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Keso de Bola とは、 「表面は赤いのに中は黄色い」フィリピンのボール型チーズ。転じて日和見主義者。       かつてお世話になった、現地の言葉で「灯台」と呼ばれるマニラ湾岸のスラムを、ガラス越しに。
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映画 ”PARAISO” 後日談
次回の続きです。

映画”Paraiso”を観たあと、Gawad Kalingaの代表であるTony Meloto氏に、そして、Gawad Kalingaを支える方々(外国人含む)にお会いいただく機会がありました。Tony氏は元ビジネスマンですが、見た目も身なりも振舞いもごく普通の人でありながら、いったん口を開くとそれはそれは饒舌で、でも決して押し付けがましくはなく、実に説得的に話をされる方です。開口一番、Gawad Kalingaとローカル・ポリティクス、なかでも、スクワッターの土地獲得問題について尋ねた私にも、落ち着いて答えてくださいました。

Gawad Kalingaは、政治に関与しないことを方針としています。スクワッターが土地を獲得するまでのプロセスには積極的に関与しません。受益者は、土地紛争をすでに解決した地域に限られます。しかし、(映画の中でモンタノが言っているように)Gawad Kalingaは、「家を作るのではなく、コミュニティをつくる」ことをモットーとしており、コミュニティは往々にしてきわめて政治的なはずです。実際、Gawad Kalingaの事業のために土地を提供する地元有力者は多く、住宅建設には地元政治家のバックアップが必要となるなど、政治に関わらざるを得ない側面もあります。先週はケソン市で、Gawad Kalingaの受益者になる予定であった人が、事業が入る前に解決されるべきであった土地紛争によって殺されました。

都市でも農村でも、家を建てる云々の前に立ちはだかるこの国の土地問題に、一切目を瞑ることなど、誰にも出来ません。そんな批判を甘んじて受けながら、それでも、Gawad Kalingaという家づくりのプロジェクトを定着させたTony氏は、このような質問を何十回も受けてきたのでしょう。その言葉は、真に重みを帯びていました。

そして、たまたまTony氏と一緒に私がお会いいただいたGawad Kalingaを支える人々というのは実にどの人も素敵な人で、社会企業家だったり、ジャーナリストだったり、コラムニストだったり、宣教師だったり、他団体の専属スタッフだったりと、別のProfessionをもっている、インテリにして偉大な方々です。
ある人が、こんな話をしていました。

先日の中間選挙で、ある地方では、Gawad Kalingaのボランティアをしている人物と、Gawad Kalingaの事業に土地を寄付した大金持ちの地主が、ともに町長に立候補していました。ある日地主は、Gawad Kalingaの受益者たちに対し、
「この土地を寄付したのは誰だか知っているのか。もしあなたたちが私に投票しなければ、私は再度この土地を取りあげるだろう。」
と言いました。これに対し、受益者の一人が歩み出て言いました。
「私たちは長い間、何も持たない生活にずっと慣れてきました。土地と家を持てたことは大きな喜びですが、でも、仮にいま、再びそれを失ったところで、何の苦しいことがありましょう。取り上げられるものなら取り上げてください。私たちは何の痛みも感じません。私たちにも尊厳はある。票を売ったりはしません。


この話。どう思われますか?
確かに美談ではあります。一緒に聞いていた人々は一様に賛同を示し、
「そうだ! Gawad Kalingasの受益コミュニティに限定した世論調査を行えば、必ず、彼らがどれだけ賢く投票し(cast wise vote)かがわかるはずだ! Gawad Kalingaが家をつくりながら提供したEducation Programこそが、伝統的政治家(Traditional Politician)と金に惑わされていない市民を生んだのだ!」
と言いました。
 しかし、本当にそうなのでしょうか。
私の知るマニラのUrban Poorの人たちは、10年以上も土地紛争の中で生き、Gawad Kalingaなど知らずにして、さまざまな生存政略をたてています。1998年にエストラダ前大統領を支持したことも、2004年に故フェルナンド・ポー・ジュニア候補を支持したことも、彼らにとってはWise Voteだったはず。今回の中間選挙でアチェンサ元市長や返り咲きの現市長(共にマニラ市)、ベルモンテ市長(ケソン市)を支持した貧困層が無知で金にだまされる民衆だったなんて、誰が言えるのでしょう。パンパンガ州で、俳優のマーク・ラピッド氏とフエテン王ピネダ氏の妻を破って、実に無名だったパンリロ神父が当選したのは、今回の中間選挙におけるほんとうに数少ない明るいニュースでしたが、だからといって誰が、ラピッドやピネダに投票した貧困層を無知だと責められましょう。ラピッドやピネダに投票した人たちにも、それなりの理由があっていたはず。皆が、お金に釣られて何も考えずに投票したなんて、そんなこと、ありえません。

