Keso de Bola とは、 「表面は赤いのに中は黄色い」フィリピンのボール型チーズ。転じて日和見主義者。       かつてお世話になった、現地の言葉で「灯台」と呼ばれるマニラ湾岸のスラムを、ガラス越しに。
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フィリピン人のイメージ―ANC「遙かなる空の下で」から
 先日の土曜日の夕方、ABS-CBN社のニュースチャンネル(ANC)で、Far Distance Beneath the Sky(遙かなる空の下で)という番組を観ました。関西のフィリピン研究会のMLで知ったのですが、この番組は、南大阪のフィリピン人コミュニティの代表的存在であるM.Hさんが代表となって立ち上げた"Hope of Asia"の一部で、日本で頑張っているフィリピン人を通して、日本とはどんな国なのかをフィリピンにいる人々に伝える主旨だそうです。

 前回は第1話。金沢のボクシングジムでワールド・チャンピオンを目指すバンタム級のボクサー、ロリー松下さんとその友人ボクサーのストーリー。ストーリーの合間に、金沢の名所の紹介があったり、彼らの拠点とする「茶屋町」という地名の「茶屋」の由来説明があったりして、なかなか粋な30分番組でした。フィリピンではけっこうウケるのでは?
 さて彼ら、どう見ても日本語は得意そうではない、バリバリのマッチョ・フィリピン人なのですが、ことあるごとに、
 「夢は、ワールドチャンピオンになってフィリピンの貧しい家族を助けること。」
とTVの前で語るのです。そして、日本人のスポンサーやトレイナーは、しんみりしながら、そして半分涙目になりながら、
 「フィリピン人は、日本人の若い子が失ってしまった家族への思いやりや『恩』の気持ちをもっている。」
 もう!! 日本の男性ったら、カラオケのお姉ちゃんに対して
 「日本人が失ってしまった大和撫子の精神がフィリピンにはある」
って感激するのみならず、フィリピン人男性の若者にも感激するみたいです。
 「彼らにはぜひ、ワールドチャンピオンになって夢を叶えてほしい。そして家族を助けるというのが、彼らの夢なのだから。」
 それはそうなんでしょうけれど…。
 フィリピン人だって、四六時中家族のことばっかり考えているわけじゃないですよ。お互い人間なんだから、そんな絵に描いたような綺麗なハートなんて存在しませんよ。彼らだって、もっとしたたかで、もっとずるくて、もっと計算高いはず。フィリピン人って、家族の間では秘密など何もなくて、親戚や近所の人ともすべてにおいて助け合っているイメージがありますが、意外と、家族にすら自分の給与額を教えなかったりするもの。フィリピン人がフィリピン人のOFWを表象するときの典型例、実にありふれたドキュメンタリー…という感じが、最後まで拭えませんでした。視聴ターゲットがフィリピン人なのだから当然かもしれませんが、もうちょっと何か、工夫があってもいいのに。後半に出てきた、ロリー松下さんの、
 「フィリピンの人に言いたいことがある。ボクサーを見下さないでほしい。フィリピンでは、ボクサーは貧しい者として見下されている。しかしここ日本では、僕のようなボクサーでも、尊敬を受けて大切に扱ってもらえる。いつかボクサーも対等に扱われるようになればいい」
という、いまいちよくわからない台詞は、そのよくわからなさと意外性がリアルでおもしろかったのですが。

 第2話(放送日未定)は、大阪のフィリピン人コミュニティの活動にM.Hさんのストーリーだそうです。コミュニティの一員であった、南大阪の企業で「研修生」として働くRが、日本で難病にかかり入院した事例についても取り上げられるそうです。
 実は、Rの会社は、私が以前に研修生の通訳として働いていたときのお客さんでした。2005年1月に入国した彼は、当時すでに30代半ばで、妻子もいて、とても落ち着いていて、勤勉で、まさに、模範生でした。それなのに、私が仕事を辞めてフィリピンで働き始めた半年後、Rの入院を知らされました。2006年11月、学会のために1週間だけ日本に帰ったとき、私は他の研修生たちと一緒に、彼の入院していた病院を訪れました。フィリピンからのお土産を両手いっぱい持って、病室にグリーンマンゴーまで持ち込んで、私は、なんとか彼らを笑わせようとしました。でも、借金を背負って、家族と親族の期待を一身に背負って「研修生」として日本に来た挙句に病気になってしまった彼の無念さは計り知れません。彼を見守っていた他の研修生たちも同様。
 彼の働いていた会社は南大阪の零細企業でした。社長さんも現場の方々も、声が大きくて怖いものの、連休には研修生を連れてピクニックに出かけたり、ポケットマネーからボーナスを出したり、お歳暮のボンレスハムやビールを研修生に分け与えたりする、人間味あふれる魅力的な大阪人でした。Rが入院したとき、彼の会社がどんな対応をとったのか、すでに部外者であった私には知る由もありません。ただ、番組の予告編を見るかぎり、番組は会社に好意的な描き方をしているのではないかと想像されます。

研修生通訳をしていたとき、私は、これまではまず行くことのなかった、南大阪、東大阪の中小工業地帯のお客さんのもとに出向かせていただいていました。制服を借りて現場に入れていただいたこともありました。現場労働の場では「若い女性」というのはとかく珍しいようで、現場の方々が研修生と飲みに行く際にはしばしば誘っていただきましたし、私が通訳を辞めるときに送別会を催してくださったお客さんさえありました。
 「すごいね、外国語ができるなんてね。」
 「留学なんて、うちらには考えられないですよ。」
 「あなたも3人兄弟? そうですか、親御さん、大変だったでしょうね。いや、うちも子供が3人いて、ようやく一番上の男の子が大学卒業ですよ。大学にやれて本当に良かった。次は女の子なんで短大ですよ。あと、高校生が一人いてね。勉強が嫌いでね。まだまだお金がかかりますわ。」
 お酒の席で現場の方々の語ってくださる言葉は、すべてがいちいち重くて、突き刺さりました。貧しいのは研修生だけじゃない。現場じゃ、カチョーさんだってハンチョーさんだってワーキング・プアで、毎日必死なんです。でもその中で、自分たちよりさらに貧しいフィリピン人研修生のことを、
 「フィリピンの子たちはみんな、もっと大家族らしいね。家族のためにがんばってるんやて、偉いね。」
 「日本の子にはない家族愛とか、親孝行とか、そういうもんを持ってるね。そやから、ついつい助けてやりたくなるねん。」
って表象するのです。

 話は変わりますが、私は高校から大学にかけて、土日や長期休暇に地元の製菓工場で働いていました。高校生のアルバイトといえば、喫茶店やファーストフード店、あるいはコンビニと決まっていますが、我が母の提示した
 「他人の遊びに来るところで働いてはいけない」
という基準を満たす仕事といえば、工場勤務だけだったのです。周りは、そこで何年も働いているというパートタイマーのおばちゃんたち…本当に働き者で、更年期を迎えているにもかかわらず、子供を塾や大学にやるために必死で働くおばちゃんたちでした。
 「私は中卒やけど、子どもは全員大学入れたいわ。」
 「そうそう、せめて高専まではやりたいわ。」
 「けど、うちの息子はバイクばっかりでな。先週も警察に呼ばれて…。」
 「うちの子も、ほっつき歩いてばっかりよ。この先、どうするんかね。」
 その工場で作られていた京菓子は美しかったけれど、その製造にかかわっているオバチャンたちの嘆きは切実でした。お昼休みに高校の宿題を片付けるのもはばかられる空気。溜息に囲まれながら、男性社員のカチョーさんやハンチョーさんたちと一緒に数十キロのキナコを担いでベルトコンベアに乗せ、コンベアが軌道に乗ったところでおばちゃんらと一緒に箱詰めラインに入り、ゴミ置き場のゴキブリと戦い、屋外での商品搬出や機械洗浄を手伝い、零下10度の冷凍庫で在庫チェックをする日々でした。在日外国人も、障害をもった人たちも一緒でした。カチョーさんもハンチョーさんも、休みなく働いていましたが、昼休みの話題は、生活のきつさと愚痴に終始していました。

