「ほっ」と。キャンペーン

Keso de Bola とは、 「表面は赤いのに中は黄色い」フィリピンのボール型チーズ。転じて日和見主義者。       かつてお世話になった、現地の言葉で「灯台」と呼ばれるマニラ湾岸のスラムを、ガラス越しに。
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降りてもいいから
 バンコクのカオサンに「外こもる」人々について触れた前々回の私のだらだらした世迷い言に対し、Azumaさんがまさにそのカオサンからアップされたご自身のBlogの中で、とても明確に解決のヒントを与えてくださいました。ぜひ読んでください。

 「休暇」「旅行」「観光」は決して、日常や労働の対極にあるわけではない。

 「お休みがあるから仕事もがんばれる」、そうつぶやきながら僕たちはビックブラザーの呼びかけに思いっきり応答しているのではないか。労働の報酬や代価としての休暇。それじゃあ、まるでニンジンを目の前にぶら下げられて走る馬みたいじゃない?


 その通りです。休暇が労働の報酬だなんて悲しすぎる。今現在の私じゃない別の私になれるかもしれない可能性を垣間見るために、束の間でもそんな気分を味わうために、私たちは見知らぬ土地をぶらぶらするのかもしれません。それを「非日常」と呼ぶのは、きっと乱暴すぎるのでしょう。私たちが求めているのは、非日常ではなく、こんな非日常がもしかしたら私の日常であったかもしれないという、その可能性。私ももしかしたら、ふとしたきっかけでダイビングにのめりこみ、インストラクター資格までとって南の島のダイブショップを渡り歩いて食い繋ぐ生活をしていたかもしれない。フィリピン人と結婚してビサヤの小さな島のリゾートで働いていたかもしれない。そんなプチ想像はとても楽しい。そして、もっとリアルに、まさにAzumaさんも書いておられるように、旅に埋没してもうマニラにも日本にも帰らないこともできるんだな、とか、職場も携帯も放っぽり出して完全に逃げ出してもう二度と出勤しないという選択肢もあるんだな、とか思って、ちょっとドキドキすること。それが嬉しいんです。
 以前は、スラムに行くたびに「プチ想像」を味わっていました。いざとなれば、院生やめてここに住みつくことはいつでもできる、必ず誰かが面倒見てくれるし、私はまだ若いから、何でもやって、とりあえず食べていくことはできるんだろうから、って考える、そのドキドキ感が好きでした。そう考えていた頃は、私はまだお客様気分でフィールドワークをしていたのかもしれません。いまとなっては、スラムの日常があまりに私の日常になりすぎていて、もうリアルすぎて、そんな想像でドキドキすることなんてできませんから。
 
 また日常云々って書いたけれど、これは日常と非日常の問題ではないのかもしれません。二項対立はもうやめよう、やっぱりそれは乱暴すぎる。だって私たち、日常の中でもふと、Azumaさんの言葉を借りれば、「いまここ」からちら見する「ここではない可能性」に心を馳せることがありますからね。○藤和義の歌に
むかしバイク事故ってあのまま死んだとしても、それはそれでよかった、そんな人生もあった
というフレーズがあって、初めてそれを聞いたときから私はこの部分だけ強烈に覚えています。「そんな人生もあった」って、いい言葉です。そういえば、「ここではないどこかへ」とかいうタイトルの歌もありました。定番のフレーズ。
-------- 
 そんなことを考えながら、私は自分で敷いたレールの上を走り続けます。もはや降りられないくらいの猛スピードで。大丈夫、いつでも降りられるんだ、って自分に言いきかせながら。

 今週末から数日間だけ、一時帰国させていただくことになりました。
応募していた奨学金の書類選考に通過させていただいたとの通知をいただき、週末は東京で面接。推薦状を書いてくださった先生方、書類作成に際してアドバイスを下さった方々に感謝しつつ、頑張ってきます。また、面接の翌日には、F大学のY先生のリレー講義(「コラボレート授業」っていうのだそうです)の一コマを担当させていただく機会もいただいています。恐れ多いことです。素晴らしい方々に囲まれ、いつも恵まれていることに、本当に感謝します。
 
 今回の帰国、自己都合でほんのちょっと帰るだけなのに、渡航費は一部職場支給の「休暇」扱い。私はこれまでの2年半、ほとんど有給を使っておらず、健康管理のための休暇も余らせているので、
 「体面的に、休暇はできるだけ消化したことにしてもらわなくては。」
と、庶務担当者に言われたのです。ここ1ヶ月は職場で本当にいろいろなことがあって、ちょうど逃げ出したいと思っていたところだったし、10月下旬~11月にかけては、毎年恒例の、気の狂いそうにややこしいロジスティックスを一人で担当しなくてはならないプロジェクトが2つも控えており、休暇を消化するなら、もう、今しかありません。
 そう、組織にとっては休暇って「消化すべきもの」なんですよね。仕事も消化、休暇も消化、すべて消化試合。それじゃあまりに悲しすぎる。
 休暇に名前負けしないように、「プチ想像」で「旅」を楽しもう。帰りのチケットは捨ててしまって、もうマニラには帰らないでおこうかなぁ。携帯も捨てて、スケジュール帳も捨てて、京都にもマニラにも戻らないで、しばらく山谷にでも漂っていようかなぁ。そんなことを思いながら、10月の日本の空の下で深呼吸できればいいなぁ。

 さて、その「休暇」中にF大学で担当させていただく、人生初の「講義」。
 実は、面接より緊張しています。
 自分が大学生のときは、リレー講義って大嫌いでした。大学1年のとき、講義要綱で「ボランティア論」とか「NPO論」とかいう科目を見つけ、
 「わぁ、ついにこういったことを、実践ではなく論理的に大学で勉強できるんだ~」
と、期待に胸を膨らませながら初講義に出てみたら、そういう授業ってことごとくリレー講義で、配布された授業表をよくよく見てみると、私が7年前から知っているような教会の牧師さんとか、私から見たらほんとうにピュアで何もわかってなさそうなNGOインターンの院生とか、学生サークルで途上国にワークキャンプに行っている学生さんとかがラインアップされていて、がっかり。っていうか、それならそうと、初めからシラバスに書いてくださいよ!と思いました。
 私は初回のコメントシートに、
 「私は『論』を学びたくて大学に来たのであって、実践報告を聞きに来たのではありません。大学に失望しました。学生を馬鹿にしないでください。この科目は放棄します。」
って、超エラソーなことを書いて、文字通り、それらの科目を放棄しました。こっちは期待して90分の講義に臨んでいるのに、NGOをちょっとかじっているような学生のピュアでツマラナイ話でお茶を濁すなんて、「学生みくびり」もいいところです。最低。私は母校のカリキュラムの大方を気に入っていましたが、あの手抜き授業は許せません。

