスラムを、ガラス越しに。
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アクティビスタ・ソングにみる日比の違いと共通点
 11月21日。ケソン市のライブハウス"Bi○tro 70s" で、"PATATAG"という80年代のバンドの復活ライブがあるとの情報が、数週間前から、活動家の友人たちの間を駆け巡っていました。
 PATATAG―84年に結成されて一世を風靡したグループだそうです。そんな時代ですから、YouTube動画なんてありません。どんな種類の音楽なのかと友人たちに聞いても、
 「いわゆるアクティビスタ・ソングのバンドだよ。すごいんだ!」
アクティビスタ・ソングっていうジャンルの音楽はないと思うんですけど…。でも、そこまで多くの友人が言うならさぞ大物バンドに違いないと思って、金曜日の晩、私はほぼ定時に職場を出て、”Bi○tro 70s”に向かいました。仕事用の服装を気にしながらTAFT-EDSAの強烈な人波をかきわけてMRTに乗り、クバオの道路の悪さと人混みに恐怖を感じ、MRTクバオ駅からジープ乗り場までの遠さに呆れ…。着く前にぐったりです。クバオの路上を歩くのは昨年のクリスマス以来。というか、MRTに乗るのも2ヶ月ぶり。さっぱり地に足の着かないマニラ暮らし。こんなことでいいのかしら、私。
 「今夜、入場料はCD込みで500ペソらしいよ。俺、やーめた。」
 「ドリンク代は私がおごるから一緒に行こうよ。」
 「いまどこ?」
 「クバオでMRTを降りてジープに乗るところ。」
 「ジープ? おまえ、金あるのか金がないのかどっちだよ!?」
 「前者に決まってるでしょ!」
 友人とそんな携帯メールを交わし、だんだん憂鬱になってきました。クバオの暗い道を歩くのが以前より怖いのは、以前より持っているから。もう、庶民の暮らしをしていないから。持っているものが多いほど、失うことが怖いのです。
開演時間の6時をとっくに過ぎて到着しましたが、主役のPATATAGのステージはまだ始まっておらず、前座の途中でした。入口でCDとチケットを買うとき、「よくよく考えてみたらフィリピン人って特に女性は必ず集団行動をするのに、ライブハウスに一人で来るってどうよ?」との思いが頭をかすめましたが、その瞬間、表で煙草を吸っていた友人と遭遇。立見客でいっぱいの暑い店内に入ると、さらに知った顔に出会いました。NGOワーカー、大学教授、見覚えのあるアーティストたち。仕事でお付き合いのある議員秘書にも会いました。ライブハウスで会うような柄じゃないのに、と、たぶん、お互いに驚きました。
 「僕も、うちのボスも、PATATAGのファンなんだ。It’s our generation!」
 彼の目線の先には、風格漂うあの上院議員が、アーティストらと肩を組んで、立ったままビールをラッパ飲みしていました。確かに、PATATAG全盛期に現役の学生だった世代です。
 
 舞台に出てきたPATATAGのメンバーを見て仰天。男女合わせて軽く15人はいます。プラス、3人のギタリスト。バンドというより、混声合唱団?
 友人たちが断片的に説明してくれたところによると、オリジナルのPATATAGも大人数で、Rody VeraやSusan Fernandez, Jess Santiagoなどをその都度「拡大メンバー」としてリクルートしていたとのこと。Rody Veraって演劇の人だと思っていたら、こんなところで歌っておられたんですね!
 舞台で歌っている人たちの1/3は第二世代、つまりかつてのメンバーの子供たちとか(結成24年ですから、子供も成人しています)。今回の復活ライブは、入院中のメンバーのために、かつてのPATATAGメンバーとその友人たち、そして「第二世代」が、当時のカセットをCD版にリメイクして売り出した記念とのこと。カセットなんて単語、久しぶりに聞きましたよ。
 
 さてこの混声合唱団"PATATAG"、見た目も伴奏も、実にシンプルなのに、きかせます。しびれます。ライブではギター伴奏だけでしたが、民族楽器を使った曲もあるそうです。でも、楽器は重要ではなさそう。とにかく声で勝負、歌詞で勝負、という感じ。ライブで特に良かったのは、"Wala nang Tao sa Sta.Filomena(サンタ・フィロミナにはもう誰もいない)"。 当時ラジオで一番リクエストが多かった曲だそうです。(ココから聴けます。いますぐクリック!)