パンパンガ州ではたまたま今回、伝統的政治家に対峙するオルタナティブ足りうる政治家が出たわけですが、多くの貧困層は、オルタナティブなどない世界で生きています。既存の伝統的政治家を批判しながらも頼り、利用されながら利用し、その堂々巡りの中で日々熟考しながらも、3年に一度の選挙ではやっぱり伝統的政治家を選ぶのではないでしょうか。戦略として、選択として。(私たちだって、堂々巡りの政治の中で熟考しながらやっぱり伝統的政治家に投票することだってあるじゃないですか。)
パンリロ神父だけがオルタナティブだなんて言わせません。1998年には、国民は、エストラダこそがオルタナティブだと信じていたはず。いまでも、アロヨ大統領こそがオルタナティブ足りうると信じて彼女を支持している都市貧困層だっているのですし、かの昔に対立候補の地盤に放火したかどで逮捕された伝統的政治家クリソロゴは、ケソン市1区の貧困地区の救世主として支持を集め、今回も下院議員に再選されました。Gawad Kalingaの受益者が、いまだスクワッターに住み続けながらもクリソロゴに投票した貧困層より賢い(wise)だなんて、いったい誰が言えるでしょう?

私も何度かバセコ地区をはじめとしたGawad Kalingaの事業地に寄らせていただいたことがあります。Gawad Kalingaのプロジェクトは確かにすばらしく、彼らは確かに、家を建てる以上の何かをしています。Gawad Kalingaが人々の(そして私たちの)心のどこかに触れ、人々の(私たちの)新しい思考や行動を促すのは当然のことです。映画”Paraiso”で描かれていた様々な階層の家族のように。私たちは日々、さまざまな外部刺激を受けながら自分を変えていくだけです。でも、それは当然のこと。私たちは、「賢く投票」できる「良き市民」となるために誰かから教育される必要はありません。

Gawad KalingaのようなNGOが政治化してしまうことよりも、教育者と化してしまうことのほうに懸念をおぼえます。カトリック教会にしても同様です。誰に教育されなくたって、「私たちにも尊厳はある」のですから。
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by saging | 2007-07-18 20:38 | フィリピン(全般)
映画 ”PARAISO―Tatlong Kwento ng Pag-Asa―”
昨年のマグサイサイ章を受賞したフィリピン最大規模のNGO,Gawad Kalingaに関わる3つの家族をモチーフにした映画、「PARAISO―Tatlong Kwento ng Pag-Asa―(天国―3つの希望の物語―)」を観てきました。

Gawad Kalingaの詳細は以下のウェブサイトをご参照いただきたいのですが、非常におおざっぱに説明すると、このグループは、家のない貧しい人々に家を提供することを使命としています。貧しい人々自身が労働し、近所同士、力をあわせて家をつくります。トタン屋根のスクワッター住宅ではなく、石造りの素敵な家を。労働は受益者自身と若者ボランティアが担い、コンクリートやベニヤなどの家の素材は、国内外の大型企業の寄付から捻出されています。日本では大学サークルで知られているハビタット・フォー・ヒューマニティと似たアプローチです。

Gawad Kalingaのホームページ:http://www.gawadkalinga.org/
“PARAISO”作品ホームページ:http://www.gawadkalinga.org/gkmovie.php

アメリカの一部やオーストラリア、ニュージーランドではすでに3月から上映されていたそうですが(にも拘らず英語字幕なしの全編タガログ版というのはいかがなものか)、フィリピンでは、6月12日の独立記念日以降の公開となりました。5月の中間選挙で上院議員に立候補していた(そして惨敗した)俳優のセサール・モンタノが出ていることがその理由と思われます。
私は人の少なそうな夜10時という時間帯を狙って、我が家から徒歩10分のショッピングモール「ロビンソン・エルミタ」で観てきました。上映開始時、観客はわずか10名足らず。やがて皆ぽつりぽつりと出て行き、終了時まで残っていたのは私とあと一人だけ。
…こんな風に書くと、いったいどんなにツマラナイ映画なんだ、と思われるでしょうが、とんでもない。すばらしい映画でした。