 研修生制度をこき下ろす人たちに言いたい。あなたは、後継者不足で研修生を受け入れざるを得ない、社員10名以下のカワチのカチョーさんやゲンバのオッちゃんたちの事情を、彼らがわざわざフィリピン人を使わざるを得ない事情を、彼らが外国人にかける期待を、そして言葉の通じないストレスを、理解できるのかって。苦しいのは研修生だけじゃない。研修生の側に立った振りをして、制度を批判だけして、「弱いフィリピン人」の側に立っているふりをして正義感ぶる人たちが活動家にはとても多いのですが、なぜ、研修生を受け入れざるを得ない日本の中小企業の苦しみ、そして、現場で実際にフィリピン人を使う立場にあって四苦八苦している日本の低所得層の人たちの苦しみに、思いを馳せることができないんでしょう。
 
 さて、この番組はどんなふうに、「在日フィリピン人研修生」と、彼らを取り巻く日本の人たちを描いてくれるのでしょうか。怖いもの見たさで、楽しみにしています。

 番組を観た1時間後、仕事関係で知り合った方のお誘いで、マニラ市のビジネス界の方々のパーティに出席しました。場所はエルミタのとある中華料理店。レストランの装飾が異様に派手なのも、すごい色のほとんど水着みたいな服を着たファッションモデルが席に案内してくれるのも、出席者の半分以上が中国語を話しているのも、女性参加者の服装がやたらときらびやかなのも、突然に豪華ダンスが始まるのも、もう、ちっとも驚きはしませんが、私が驚いたのは、そこにいらっしゃったご出張中の日本人ビジネスマンの方の言葉。
 「マニラの人たちはね、こんな貧しい国で、それでも国を良くしようと頑張っているんですよね。そのハートがすばらしい」
 「いや、彼らもつらいことが多いから、こうやって歌や踊りで楽しもうとしているんだね。」
 ナンジャソリャ。中国語を話す大金持ちのフィリピン人に対して、このコメント。
 日本人の目にかかると、カラオケのお姉ちゃんも、研修生も、ゴミ捨て場の子供たちも、お金持ちのビジネスマンも、フィリピン人はみんなココロがキレイらしいです。
 日本の皆さん! その妄想、どこからくるの?

 日本人によるフィリピン人への表象って、この数十年で変化してきたとはいえ、あらゆるレベルで―NGO界ではもちろん、OFWを受け入れる日本の低所得者層の間でも、あるいはビジネスの世界ですら― 、まだまだ、フィリピン人を被害者として、あるいは貧しい者として、ある種「見下す」言説が主流なんじゃないだろうか…と思ってしまった土曜日でした。
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 私の知人からの情報によれば、Hope of Asiaは、番組ののスポンサー探しに苦慮しているそうです。もし、番組をご覧になって、賛同できると感じた方がいらっしゃったら、放送用映像(英語版とタガログ語版、両方あるそうです)の上映会の検討、あるいは、現地のスポンサー探しにご協力ください、とのことです。
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by saging | 2008-10-30 22:10 | フィリピン(全般)
カラオケ再び
 留学時代からお世話になっているおじさま、お兄さま方とのお酒の席で昨夜言われたこと。
 上司の悪口を言う部下はダメ。
 超シンプルですが、そのとおりです。フィリピン在住歴10年以上、こちらの日本企業で現地採用で働いておられる方々、フィリピンで起業された方々、頼もしいフィリピン人女性をパートナーとしてビジネスをされている方々に言われたら何も言えませんよ。

 その後、カラオケに連れて行っていただきました。90分セット料金300ペソ。価格破壊もいいところです。サービスはそれなりだったかもしれませんが、でも、女の子かわいかったし、とっても楽しかった! 私も歌わせていただきました。よく考えたら、カラオケで歌うのはたぶん高校以来です。大学生の時は、カラオケとは、オールナイトのコンパの三次会 or 終電がなくなったときに泊まる場所、であって、歌う場所ではありませんでしたから。そしてフィリピンに来てからはますます、カラオケとは、歌う場所どころか、本来の目的とはかけ離れたエンタテイメントの場所だと思っていましたから!
 
 我が上司は今日も、パワハラの手引き」という冊子に典型的に出てきそうな言動でもって、私と秘書さんたちをさんざん右往左往させてくれましたが、なんとか作業は終了。

 きついけど、でも、素敵な人たちに囲まれて、おしゃべりやカラオケで機嫌良くなっちゃう私は、すごーく単純で、まだまだ元気で、そして、とても幸せです(というか、それはオヤジなのでは…、というツッコミは差し控えていただければさいわいです)。
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by saging | 2008-10-20 20:40 | フィリピン(全般)
笑いは大切
昨日は尋常じゃなく暗い文章を書いて、そのあと夕方までどんよりした気分で仕事をしていたのですが、夜は、フィリピン研究の大先輩でものすごく博学のK大学のKさんと、同じくK大学の、マニラ首都圏にてフィリピンの地場産業を長期調査中のFさんとお会いいただき、お茶を飲みながら、調査地のエピソードなどをほとんど途切れることなくお話しして、大いに笑って、Fさんとはさらにその後、我が家で、うちの同居人の後輩も交えて、日付が変わるまでおしゃべりして、とても気が晴れました。
 印象的だった話題をいくつか。

① 数日前、Yahooニュースのトップにも出ていた衝撃ニュース。先日のロイターの記事によると、アルコールを飲むほどに脳が縮小するそうです。ショック。でも、だかといって、飲まずにいられるのかどうかは別問題。

② タガログ語では「今日」という単語と「今」という単語が同じ。フィリピン人が時間に寛容(ルーズとは敢えて書きません)であることの一因は、"時間"に関するボキャブラリーが少ないことに起因するのでは?