 後半はビートのきいたアクティビスタ・ソング。どれも、肩を組んで歌えそうな曲ばかり。観衆は大喜びで口ずさみ、拳を挙げています。特に、いまでも左派系のデモでよく歌われている"Awit ng Tagumpay(勝利の歌)"は最高潮に盛り上がりました。これ、PATATAGの歌だったんですね。皆さまもぜひ、いますぐココをクリックして聴いて下さい。血が逆流すること請け合いです。
 「憲法改正(ここ数日フィリピンでホットな議論)に反対する歌を作ってくれ~!」
と絶叫する20代が、アンコールで「インターナショナル」をリクエストする40代に同調して
「アンコール! インターナショナール!」
と叫んでいます。20年以上のギャップを超えて一体化する人々。そして、この時代にまだインターナショナル。言葉がありません。

 80年代生まれの私はこういう場に出会うたびに、本当にかなわないな、と思います。私の10代といえば、小室ファミリーに魅せられ、NGOの会議のあとでカラオケに繰り出しても、皆で合唱して盛り上がる曲は、"Wow Wow Tonight"とか、Globeとか、trfとか。一応は「NGO活動家」だった私たちですら、カラオケでジョン・レノンの「イマジン」を歌うなんてのは「痛いオヤジ」の最たるものだと思っていて、拳を突き上げるなんて言葉は辞書にありませんでした。冷めすぎ? 闘争の歌で心を一つにしてきた人たちとは、根本的に、心の在り方がまったく違います。

 先日、ちょうど定年退職された「うりずん」さまから、とあるSNSサイトで、YouTubeで公開されている、森田童子の『みんな夢でありました』をご紹介いただきました。森田童子といえば、90年代後半に一世を風靡した(大袈裟?)「あの不倫ドラマ」の主題歌しか思い浮かびません(あの歌をわざとカラオケで歌って場を思いっきり盛り下げるのが、一時的に仲間内で流行っていました)が、実は学生闘争の歌を多く歌っているのだそうです。彼女自身も学生運動で傷を負った一人なのだとか。
 でも、そもそも日本には、魂を鼓舞するようなアクティビスタ・ソングってありませんよね。ひとたび日本の音楽が闘争を扱うと、それはひたすら「懐古」「敗北」「失望」の歌ばかりになる気がします。「長い髪を切って…」も「○○○白書をもう一度」も、相当な敗北っぷりです。『みんな夢でありました』に至っては、あの時代を生きた人たちは、痛すぎて聴けないのでは?
 フィリピンで国際会議やNGOの集まりに出席すると、しばしば、
 「各国のアクティビスタ・ソングを交換しよう!」
というノリになります。フィリピンと韓国は率先して歌うのですが、私はいつも困惑します。まさか「インターナショナル(日本語版)」歌うわけにもいかず、結局は「ヒロシマのある国で」を披露することになります。歌詞の説明もしやすいし、あれは辛うじてアクティビスタ・ソングと言えるのじゃないかと思って。

 フィリピンの人々は、1986年のエドサ革命、2001年のエドサⅡで、じゅうぶんに敗北を味わってきたはずなのに、我が日本のフォークソングに漂う敗北感がありません。ライブの中盤でJess Santiagoが
 「何度ピープル・パワーやっても僕らの負け」
と歌ったあと、PATATAGは、最近作ったという歌の中で
 「ピープル・パワー、4までやっても変わらない。いまこそ団結しなきゃ」
と歌い、観客は拳を突き上げて熱狂していました。えーっ! なぜそこで、そのノリなの? ピープル・パワーやっても変わらないんじゃないの? それでもまだ、未来を歌うの? なぜ敗北しないの?
 革命後も変わらない政治、変わらない庶民の生活。2005年以来ずっと続く、アロヨ政権に対する深刻な不信に対しても、何もできない活動家たち、増え続けるノンポリの学生たち。なのにフィリピンではアクティビスタ・ソングが支持され続け、日本では、アクティビスタ・ソングなんてさっぱり流行らないどころか、「敗北ソング」すら廃れてしまった。この違いは、どこから来るのでしょう。私はずっと考えています。

 答えは出ないままだけれど、ひとつ言えるのは、ライブハウスの中の群衆は、「大衆」とは違うということ。本当の貧困層はアクティビスタ・ソングなんて聴きません。"Para sa Masa"も"Awit ng Tagunpay"も歌いません。本当の大衆というのは、もっと破廉恥なダンス・ナンバーや、ラブソングを好むもの。そして、庶民はライブに500ペソも払いません。

 熱い詩、美しい声、熱狂する群衆。それでも何も起こらない。その点においては、日本とフィリピンはむしろ共通しているのかも知れません。それから、現実の政治を動かしている現実の政治家は、大衆を扇動するために詩や歌なんて使わないってことも。宮沢賢治の詩よりはるかに檄文調の歌がいまだに、こんなに支持されているフィリピンでも、政治家はそんなものを材料にはしない。ライブハウスにふらっと現れたあの上院議員でさえ、2007年選挙のキャンペーンに使っていたのは、流行のダンスナンバーやポップソング。
 フィリピンでも何も起こらないんだから、大丈夫、日本ではもっと、何も起こりませんよ、大衆行動なんて。そして、ファシズムなんてありえない。