異なる製作会社による3つの映画が、オムニバス形式で上映されます。各ストーリーに関連性はありません。共通しているのは、Gawad Kalingaに何らかの形で関与している、ある「家族」の物語であるということ。この「家族」の形というのがきわめてフィリピンらしく描かれていて、作品に深みを与えています。「バベル」なんて「メ」じゃありませんよ!
ストーリーの進行につれ、3つの家族はそれぞれにGawad Kalingaと接点を持つことになるのですが、それが実に嫌味なく書かれています。正直に言って私は、本作品を見る前は、どうせGawad Kalingaのプロモーション映画なんだから、Gawad Kalingaの事業を通じて幸せになった人々たちの姿をお仕着せがましく描いているだけなんだろうと思っていました。しかし、お仕着せがましさは最小限です。特に1作目と2作目は、Gawad Kalingaのシーンなんて、10分の1も出てきません。3作目では初めてGawad Kalingaの詳細が主人公の声で語られますが、それでも、Gawad Kalingaの名前がやっと出てくるのは後半以降。シンプルです。控えめです。
3作とも実話に基づいてつくられたのだそうで、「ちょい役」で出演している人たちは、実は本物のGawad Kalingaの受益者。だからこそ滲み出るリアリティ。
映画上映期間が平均2週間と異様に短く、メディアにも大々的に取り上げられにくい自主制作映画で、かつ、英語字幕すらないこの映画を観てくださる日本人がどれだけいるのか私にはわかりませんから、以下、「ネタバレ」を含みつつ、この珠玉の作品の内容に立ち入りたいと思います。

1作目、”Umiyak Man ang Langit(たとえ天が哭いても)”は、2003年12月にレイテ島を襲った集中豪雨による地滑りで家を失った家族を描いています。主人公は、生まれ育ったレイテの田舎を離れてお金のためだけに首都マニラに出て行く親戚らに反感を抱いている若い母親。理解のある夫と共に、4人の幼い子供を育てています。クリスマス直前のある晩、彼女の家庭を、地滑りが襲います。妹と娘を失ったことで半ば気が狂ってしまう彼女ですが、夫の提案でGawad Kalingaの事業に参加し、もういちどこの地で家を建てて住もうと決意します。実に単純なストーリー。
土砂災害直後のシーンは、圧巻の一言に尽きます。土砂に埋まってぐちゃぐちゃになった家に閉じ込められながら、暗闇と泥の中で4人の子供を手探りで捜す母親の壮絶な演技には、ただただ圧倒されます。娘を失ったことで精神に支障をきたしながらも、それでもなお、埋もれてしまった自分たちの土地に住み続けたい、と願う主人公を演ずるのは、マリセル・ソリアノ。熱演です。絶望的な悲劇にもかかわらず、彼女をひたすら支える夫と、生き残った3人の子供の何もわかっていないような天真爛漫な演技もすばらしい。

2作目、”Ang Kapatid kong si Elvis(僕の弟エルビス)”は、Gawad Kalingaを支援する富裕層のビジネスマン家族の大騒動を描いたコメディ。裕福な奥様がある日、どういうわけか、Gawad Kalingaの事業視察中に出会った超わんぱくな孤児を気まぐれで養子にします。他方、豪邸に住みながらもGawad Kalingaの肉体労働にも参加している奥様の一人息子(ハンサム)は、この孤児の弟とうまくやっていけるはずもなく、四苦八苦します。その後のストーリー展開はシッチャカメッチャカ。コメディなのですべてが面白おかしく描かれていますが、彼は彼なりに苦悩します。そして、両親がGawad Kalingaの仕事で留守にしている間に、彼は成り行きで、弟と一緒に、「僕らの家」と呼ぶ犬小屋を引きずって旅に出ます。この犬小屋、主人公が一目惚れしたGawad Kalinga受益者の女の子が弟と一緒に作ったもの。支離滅裂ですが、一応話はつながっています。
私はこの作品をあまり好きにはなれませんでしたが、3作の中ではもっとも巧みな作品だと思います。映画に詳しい人が観れば、きっと、3作の中でもっとも映画らしい作品なのでしょう。Gawad Kalingaの登場頻度はきわめて少ないのですが、その代わりに、「家」、「僕らの家」という概念が何度も何度も、それでいてしつこすぎないほどに登場しているのです。ロケシーンの美しさも見事です。フィリピンにもあんなに美しい場所があるのね、と再発見。