 あの頃はまさか、自分が近い未来にリレー講義を担当するなんて思ってもみませんでした。だからこそ、今回はすごく緊張しています。
 大学生を相手に、あまり難しい話をするわけにはいきません。現場の声とか偽ってマニアックなスラムの話なら何時間でもできますが、私は彼女たちをみくびりたくはない。彼女たちの90分を拘束する身として、決して手を抜いてはいけないと思います。過去の学会や研究会で使ったネタを使い回すことは、絶対にしたくない。だって、前年の教材や講義資料を使い回す先生って、私、嫌いでしたもん。

 畏友Wataruさんの助言も得て、私は今回の講義のために、2日間にわたって、Wataruさんと私が本当に親しくしていただいているフィリピン人女性Mさんのライフヒストリーを纏める作業を開始し、先週末も泊りがけで彼女に話を聞きに行ってきました。
 日比友好50周年に50歳を迎え、現在52歳のMさん。15歳で高校を中退してゴーゴーバーで働き始め、16歳で未婚のまま長女を出産。1974年、長女を母親に預け、若干17歳で日本にダンサーとして出稼ぎに行き、以後、6ヶ月の契約が終わるとマニラのバーで働き、そのたびに別の男と同棲→出産→離縁→日本行き…を繰り返し、通算14回、計8年間日本に滞在。その間、別々のフィリピン人男性と、計4人の子をもうけました。複雑すぎる家庭環境ですが、彼女は自分の人生に誇りをもっています。自分の世代こそが「日本行きフィリピン人」のパイオニアだというプライド、計14回も日本に行きながら4人の子を育て上げたというプライド。自分がずっと一家の稼ぎ頭であり、日本への扉を開いたのだというプライド。6人姉妹のうち5人は彼女に触発されて日本に出稼ぎに行き、うち3人は日本人と結婚。1人は離婚しましたが、2人はいまも日本在住です。
 さらにおもしろいのは、このMさん、2002年にケソン市で母親の経営する安食堂(私有地に許可なく開店)を手伝い始めて間もなく、40代後半にして左派政党にリクルートされ、突然、超Politicalになったのです。「元じゃぱゆきさん」から左派のキャンペーン・リーダーへ。私が彼女と知り合ったのは、2004年大統領選の直前。その安食堂がキャンペーンの本拠地になっていた頃でした。
 2004年選挙後、彼女たちの安食堂は撤去され、Mさんは新しい仕事(business)を求めて、妹のいるバギオ、息子のいるパンパンガ、と地方に移り住みます。Wataruさんも私も、一時は連絡が取れなくなって心配していたのですが、安食堂のあった近所の人たちからMさんの消息をきき、2006年、パンパンガでやっと再会することができました。
 「政治なんてもう、たくさん。私たちは、左派政党に使われただけ。選挙キャンペーンなんてこりごり。」
 そう言っていたMさん。しかし、同年12月、彼女は、かつての安食堂のあった地域に舞い戻ってきます。2004年の選挙キャンペーン中に知り合った市議会議員の私設秘書にならないかとの話があったとのこと。再び政治の世界に足を踏み入れたMさん。2007年占拠では、市議会議員と左派政党を結びつけて共同キャンペーンを張るなど、たいへんな働きぶりを見せました。現在も彼女は市議会議員の私設秘書。
 「ほんとに毎日ヒマだわ~。月1500ペソしかもらえないしね。うちの市議ったら2010年で満期なんだけど、次は副市長に立候補するって言うのよ。だから、選挙が近づいたらまた臨時収入がどっさり入るんだけどね。でも、私、彼女は負けると思うの。私もこんな不安定な生活を続けるわけにもいかないし、別の仕事(business)を探そうかなって。政治なんてもう、たくさん。」
そう言うMさんに、私が、
 「『政治なんてもう、たくさん』って、その台詞、なんどもききましたよ。でも結局、Mさん、選挙のたびに政治に戻ってるじゃないですか! 結局、政治も選挙もbusinessのひとつなんでしょ。」
と返すと、Mさん、
 「なんであんた、ちゃんとわかってるのよ!」
周りで聞いていた家族一同も大笑い。
 このノリ。このノリが、実は、すごく大切なんです。
 「政治なんてこりごり、選挙なんて所詮は…」と言っている一見ノンポリの人たちが、選挙が近づくと再び、ものすごーく熱くなってしまう。そして、選挙が終わると急に冷めて、「やっぱり政治なんて興味ない」と言い始める。でも選挙が近づくと前言撤回!
 3年毎の国政選挙にあわせて繰り返される、この不思議なサイクル。Mさんの例だけでなく、どの貧困地区でも、この「語りのサイクル」は同じなのです。たとえば、土曜日にMさんにインタビューに行く前に訪れたケソン市の調査地。2001年5月1日の「EDSA3」では最前線で大統領府に投石し、2007年5月選挙では住民組織代表が市議会議員選挙に出馬、同年10月のバランガイ選挙では住民組織の幹部全員が出馬、という、きわめて政治的な背景をもっているのに、幹部のおばちゃんたちは現在、昨今の健康ブームに乗ってか、フィリピンにもありがちな、ネズミ講式の健康食品の販売促進に夢中。政治の話を振っても、
 「とりあえず政治はいいわ。」
ですって。
 「またそんなこと言って~。来年になれば、2010年選挙に向けて走り回るんでしょ。私、ちゃんとわかってるんだから。」
と私が言うと、ニヤッと笑う彼女たち。
 私も同じ。休みたいなんて言いながら、本当はまだまだ動きたい。降りたいって言っているうちは、当分降りないんだろうなぁ。
 
 私の予想は、たぶん、外れないと思いますよ。選挙時と非選挙時では、同じことをインタビューしても、まったく相手の反応が違うんです。それが、本当におもしろい。やっぱり、選挙って、期間限定のbusinessなんです。でも、「選挙=単なる収入源」じゃない。選挙を通じて、彼女たちは短期間で急速に政治的アイデンティティを形成するんです。選挙は魔法の期間なんです。そしてその記憶は、非選挙時には「できれば消したい過去」なのに、選挙が近づくと「豊富な政治経験」に早代わりするんです。
 みんな、強すぎ。シタタカすぎ。(強いもシタタカも、漢字で書くと同じですが、私は彼女たちのシタタカさに、いつも舌を巻いています。これだからやめられないんです、フィリピン政治研究も、貧困層研究も。こんなおもしろい研究って、なかなかないですよ。
 