③ ドルはここ1年以内に崩壊するので、ドル資産は他の通貨に換えておくべき、とは、経済学専攻のFさんの助言。今回の金融危機、身近に直接影響がないとおもって傍観していましたが(思考回路がフィリピン化している私は、すべて米国大統領選のせいだと思っていました)、昨日、Fさんから解説していただいて、初めて事の重大さを認識しました。これから、ちょっとは勉強しよう。卑近な話、現在の私の給与はドルで支払われているので、急に心配になってきました。

④ フィリピン研究者は、タイ(特にバンコク)に行くたびにフィリピン(特にマニラ)のダメっぷりを実感して落ち込む。ごはん(←最重要)も、交通インフラも、治安も…、フィリピンはすべてにおいてボロ負け。…私は、バンコクには地下鉄があることを、昨日まで知りませんでした。ショック。でもいいな、タイ。この年末年始にでも行ってみようかと思い始めました。

⑤ 日本ではバナナダイエットの流行でバナナが品薄というニュース、本当ですか!? バナナでダイエットができるならフィリピン人はみんなスリムよ。

⑥ フィリピン人はタガログ語の表現や文法をそのまま外国語に持ち込む。たとえばフィリピン人は英語で、only, already, here(lang, na, dito)を乱発。在日フィリピン人はかなりの頻度で、「ジョーダンだけ」という奇妙な日本語を使います。"Biro lang"の直訳。その日本語おかしいよ、「だけ」はいらないよ、って言っても通じない。英語だと"Joke only"になるけど、それもおかしいでしょう。いや、それ以前に、日本語がかなりカタコトのフィリピン人でも、「ジョーダンだけ」という日本語を知っていることに驚かされます。フィリピンの人って、ジョーダンがないとサバイバルできないのかしら。

 一昨日我が家に泊まっておられたGさんも言っていたけど、人間にとって、話すことと笑うことはとても大切。フィリピン人が幸せでいられるのは、ひたすらしゃべって笑っているからだ、とはよく言われます。本当にその通りかもしれません。1997年に初めてフィリピンに来たとき、私はまさに、フィリピンの人の「おしゃべりなところ」と「笑いが好きなところ」にものすごく惹かれて、フィリピンを選んだのでした。フィリピン人って、関西人ばりに笑いを大切にしますよね。(でも、笑いのレベルは関西人にはまったく及びません。大阪をなめたらあかんで。)

 今回はひたすら「おしゃべり」でしたが、KさんとFさんとは、3週間後にマニラで勉強会を開催することになりました。これで、またひとつ、プレッシャーと励みができましたよ。ありがとうございます、KさんとFさん。さあ、がんばらなくては。
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by saging | 2008-10-19 13:29 | フィリピン(全般)
帰りたい
 先ほど、F大学のY先生の調査助手のGさん(バコロド在住のフィリピン人女性)がマニラから成田に発ちました。
 ちょうど2週間前の私と同じフライトで。明後日、2週間前に私が担当させていただいた講義を担当すべく。
 Gさんは、昨夜遅くにマニラに到着し、我が家にお泊まり。マスカラ・フェスティバルで混みあうバコロド市の中心街で、Manukan Country(バコロド市の中心地の、焼き鳥店の集中する一角)で予約までして、私のために、食べきれないほどのチキンを買ってきてくれた彼女。大感謝です。我が家に居候しながら修士論文を書いている私の後輩も交え、サンミゲール・ビールで乾杯。おいしいバコロド・チキンを手づかみで食べながら、ネグロスの砂糖労働者の闘争、日本の自殺者数、鬱病増加問題…、などについて真剣に語りました。Gさんの疑問は、
 「ここ数年、知り合いの日本人の中で、心を病む人が急激に増えている。なぜ?」
 カトリックが大多数を占めることもあり、フィリピンって自殺がきわめて少ない国の1つなのです。昨年ダバオで、12歳の少女が家庭の貧困に絶望したという日記を遺して自殺したときは、国家の貧困対策を声高に批判する声で、連日、全国紙のコラムが埋め尽くされていました。
 私はGさんに言いました。
 「こちらが聞きたいくらいですよ。フィリピンで自殺が少ないのはなぜ? フィリピンで精神医学が遅れているのはなぜ?」
 Gさんの答えは単純明朗。
 「フィリピン人は悩みがあれば、家族や親戚になんでも相談できる。もちろん全員というわけじゃないけど、そもそも親族が多いから、本当に信頼できる人が必ず見つかる。たとえシングルマザーの家族だって、たとえ異母兄弟だって、親戚が支えてくれる。だからフィリピン人は、精神科医もカウンセラーも必要としないのよ。」
 さすがフィリピン人。私も納得して、
 「そのとおりですね。私の唯一知っているフィリピン大学の精神科医は、紛争を経験した子女のケアにあたっている人でした。フツーの会社員や学生が精神科にかかるなんて、フィリピンではあり得ない! でしょ?」
 その後は、2週間前の私の日本旅行の体験談や、F大学関係者のチスミス(噂話)で、深夜まで大笑い。最後は笑って締めるあたり、私もフィリピン人に近づいてきたのかしら。

 いいなぁ、私もGさんと一緒に日本に行きたい。っていうか、帰りたい。
 
 一昨日、私は例によって心の中で勝手にキレて、明日は出勤しないで旅行会社に行って日本行きのチケットを手配して帰るんだ!って決意して、深夜にWataruさんに国際電話をかけて、ものすごく迷惑をかけました。ごめんなさい。今回はもう、給湯室で泣くだけじゃ気が済まなかったのです。3年前は、多額の借金を抱えて日本に来ているくせに、少しのことですぐに「帰りたい」って言い出すフィリピン人研修生/実習生たちのことを
 「ほんとうに短絡的で、見境がないなぁ、フィリピン人って!」
と思っていたけれど、いまは自分が帰りたい。ここから脱出したい。お金とか見栄とか、ほんとに、どうでもいい。 

 私がキレた原因は、いつもどおり職場での出来事。締め切りの迫っている仕事(クリスマス・ギフトの送り先リスト整理作業)の稟議書が上司のところで止まってしまったから。
 そんなの、毎回のこと。こうなることはわかっていたのだから、それを見越して、課内の他の人たちに早めに作業を依頼し、早めに上司に上げたのに、やっぱり、上司は直前まで見てくれず。しかも、やっと見てくれたと思ったら、一瞥して、
 「フォーマットが見にくい!」
と突き返されました。
 「申し訳ありませんが、フォーマットは社内統一なのです。」
 (心の声:私に言わないでくださいよ!)
 「じゃあせめて、カテゴリー分けにしてよ。送り主で分けられても困る。」
…あの、一昨年まではカテゴリー分けだったんですよ。それを昨年、あなたが「送り主ごとに分けろ」っておっしゃったから、そうしたのじゃないですか。
 秘書さんと私でエクセルの表を直して再提出すると、
 「アルファベット順にならないのかね。」
…いえ、昨日は、カテゴリー分けにしろ、っておっしゃったじゃないですか。

 それを繰り返すうち、例によって、うちの課の提出だけが遅れることに。せっかく早めに作業を開始したのに、何の意味もありません。他の課の担当者や上司からは私宛に、
 「業務においては、部下が上司の指示に従って作業を進めると言うことも当然ですが、部下が、外部との関係で作業日程を考えながら、上司に適宜進言し作業を円滑に進め外部との調整をはかることも要請されていることは、承知されていることと推察いたします。」
という、ものすごーく嫌味なメールが送られてきました。それも、何回も、何回も。
 いくら私が無知で未熟とはいえ、私にとってはこの作業もすでに3回目。とっくに「承知」しておりますよ、部下の役割も、うちの上司の性格も、そして、我が課の作業遅延が社全体に与える影響も!
 でも、できないんです。私は、上司を動かすことができない。どんなに下手に出ても、どんなに暴言に耐えても、やっぱりできない。「できない」って言っちゃダメなんですか? 私は誰にも頼らせてもらえないんですか? そうやって、あなたたちはこのまま、ずーっと部下を追いつめ続けるんですか? 人は変わっても、この組織はそうやっていつまでも変わらないんですか?
 もしそうなら、私から降りてみせます。全部投げて、明日から出勤しませんよ。私はまだ、死にたくないですから。言いたくないけど、2年前に、20代前半だった私の同僚を追いつめて殺したのは、ほかでもなく、あなたたちと、この組織です。
 
