Keso de Bola とは、 「表面は赤いのに中は黄色い」フィリピンのボール型チーズ。転じて日和見主義者。       かつてお世話になった、現地の言葉で「灯台」と呼ばれるマニラ湾岸のスラムを、ガラス越しに。
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選挙と忘却
 2004年大統領選挙の不正操作疑惑に端を発する、2005年6月以降のアロヨ政権の不安定化と強権化、2度にわたる大統領弾劾請求、2006年2月の非常事態宣言、憲法改正…。根源を辿れば、アロヨ政権の正当性の問題に行き着くのですが、
 「2006年9月まで持ちこたえれば大丈夫。その先は誰もが選挙に向けて忙しくなり、2004年選挙の結果も、現政権の正当性もどうでもよくなる。」
 「選挙は、人々にいろいろなことを忘れさせる。」
 「2007年に入れば、内政は必ず安定する。誰も新しいことを始めないし、与党も野党も、誰もあえて危険な賭けには出ない。選挙で精一杯だから。」
昨年は、新聞のコラムやニュースで、そんなコメントを何度も見聞きしました。

 8割方は当たっていると思います。8割といったのは、今年は、単なる中間選挙だからか、はたまた、エストラダVSアロヨという対立軸が薄まって争いの構図がはっきりしないからか、とにかく、もう4月だというのに、どうも盛り上がりに欠けているから。上院選は明らかにおもしろくないし、結果もある程度は読めてしまうし、仮に2004年のように世論調査とは異なる意外な結果が出たとしても、サプライズはないでしょう。フィリピンの選挙は初めてという我が知人たちも、私が期待を煽っていただけに、「でも…、こんなものなの?」と言うほど。ともかく、2004年大統領選挙の熱狂とは雲泥の差。2001年中間選挙のことは私は知る由もありませんが、あの年は1月にエドサ2政変があり、エストラダ逮捕を控えての緊張感もあり、現在よりもっともっと盛り上がっていたのではないでしょうか。

 …だとしても、確かに人々は「選挙モード」に入っていて、地方選には夢中になります。いくら盛り上がらないとはいえ、日本では考えられないほどの「選挙フィーバー」。そして、Party-List制度の混乱ぶりは過去最高をきわめています。左派だけの問題ではなく、制度自体の破綻っぷりと、それを利用しようとしている人たちの熱い戦略がこれまたすごいです。

 実に本当に、選挙が近づくと、人々は目の前のことに夢中になり、いろいろなことを忘れます。私もその一部です。前回の投稿分では、結局、昨年の7月に私が「もう都市貧困研究をやめようかと思ったほどにdemoralizeされた問題」には一切触れませんでした。それは、12歳の時にNGO活動を始め、17歳の時にそれをやめ、大学院に入ることを決め、フィリピンを通して再び運動というものに関わるようになり、私の活動と、研究と、仕事と、それらすべてを通して、今の今までずっと一貫して私がこだわり続けている根幹の問題です。私はそれから目を背けてはいけないと思い続け、そのためにスラムに行くことをほとんどやめてもいたのですが、選挙期間に入り、そんなことはきれいさっぱり忘れて、このフィーバーに身を任せてしまっています。フィリピン大衆をもっともらしく批評している私こそ、実に流され放題。

 私はずっと、自分自身もあきらかにあからさまに非貧困層なのに貧困層に関わるなどという超偽善的でウソクサイ態度をとってきたくせに、活動家らの「アクティビスタ節」が気に入らず、スラムを見たこともないくせに理想論を振りかざして薄っぺらな「権利」を唱える活動家たち、何も知らないくせに当時10代だった私たちを「政権寄りの大人に利用されている」と批判した日本の左派活動家の人たち、研修生の実態を何も知らないくせに「搾取だ」という人々たちを本当に憎んでいます。そして、その憎しみをどこにも持っていくことのできないから、フィリピンの「成熟した」「飾らない」「理想論を振りかざさない」活動家たちや素晴らしく自立的なスクワッター・リーダーたちの「活動」に、自分の理想を投影して、貧困層を勝手に美化しているのです。