 PATATAGの熱狂ライブは午後9時に終了し、観客たちは友人たちとビールを飲み、語り合ってその後の時間を過ごしました。私も、ライブ風景を撮影していたカメラマンやNGOの友人たちとおしゃべりを楽しみました。10月に開催されたCinemanila International Cinema Festival では、『実録・連合赤軍:あさま山荘への道程』(英語題:"United Red Army")が上映されていたそうです。いろいろありますね。
 我が家からケソン市が遠すぎることと、多くのライブは深夜に及ぶので翌日の仕事に差し支える、という理由で最近はとんと通っていませんでしたが、ライブハウスって、いいですね。また通おうと思います。
 …と思っていたら、「大統領夫君がペルーAPECに向かう機内で心臓発作に襲われ、大統領をはじめ政府代表団一行が関西国際空港に緊急着陸」というとんでもないニュースが入ってきて一気に仕事モードに引き戻され、泣く泣くライブハウスを出てタクシーを飛ばしました。幸い、心臓発作というのは誤報で、大統領一行は翌朝にはペルーに旅立ち、夫君もマニラに戻ってきて、様態も安定しているそうで、とりあえず、何よりです…。


案内1:来月にはJess Santiagoも15年ぶりに待望のアルバムを出すそうです!(詳細未定)

案内2:PATATAGは来年5月1日に結成25周年ライブを実施するそうです(詳細未定)。今回発売された復刻版CDの曲目はこちら。豪華3枚組です。

1. Nagbabagang Lupa (初出1985年)
Ako Mangunguma + Awit ng Tagumpay + Butil ng Palay + Dapat Bawiin + Grabeng Sakripisyo + Julian Makabayan + Nagbabagang Lupa + Paglaum Maangkon + Panawagan + Pinagba Ang Lawas + Wala Nang Tao sa Sta. Filomena + Tano

2. Batang Clark (初出1987年)
Ayaw Namin ng Nukleyar + Batang Clark + Fiesta + Kaibigan ng Mundo + Mamamayan ng Daigdig + Olongapo + Pagbabago + Pangamba + Batang Clark Reprise

3. Masdan O Yahweh (初出1990年)
Taghoy + Pinagpapala + Pasanin Mo Ang Krus + Veronika + Bakit Mo Ako Pinabayaan + Sundin Ang Loob Mo + Panalangin ni Totoy + Ang Paglikas + Matulog Pa Bunsong Mahal + Tanglaw
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by saging | 2008-11-22 17:18 | フィリピン(全般)
デジタルシネマ「コンチェルト(CONCERTO)」に描かれた日本兵
毎年7月に開催される、フィリピン最大の映画祭、Cinemalaya(シネマラヤ)。私は今年の開催期間中にちょうど日本に帰っており、すべての作品を見損ない、悔しい思いをしました。が、出展作品は今月から来月にかけて、首都圏の限られた映画館で数日間ずつ上映されるそう。楽しみです。Ben SuzukiさんのBlogには、いくつかの出展作品の紹介がありますので、ぜひご覧になってください。

今年の出展作品の中に、「コンチェルト(CONCERTO)」という作品がありました。監督のポール氏は、NGO界でも政界でも有名な、私の尊敬してやまない「ザ・政治活動家」、元農○改革長官のB.M.さんの息子さん。
 B.M.さんから映画の話は何度もきいており、「ぜひ観たい!」と言い続けていたところ、このたび、「B.M.と一緒にコンチェルトを観る会」にお招きをいただきました。B.M.さん、ポール監督、そしてB.M.さんのとても親しい仲間たち計20名くらいの、ゆったりした会合。場所は、B.M.さん御用達の、ケソン市内の某所。彼の誕生会も、新年会も、いつもそこで行われます。そこに集まる関係者は、たとえ初対面でもなぜか意気投合してしまうような、とっても気持ちのいい人たち。NGOワーカー、政治活動家、ビジネスマン、議員秘書、コラムニスト、大学関係者、そして、私のような正体不明の外国人…と、構成はさまざまですが、誰と話しても共通項が見つかって、政治の話や活動の話、音楽イベントの話などでどんどん盛り上がって、作り物じゃなく笑顔になれる、すごく心地の良いインナーサークルなのです。B.M.さんの周りには、そういう人ばかりが集まるみたい。彼はとても政治的なので、それこそ、人によってさまざまな評価があるでしょうが、私はB.M.さんのことが大好きです。私がいまの職場で働く前からずっとお世話になっていて、いまの職場ではそれなりに仕事上のお付き合いもさせていただいていますが、こうしたオケーションのたび、いまだに、上司抜き、仕事抜きでプライベートで声をかけていただいて、本当に嬉しく思っています。
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 さて、映画の舞台は1944年。場所は、戦前、アバカ農園で勤務するために日本人が多く移住したことで有名なダバオです。
 デ・ラ・トーレ家は、ダバオ市内に家を構える、裕福な知的階級の一家でした。かつてコモンウェルス期のフィリピン国軍司令官であった父リカルドと母フリアの間に生まれたホセリトは、戦前に入植した日本人と親しかったため、片言の日本語を話します。ホセリトの娘のニーニャとマリアは、ピアノの大好きな姉妹でした。
 ダバオ市内への米軍からの空爆が激しくなり、一家は田舎に移り住みます。ホセリトは、たまたま近くに駐留していた日本兵に気に入られ、ときには通訳も務めるようになります。子供たちは、日本兵に自家製のお菓子(カモテ・キュー)を売って生計の足しにしています。デ・ラ・トーレ家に親しみを感じて立ち寄る日本兵に、娘たちは夕食を提供してもてなしますが、なぜ日本兵なんかに食わせてやらなくてはならないのか…と、内心では強い不満を抱いています。特に、ゲリラの嫌疑で憲兵隊に拷問された経験をもつ父リカルドは、日本兵に強い憎悪を抱いていました。また、親戚の一部はいまだに抗日ゲリラとして活動をしていました。ホセリトの叔父は「米軍の爆撃中に笑った」という理不尽な理由で日本兵に拘束されました。
 他方で日本兵は、母親の足の怪我を診たり、一家にピアノを寄贈したりして、一家との交流を深めていきます。
 戦況の悪化に伴い、日本兵たちはサンボアンガの部隊に合流することになりました。その前夜、一家は日本兵のために、家の庭先で、ささやかな送別演奏会を開きます。ピアノに合わせて古いタガログの歌を歌い、コンチェルト(協奏曲)を奏でる姉妹と、「月光ソナタ」で答える日本兵。そのバックミュージックを背に、かつて自分を苦しめた日本兵とチェスをする父親。とても美しいシーンです。