 講義では、そんなお話をしたいと思っています。導入として、「じゃぱゆきさん」のパイオニアだったMさんの壮絶な半生を紹介してから、政治に自らのめり込みながら日常を生きるしたたかな彼女たちの日和見っぷり、フィリピンの選挙のおもしろさ、それを研究対象とすることのおもしろさを、少しでもお伝えしたいです。F大学関係者以外の方でも、当日、もし都合のつく方がいらっしゃったら、当日までに私にご連絡の上、ぜひいらしてください。女子大ですが、事前連絡しておけば、男性も入場可能だそうです。

 以下が私の「講義概要」です。
 「フィリピン女性と政治―スラムの女性にとっての選挙―」
 従来、貧しいスラムの人々は、政治家に利用され、日給や食事目当てに選挙キャンペーンに参加し、選挙の際には候補者から金銭をもらって投票する、「無知な」大衆だと言われてきた。本講義では、実は貧困層は非常に賢く、選挙という機会を主体的に利用しているのだということを、数々のインタビューや映像資料を用いて紹介する。
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by saging | 2008-09-29 22:34 | その他
カラオケ
 昨夜、カラオケに行きました。
 つまり、女の子のいるお店です。

 最初に申し上げておきますが、私は、日本人に限らず男性一般が「夜のお店」に出入りすること、そして、フィリピン人女性が日本人を含む外国人をターゲットとする「夜のお仕事」に関わっていることを、決して否定しません。特に女性からの批判は承知の上ですが、それでも。
 もちろん、売買春とか、暴力まがいの一方的な行為とか、あるいは妻子ある男性が真剣に夜の町の女性に入れあげてしまって家庭崩壊、とかいった話は論外ですが、そうでなければ、一般論として、男性は、独身のうちに(あるいは既婚者でも、配偶者にばれないのであれば)そういうところにどんどん行って社交を深めるべきだと思っています。私は自分のボーイフレンド(いまいないけど)がそういう場所に行くことを咎めないし、仮に結婚しても、夫がそういう場所に行って楽しみ、人生の幅を広げてくれることをむしろ推奨すると思います。
 私が勤めている現在の職場はほとんど男性ばかり。ふとしたことで、「エ○コン」だの「L○カフェ」だのという「夜のお店」の固有名詞や冗談が飛び交います。私は職場の人とはほとんど食事にも飲みにも行かないことにしているのですが、誰かの歓送会などの場合は、空気を乱さないため、やむを得ず出席します。たいてい、女性は私だけ。男性たちはビール数杯で本性を現し、カラオケのお姉ちゃんの話題に終始。私は、それをセクハラだなんて思いません。それで周りの人たちがいい気分になって、日々の人間関係がスムーズに行くなら、それでいいんです。私はいつも末席で笑いながらそれを聞き、自分の居場所を確保するために、オーダーを取り、お酒に入れるカラマンシーを絞り、お会計をします。それが分業ってものだから。
 そして、男性陣は必ず「二次会」へ。私はそしらぬふりをしてさっさとタクシーで帰りますが、彼らのその後の行動は、運転手さんたちのチスミス(噂話)やフィリピン人スタッフを通じて私の耳に筒抜け。でも、私は彼らを軽蔑しませんよ。職場では襟を正しているエリート男性がこんなに壊れるんだな、って、心の中でおもしろがっているだけです。
 
 私には弟が2人いるのですが、昨年9月に彼らが2人だけでマニラに遊びに来たとき、私は、自分がこちらでとても信頼しているおじさま/お兄さまがたに、彼らを一晩預けました。とりあえず一人2,000ペソを持たせ、足りなかったらあとで払うことにして。
 そして後日きいたところによると、おじさま/お兄さまがたは、カラオケを含め5軒もを廻らせて下さって、二人で3,000ペソの出費にとどめて下さったとのこと! さすがベテランのおじさま/お兄さまがたです。
 姉のお金で遊ぶというビミョーさはともかく、マニラの夜のお店に行ったことは、必ず彼らにとってよき人生経験になったと私は信じています。私には絶対にできない人生経験。上の弟は、その3ヵ月後(つまり今春)に就職しました。でも、今後数十年続くサラリーマン生活の中で、どんな飲み会の席でも、
「本場のフィリピンのカラオケで、女の子を指名した。」
というのは、きっと、ひとつの武勇伝になるはず。

 …と、ジェンダー研究者からは「放逐」されかねないくらい過激なことばかり書きましたが、実は私自身は、上記のような考えを持ちつつも、これまではほとんどまともに「夜のお店」に行ったことがなかったのです。一度だけ、知人の日本人男性に、ほとんど半裸の水着姿の女の子が踊っているお店に連れて行ってもらったことはありますが、そのときはただ唖然、というか、たじだじでした。
 ですから、昨夜はほとんど初めての「カラオケ・デビュー」でした。それも、とても信頼できる、お店の経営陣の関係者に付き添われて入店するというVIPな体験。
 しかしお店に足を踏み入れた途端、全身の筋肉が硬直しました。入口で指名待ちをしている、20人はいるかと思われる女性たちが総立ちで挨拶してくれて、席に案内されます。私たちの席についてくれたのは、女性の私でも思わずクラッとくるくらいにかわいい、日本人受けする顔立ちの女の子2人組。大きな目に黒髪のストレート。すごく綺麗で、すごくかわいい。どうして私、こんな風に生まれなかったんだろう? っていうか、どうして私、男性に生まれなかったんだろう?って、少しの間、そればかり考えていました。
 そこは基本的にカラオケ店で、日本の曲を多くそろえていて、素敵なステージもあって、お客(=日本人男性)が歌う間は、指名した女の子が横で腕を組んでいてくれて、Duetもしてくれて、始まりと終わりと間奏には待機中の20人以上の女の子たちが拍手して盛り上げてくれていました。普通のカラオケとは違って、歌っている間白けたり、孤独を味わったりする必要もありません。
 歌が途切れると、指名待ちの女の子たちがステージに上がり、ブンタラッタラとか、Itak-tak moとか、人気のダンスナンバーを踊ってくれるのです。
 店の女の子の半数は日本に行ったことがないそうなのに、皆、一生懸命に日本語を話してくれます。それがまた、かわいいんです。しかも、すごいサービス。一本でも吸殻が溜まればすぐに灰皿を取り替え、冷たいビールの注がれたグラスの外側に付く水滴を拭い、可愛らしいライターでお客のタバコに火を付ける彼女たち。すごい気の遣いっぷり。灰皿をとりかえるとかタバコに火を付けるとかなら私もしますが、まさか、グラスの外側の水滴を拭ってくれるとは。これ、夜のお店ではけっこう当たり前のサービスだそうですが、すごく「サービスされてる」って気分になりますね。フィリピン人って男女限らず横柄で気が利かないと思っていたけれど、こういうところで鍛えられている女性って、さすがですね。みんな、姿勢も素敵で、なんというか、好まれる態度、好まれる目線を、角度まで完璧に把握しているんです。特にここは経営者さんが日本人で、サービスも日本人に好まれるよう、相当厳しく指導がなされているようです。
 はっきり言って、完敗です。いったい何を競っているんだかわかりませんが、私もほんとうに見習いたいです、彼女たちの、あの接客姿勢。10年以上前から繰り返され、いまや学会でも引用されるフレーズをここで敢えて引用することは野暮でしかないのですが、
「日本人女性が失ってしまった大和撫子の精神を、彼女たちは持っていた」
って、日本人男性たちが思ってしまうのも無理はないです。
 彼女たちはかわいい。本当にかわいい。夢の国でした…。夢の2時間弱でした。ぜひまた行って、あのかわいいミンダナオ出身の女の子を指名してみたい!(←すでにオヤジですね)
 お店に入った当座は「自分が男だったら良かった」と思ったけど、最終的な結論は、「男じゃなくて良かった」というもの。もし自分が男性だったら、「通っていた」と思います。身を滅ぼしていたかも。
 そう考えると、節度をわきまえながら、コントロールしながら、あの誘惑の中で賢く「遊べる」男性たちって、実はすごいのかもしれませんね。カラオケに通う上司に対する認識も改まりました。hahaha.