 根っこにあるのはどうしようもない罪悪感と無力感。罪悪感を軽減させるために15年前に手を染めた「国際協力NGO」たるものを、今では憎みに憎みながら、新たなる罪を上塗りして毎日が過ぎていきます。
 またその罪滅ぼしに…って、もう何回目の罪滅ぼしで、いったいどの罪を滅ぼす気なのか自分でもわかりませんが、先日、ラジオ・ベ○タスのBuhay Maralitaという番組(毎週土曜の午後1:30-2:30)に出演してきました。私のお世話になっているUrban Poor AssociatesというNGOのスタッフとプロのキャスターがコンビを組んで、さまざまな都市貧困層をゲストに迎えて話を聞いたり、政治問題について語り合ったり、視聴者からの電話を受けたりする番組です。今回は「外国人から見たマニラの都市貧困」という特集で、私にもお声がかかり、現在の仕事や身分は一切隠してもらうという条件で、実名で出演させていただきました。(職場の上司や関係者がこんな番組を聞いているとは思えませんが、仮に聴いていたとしても、全部タガログ語で話したので大丈夫! それに、何も政治的発言はしていません。)

 私がお世話になった調査地の方々には前日に、「明日ラジオ出るから聴いて下さいね!」と携帯のテキスト・メッセージで周知しておきました。話した内容は、自分がフィリピンの都市貧困層に関心を持つに至った経緯、スクワッター・コミュニティの貧しさでなくそこで繰り広げられる政治に対して感じた驚き、フィリピンのNGOと日本のNGOと比較しての感想、コミュニティで体験したエピソードなど、日本語でも話したことがないようなことばかり。最後に何か視聴者にメッセージをと言われ、私はこれまでに調査で訪問させていただいたすべてのコミュニティの名前を挙げてお礼を申し上げました。土曜の昼下がりですから、多くの方が放送を聴いて感想を送って下さいました。これでお礼や罪滅ぼしができたなんて思っていないけれど、私には、そのことがとても嬉しかったです。畏友・Wataruさんのホストファミリーのお母さん(フィルコアのベンダー)もラジオを聴いてくれていて、感想をテキスト・メッセージで送って下さいました。スラムでもテレビ普及が著しいかにみえる首都圏においてさえ、ラジオって偉大なんですね。
 最近、選挙前ということもあり、選挙キャンペーンにおけるメディアの役割についていくつか仕事で調べています。TVと新聞に関してはさまざまな規制もあり、過去の選挙における影響力の強さを分析した資料もあるのですが、ラジオについては資料がなく、メディア関係者らも「さあ、誰もラジオは調べてないんじゃない?」とのこと。私の家はTVの電波の入りが著しく悪いので、私は自宅ではラジオに頼りっぱなしで、朝の出勤前はラジオニュースを、就寝前はラジオの半分ふざけたような政治討論を聴いています。出勤のFXの中ではたいていラジオニュースが鳴っています。改めてよくよく聴いてみると、政党関係者がDJをやっていたり、明らかに政治的に偏っていたり、ラジオ番組って本当に多彩です。
 ラジオ番組出演って、調査地の方々にメッセージを伝えるという意味では、なかなか効果的な方法なのかもしれません。