 フィリピンに生活していると、確かに、さまざまな場面で、
 「日本兵はしょっちゅう我が家に遊びに来てくれて、本当に仲良くなったんだ。」
 「私の知る日本兵は、真面目で礼儀正しくて、いろんな歌を教えてくれた。」
 「若い日本兵が我が家に出入りして、嬉しそうに食事をしていった。」
という声をしばしば耳にします。こうした「鬼畜ではない日本兵像」は、『炎熱商人』をはじめとした日本の文学には多く描かれてきましたが、65年の時が経っても、アジアの国の側の芸術作品に描かれることは、非常に稀だったと思います。 Ben Suzukiさんはそれを「勇気」と表現されています。
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 しかし、当のポール監督は気負った風もなく、飄飄としています。彼の本職はダンサー。バレエもやるそうです。お父さんと違って、政治色も薄そう。実はこの映画、ポール監督のお母さま(つまり、B.M.さんの奥さま)が自分の両親の戦争体験について書いたメモワール、”Diary of the War: WW II Memoirs of Lt. Col. Anastacio Campo (by Maria Virginia Yap Morales, ATENEO DE MANILA PRESS, 2006.)” を基にしているのだそうです。ポールはそれに触発され、自分の母方の祖父母の体験を映画にしたいとのきわめて個人的な思いから、今回の映画作成に踏み切ったのだそうです。だから、モチーフはフィリピン人家族。敵と味方の間に立って苦しむ家族。彼らが日本兵のために送別演奏会を催したのも、事実なのだそうです。

 物語は決して、単なる「住民と日本兵のあたたかい交流のおはなし」だけ終わってはいません。1時間半を通して、張り詰めた空気が作品全体を覆っています。幸せなはずの「送別演奏会」の描写の間すらも、ピアノの音の高まりと共に何かが起こりそうで、そう、何かが幸せをぶちこわしそうで、つねに不穏で、こんな時間は長くは続かないだろうと思わされる、まさに観る者をどんどん不安にさせる、絶妙のカメラワーク。私の印象にすぎないのかもしれませんが、フィリピン人の顔も日本兵の顔も、最後まで完全に明るいとは言えず、すべての人が重苦しい何かをまとっています。それが、ものすごいリアリティでした。暴力的なシーンはわずかしか出てきませんが、たとえまったく暴力シーンがなかったとしても、このテーマではハッピーになりようがありません。日本兵に痛めつけられたフィリピン人の家族と、祖国の家族を思いながら任務につく日本兵と。そもそも、心温まるストーリーなんかが生まれるはずもないんです。そんな現実もちゃんとちりばめているところが良かったです。

 映画シロウトの私が敢えて辛口コメントを付け加えさせていただくとすれば、笑いも幸せも含めながらも、全体を通しての重苦しさは、いかにもありそうなフィリピンの古典的シリアス・ムービーに成り下がっている点が残念(こういう構成って、フィリピン映画ではよくあります)。それから、当たり前ですが出演者が素人ってことがまるわかりです。また、デジタルシネマなのに、ピアノの音を強調しすぎているのが気になります。場面設定からして、どう考えても、ろくに調律も手入れもされていないピアノだということはわかるのですが、だからといって、あそこまで大音響で耳障りなピアノの音を際立たせる必要があるのでしょうか? それから、仮にもピアノを弾く者しては、月光ソナタはもう少しゆっくり奏でていただきたいものです。あと、ピアノの場面を際立たせたいなら他の場面を無声にしてほしいです。ほぼすべてのシーンに、ことごとくバックミュージックが入りすぎ。せっかく田舎でロケをしているなら、川の音とか虫の声とか、もっと自然の音をバックグラウンドにすればいいのに。