 最後には、他の課から直接、うちの上司に督促メールを入れていただいたのですが、それを読んだ我が上司、
 「うちの課だけ遅いって言われてるよ。要するに、君のタイムマネジメントと作業効率が悪いんだと思うなぁ。他の課には君から説明しておいて。」
 …あなた、それでも上司ですか? 魔王よ、私に腹話術の力を与えたまえ、って本気で思いました。(注:私は伊坂ファンではありません。伊坂ファンの皆様、軽々しく使ってごめんなさい。)それでも、ただオウムのように
 「申し訳ございません」
を繰り返すことしかできない自分に苛立ちを感じます。
 私は日々の不満を溜め込んでいるだけではなく、解決策をずっと探しています。もう何度も、人事の制度を利用して、自分の精神的負担を訴えてきました。でも、何も奏功しませんでした。人事なんてそんなもの。だから、制度外の「弱者の抵抗(by James Scott)」も試みてきました。別にさぼったり盗んだりそらとぼけしたりするわけではないけれど、私の心は、そして私のLoyaltyは、はじめから、この組織にはありません。これは仕事だから。終身雇用を前提として生きているこの職場の多くの人たちとは違って、私は不安定で、でも、自由だから。
 ただ、ここで報酬をいただいている以上、それなりの仕事はして、成果は上げなくてはならないと思います。上司のためにじゃなくて、組織のためにじゃなくて、公共(パブリック)のために。それこそが私の仕事なのだから。3年前、就きたくてたまらなかった仕事。いろんなひとから「きついよ」って言われながら、それでも就きたかった仕事。
 でも、クリスマス・ギフトの送り先なんかで揉めている職場にあって、上司の怒声のせいで新聞にも集中できない、外出もままならない、というこの状況の中で、どうしてまともに仕事ができましょう。どうして、「パブリック」なんてことに思いを馳せることができるでしょう。
 あと半年の契約を残した自分はもはやただのレイムダックでしかない、と思いながらも、それでも、ここで何かを残したい、パブリックのためによい仕事をしたい。
 そう願うのは、ただのピュアな理想論なのでしょうか? 上司にすら何も言い返せない私が世界を変えたいなんて、ほんとに、百億年早いのかもしれません。
 どうしてこんなにきついの、この社会は?

 私はこの組織に責任を負う立場にはない「下っ端」なのだから、本当は、たぶん、いつやめてもいいのです。2年前に同僚が亡くなったときも、そうだったもの。パブリックに責任を、とか、そんなつまらない理屈を言っている場合じゃないのかもしれない。 

 でも、私一人が逃げても降りても、どうにもならない。

 それは、逃げる理由にもなるし、逃げない理由にもなります。
 逃げることは、そして降りることは、いつでもできる。だから、もう少しだけ、がんばります。
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by saging | 2008-10-18 16:48 | フィリピン勤務('06~'09)
映画『闇の子供たち』と、グローバルフェスタ@日比谷公園
 この夏の日本での話題作のひとつ、『闇の子供たち』。タイでは上映禁止になったそうですから、フィリピンで観られるわけがありません。今回、日本に4日間だけ帰国することが決まったとき、まず頭に浮かんだのは、ぜったい観てやろう、ということ。さっそく、まだ上映されている劇場をインターネットで探しました。すでに上映終了しているところがほとんどでしたが、新宿ミラノと梅田ブルク、京都シネマでは辛うじてまだ上映されているとのこと。
 日曜日の午後、新宿ミラノで一緒に観ようと、かつての活動家仲間ののぶちゃんを誘いました。のぶちゃんはアフリカで農業指導経験のある超タフな女性ですが、彼女は現在、妊娠中。胎教に良くない影響があってはいけないので、映画は諦めて、代わりに、日比谷公園で開催されていたグローバルフェスタに行くことにしました。

 結局、私は日本滞在の最終日に、無理やり時間を作って、一人で梅田ブルクに行きました。日本で映画を観るのも、一人で映画を観るのも久しぶり。私は映画館が苦手で、自宅でDVDを見ていても、少しの衝撃ですぐに気が狂いそうになります。マニラのスラムには一人で平気で分け入って行くくせに、一人で映画を観るのは怖いんです。なんて理不尽。昨年Wataruさんと一緒に買った、リノ・ブロッカ監督の古典『インシャン』のDVDすら、まだ最後まで見ていません。
 そんなわけですから、『闇の子供たち』一人で最後まで観られるか、かなり不安だったのですが、2時間半、夢中で観てしまい、終了後は即座に、近くの書店に飛び込んで原作を購入しました。

 前評判どおりの絶望的な作品。タイトルは『闇の子供たち』ですが、それを観る私たちこそが闇の中にいて、自らの闇の中にタイの子供を引きずりこんでいるのだ、というメッセージを受け取りました。

 いきなり驚いたのは、タイの人権NGOで働く日本人(ボランティア? インターン?)がものすごく役立たずのキャラとして、嫌らしく描かれているということ。性的に虐待されて挙句の果てに臓器移植のために生きたまま売られていくタイの子どもたちのあの眼よりも、エイズにかかってゴミ袋に詰められて捨てられ、やっとたどり着いた村でも除け者にされ、体にハエがたかって焼かれるシーンよりも、そして、主役である南部(日本の新聞社のタイ特派員)が激しく葛藤するシーンよりも、まず、あの日本人女性のリアルなダメっぷりに注目です。ここまで「NGO」を「ないがしろ」に扱う作品って、そうそうないですよ。タイのNGOスタッフから、
 「日本でだってできることはあるでしょう」 
 「何もわかってないのね」
と冷たく言われ、何も言い返せない女性。臓器移植を受ける日本人の家庭への取材に同行し、いい歳して感情的に逆上し、取材をめちゃくちゃにしたばかりか、家族に深い深い傷を残した女性。他人を不幸にするだけの女性。原作では、この女性はもっと分別のある言葉も発しているのですが、映画ではものすごくアホな役として描かれていて、物語の最後の最後まで、この女性は、まるで何の役目も果たせず、「いいことしたい」でも「余計なことしかできない」、ピュアな日本人のままで終わります。苛々します。早く大使館に行って、さっさと日本に帰ってよ。
 「世間知らず」
 「バカ女」
 「どうしてタイへ? どうしてNGOへ? やっぱ、『自分探し』?」
 「なんでNGOがここにいるんだ?」
 彼女に向かって投げられる台詞は、ビシビシ突き刺さりました。それでもちっとも成長せず「私は自分に言い訳したくない」なんて意味のわからないことを口走る彼女。彼女を観ていると、正義感に突き動かされて、なんとなく何かしたくて海外をさまよう日本人の若者の「闇」の深さを思い知らされます。

 アホなNGOワーカーの女性とは対照的にかっこよかったのが、冷徹なジャーナリストである主人公。タイのNGOから勝手に期待されて失望されても、ただ冷静。
 「見て見ぬ振りをするんですか?」
と感情的に声を荒らげる女性に対して、
 「見て見ぬ振りなんてしてない。見たものを、見たとおりに書くんだ。」
って、本社の上司の受け売りの台詞を繰り返す彼。すごい説得力でした。
 私は現在の仕事の関係上、日本のメディアのマニラ特派員の方々と接触する頻度が高いから、余計に主人公に感情移入してしまったのかもしれません、私は幾度となく、彼ら/彼女たちに、自分の調査地であるマニラのスラムを案内しました。調査地に感情移入しまくる私と、感情移入していたら始まらない彼ら/彼女たち。ジャーナリストって大変だなって、いつもそう思います。
 それなのに! あのラストシーン。観る者のかすかな期待すら裏切るあの展開。いや、物語の中盤あたりから、「この人、長くは持たないだろうな」という気はしていたのですが、あのラストは衝撃的です。
 現地警察もダメ、タイのNGOもダメ、日本のNGOボランティアなんてもっとダメ、そして日本のジャーナリズムもダメ。すべてに駄目押しする結末。真っ暗な闇に沈んでいるのは、タイのスラムの家庭だけじゃないし、あの置屋の子供たちだけじゃない。NGOも闇で、良心の呵責に苛まされる日本人も闇。すべてが闇だ、お前自身も闇だ、と言われている気分になります。子供たちを闇から引き上げて救ってやろうだなんて言えるはずがない、だって、私たち自身が闇の中に沈んでいるんだから。むしろ、子供たちを闇の中に引きずり込んでいるのは私たち自身。