 極端な話、フィリピン研究を志す男性は全員、日本のフィリピンパブと、フィリピンの日本人向けカラオケ店に一定期間通ってみるべきだと思います。だって、それが現実なのだから。そして、それこそが紛れもない日比関係の一部なのですから。そして、私たち女性には、それができないのですから。

 紹介して下さった方、案内して下さった方々、そして目一杯楽しませて下さったあのお店の経営陣の方々、本当にありがとうございました! 楽しかった!
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by saging | 2008-09-15 23:37 | フィリピン(全般)
降りる?
 先月、私が、フィリピンでも屈指のリゾートと言われるホワイトビーチの島、ボ○カイ(←しつこく伏せ字にするのは、あまりにリゾートすぎて後ろめたいから)に行ってきたことは、さんざん書きました。そして、そこで定住しておられる/定住しようとされている/一時的に滞留されている日本人があまりに多いことを知り、大変驚きました。定住斡旋のビジネスまであるんですね。
 私がボ○カイで大変お世話になった、フィリピン研究の先輩で人類学者のAzumaさんは、まさに、そうした方々へのインタビューを続けておられるようで、一日も早くそのアウトプットを知りたいところです(と、僭越ながらプレッシャーをかけてみましょう)。

 先週末、ボ○カイを引き揚げて首都マニラに戻ってこられたAzumaさんから、下川裕治『日本を降りる若者たち』 (講談社現代新書) を借していただきました。バンコクのバックパッカー宿のカオサンに「外こもり」(←この言葉、私はつい最近、日本の新聞で知ったのですが、ずっと前からあるそうですね!)を続ける日本人のルポルタージュです。
 2時間くらいで簡単に読める軽い本。なのに、私はその2時間でひどく混乱しました。私はマニラ在住ですが、期間限定ですが仕事があり、いまのところ、それなりにエリートコースを歩んでいます。いまのところ、まさか日本から、あるいは現代社会から「降りる」なんてことは考えてもいません。以前は、フィリピン人男性と結婚してこの地に定住するという選択肢を現実的な問題として考えてみたことがありましたが、
「逆(日本人男性とフィリピン人女性)ならともかく、結婚しても働きたいと考えている現代的な日本人女性であり、かといってフィリピンで収入のあてのない、特殊能力もビジネスの知識もないワガママな私がこの地に住みたいと望んだところで、絶対にうまくいくはずがない」
という合理的打算が働き、いまは、そんなことはまったく考えていません。私も28歳、もちろん結婚はしたいし、子供も2人以上ほしいのですが、我が故郷の日本以外の場所ではそれはありえないと思っています。そして、唐突ですが私には現在決まったパートナーはいないので、いまなら自薦・他薦共に大歓迎です。よろしくお願いいたします。

 …すみません、話はひどく逸れましたが、真面目な話、私は本書を読み、こんなに「降りてしまう人がいること」に、単純に驚いたのです。本書を読む前から、タイやインドネシアやフィリピンといった東南アジアの諸国に魅了されて定住する日本人がたくさんいることは知っていましたし、そんな知人も多くいます。しかし、彼らは決して日本社会を「降りて」はいないんです。一部では降りているかもしれないけれど、彼らはまだこっちの世界の人たちです。
 ところが、この本に登場する方々は、これでもかってくらい、文字通り、日本を、というか社会を「降りて」います。日本にいたら間違いなく「引きこもり」とか「ニート」とか呼ばれるであろう人たち。
 10日に1度の食料品の買い出しのためにしか外出しない人とか、日本で心を病んでカオサンに辿り着いた人たちとか、彼らのストーリーがいちいち生々しすぎて、読み進めながら、気が変になりそうでした。くらくらする思いで、なぜ自分は降りないんだろう、と考えました。一歩間違えば私も、マニラのエルミタの安宿で「外こもり」をする若者になっていたかもしれないのに。うまい具合にフィリピン人男性と結婚して、どこかの田舎に住んで、家事や子育てを平気で姑や親戚に任せながらぶらぶら暮らしていたかも知れないのに。
 私が降りなかった理由は簡単。私は「降りる」人たちをずっと軽蔑してきました。日本のシステムに適応し、労働して生きることがすべてだと思ってきました。
 でも本書を読んでいると、その思い込みが音を立てて崩れそうに思えてきました。こちらがまともで、あちらが変だ、という自分の中の常識の、なんと脆いことか。あちらから見れば、必死で「適応しよう」としている私の方がおかしいんでしょう。読んで良かったです。私の知っている世界は本当に狭いのだから、せめて本くらいはたくさん読んで、どんどんショックを受けて想像力を育てないといけませんね。