 こうして私はまたひとつ、都合のいいように物事を忘れていくのです。
Happy Easter.
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by saging | 2007-04-06 23:51 | フィリピン研究
2007年選挙とケ○ン市1区 その3
Jは今年も3年前と同じように、ケ○ン市1区で毎日、政党Aのキャンペーンをしています。Mさんも同じ選挙区で、B市議のためにキャンペーンをしています。2004年選挙のときも同盟関係にあった政党AとB市議は今年も同盟関係にあり、JさんとMさんは、現場でよく顔を合わせているとのこと。他方の私は、あの頃のように平日にぶらぶらできる身分ではなく、休日でも以前ほど向こう見ずな行動はできなくなってしまったものの、最近は、JさんやMさん、そして候補者になってしまったN氏や、その他、新旧の知人友人たちから情報や情熱をもらいながら、相変わらず、暇さえあれば元調査地のスラムに通い、選挙キャンペーンを観察し、休日はケ○ン市まで出かけています。

Mさん、あの頃Jに夢中だった10代の女の子たち(そのほとんどはすでにできちゃった結婚)、そして、あのとき政党Aが借り上げていたジープのドライバーたち…。何といってもご近所さんなものですから、たとえ選挙期間でなくても、ケ○ン市1区を歩いていると自然に鉢合わせします。
私たちはそのたびに、2004年選挙のときの話、特に、Jの話を懐かしくします。2004年の選挙キャンペーン解禁日は2月14日のバレンタイン・デーで、その日の政党Aのキックオフ・キャンペーンは、ケ○ン市1区に点在する生鮮マーケットを回る「パレンケ・ツアー」だったこと。Jは当初、私の立場を考えて他のキャンペーン要員たちに私が実は外国人だということを一切知らせないようにしてくれていたこと。バリンタワクのマーケットの片隅の薄汚い安食堂でとった昼食が、思いもかけずものすごくおいしかったこと。そこのシニガンスープに入っていたサーモンの頭の骨周りを綺麗にこそげ落とす私を見て、Jはついに笑いをこらえきれず、
「saging, お前、そういうところホントに日本人だな!」
と言い、私をフィリピン人と信じて疑わなかったキャンペーン要員たちを大いに驚かせたこと。午後から回った巨大なムニョスのマーケットで私が見事に迷子になったこと。日がとっぷり暮れたあとに訪れたマーケットで、Jがおもむろに大量の花束を買って、キャンペーンに参加していた私を含む女性要員の一人ひとりにプレゼントしてくれたこと…。ハンサムで、いつも謎めいた雰囲気を醸し出し、私より10歳も年上なのに、どこから見ても20代にしか見えないベビーフェイスのJが、若い女性活動家たちはおろか、有権者になるかならないかという10代のスラムの女の子たちに思わせぶりな態度を見せながら、見事な手腕で政党活動に取り込んでいたこと。しかしもちろん、Mさんをはじめ「若くない」女性のキャンペーン要員らはいつもJの行動を批判していたこと。さらに、戦略家で、活動家のくせに極端に寡黙なJは、選挙キャンペーン中でさえ、キャンペーン戦略はおろか、その日の予定すら、仲間の誰にも教えず、仲間たちからの不信と反感を買っていたこと。
(そろそろ40歳に近づきつつあるのにベビーフェイスのJは、今年も相変わらず10代の女の子たちに囲まれながらキャンペーンを続けています)

Mさんを含め、彼らのほとんどはスクワッターあるいは都市貧困層です。彼/彼女らは確かに、2004年の選挙キャンペーンを通して、一時的な収入や瑣末な恩恵を得ました。瑣末な恩恵…選挙で巨万の富を稼ぐ人々に比べれば本当に瑣末なものです。交通手当や食事手当やささやかな日当や、キャンペーン用のTシャツや帽子など。彼らは本当に献身的に、朝から晩までキャンペーンを行いました。生活のためにB市議の有給スタッフになったMさんを除いては、彼らのほとんどは、今年はもう選挙キャンペーンには関与していません。人々は彼らのことを、選挙前の一時的な利益に釣られた無知な民衆と呼ぶかもしれません。