 と、いろいろと言いたいことはありますが、とても良かったです。
 B.M.氏はこの作品を日本で広めてほしい、という意志をお持ちなのですが、肝心のポール監督からは、いまいち、日本人からの反応を期待するといった熱意が感じられないので(彼、そこはかとなく貴族的な雰囲気の漂うアーティストですからね…)、私が宣伝役を買って出ます。
 とりあえず、B.M.氏がかつて代表を務められたフィリピンの農村開発NGOのパートナーである日本の国際協力NGO、「草の根援助運動」さまに近日中にDVDをお送りしますので、関係者の皆様には、まずは内輪ででも、ぜひ上映会を企画していただければと思います。ポール監督曰く「とりあえずお金はいいよ」だそうですし、政治的意図も個人的な利害も入っていない、アーティストとしてのポール監督の作品として、チャリティとか支援とかではなく、日比関係を考える手掛かりとして、純粋に観ていただければと思います。在フィリピンの日系メディアの方にも観ていただきたいし。
 それ以外にも、ご関心のある方、日本で上映会を企画してやろう、と思っていただける方がいらっしゃったら、ぜひ私まで個別にお知らせください。DVDをあまり過剰に焼き増しするのはまずいので、鑑賞をご希望の方すべてにDVDをお送りすることはできませんが、少なくともマニラ在住の皆様は、我が家に来ていただければご覧いただけますから、いつでもどうぞ。
 作品、監督紹介はこちら
 「コンチェルト」のblogはこちら

 最後に、トリビアをいくつか。

トリビア1:作品に登場する小さな男の子は監督の甥っ子(=B.M.さんの孫)。

トリビア2:作品に登場する日本人役の日本人の方々は、監督がインターネットや知人を介して集めた在フィリピン日本人の方々で、多くが初演技だそうです。私の存じ上げている方も数名出ておられました。

トリビア3:作品の舞台はダバオですが、実は予算の関係上、実際のロケ地はサンバレス。

トリビア4:この映画はもっぱら、ポール監督の母方の祖父母の実話をモチーフとしていますが、1943年に中部ルソンで生まれたB.M.さんも、日本人の軍人に洗礼に立会われ、「ヒデオ」という洗礼名をもらったそうです。
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by saging | 2008-11-13 20:15 | フィリピン(全般)
Congratulation, OBAMA!
先ほど、外国人旅行者の多いマニラの下町を歩いていたら、フィリピン人のオッちゃんが、観光客と見られる黒人の男性に一方的にハイタッチしながら、
"Congratulation, OBAMA! Yeeah!!"
と叫んでいる光景を目撃してしまいました。
 路上生活者も、露天商も、行き交う人も大笑い。
 どこからツッコんでいいものやら。
 その直後にタクシーに乗ると、ドライバーはラジオを聴きながら興奮して、
 「オバマが勝って良かった。マケインは年をとりすぎだよ。」
と話し始め、こちらがきいてもいないのに、若い政治家の方が良い理由を力説。さらに、
 「アメリカって、開票から数時間で結果がわかるんだな。すげーよなぁ!」
と感激。アメリカに限らないと思いますよ。あの人口の多いインドでも2日くらいで結果がわかるというし。大統領選の結果が判明するまでに1ヶ月半もかかるのはフィリピンくらいよ。

 9月のSocial Weather Stationの世論調査では、米国大統領選について「どちらが勝っても関係ない」との回答が76%でしたが、別に関心がなくても、選挙と聞くと燃えるんでしょうか。他人の国の選挙まで、大いに楽しんでしまうフィリピン人。
 …それを見て喜ぶ第三国の外国人の私も、かなりの選挙好きですが。私の職場にはもう一人、選挙好きがいて、彼はなんと、日本の選挙速報を録画してまで見るそうです。私も選挙速報番組はたまらく好きですが、録画してまで見ようとは思いません…。

 ここ数日は、職場でCNNをはじめとしたアメリカのニュース番組をケーブルでつけっぱなしにして、チャンネルをころころ変えながら、演説合戦や選挙関連ニュースをたっぷり楽しみました。歌あり踊りあり、お祭りと化している演説会場。中野聡先生の本にあるように、フィリピンの選挙って、完全に、アメリカの選挙のコピーなんだなぁと思います。
 それにしても、候補者って、演説がとてもうまいですね。すごく洗練されている感じ。いつかアメリカの大統領選の演説会を聞きに行くことが、私の夢のひとつです。演説会の整理券を入手するのも大変だそうですが、いつかぜひ、ナマで見たいです。
 日本で選挙カーに乗るのも私の夢のひとつです。もっとも、こちらのほうは、そんなに苦労せずに実現可能かもしれません。
 選挙大好き!
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by saging | 2008-11-05 18:40 | フィリピン(全般)
日常の小さなところから その2
 前回の投稿で、またしても暗~いことを書いてしまいました。気分の浮き沈みが激しいとはいえ、あれではまるで周りに心配してくださいって言っているようなものです。恥ずかしいです。ごめんなさい。今週も元気にすごしたいと思います。
 反省しているので、今日は、日常の楽しみを見つけて書きとめてみることにします。