 さて、本書の内容だけでも十分ショックだったのに、下川裕治氏ったら、『K.S.さんはなぜ殺されたのか』の著者でもあるんですよね。
 2004年の4月、まだこのBlogを始めて間もない頃にイラクで日本人は人質にとられたとき、私は「批判論者」に転じ、まさに、その後「自己責任論」と呼ばれるようになる論理に加担しました。それは単に、彼らが「政治的だったから」ではありません。「私もああなっていたかもしれないから」です。私は彼ら3人に、もっとも憎んでいる自分の過去を投影したからこそ、彼らを批判したのです。自分も、もし17歳の頃のまま突き進んでいたら、最後にはイラクに行ったのかもしれないなって。
 でも、K.S.さんがイラクで殺されたとき、私は何も言いませんでした。それは、彼が「政治的でなかったから」だけではありません。「私はあんなことしないな」って、即座に思ったからです。私はバックパッカーもワーキングホリデーも経験したことがありませんし、旅人というアイデンティティをもったことがありません。だから、下川氏の
「確かな目的もなく、知らない国に分け入っていく。旅はそれでいいはずだ」
というフレーズがまったく理解できないのです。
 
 私は旅行が好きですが、帰りの交通手段と宿だけは、必ず事前に予約しておきます。今の私は勤め人だから当たり前なのですが、学生時代からそうでした。
 大学生の頃は「鉄道旅行」に惹かれ、チケットショップで青春18きっぷ(中高時代からNGOの会議で上京するために使っていたので、すっかり馴染んでいました)のバラ売りを買って、京都から岐阜県の大垣に行って、そこから大垣夜行(というのは旧称で、当時はすでに「ムーンライトながら」と呼ばれていました)に乗って、未明に東京に着いて、そこから北関東を廻ったり、大好きな仙台や北陸に行ったり、当時すごく憧れていた小海線に乗りに行ったりしたものですが、すべて、時刻表を元に事前に計画を立て、宿泊先も決めてからの予定調和の旅でした。
 フィリピンに1年間留学していたときは、学会などの特定の目的以外では、ほとんど旅行をしませんでした。知人に誘われてビサヤの田舎に行ったときも、あまりに退屈すぎて、1日で帰りたくなりました。私はどうも、「ただ、ぶらぶらする」ということができないのです。
 昨年スキューバ・ダイビングのライセンスを取得してからは、「潜るために行く」って理由をつけて、やっと、ミンドロ、ネグロス、ボ○カイなどを訪問するようになり、世界が拡がりつつあります。基本的に、私は理由がないと動けないのです。目的なくふらっとどこかに行くなんてアリエナイ。
 
 降りるとか降りないとか、それ以前に、私には「旅人」の資質すらゼロのようです。小田実の『何でも見てやろう』を理解することもできないのです。まずはそのあたりの超基本的なところから理解を深めていかないと、「外こもりの日本人」はもとより、私のインフォーマントであり友人である、「降りまくっている」ようにしか見えないフィリピンの人たち、特に"stamby"と呼ばれるスラムの無職の若者たちを表象するなんて、とんでもないことなのかもしれません。先日より、親しいフィリピン研究仲間と話していて、そう思いました。優等生の私は、そういうことを理解し噛み砕く能力、あるいは他人のおかれている状況に対して想像力を働かせる能力において、著しく彼らに劣っています。そして、それって、研究者としてだけじゃなく、人間として、かなり問題です。
 私はずっと混乱していて、うまく言葉が紡ぎ出せなくて、ほんとうに困ります。仮にも研究者の卵なのに、これじゃダメだ。そんなことを思っている時点で、私の世界は絶望的に狭すぎるのかしら。いったい私はこれまで何を勉強してきたのかしら。頭と心を鍛えるために、まずは、Masaさんに教えていただいた人類学の入門書を読んでみようかなぁ、と反省するこの頃です。Masaさん、研究仲間の皆さん、いつも甘えてばかりでほんとうに申し訳ないのですが、どうかこんな私を見捨てないで、私の混乱を言葉にすることを手伝って下さい。
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by saging | 2008-09-14 17:32 | その他
まだ損なわれていない1日
 日本の大学の夏休みも後半。多くの先生方や研究者やNGOの知人や学生さんたちがフィリピンに来られて、そして去って行かれます。私にとっては、超ハイ・シーズン。この1ヶ月で、いったい何人の方とお会いいただいたか、もう数えることもできないくらい。
 私の「日常」に刺激と潤いと彩りをくださった一人一人の皆さまに、本当に感謝しています。Makulay na ang buhay ko.

ホテル/溜まり場/アジト/飲み屋…と化している我が家にも、次々とお客様がいらっしゃいます。この夏は、14人が我が家に一斉に遊びに来るという新記録を達成。我がコンドミニアムのセキュリティはかなりいい加減なので(だからこそ私はその使い勝手の良さをとても気に入っているのです)、私が帰宅するとすでに飲み会が始まっていたり、冷蔵庫に見覚えのないものが入っていたり、我が家への「朝帰り記録」を更新し続ける方々にあきれながらその体力に感心させられたり、朝起きてみると私の知らないうちに宿泊客が増えていたり…と、なかなか刺激的な日々です。(親にはとても言えません。)
 何より、気の合う研究仲間や先輩方と、時間を気にせずに我が家でゆっくり話し、議論し、冗談を言い合う時間は、まさに珠玉です。不釣合いに広い部屋で期限付きでオママゴトのように危うい生活をしている私をこれまでどおり対等に「研究仲間」として扱ってくれて、職場での愚痴を吐露する私に対し、真摯に助けの手を差し伸べてくれて、私を院生に引き戻してくれて、何事においても私が引け目を感じなくていいように配慮してくれる人たち…。みんな、とってもジェントルマン。さすがフィリピン研究者。日本にいても一年に一度か二度の学会/研究会で会うくらいなのに、ほんとうに信頼しています。いつも、甘えてばかりでごめんなさい。最近、酒豪をとうに通り越して「酒乱」の汚名を着せられつつある私に、懲りずに付き会い続けてくださる彼らには、ほんとうに感謝しています。
  