 先日の奨学金の面接の際、私は、フィリピン政治のおもしろさとスラムの住民のしたたかさを語り続け、さらには、日本のNGOへの失望感と現在の職場への不満まで口にして、審査員の先生方の笑いを買い、
 「あなたがフィリピン政治にとても詳しいことも、フィリピンのスラムの人々の政治行動がとてもおもしろいそうだといういうことも、よくわかりましたよ。では、あなたの立ち位置はどこですか? 日本政府もダメ、日本のNGOもダメ、と言うなら、どうしたらいいと思いますか? フィリピンのNGOで活動されますか?」
と聞かれ、
 「私の目標は、日本政府と日本のNGOを繋ぐことです。でもそれは、残念ながら、私がNGOにいたときもできなかったし、現在の仕事に就いてからも、もっと絶望しています。フィリピンに生まれればよかったと、いつも思います。政府もNGOも、右派も左派も、実はちゃんと承知の上で成り立っている社会。それが心地良すぎて、何度、フィリピンのNGOに就職したいと思ったことでしょう。でも、私はフィリピンに埋没しません。フィリピンから学べることがあると思うから、フィリピンを研究対象に選んでいるのです。」
と答えました。さらに、
 「将来、就いてみたい仕事はありますか?」
と聞かれ、
 「社会に影響を与える仕事であれば、何でもやってみたいです。まずはいろいろな世界を見たいのです。国連あるいは国際機関の論理も知りたいし、実は、議員秘書になってみたいです。官僚の論理を学んでみたいま、今度は、立法府にものすごく興味があるのです。」
と答えました。大胆すぎ。っていうか、これこそ、私の嫌う「ピュア」な答えでは? 28歳になって夢を語るなんて、「ユニセフの職員になりたいです」と真面目にメディアに答えていた10代のときの自分から、何も変わっていません。審査員の先生には、
 「えっ、まさか、フィリピンの議員秘書ですか?」
と聞き返され、
 「日本の議員秘書です!」
と答えて、また笑われました。最初から最後まで笑われ続けた面接でした。なぜ合格したのか、本当にわかりません。

 いつまでたってもピュアで優等生な自分の言葉につくづく嫌気が差しながら、面接会場を出て、グローバルフェスタが開催されている日比谷公園に向かい、のぶちゃんと合流しました。1995年、私がまだ中学生だったときにニューヨークでの国際会議で初めて出会ったのぶちゃん。以後、東京で会議があったときは、何度もご実家に泊めていただきました。一緒にプチ・ハンストをしたこともあります。1996-97年の年末年始はバングラデシュで共に過ごしました。彼女と一緒に日比谷公園に来るのは、9年前の「コレクターズ」のLIVEぶり。
 会場に足を踏み入れて、その規模の大きさにびっくり。外務省ブースやJICAブース、各国大使館ブースもかなり進出していますが、なんといってもNGOブースが圧倒的に多いのです。私がこのフェスティバルからご無沙汰して10年が経ちますが、この10年で、NGOって、こんなに増えたんですね! 以前はポツポツしかなかったのに。フィリピンに関係するNGOだけでも、数えきれないくらい。ブースで売られている途上国の手工芸品や食品も洗練されています。昔は、かなりヘンテコな製品でも、エスニックというだけで売れたのに、いまや、「途上国の手工芸品」や「フェアトレード製品」すらも激しい価格競争に晒されていることは一目瞭然でした。
 似たような活動をしている団体が多く、似たような製品を扱っているブースもとても多いのに、これらが全部、それなりに組織として生存していて、ブースを構えているってことは、各団体共に、それなりの財源があるってことでしょう。個人寄付なのか会費なのか企業からの寄付金なのかボランティア貯金なのか外務省からのお金なのか、それはわかりませんが、すべてが政府から財政支援を受けているわけではないでしょうから、やっぱり、会費が収入の多くを占めるという組織が多いのでしょうかね。だったら、それは、とてもすごいことですね。(あくまでも憶測です。最近は情報公開が厳しいので、こんなこと、ネットで各団体のウェブサイトを見れば、あるいは資料請求すればすぐにわかるのでしょうし、実際にもうそれをされている研究者の方もいらっしゃるのかもしれません。)

 歩いているとあちこちのブースからパンフレットを差し出され、
 「恵まれない子供たちのために折鶴を!」
 「フィリピンの少数民族の作ったフェアトレード製品です!」
 おいおい、折鶴で子供は救えないと思うよ、とか、いや、あなたの持っているのはネグロスの砂糖であって、それは少数民族とは関係ないと思うよ、何かと混同してませんか、とか、心の中で突っ込みを入れながら歩きました。
 決して冷やかしで歩いていたわけじゃないのだし、優越感に浸りたかったわけでもないのです。私にとって、ああいう場に身を置くことは、過去の恥ずかしい自分の姿を見るようで、私にはとても苦しいことなのです。でも、きちんと見て、自分がどこで間違っていたのかを確かめないと。奨学金の面接でピュアな発言をした直後だったからこそ、なおさらに、そう思いました。
 のぶちゃんと一緒に、
 「懐かしいねぇ~。昔は私たちもあのブースの中にいたんだよねぇ。」
 「場所もわきまえずにひたすら署名活動したねぇ。NGOの集会があると聞けば、他団体でもとりあえず乗り込んでいって、自分たちの活動を売り込んで、署名を依頼して。ゲリラ署名って呼ばれてたやつ。」
 「あの署名活動で、うちら、かなり鍛えられたよね~。」 
 「あの頃は世間も寛大で、NGOも競争相手が少なくてよかったねぇ。こんなにNGOが乱立してるようじゃ、会員を拡大するのも大変よね~。」

 各ブースの中には、大学生と思われる若者だけでなく、あらゆる年代の「ボランティア」と思われる方々が忙しく働いています。その風景は、ある種、圧巻でした。地雷の恐ろしさを熱く語る若者。経験あるんですか?という質問はもちろんタブーです。フィリピンの貧しい女性たちが作ったという手工芸品を一生懸命に売る女性。その行為が結果的に「貧しい女性」に与えうる可能性について、彼女はどこまで考えているのでしょうか。
 アフリカのある国の手工芸品を売っていた、私の母と同年代と思われる女性が、のぶちゃんと私に向かってしきりに活動紹介をしていました。こちらが打ち切ろうとしても、いつまでも話が止まらない。熱すぎるし、超一方的。やれやれ、なんでNGOの人ってこんなにKYなんだ。グローバルフェスタの会場以外でこれをやったら、悪質なキャッチセールスか、宗教の勧誘ですよ。私は上の空で、適当に相槌を打ちながら聞いていました(国名しか覚えていません)。最後に別れるとき、彼女は私たちに、
 「こうした問題に関心をもってくれる若い人たちがいてくれて嬉しいわぁ。この間ね、私、電車の中でお化粧するお嬢さんに対してね、西洋でははしたないことなのよ、って、勇気を出して忠告したのよ。彼女はすぐにやめてくれたけどね。若い人にはぜひ問題意識をもっていただきたいわ。」
 アフリカと電車の中のお化粧に、どういう関係が? アフリカを含め、あなたの大好きな途上国は西洋じゃないですよ。フィリピンじゃ、渋滞したジープの中でお化粧どころか爪まで切ってる女性がいるし、コンビニのレジ店員は客が待っている前で髪にジェルをつけてますよ。Hahaha. 世界は広い。いろんな人がいるものです。グローバルフェスタって、すごくシニカルな名前です。

 あぁ、みんな、揃いも揃って、なぜそんなに「協力」したいの? なぜそんなに口を揃って、まるで呪文のように「現状を知ってほしい」って唱えるの?