 まず、マテ壷(マテロ)とマテ茶用ストロー(ボンビージャ)を紹介させてください。マテ茶というのは、南米で飲まれているお茶です(伝聞です。私は南米に行ったことがありません)。8月にボ○カイ島に遊びに行った際にお世話になったダイブショップのちぃさんがこのマテ茶のファンで、毎日、不思議な容器に金属のパイプのようなものを挿してお茶を飲んでおられて、私はものすごーく気になっていたのです。
 私はここ1年くらい、カフェインは怖い、との思い込みで、コーヒーはもちろん、紅茶も緑茶もほとんど飲まないのですが、インターネットで「マテ茶」を検索してみたら、マテ茶にはカフェインが少ないとのこと。事実はともかく、私にとっては、とにかく、思い込みがすべてなのです。
 ちぃさんに茶葉を譲っていただき、自宅で淹れてみると、淡白で、とてもおいしいのです。サラバット(生姜の粉末)を加えたり、蜂蜜を入れたり、ラテにしたり…と、ひととおりの飲み方を試しましたが、結局、そのまま冷やして飲むのが一番という結論に至り、以降、自宅でも職場でも、毎日作っては冷まして冷蔵庫にストックして、1日に1.5リットルは飲んでいます。マテ茶には、痩せるとか体調が良くなるとかビタミン豊富だとか、さまざまな効用もあるそうなので、そちらも楽しみです。
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 マテ茶を日常的に飲むようになると、いよいよ、マテ茶容器が気になってきました。特に、ちぃさんが使っておられた、先が茶漉しになっているマテ茶専用の金属製ストロー「ボンビージャ」がほしくてたまらず、在フィリピン・アルゼンチン大使館にまで電話をかけて(といっても自分で電話したわけではなく、スペイン語が堪能で南米勤務経験のある方に電話してもらいました)、やっとのことで、マテ壷とボンビージャをセットで入手。
 マテ壷は瓢箪でできていて、外見はとても魅力的なのですが、1日に1.5リットルも飲む私には小さすぎて、数回しか使わないまま、部屋のインテリアになっています。お客さんが来たら使うことにしましょう。
 ボンビージャのほうは、想像を超えて最高でした。シャワーヘッドに似た茶漉しが先端についていて、茶殻が一切入ってこないんです! Wow! これさえあれば、普通の茶漉しなんて不要。ものすごく便利ですよ、これ! なぜ、全世界で普及しないのだろう、と不思議に思います。熱伝導が良く、お茶の温度がダイレクトにストローに伝わってくるので、うっかり熱すぎるお茶を飲んでしまうこともありません。それに、このキセルのような魅惑的な銀色の管を口につけるだけで、なんとなく、アブナイものを吸っているような、素敵な気分になれます(私だけかもしれませんが)。
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 マテ壷は要らないから、自宅用と職場用に、ボンビージャを2つ買えばよかった。そう思いながら、私は毎日、ボンビージャを持ち歩いています。1年前にMakikoさんにいただいた、ミンダナオ南部の伝統織物「ティナラック」のペンケースに入れて。写真の通り、わりと良い感じでおさまっていると思います。マイ箸ならぬ、マイストロー。

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 名刺入れ。フィリピンに赴任する直前に、畏友Wataruさんと彼のガールフレンドから「お餞別」としていただいたもの。それまでは、母校の修了式でもらった校章入りのアルミ製のものを使っていたのですが、すぐに取り替えました。シンプルで頑丈で、ずっと重宝しています。2年半使って、ようやく、皮がいい感じに変色してきました。名刺入れって仕事の基本ですし、とかく人目に付きますから、自分の気に入ったものを持っていると、それだけで嬉しくなります。

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 Sound Heartという名前の鈴。先週、マニラに出張しておられたさなさんが下さった「癒し系グッズ」です。癒し系グッズなんてフィリピンにはないし、もし日本で見かけても自分では絶対に買わないから、とても嬉しかったです。一見、ごろーんとした銀色のかたまりなのですが、揺らすと、信じられないほど繊細な音をたてるのです。鈴というより、まるで風鈴のような音。職場のデスクにおいて、ときどき転がして鳴らしています。音が小さいから周りに迷惑をかけることもありません。ちょっとしたペイパーウェイトにもなります。そして何よりも、これを見るたびに、幼いご長男を置いての初の海外出張というとても大切な時期に、私のためにわざわざこれを買ってマニラに持って来てくださったさなさんの心の豊かさと気遣いを感じて、とても嬉しくなるのです。
 
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 E.T.のキーホルダー。前回の投稿で書いた、日本で難病に倒れた研修生のRがまだ元気に南大阪で働いていた頃、USJで買ってきてくれたもの。安い研修手当てでUSJにいけるはずはありませんから、入場料はきっと、誰かにおごってもらったのでしょう。そんななかでわざわざ、雇われ通訳にすぎない私にお土産を買ってきてくれたことが、当時からとても嬉しくて、いまでも大切に使っています。あの研修生たち、在日フィリピン人労働者、そして、カワチの工場街のカチョーさんやハンチョーさん、ゲンバのオッちゃんたちのことを忘れないように。