 私にとってマニラは日常なのに、彼らは旅人。その感じがなんだかおもしろい、と思うこともあります。でも、友人たちが「帰る」ために私の部屋を出て行くのを見送るのは、いつでも、ものすごく寂しい。大勢の賑やかさに慣れた数日後、もう誰もいなくなった暗い部屋に帰るのも、とても寂しい。皆はこの地で調査をしてたくさんのインプットを得て次の場所へ移っていく、あるいはホームに帰っていくのに、私はずっとここにいる。誰かが我が家を通り過ぎるたびに、「追い越されてしまった」ような、「取り残された」ような気がするのも事実です。彼らから見れば、マニラ在住の私の「日常」は羨ましいものであり、私自身もこの「日常を」を確かに望んでいたのであり、だからこそ、私は期間限定のこの「日常」を一生懸命生きるしかないって、わかっているのですけれどね。
 訪問客が一息ついたら、とりあえずは、来月の定期健康診断に向けて肝臓をいたわることにします。

 ともあれ、私がいまの広いコンドミニアムに住んでいられるのもあと半年余り。皆さまには今後とも、遠慮なく、存分に活用していただきたいと思います。あっ、それはそうと、一部の方々へ。「sagingさんの家の玄関に男物の靴があった」とか、「洗面所にカミソリがあった」とか、そういう偏った断片情報を流すのはやめてくださいね! あらぬ誤解を生みますから!

 ここ数日は、私のとても尊敬するF大学のG先生のグループがマニラに滞在されていました。先生方は我が家の至近距離のペンションに、学生さんは我が家にご投宿。先生のお知り合いの方をご紹介いただいたり、共通の知人と会ったり、ワイン党のG先生と我が家でワイン飲み会を開催したり…。とても楽しかったです。
 今朝、早朝のフライトで成田にお帰りになる先生方をペンション前からお見送りして、しばらくたつと、「空港で思わぬトラブル発生」とのお電話があり、空港にタクシーを飛ばしました。そんなトラブルはつきものだけれど、無事に解決。良かった良かった。
 だいぶ早いけれどそのまま職場に来て、まだ誰もいない静かなオフィスで新聞を広げて、お湯を沸かして、先日ボ○カイでお世話になったちぃさんからいただいた「マテ茶」をサラバット(生姜の粉末)に混ぜて飲んでいます。おいしくて、素敵な朝です。
 当たり前の「日常」が始まる前の、私の一番好きな時間。まだ損なわれていない1日(by村上春樹@『5月の海岸線』

 今日を日常として迎える人にとっても、非日常として迎える人にとっても、ホームにいる人にとってもアウェイにいる人にとっても、二度と戻らないこの日が、よい1日でありますように。
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by saging | 2008-09-10 07:30 | フィリピン(全般)
テロルの決算
 沢木耕太郎『テロルの決算』。
 数ヶ月前から指導教授に薦められていて、昨夜からやっと読み始めました。
 やばいです。これ。

 昭和35年、社会党委員長浅田稲次郎議員が日比谷公会堂での演説中、17歳の右翼少年山口二矢に刺殺された事件。少年は右翼の黒幕に使嗾(シソウ)されただけにすぎないとする従来の見方に対し、本書は、さまざまな記録を使ってそれを反駁していきます。

(多くの文化人たちには)右翼団体に入るような少年に、ひとりで考え、ひとりで計画を練り、ひとりで決行しうる能力があるわけはない、という危険な断定があった。あるいは猿回しの「猿」であってほしいという願望があった。

山口二矢はその誰かに踊らされていた人形にすぎないのだ。――私には、このような見方の底に隠されている他者への傲慢さと、その裏返しの脆弱さに我慢がならなかった。それは山口二矢という十七歳ばかりでなく、同時に私の十七歳に対する冒涜ではないか、いや、すべての十七歳への冒涜ではないか、と思えた。


 やばい。何度か、泣きそうになりました。
 沢木さん、あなたの言葉は、冒涜されていた私の17歳を救ってくださいました。

 私が都市スラムの住民が政治的に利用されているとかいないとかいう話にこだわり続けるのは、あるいは私がNGOの分裂の話に固執し続けるのは、自分が「活動家」だった10代の頃、周りの大人やメディアに
 「自主的に活動する中高生」
 「エンパワーされた子ども」
ともてはやされる一方で、
 「あのNGOに使われているだけじゃないか。」
 「何もわからないままに、利用されて。」
 「大人に踊らされているだけで、世界のことなんてわかっちゃいないくせに。」
といった陰口をいつも背中に受けてきたからです。
 私は、いつか彼らを見返してやろうと思って、そして、自分が大人になって周りにそんなアホな大人がいたら徹底的に論破してやろうと思って、大学に進み、そして、大学院に進んだのです。
 まだ、なにもできちゃいないけれど。

 いつか、沢木さんのような仕事がしたいです。
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by saging | 2008-09-04 22:44 | その他
ボ○カイ(最終回)
 あと1回だけ、ボ○カイのネタで引っ張らせてください。
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 ボ○カイのあちこちにあるLonely PlanetというTシャツ屋さんで買ったTシャツ。ダイビングのタンクがビール瓶になっているこの絵柄が、左胸に小さく、そして背中に大きくプリントされているというもの。お世話になったダイブショップのインストラクターさんに教えていただいたのです。こういう遊び心、大好きです!
 
 あっ、私が着るのではありませんよ。来週誕生日を迎える上の弟へのプレゼントです。カティクランで買った干しエビとともに贈ることにしました。
 日本では少々、派手すぎるデザインかもしれませんが、我が弟は体格も姿勢もいい上、高校の頃は制服の白いカッターシャツの下にあえて真っ赤なTシャツを着ていたし、マニラに来ては南国色のピンクやブルーの派手なポロシャツを何枚も買って平気で着こなしたりする大胆な男なので、きっと似合うと思います。しかも彼は、ビールが大好きでチキンダイバー(昨年9月に私たちが兄弟3人でダイビングのオープンウォーター講習を受けたとき、彼はマスククリアができず、1日で諦めて帰りたいと漏らしていました…)。ですから、まさにぴったりの贈り物では、と自負しています。気に入ってくれるといいのですが。

<追記>
 気に入ってもらえたようです。一緒に添えたカードに、「ビールのTシャツに、ノンフライのエビスナック。メタボな君にぴったりやろ」と書いておいたのですが、そのとおり、ビールのTシャツでエビをつまんでビールを飲むそうです。
 ギャグだけじゃなく、Lonely PlanetのTシャツって、品質的にもデザイン的にもとってもいいものが揃っていました。マニラにはないのでしょうか。もし知っている方がいらっしゃったら教えてください。
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by saging | 2008-09-03 22:51 | フィリピン(全般)
「ピュアなあなたとは違うんです。」
ペシャワール会の伊藤さんが亡くなりました。ご冥福を、心からお祈りします。