 「ねぇ、あれから10年経って、こんなにNGOが増えているのに、世界は何も変わっていないどころか、逆に悪くなってない? 何なんだろう、これは?」
常にシニカルな見方しかできない私に対し、のぶちゃんは
 「良かったじゃん、こんなにNGOが増えてなかったら、この人たちがいなかったら、もっともっと悪い世界になってたかもしれないよ。」
のぶちゃん、あなたはなぜ、そんなにやさしくなれるのですか? 1年半もアフリカの農園で働いて、私の想像も及ばぬような苦労をして、わけのわからない病気に何度もかかって、日本の組織とアフリカの組織の両方のしがらみに翻弄されて、現場の痛みを体験しまくった元NGOワーカーの言葉とは思えない。
 「こういうNGOが、何もできないくせに何かできると思い上がるヘンテコな若者を生産して、訳知り顔に途上国のスラムを荒らしに来るのよ!」
 私がのぶちゃんに向かって発した言葉は、そのまま自分に向けて発すべき言葉でした。

 会場の外側が俄かに騒がしくなりました。のぶちゃんと一緒に見に行ってみると、あしなが育英会のデモ。しかも、かなりの人数です。「遺児と母親の全国大会」でした。
 「貧困の世襲を放置するのか!」
 「平成一揆」
 「教育は贅沢ですか?」
 「親が貧乏なら子も貧乏なのか?」
と書かれたプラカードを掲げ、メガフォンで主張を叫ぶ若者たち。(写真は、朝日新聞記事に出ています)
 うーん。わざわざ、グローバルフェスタの会場前でこれをやるとは、ものすごい皮肉ですね。そんなに「協力」したいなら俺たちに協力しろ、国際協力以前に、国内の問題に目を向けろ、いまここにある貧困に目を向けろ、ってことでしょう。すごいインパクトでしたよ。

 会場内では、のぶちゃんと私がかつて入っていたNGO(すでに改称されていますが)のブースも訪れました。あの頃ものすごくお世話になったスタッフの皆さん。ベテランの経理担当者Mさんと、同時通訳もできるCさん。そうそう、私は中学生の頃、Cさんに憧れて英語部に入ったのでした。とおりいっぺんのご挨拶をして、最新の機関紙をいただいて、ブースにいたインターンの大学生を紹介してもらって、お別れしました。私たちのときは「メンバー」という名の活動員だったのに、いまやインターン制度をとっているんですね。
 他にも、旧友、そしてここ数年の間に知り合った人を含め、実に多くの懐かしい方々に会いました。のぶちゃんも私も、それぞれにしょっちゅう知人に出くわし、再会を驚いてはついつい立ち話をしてしまって、ちっとも前に進めなかったくらい。結局、私たちは4時間弱も会場を歩き回っていました。
 かつての活動仲間で山梨支部のリーダーだったNamikoちゃんに会うこともできました。実は私は、今年のグローバルフェスタの日程を、彼女のblogで知ったのです。彼女は大学院に通いながら、とあるNGOで精力的に活動を続けていて、10年前とまるで変わらず、ブースを仕切っていました。彼女から、大阪支部にいたけんじさんが、このたび大阪の高槻でカンボジア料理店をオープンしたときかされ、さっそく彼に電話して、お祝いを言うことができました。根っからの大阪人で、お笑い系で、日本でも外国でも子供の心を掴みまくっていたけんじさんとは、住んでいる場所が近かったこともあり、1996年末に一緒にバングラデシュに行ってから1998年末に共にNGOを脱退するまで、ずっと一緒に活動していました。私が高校3年でNGOをやめたのは、当時大学生だったけんじさんの
 「善意のNGOがアフリカで井戸を掘って、水が枯渇したら。農村の若者に教育を受けさせたら若者が皆、都会に出て行って、村に戻ってこなかったら。俺らはNGOとして、そういう負の影響を考えながら支援を続ける覚悟ができているのか? 井戸を掘ったら村人が助かりますよ、という短絡的な宣伝文句で会員を増やして寄付を募ることの危険性を考えないのか。」
という問題提起がきっかけでした。けんじさんはNGOを辞めて、バックパックでアジアを一人旅して、イギリスに留学して、実家の電気屋さんを継ぎながら、ホームページやblogを通じて、社会にメッセージを投げかけていました。たとえ国際協力の第一線にいなくても、彼は彼なりの方法で、この10年間、世界を変えようとしてきたのです。彼の人柄に惹かれて集まってくる人は数知れず、今回の料理店オープンもその結果の一部なのでしょう。彼はオープンに至るまでのあらゆる苦労をすべてプラスに変えてきたような人です。
 「今回は無理でも、次に帰国したら、絶対食べにきてくれよ、うちの料理!」
 10年前とまったく変わらないけんじさんの声を電話越しにききながら、私は、あぁ、彼は自分にしかできないことをしているんだな、と思いました。私もそうなのよ、と言いたい。NGO活動を続けているNamikoちゃんも、これから母親になろうとしているのぶちゃんも。

 みんな、あの時は向こう見ずで、「途上国の子供を救うんだ」なんて空恐ろしいことを言いながら突進していて、自分自身が10代の闇の中にいるなんて、そして自分自身が日本社会の闇の中にいるなんて気づかなかった。すでに成長の兆しを見せはじめていた日本の「NGOコミュニティ」自体が巨大な闇であることに気づかなかった。もちろん、自分自身の欺瞞や嫌らしさにも気づかなかった。
 いま、私たちは自分自身の闇を知って、さて、それでどうする?
 考えろ考えろマクガイバー!