 以上、使うたびにすこし楽しくなれる日用品を挙げてみました。品物への愛着って、つまるところ、品物そのものじゃなくて、その背後にあるストーリーや、それをくれた人との繋がりに依拠しているのかもしれません。
モノに囲まれる生活をしているからこそ、小さな日用品を大切にしたい。そして、すばらしい人たちに囲まれている幸せを忘れないように暮らしていきたいものです。
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by saging | 2008-11-03 20:46 | その他
日常の小さなところから
 仕事にも勉強にもやる気が沸かず、ただ、最低限やるべきことをこなしていくだけの日々が続いています。本も読みたくないし、新聞も仕事以外ではまったく読みたくない。論文なんてもってのほか。テレビもDVDも見たくないし、音楽もききたくないし、メールもしたくない。休日は食事もしたくない。このまま枯れ果てて、消えてしまいたい。以前は週末ごとに通っていたキアポにも、ずっと行っていません。
 それでも、嫌々ながらもなんとか必要に迫られて日常生活を営んでいる私は、まだ「健康」あるいは「正常」な側にいるのでしょうか。それさえもできなくなったら、いわゆる本当の「欝」っていうものがやってくるのでしょうか。いまが「健康」だとしたら、「欝」であることって、どれほどの恐怖なのでしょう。
 心を病んでいる人たちは私の身近にもとても多くて、知人が「欝」で入院したとか休職したとかいう話をきくたびに、気が気でなりません。私もいつかはそうなってしまうんじゃないか、自分もこのままダメになってしまうのではないか、と、すごく不安になります。
仕事も研究も、とりあえず、しばらく休みたい。でも、休んだら本当にダメになってしまう。立ち止まったら気が狂ってしまう。
 アルコールと薬で意識を飛ばして、ただ眠ってしまいたい。このまま目覚められなくてもいい。そんなことを考えながらも、そんな無茶をする勇気はなくて、ちゃんと朝が来て、やっとの思いで出勤して、夜が来て家に帰って、眠って、悪い夢を見て、また朝が来る。月に数回、世界が回って、とにかく怖くて、どうしても定時に出勤できない朝があるけれど、直行直帰の多い我が職場では特に目立つことも咎められることもなく、数時間遅れででもなんとか出勤して、平静を装って仕事をして、家に帰って、眠って、絶望的にひどい夢を見て、また朝が来て、その繰り返し。

 この20日間ほど、大学院の後輩が我が家に滞在していました。後輩といっても、私は大学院を物理的にずっと離れているので、指導教授が同じ、というだけです。フィリピンの街頭示威行動をテーマに修士論文を書くために1月までフィリピンに滞在する、というメールを受けたので、
 「じゃあ、とりあえず下宿先が決まるまでは我が家に泊まってください。」
って軽く受け入れてしまったのですが、マニラで会ってよくよくきいてみると、この期に及んで、修士論文を一文字も書いていないとのこと。就職活動が長引いたから、って本人は言いますが、それって、卒論レベルの言い訳では?
 フィリピンは初めてという彼女。英語はかなり危ういし、うちの冷蔵庫の食糧を断りなしに食べたり、皮をむいたバナナをそのまま(ラップもタッパーもなしに)冷凍庫に入れたり、自分の濡れた洗濯物を私の乾いた洗濯物の上から干したり、ATMカードが使えないからと預金通帳を普通郵便で日本の親に送ったり(親に日本で現金を引き出してフィリピンに送ってもらうつもりだったらしいのです)…と、かなりぶっ飛んだ行動をしでかしてくれるので、修士論文以前に日常生活のレベルで、私は毎日、はらはらしていました。ひとこと相談してくれればいいものを・・・って私が指摘しても、特に何とも感じていないようなのが大問題。自分のサバイバル能力を過信し、ジープニーに乗ってみたいとか屋台で食事をしたいとか、奇妙な冒険心を燃やしているようなので、ものすごく心配。本人に悪気はなく、言ってみればとてもピュアでイノセント。それだけに、放っておくといつ犯罪に遭うかもわからない危うさがあります。要するに世間知らずというか、常識がないというか。察してくれといっても無理な話なので、ひとつひとつ言葉で説明しなくてはならないのですが、話をするだけでこちらが疲れきってしまう。
 私は共同生活が苦手ではなく、むしろ一人暮らしのほうが苦手なので、現在のマニラの住居には、年間の半分以上は他人をお泊めしています。不都合を感じることは、滅多にありません。台所を他人に使われたくないとか、お風呂上りに他人と会いたくないとか、そういったこだわりも私にはありません。ただ、衛生観念(掃除やゴミ処理の仕方、水周りや冷蔵庫内の衛生感覚)が少しでも自分と異なると、途端に、ものすごくストレスを感じます。特にフィリピンでは、ゴミはすぐに外に出さないと、少しでも掃除を怠るとすぐに、私の大嫌いな「せせらぎ(イニシャルGの黒いアイツ。伊坂ファンの皆さんごめんなさい)」がやってきますから!
 以前にも、ある人(そのときは男性)をお泊めしたとき、彼がゴミをすぐに捨ててくれないことに対して、私は同種のストレスを感じました。これも勉強。誰かと結婚あるいは同棲する前に自分のストレスの傾向がわかっだけ、良かったと言うべきなのかもしれません。