そんな世界の中で、平気でボ○カイ旅行を楽しみ、高給を得て高層コンドミニアムに住み、何不自由なくマニラでの生活を楽しんでいる私。
 そんなことで心に波風が立つほど、私はヤワじゃなくなってしまったのです。なんて、そんな言い訳を簡単に吐けるくらい、私は鈍感になってしまったのです。

 私が現在応募している奨学金の選考では、単なる研究者ではなくいかに社会に貢献できる人物か、ということが重視されているようです。論文や学会発表の経歴の少ない私は、過去(10代の頃の)社会経験や受賞歴やNGO経験を「売り」にしてみようかと思って、データファイルを引き出してみました。当時は、メディアにも露出していたしし、12歳~17歳の5年間で、国際協力系のエッセイ・コンテストだけでも年1回以上当選し、副賞で海外に研修旅行に連れて行っていただいたことも数多くありました。実は、郵○省表彰を受けて、地元郵便局で『1日郵便局長』をやらせていただいたこともあるんです。超・恥ずかしい過去! 学校でも、校長先生に依頼して全学ホームルームの時間に署名用紙を回してもらったり、朝礼の時間にお話をさせていただいたりとやんちゃ放題。当時はそれが当然と思っていたのですが、いま思えば、超KYで、ぶっとんだ高校生です。向こう見ずもいいところです。本当に恥ずかしいです。「ジャンヌ・ダルク」とか揶揄されても文句は言えません。

 私はそうした経歴の中から使えそうなものをピックアップして履歴書に記入し、書類を仕上げて奨学金の事務局に送りました。
 …もう、活動家じゃないのに。

 高校生のとき、私は、系列大学の法学部政治学科への推薦入学を希望していました。法学部は就職率が高いので文系でもっとも競争率が高く、推薦基準は高校時代の成績でした。中興を通してNGO活動に没頭し、お世辞にも真面目に勉強をしていたとはいえない私は、最後まで、推薦を得られる自信がありませんでした。
 しかし、12月の終業式の日、私は担任の先生から、無事に内定をいただきました。

 私はそれとほぼ時期を同じくして、7年間関わり、エチオピアやウガンダにまで連れて行ってもらったNGOの活動員を辞めました。
 そして当然、このように思いました。私は大学への推薦を得たいためにNGOを利用していたのではないか、と。本当は違うのです。本当は、その時期にNGOの中で多くの分裂があって、私はそれに巻き込まれる形でやめたにすぎなかったのです。でも、他人から見たら、大学への推薦がもらえたから活動をやめたのだと思われてもしかたがありません。

 卒業が間近になってから、私は担任の先生に尋ねました。
「先生、私の成績は本当に足りていたのですか? 私が推薦をいただけたのは、私が社会活動をしているからですか?」
私のその言葉を聞いた途端、普段はものすごく温和な先生は、
「誰がそんなことを言ったんだ!」
と、血相を変えてそう叫ばれました。
「私がちょっと思ったに過ぎません。先生、ごめんなさい。」
私が言っても、先生の怒りは収まらず
「皆が君に期待して、君のような人間こそが大学で学ぶべきだと思っているんだ。僕も、君は大学で必ず花開くと思っているんだ。それをどうこう言う奴がいたら、ここに連れてこい!」
と怒鳴られました。

 それでも、活動を自分のために利用したのだという思いは消えることはありませんでした。
 その後、私は「活動」から足を洗い、自分のためだけにお金と時間を使う、ごく普通の大学生になりました。世界を変えたいとは、ずっと思い続けていました。勉強して、知識をつけて、NGOじゃなくて、政府とか国際機関とか開発コンサルの側に入って世界を変えてみせたいって。でも、サークル三昧で過ごした大学3年間は、そんな熱い思いは隠していました。適当に授業をさぼって、適当に単位を取って、適当にバイトをして、サークル活動に明け暮れる享楽的な日々。きっと、どこから見ても「普通の大学生」だったはず。
 しかし私は、サークルを引退した大学3年生の12月、大学を中退して大学院への飛び級進学を目指すことを決めました。「普通の大学生」から突然「ぶっとんだ大学生」へ。当時お付き合いいただいていた男性にそれを話したら、彼は文字通り「ドン引き」。彼にはそれ以前から少しだけ、自分の「NGO活動家」としての過去を話してはいたのですが、まさか私がそこまで熱い人間だとは思っていなかったようです。
 その数週間後、24時間営業の喫茶店で、私は一晩中かけて自分の思いを説明しました。自分はイノセントなNGO大好きっ子でもないし、途上国を開発してやろうなんて熱い思いを持った活動家でもないんだって。むしろ、そういう生き方を憎んでNGOをやめて、そういう人たちを見返すために大学院に行って知識を身につけたいんだって。
 私の話を聞いたあと、彼は私に軽蔑の目を向けて、たった一言、
「ピュアやな」
と言いました。
 そして私たちはもう二度と会うことはなく、数週間後、私は彼から
「他人の役に立ちたいと願うのは、まっとうなことだと思う。でも残念ながら、私はそれを応援することはできません。」
という手紙を受け取りました。
 彼はものすごく頭のいい人でしたから、私の言いたいことを理解したうえで、その言葉を使ったのでしょう。「ピュア」で「他人の役に立ちたい」ようなイノセントな人たちを一番嫌っている私に対してその言葉を投げつけることで、私から離れたかったのでしょう。
 私は他人の役に立ちたいだなんて思ってない。あなたの役にさえ立てないなら、『他人の役に立つ』なんて言葉に、いったいなんの意味があるのでしょう。私は、フィリピンよりも何よりも、あなたの役にたちたかった。あなたを幸せにしたかった。あなたをすら幸せにできないなら、いったいこの先、世界中の誰を幸せにできましょう。
 その手紙を受け取った翌日、私は大学に退学届けを提出して、フィリピンに旅立ちました。もう、それっきりです。余計な波風を立てたいとは思いません。彼のことは今でもとても敬愛していますから、幸せになってほしいと思っています。

 自分はいったい何がしたいのか。あのとき、彼にすら伝えられなかったことを、他の誰かに伝えられるとは思えない、とずっと思ってきたし、いまも思っています。実は、自分でもわかっていないのです。大学院に進学して、研究を続けて、活動にも再びちょっと足を突っ込んで、フィリピンに留学して、スラムに住んだり、はたまたエリート生活を楽しんだりしながら、いったい私は何がしたいのか。そもそも、本当に世界を変えたいなんて思っているのか。それとも、全部享楽なのか。