※ 最後の台詞は、ちょうどさっき読み終えた、伊○幸太郎『魔王』から引用させていただきました。闇と閉塞感から抜け出したい私の焦りをさらに突き動かしてくれる、すばらしい作品でした。
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by saging | 2008-10-12 20:00 | その他
人生初「講義」
 先週帰国した折、F大学で、人生初の「講義」を担当させていただきました。
 私は過去の研究会発表や学会発表と同じように、パワーポイントを駆使して、写真を多用しました。そしてもちろん、フィリピン研究者に必須の「エンタテイメント要素」も、あちこちに織り交ぜておきました。
 従来の「受動的」で「無知」で「かわいそう」な貧困女性のイメージを覆したくて、とびきり明るい「お祭り選挙」の写真を何枚も見せ、選挙期間を通じて貧困層の目に映っているものはお金だけではなく「いつか使えるかもしれない、そして今後自分が社会上昇できるかもしれない『情報』」だということを強調し、貧困層がいかに賢く選挙を利用しているか、というお話をさせていただきました。
 フィリピン研究会やフィリピンの学会でなら、比較的すんなりと受け入れられる私の仮説。しかし、フィリピンはおろか、スラムを訪れたことすらなく、日本を出たこともなく、ともすれば日本の「選挙」を経験したこともない学生さんに対してそれを語ることは、ある意味「無茶」だったかもしれないと、途中から思い始めました。だって私の議論って、ともすれば「貧困層のロマン化」につながりかねない危険性を常に孕んでいるのですから。
 1時間きっかりの講義を終えてから、自分の言葉足らずを反省していると、そこをきちんと察してくださっているY先生が、すかさず助け舟を。私の話のポイントを簡潔に整理してくださった上で、
「…そして、彼女たちの選挙時のこうした積極的な政治参加は非常に興味深い。しかし、それがフィリピン全体の貧困問題の解決に繋がっているのでしょうか。構造的暴力の解決につながる可能性があるのでしょうか?」
と問いかけてくださいました。さすが先生。さすが教育者です。
 その後、小グループに分かれて学生さんたちのディスカッション。教室を回っていると、やはり、
「選挙を賢く活用してるって言われても、所詮、お金がほしいだけじゃないんですか?」
「選挙が終わったら無職に戻るんですよね?」
「選挙時以外は、政治家の公約が守られているかどうかとかは誰も気にしないんですか?」
と、冷静な意見が飛び交っていました。
 講義後、受講生の皆さんが書いてくれたレスポンスシートを、Y先生の研究室で読ませていただきました。「フィリピンにもカラオケがあることに驚きました」という素直な感想から、「貧困層が何をやっても政治が変わらないなら意味がない」という達観した意見まで、率直なコメントを読みながら、改めて、自分が言葉足らずだった点、また、自分の考えを押しつけてしまった点を思い知らされました。私が言いたかったのは、このものすごい貧困、そして絶望的な選挙不正という構造的暴力の中にあって、彼女たちがそれとどう向き合っているのか―真正面から戦えないから、ちょっと斜に構えながらだけれど、それでも彼女たちなりの戦略で向き合っているんですよ―ということ。ただ、それを「戦略」と見るのか、「所詮はカネに釣られて政治家に利用されているだけ」と見るのか、その解釈は、見る人によって異なるはずです。私はこう解釈するけれど、あなたたちはどうですか。外部者としての私たちが他国の「貧困」を見て勝手に表象をするとき、そこには、実にさまざまな解釈があって、だからこそ、Y先生の教えておられる構造的暴力の視点が必要なんですよって、私はそこまで言うべきだったのです。それなのに私は中途半端に無責任に途中で講義を終えてしまい、最後まで正しく言葉を継ぐことができなかったから、受講生の方々に混乱を招いてしまったのだと思います。

 ただ、何人かの方のリスポンスシートに、
「政治家も貧困層も、互いに利用しあっているんだと思う」
と書かれていて、私は、自分の下手な講義から、私のキーワードをはっきりと読み取ってくれた方々がいるということに、ものすごく感銘を受けました。

 講義って、研究会報告や学会報告よりもはるかに気を遣わなくてはならない行為なのですね。だって、教育の一環ですからね・・・。全国の「教員」の皆さまを本当に尊敬します。
 今回の「講義」を通じて、改めて、自分の立ち位置を振り返ることができました。私もいつか教壇に立つ日が来るかどうかわかりませんが、とてもとても大切な、貴重な経験をさせていただきました。
 Y先生と、受講生の皆さん、そして、外部から聴きに来てくださった皆さまには、本当に、感謝の気持ちで一杯です。本当にありがとうございました。
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by saging | 2008-10-12 19:51
次の目的地へ
 正味4日間の日本滞在が終わり、マニラに戻ってきました。
 
 4日(土)の夜に成田に到着し、5日(日)の午前中は奨学金の面接。
 午後は、友人のぶちゃんと日比谷公園のグローバルフェスタへ。
 夜は、職場の前々任だった方と、私の後任になる方(どちらも先輩)と一緒に夕食。

 6日(月)は朝から、都内にある故T先生のお宅へ。T先生の蔵書の一部を私もいただいたので、一目だけでも奥さまにお会いして、直接お礼のご挨拶をしたかったのです。この日はちょうど、蔵書の整理と発送の日で、フィリピン研究者の先生や先輩が作業ボランティアに来ておられたのですが、私は次の予定があったため、たった30分しかお手伝いできずにお宅を後にしました。時間さえあれば、1日でも1週間でも無償でお手伝いさせていただきたかったのに…本当に申し訳ないです。
 その後、F大学のY先生のお車にピックアップしていただいて、F大学に連れて行っていただき、3限目は学生さんと一緒にY先生の講義を聴きました。その日のテーマは日本の戦後賠償とODA。90分の講義なんて数年ぶりで、耐えられるのか心配でしたが、さすが、Y先生の授業はとてもおもしろかったです。
 4限目はF大学にお勤めのNさん、院生のKさんとおしゃべり。彼女たちの「フィリピン大好きパワー」には、圧倒されるばかりです。
 そして5限目が私の講義。Y先生、受講生の皆さま、学外から来てくださった方々、どうもありがとうございました。この講義については別途書きます。
 講義終了後は、11月にフィリピンに研修旅行に来る予定の約10名の学生さんたちと夕食。そして、後輩Y子ちゃんとKasaiさん、F大学の院生のKさんに、横浜駅近くの居酒屋で「二次会」にお付き合いいただき、夜行バスで関西へ。バスが来るまで付き添ってくれたKasaiさん、本当にありがとうございました。

 7日(火)は明け方にバスで関西に戻ってきて、大学へ。指導教官(私の真の指導教官はマニラの私と同じ職場に出向されているので、形式上は指導教官は変わっているのです)にお会いいただき、懐かしい院生仲間と会って、大学の保健管理センターと病院で検診を受けて、図書館で大慌てでコピーをしていると、あっという間に夜。実家では、晩御飯に、松茸ごはんと秋刀魚を出してもらいました。すごくおいしかった! 日本の秋はいいですね。

 8日(水)は、午前中は近所の郵便局や銀行を回って各種手続きをして、午後から大阪で映画『闇の子供たち』を観てきました。その後はデパートやスーパーを回って、いろいろな方に頼まれた品物やお土産を買いました。最後の夕食は、私の大好きなロールキャベツに栗ごはん、切干大根を作ってもらいました。夜は、滋賀県名物「鮒寿司」と日本酒で母と乾杯。日本って、本当にスバラシイ。

 9日(木)は未明に実家を出て空港へ。搭乗予定のフライトが2時間も遅れていることが判明。午後にはマニラでアポがあるのに…と不測の事態に苛立ちながら、フィリピンの上司と先方に携帯メールで連絡をして、チェックインを済ませたところで、またしても過呼吸で意識を失い、空港の救護室に運ばれました。フライトが遅れていなかったら、あやうく搭乗できなかったところです。とりあえず1時間はベッドで休むように言われたのですが、その間にもマニラから数回、携帯に電話がかかってきました。上司から、夜の会食のお知らせも。会食どころかマニラに帰れるかどうかもわからないなか、上司に知られないように受け答えをして看護婦さんにあきれられ、搭乗口まで車椅子で運んであげますと言われたのですが、自分で歩けます、と主張して搭乗し、以後、マニラに到着するまで、ほとんど記憶がありません。