 高校生のときに読んだ(あるNGOの人に読まされた)自己啓発セミナーの本に、「箸の置き方」っていうストーリーがありました。洗ったあとの箸を洗い籠に置く際に、どちらを下にするのかを巡って嫁と姑の意見が対立するのですが、二人は決してそれを言葉に出さず、互いの見ていないところで箸を逆さまにする行為を繰り返し、それが発端で、相手の行動のすべてが嫌になってしまったというお話。自己啓発セミナーとは一生関わりたくないけれど、そのストーリーは的を得ていると思います。日常の小さなことを話し合って解決しておかないと、不満がどんどん大きくなって、相手のすべてを否定するようになるのですよね。そしてだんだん、何がストレスの元凶だったかすらわからなくなるのです。私も最近、いろいろなことに見ない振りをしすぎて、仕事が問題なのか、職場の人間関係が問題なのか、博士論文が問題なのか、指導教授とのコミュニケーションが問題なのか、恋愛が問題なのか、はたまた、その後輩との同居生活が問題なのか、もう、何がなんだかわからなくなっていました。なんでもむやみに積み重ねてしまうと、問題の本質が見えなくなってしまうんです。
 仕事も研究も、彼女を自宅に泊めることも、すべて、自分が選んで引き受けたことなのに。自分の選択には自分で責任をとって、そのなかで前向きに生きていくしかないのに。
 
でもそれって、言うは易し、産むは難し、の典型です。
 私はついに彼女を持て余し、昨日から、フィリピン大学に勤務する知人に懇願し、空き部屋に彼女を預かっていただくことにしました。どうか、できるだけ先方にご迷惑をかけないで、無茶な冒険心を出さず、日の高いうちにおとなしくアテネオの図書館にでも通って、内容空っぽでもいいから無難に論文を書いて、無事に日本に帰って下さい。

 彼女が我が家に滞在していた20日間、日常生活にことごとく疲れた私にさらに追い討ちをかけたのは、彼女が修士論文をただの一文字も書いておらず、テーマすらきちんと説明できないということ。もう11月ですよ。そんな院生には修士論文を書く資格なんてない。それなのに、彼女の指導教授(=私の指導教授)はこうおっしゃるのです。
 「修士論文といっても、いろんなレベルがありますから。」
 修士号のレベルって、そんなに落ちているんですか? 私が日本の大学院事情に疎いだけ? こんなので修士号がもらえるなら、修士号なんて英検3級くらいの価値しかないじゃない。先生方がおっしゃるように、この時代は本当に、博士号を取らないと意味がないんだ。
 いえ、博士号をとっても意味がないのかもしれないけど。
 どうしようもなくなって、また深夜にWataruさんに国際電話をかけて、
 「私、もう、博士論文なんて書けないんじゃないかって思うのよね。」
って言ったら、
 「そう思わない人なんていないと思うよ。」
って、すごーく冷静に返されました。そりゃそうです。私はどうかしています。他人を批判する前に、私自身に常識が欠けすぎ。そして、私がいちばん、他人に迷惑をかけています。

 このままでは、どんどん落ちてしまう。
 本当に心を病んでしまった人は、身に付けるものとか口に入れるものに頓着しなくなるとききました。それはまずい。どう考えてもまずい。だから、何もしたくないけれど、平日も休日も、できるだけ人に会うようにはしています。職場の人との食事にも、社交の場にも、できるだけ出るようにしています。人と会うことは刺激になるし、誰かと会う約束を作れば、少なくともそのために身なりを整えたり、きれいな服を着たり、お会いする相手に迷惑をかけないようにあれこれ考えたり、まともな食事を摂ったり…という可能性が生まれるから。たとえ、それによってより疲弊してしまったとしても。

 今日は、美容室で髪を切ってもらって、スキンケア・セットを持って韓国人の経営するお風呂屋さんに行ってきました。最近では、美容室の閉鎖的な空気も、ドライヤーの風すらも怖くて敬遠しがちなのですが、今日は、なんとか大丈夫でした。次回は平気でドライヤーを受けるか、もしくは思い切って「ドライヤーを使わないで下さい」って言えるようになりたいです。
 その後、近所にできたパーラーで100ペソ(約200円)のフットスパをお願いして、陽気な(陽気すぎるのが玉に瑕)フィリピン人に、カラオケを歌われながら足の裏をキレイにしてもらって、やっと、少し、気力が蘇ってきました。新しい靴もおろしました。
そういう簡単なところから自分を変えていくって、案外、一番大切なのかもしれません。不満というのが、ほんの小さなところから生まれて少しずつ溜まっていくものだとしたら、それを解決する手段もまた、小さなところから見つけていけるはずですから。

 いろんな人に迷惑をかけて続けているぶんだけ、来週は、少しは、他人と社会にやさしくなれますように。
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by saging | 2008-11-02 21:03 | フィリピン研究