 高校3年の夏まで、私は、自分は飢餓を終わらせるために生きるんだと決めていました。しかし、1998年の夏に、当時関わっていたNGOの活動で訪れたウガンダとルワンダの国境近くの村で、車が故障して、赤土の炎天下に放り出されて、薄れゆく意識の中で、私はこのままここで死ぬのかもしれない、それが私の本望だ、と思った一方で、私がここで死んだらどれだけの人に迷惑をかけ、どれだけの人に後悔をさせてしまうんだろう、そういえばこれまで、私は大きな世界を語るばっかりで、身近な人たちのことをまるで考えていないよな、との思いがよぎりました。
 私は、あそこで生まれ変わったと思っています。あのとき、あの状態に置かれてやっと私は、自分は世界を変えることなんてできないんだとわかったのです。そして、自分は自分のためにしか「活動」していなかったんだな、とわかったのです。
 その1年後、同じ団体の大切な活動仲間だった友人が農業支援のためにアフリカのガーナに旅立つとき、私は彼女が日本を発つ前に、こんな手紙を書きました。
「無事に帰ってきて。アフリカの農業なんてどうでもいいから、何かあったら、全部放り出して帰ってきて。」
 彼女は何も放り出さずにガーナの地に献身して、1年半後、なんとか無事に帰ってきてくれました。来週結婚する彼女ですが、彼女もやはり先日、mixiの日記で、伊藤さんの死に触れ、こう書いていました。

 あの頃は自分の使命が果たせるならば死んでもいいと思っていた。
 でも、アフリカ行きの直前にお会いした岩手の炭焼き農家の方に、「絶対に死んだらだめだよ。あなたはいいけど、あなたの両親がかわいそうだよ。」といわれた。
 その方は事故で子どもさんを失っていたことをあとで知った。
 自分は国際協力の第一線から離れ、結婚し、家庭を築こうとしている。


 私たちにできることは、自分がまず幸せになることしかないのかもしれません。

 先日、うちの職場に、アフガン駐在経験のある方が転勤してこられました。その方の歓迎会で、たまたま、映画『○の子たち』を撮った監督がアフガンでも映画を撮ったというお話になったとき、私は思わず、こう言ってしまいました。
「彼はポルノ映画の監督だった人ですよ。お涙チョウダイのストーリーをでっちあげるために、パ○タスのゴミ山近くのコミュニティで、わざわざ障害児を探し歩いた人ですよ! あの監督の作品は日本人ウケする。なのに、多くの日本人はペシャワール会も伊藤さんも知らない。アフガンの民族紛争の犠牲者よりも、もっとわかりやすい『ゴミ山の子どもたち』に勝手に共感して、勝手に惹かれる。この夏休み、何百人もの日本人が、ワークキャンプやスタディツアーと称してマニラのゴミ山を訪れ、裸の子供たちの写真を撮るでしょう。でも彼らは、社会にも世界にも興味なんてないんです。『何かしなくちゃ』と言って日本に帰ったとしても、フィリピンのニュースを読むわけでもない。連日ニュースになっているミンダナオ問題になんて何の関心もない。同じフィリピンでも、現在北コタバトの紛争によって犠牲になっている避難民のことなんて、知る由もないんです。あの映画は、そんなアホな日本人ばかりを再生産するのです。アフガンで伊藤さんが殺されたことよりも、外務省が世界に対して無力であることよりも、そのことのほうがはるかに問題ではないですか?」
 
 もちろん、職場の人たちの前なので、非常にトーンを抑えて言ったのですが…。どうして、私はこんな偉そうなことばかり言ってしまうんだろう。
 スラムの人たちの言葉を論文の種にして学位を取って、「弱者」の側にいる振りをしながら思いっきり勝ち組で、イラクで日本人が殺されても平気で、毎朝、冷房の効いた快適なオフィスで新聞を読み、人の命より政治のおもしろさに釘付けになり、お洒落なマカティのコーヒーショップで人権問題を論じ、自家用ヨットを持つ政治家の友達とマニラ湾を夜間クルーズしながらミンダナオ問題を語る私に、何が言えるというのでしょう。私は知識と情報とずるさを身につけただけ。
 こんな私には、世界や社会について語る資格なんてないんでしょう。10年前にウガンダで死にかけた「ピュア」で「向こう見ず」で「世界を変えたかった」私のほうが、まだ害が少なかったのかな。

 強者であるくせに弱者の振りをする自分の嫌らしさとか、他人の役に立ちたいと願うことの嘘臭さとか、社会に貢献したいと願うことの白々しさとか、そういうことって、多かれ少なかれ、多くの人が考えながらも感じているのだと思います。特に開発協力と呼ばれる分野に携わっている人は。あるいは、研究者だって。
 だから私は、普段はこんなことは口にしません。自分の嫌らしさについて語ることは決して他人を幸せにしないし、何よりも自分を幸せにしませんから。
その代わりに、「ピュア」で「人の役に立ちたい」と考えている人たちを批判することで心の平穏を保とうとしています。闘うことも、世界を変えることもとっくにあきらめているくせに、スラムの研究を続け、NGOと政府を繋いでやろうなんて烏滸がましい大志をちょっと抱いている偽善者の私は、自分の嫌らしさを、他人に投影して苛立つのです。私は「善いことしたい」人たちが大嫌いで、スタディツアーでパヤタスのゴミ山を見に行きたがるような学生が大嫌いで、NGO活動をしていることを他人にひけらかすような学生が大嫌いで、政府批判しかできないNGOが大嫌いなのです。あんなふうにピュアに突き抜けてしまえない私は、じぶんのやりたかったこと(闘うこととか、世界のために生きることとか)を彼らに取られてしまう気がして焦って、あの人たちを批判して、「ほらやっぱり(闘争も、世界のために生きることも)できないじゃん、理想主義の偽善者」って言うことで、そして、「あなたとは違うんです」って思うことで、自分を保っているのです。

 すごい閉塞感。ここから脱出するには、私はこの苛立ちともっと冷静に向き合い、このエネルギーを研究や仕事に向けるしかないのだと思います。いつまでも、自分の醜さを他人に投影してワルグチを言うことしかできないから。修士論文を書いていたときは、他人に投影した嫌悪感や、ピュアな人たちへの憎しみや、自分への焦燥感すらが全部プラスの方向に向いていました。またあんなふうにならないと。ここ数年間、私はずっとマイナスの輪を回り続けているように思います。なんとかしないと。そろそろ本当に、なんとかしないと。
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by saging | 2008-09-03 22:40 | その他