「いまは仕事があるから、キャンペーンには参加できないな。あのときキャンペーンをしたのは、失業中だったからなんだよね。キャンペーン中は食いっぱぐれなくてすむかと思って始めたんだけど、やってみたらおもしろくてさ。立候補者なんてうるさいだけかと思ってたけど、俺ら、いいこと言ってたよね。5月1日(メーデー)のラリー覚えてるか? マラカニアンの近くまで行進して、ジープを乗り入れて、あのジープの屋根で、俺が拳をあげて旗を振ってたとこ、saging, 写真に撮ってくれたよな。あの写真、香港のの姉ちゃんに送ってやったよ。『あんたいつから活動家になったの! そんなことしてないで仕事探してよね!』って言われたけど、あのとき、俺かっこよかったよな。まあ、今は仕事があるから、忙しくて政治にはかまっちゃいられないんだ。Jが時々来るから、そのときは近所の店とかにポスターを貼ってもらえるように一緒にお願いしてやるけどな。その見返りにJはその店でビールおごってくれるよ。俺、あいつが立候補するなら近所じゅう動員して応援してやるよ。いい奴だからな。女じゃなくて政治と結婚しちゃってるところが残念だけどな。」
当時無職青年だったI氏はこう言います。彼はこの2月からケ○ン市1区の建築現場で仕事を得て、夜中にものすごい騒音を立てながら、どこも悪くなさそうな道路をドリルで掘りかえしています。

「あんな思いをして毎日キャンペーン・ジープを運転するよりは、普通にいつもどおり、ジープのドライバーをしてるだけでいいよ。3年前のキャンペーンのときは確かに収入は良かったけど、昼夜問わず呼び出されてほんとに大変だったから。残念だけど、今回は、政党Aじゃなくて、高齢者の福利を守ってくれると言ってるSenior Citizen’s Partyに投票するよ。俺ももう歳だからね。」
キャンペーン・ジープニーを運転していたドライバーK氏の言葉。
…と言いながら、翌週に行ってみたらドライバーに政党Aのステッカーを貼りまくっていました。
「あれ?」
と言うと、K氏は笑いながら、
「いや、昨日Jに頼まれて1日だけのつもりでキャンペーンにジープを出してやったらさ、改めて、キャンペーンって大事だなと思ったんだよね。今年も俺、やるよ!」

「私はもう母親になっちゃって、はっきり言って、政党Aのいう政権交代とか社会変革なんてどうでもいい。2004年も別にどうでもよかったし。まあ、政党Aって、ちょっと理想主義過ぎるかなって思う。そんなこと、私もわかってる。でも、政党B(政党Aよりもずっと急進的な左派政党)よりは政党Aのほうがいいかなって。政党リストってそんなものでしょ。私は今回も、間違いなく政党Aに投票するよ。でも、もう選挙キャンペーンには参加したいと思わない。」
とは、10代で「できちゃった結婚」をしたMちゃんの証言。


私たちはどうして、彼らを日和見主義だと責められましょう。自分の利益を自分なりに考えた上で各政党にコミットした貧困層は、それでも、単なるVote Buyingの被害者なのでしょうか?
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by saging | 2007-04-05 01:29 | フィリピン研究
2007年選挙とケ○ン市1区 その2
前回の選挙―つまり2004年の総選挙―が、私が初めて見たフィリピンの選挙でした。選挙制度も投票の仕組みもわからないまま、政党Aのケ○ン市1区の選挙参謀を務めていた筋金入りの活動家の友人Jをボスと慕ってひたすら付きまとい、毎日選挙ジープに乗せてもらい、スラムへのビラ配りを手伝い、キャンペーンチームを結成する川沿いのスラム出身の若者やおばちゃんたちにいろいろなことを教えてわせていただきながら迎えた2004年総選挙。