3作目”Marie(マリー)”はいよいよ、国民的俳優、セサール・モンタノの主演映画です。アメリカで働き、苦心して富を築き、アメリカ人の美しい妻(マリー)と結婚したフィリピン人男性が、モンタノ演じる主人公です。フィリピンの彼の実家も裕福なのですが、アメリカ人の妻は、空港から実家に向かうまでの道のりで、渋滞の多さと不法居住者の多さに顔をしかめ、
「どうして誰も何もしないのよ!」
アウトサイダーの超正論。いやはや、うちの親と同じことを言います。
二人でジョギングがてら教会に行き、外にたむろする子供たちに小銭をせびられた妻は、いったん家に帰り、数え切れないほどの小銭を用意してから自家用車で教会に向かい、子供たちに小銭をばら撒きます。美しい笑顔で。それを見て、すごい数の子供たちが彼女を取り囲みます。
「あの子供たちに何かしたいのよ。今度ここに戻ってきたときには。」
ようやく車に戻った彼女の、あまりにも純粋でイノセントな言葉。イノセンスはときに暴力でしかありませんが、それでも、あまりに純粋すぎる彼女の言動は、フィリピンのような国の人々に対してちょっぴり罪悪感を抱く先進国住民を代弁しています。
ワールドトレードセンター南棟で働いていた彼女は、あの9月11日に亡くなりました。1機目の追突時、自宅で呑気にエクササイズをしていた夫の元に、彼女は冷静に、「ここは大丈夫よ、心配しないで」と電話を入れました。何のことかわからない主人公は、とりあえずCNNをつけ、北棟が燃えるのを見ます。その目の前で、2機目が南棟に突っ込み、ビルは崩れ落ちます。
ブラウン管を通じてといえども目の前で最愛の妻を失い、すべてに気力を失った主人公は、ある日友人から、Gawad Kalingaの存在を知らされ、事業に出資します。
「あの子供たちに何かしたいのよ」というイノセントな妻の言葉を思い出しながら、どこかの高級ラウンジでワインを片手に、裕福なアメリカ人ビジネスマンにGawad Kalingaの事業を紹介する主人公。自分が出資した元スラムのバセコ地区を訪れ、家を手に入れたスラム住民に握手しながらコミュニティを歩き回る主人公。ものすごくベタな「善良な先進国住民」が描かれますが、こういう人たちがGawad Kalingaを支えているのだということがよくわかります。逆に、こういった人たちなしには事業はここまで拡大しなかったのだと。
ラストシーンで主人公(モンタノ)は、Gawad Kalingaに整備されたバセコ地区に足を下ろしながら、パシグ川を隔てた対岸にある巨大なスラムを見つめます。そのスラムは、私が修士論文で書こうとした、政治的抗争による土地問題が山積みのP地区です。Gawad Kalingaの受益者は巨大なバセコ地区のほんの一部でしかないことも、家はあっても土地紛争はまだちっとも解決していないことも、美しい家々の傍らでは相変わらず薬物取引も臓器売買もホールドアップも続いていることも、映画には描かれません。でも、それでいいのです。「奥様を失った心中はお察しします」と声をかけられて「お前に何がわかるんだ!」と怒鳴る主人公は、バセコ地区の住民を何一つ理解しないままに彼らに微笑みかけ、握手します。武力紛争に巻き込まれて夫を失ったと語るミンダナオ出身の女性(バセコ地区にはムスリム移民がたくさん居住しています)の言葉に、小銭をばらまいていた亡き妻を思い出し、彼女の息子に小銭を握らせます。
主人公と「彼ら」との間に横たわる絶望的な格差。それを所与のものとして描いていることに、この作品の良さがあります。「自分探し」のためにNGOでのボランティア活動を利用し、子供に小銭を渡して心を満たし、人々と握手する主人公の笑顔はもはや暴力的ですらあるわけですが、それをここまで肯定的に描いてくれると、実に気持ちがいいです。
ラストシーンは、バセコ地区のサクセスストーリーを傍目に見ながら永遠に変わらないかのように見える、P地区のスラム・シーンで終わっています。

作品の主題は、「3つの希望の物語」ですが、確かにその通りでした。上映後、真夜中のエルミタの落ちぶれた歓楽街の路上で眠る人々の間をすり抜けながら高級コンドミニアムに戻る暴力的な私にも、安易な希望を与えてくれるストーリーでした。

それにしても、モンタノは名優です。笑顔も涙もすばらしい。上院議員なんかにならなくて、ほんとによかった。ずっとそのままでいてください。

※私はすでに現地版DVDを入手済み。全編タガログ語、英語字幕なし、かつ音声も画像も粗いのですが、ご希望の方は個別にご連絡ください。
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by saging | 2007-07-18 20:20 | フィリピン(全般)