 とにかく、予定通りに帰ってくることができてよかったです。マニラではすっかり平静を取り戻し、空港から職場に直行しました。スーツケースを横においてデスクに向かっていると、さまざまな人に、
 「休暇中じゃなかった? もう帰ってきたの!?」
 「えーっ? 休暇とってたの? 知らなかった。毎日仕事してるイメージがあるから」
と言われました。だって、休暇じゃないもの…。
 アポを済ませて席に戻ると、鳴りまくる電話。前夜に日比EPAがついにフィリピン上院で承認されたこともあり、えらくばたばたしました。さらに、何やら言いたいことがあるらしいフィリピン人の秘書さんたちに囲まれました。一人ずつ別室に呼んで話をしてみると、
 「あなたがいなかった間にこんな理不尽なことがあって…。」
と、愚痴のオンパレード。話を聞いてみると、確かに理不尽。でも、
 「じゃ、私から上司に話しておくから」
と言うと、
 「いえいえ、ただ、あなたにきいてほしかっただけ。」
 「上司には言わないで。ただ、私は間違ってないでしょう、って、あなたに確認したかっただけ」
 ナンジャソリャ。解決策を探るのではなく、聞いてほしいだけ、って、女性の私から見ても不毛すぎる。日本の女性より「女性的」な彼女たち。私が欠勤したのって平日3日半だけよ。あなたたち、それだけで、そんなにストレスを溜めちゃうの? 私がいなくなったらどうするのよ?

 私でないとできない仕事があるのは嬉しいこと。他人から頼りにされることはとても嬉しいこと。でも、私はもしかして、それに依存していないでしょうか。他人に頼られることでしか、他人に必要とされることでしか満たされない幸福感。それって共依存ですから。危ない。私のこの職場での任期はあと半年。完全なレイムダック。使命感をもって仕事をまっとうできるならいいけれど、この2年半で私が覚えたのは、上司の顔色を伺うことと、この職場のビミョーで複雑な空気を読むことだけ。それだけ。そんなの、ちょっと世渡りの上手な人なら、誰でもできるから。
 そうじゃなくて、もっと、本当に自分にしかできないことをしたいです。
 
 そんななか、奨学金の国内審査の合格通知が届きました。まだ今後、国際審査が残っていますが、とりあえずは、とても嬉しい一報。以前も書きましたが、この奨学金(フェローシップ)、単なる「研究者」ではなく、いかに社会にCommitできる人物か、ということが重視されています。だからこそ、論文や学会発表の経歴の極端に少ない私でも合格できたようです。
 ただ、審査員の先生からは、この機会に、フィリピンの都市貧困問題ではなく、他の東南アジア諸国の同様の問題にも目を向けてみては、と何度か言われました。審査委員会でも同様の提案をしていただいたようです。合格させていただいたのみならず、さらに建設的な助言をいただけるなんて、こんなありがたいことはありません。
 指導教授や、お世話になっている先生方にご相談したところ、やはり、フィリピンにべったり張り付くよりも、この機会に短期間でも他の国を訪問するべきでしょうとの助言をいただきました。
その場合、来年の6月中旬までに必ず博士論文を書き上げ、各国での調査には、完全に博士論文とは切り離して臨む必要があります。大問題。こんなことなら、無理して来年7月からの奨学金に応募しなくても、来年は博士論文を書く期間に充てて、再来年分の奨学金に応募すればよかったのかも、とも思いました。
 けれど、目標はいつだって、高いほうがいいはず。私は指導教授にご相談して、来年6月中旬を目標に論文を仕上げたい、と申し上げました。明らかに無茶ななスケジュール。自分で自分の首を絞めています。ここ1年以上、いろいろな人から、
 「仕事も研究もいったん休んで、しばらく何もしないで休息したらどうですか。」
と言われますが、ここで休息なんてしたら、たぶん私は本当にダメになってしまいます。
 フィリピンのぬるま湯に浸かっている場合じゃなくて、もっと走らないと。走らされているんじゃなくて、自分で走るんです。「私でないとできない仕事」を早く見つけられるように。
 来年7月からの奨学金が、まさに、その扉を開いてくれたと思います。
 審査員の先生方、アドバイスを下さったすべての方々、そしてマニラのスラムの方々に感謝しながら、次に向かいます。

今週末は、プロジェクト・プロポーザルをリバイス中。そして圧し掛かる博士論文へのプレッシャー。いまさらながら、「ぬるま湯」から出るのは、なかなかたいへんです。
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by saging | 2008-10-12 19:48 | フィリピン研究
レジュメ完成
 先ほど、やっとF大学の講義のレジュメを作成して送付しました。前回すごくエラソーなことを書いたけれど、授業の準備って、大変ですね。というか、単に私の要領が悪いのかしら。たまたま今日が「ラマダン明け休日」で仕事がお休みだったから良かったものの、そうでなかったら間に合わなかったかも。全国の「教員」の皆さま、生意気言ってごめんなさい。

 さまざまな事情から、昨日から、私の指導教授が、私と同じ職場でお仕事をされることになりました。覚悟はしていたけれど、めちゃめちゃビミョー。先生と私の関係はちっともビミョーじゃないのですが、職場の空気がどうしようもなくビミョー。読むべき空気がたくさんありすぎて、私はだいぶ動転しています。もう何週間も前から、上司たちの思惑と困惑と当惑が入り交じった空気がいつも私の頭上を覆っていて、私にはそれがはっきりと見えるんです。まるで空気に色が付いているみたいに。黒澤監督の映画『夢』に、放射能に色をつける技術が開発された後の地上の放射能汚染のシーンがでてきますが、あんな感じ。誰か私に二酸化マンガンをください。オキシドールは薬局で買えるけど、二酸化マンガンはどこで売っているのでしょうか。
 でも、明日からもやっぱり、何にも気づかないふりをして、とにかくイノセントなふりをして、「先生と同じ職場で仕事をするなんて不思議です~」って、いつもどおり楽しそうに笑っていよう。それしかできないから。
 
 台風が近づいていた昨夜と今日は、脳の働きが鈍って(というか狂って)、お昼にお会いいただいた指導教授にさえ珍しくうまく話ができなくて、本当に困りました。こんなことで、数日後、ちゃんと教壇に立てるのかしら、面接なんて受けられるのかしら、それ以前に飛行機に乗れるのかしら、と、また不安に駆られました。低気圧のないところに行きたいです。
 いちいち翻弄される相手が、空気と気圧だなんて。「言い訳王」のフィリピン人だって、そんな言い訳はしませんね。
 10月の東京に高気圧は期待しないけれど、早く、秋の空が見たいです。10月の乾いた空気の中で、透明な空気を吸いたいです。

 夕方からは、低気圧が去ったからか、当日講義に来てくれるTさんが「いつも話してくれることをさらっと話せばもう、十分すぎるくらいだよ。あんまりまじめにやらなくていいって」って優しいメールをくれたからか、やっと集中できるようになってきて、レジュメを作っているうちに少しずつまた楽しくなってきて、普通の気分に戻りました。そうか、もっと楽しめばいいんだ。面接も講義も、変に力を入れず、「八方美人」せず、まず自分が楽しもうって気持ちで臨んできます。
 要は気分のもちようなんだから、いつもまず自分が楽しくいられるようにしたい。「楽しそうなふり」だけじゃなくて、明日の仕事も楽しもう、あさっての仕事も楽しもう、今の職場を楽しもう、この空気を楽しもう、って唱えながら今日は寝ます。
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by saging | 2008-10-01 23:45 | フィリピン研究