そのとき、友人Jと並んで私がもっともお世話になったのが、ケ○ン市1区のパントランコ地区で食堂を経営していたMさんでした。日比国交回復50周年(日比友好年)にあたる昨年、ちょうど50歳を迎えたMさん。彼女は、元じゃぱゆきさんであり、ビジネスウーマンであり、母親であり、そして私と同じように、2004年に初めて、にわか選挙運動員として、あのキャンペーン三昧の日々を体験したのでした。
彼女は20代のときダンス・インストラクターとして日本に働きに出ていました。すでに結婚して子供が3人もいたにもかかわらず、ブローカーに「独身だと言え」と言われ、旧姓を名乗ってパスポートを作って行ったそうです。夫はその間にアメリカに移住しました。Mさんは7年日本で働いた後、マニラに戻ってきて、母親と一緒にケ○ン市で食堂を営みながら子供たちを育てました。その食堂は、私も学んだ私立の語学学校のすぐ近くにあって、語学学校の先生や生徒たちもよく利用していました。奇しくも私は、語学学校に通っている間はその食堂の存在をまったく知らず、Mさんに出会ったのは、政党Aのケ○ン市のオーガナイザーである友人Jに誘われて、2004年の1月に政党Aのセミナーに出席したときでした。アクセスの良いMさんの食堂(兼自宅)は、政党Aのキャンペーン・オフィスのひとつになっていたのです。

2004年の2月から本格的に選挙活動が始まると、彼女の食堂にはビラやポスターが積まれ、連日のように、Jやその他のリーダーたちが詰めていました。私も頻繁に彼女のところに行くようになり、選挙の当日も、ケ○ン市の小学校で未明に開票が終わるまで、彼女と一緒でした。
(そう、ちょうどその頃、フィルコアのスクワッターエリアに住みながら路上商人の調査をしていたWataruさんと私を結び付けてくれたのもMさんでした。修士論文を書き終えたWataruさんが1年近くぶりにマニラに戻ってこられた2004年2月、彼はMさんの食堂に寄り、Mさんから私のことを聞かされ、私に置き手紙を残して下さいました。そのようにして私たちは知り合い、現在に至るのです。)


2004年選挙。私にとっては何もかもが興味深く、初めてのことばかりでした。選挙キャンペーンという名目でなければまず足を踏み入れることもなかったようなスラムを回って家々にチラシを投げ込み、客待ちでたむろするトライシクル・ドライバーと交渉して車体に横断幕を貼ってもらい…。チラシやサンプル・バロット(サンプルの投票用紙)が配られている現場に遭遇すると必ず受け取っていた日々。勉強不足だった私はそもそも、フィリピンの選挙制度が理解できず、選挙の全体像を掴むことができないまま、選挙管理委員会の図書館と広報部に足繁く通いつめ、断片的な情報と自分の興味関心をもとに非常に要領の悪い資料収集を試み、ついにガードマンにさえ顔と名前を覚えられてしまったものです。投票日当日は欲張って、自分の調査地のあるマニラ市の選挙区2つを回り、きょろきょろになって投票所を覗き込み、Mさんの選挙区の投票所を興味津々でうろつき、開票も拝見。Wataruさんの下宿の選挙区の開票現場も見に行き…。
Jと一緒に、生鮮市場の軒下にポスターやステッカーを貼ってもらえるように依頼して回り、炎天下の中、スラムの家々にポスターを貼る許可を求めて歩いた日々。「選挙はフィエスタ」といわれるとおり、本当にお祭り気分でした。


あれからもう3年が経ってしまったなんて。あのころは、あの選挙が後に国家の安定を揺るがすようなcontroversyを引き起こすなんて、まさか、選挙管理委員会に火事が起こって2004年までの書類が焼けてしまうなんて、夢にも思いませんでした。


選挙後、私はマニラを去り、政党Aは最大限の議席を獲得しました。毎日のように顔を合わせていたMさんとJは急速に疎遠になり、Mさんは「私たちは政党に利用されただけ」と言いながら、普通の食堂経営者に戻りました。そしてその年の末、Mさんの食堂は撤去されました。彼女はすぐ近くのテナントを借りて食堂&カラオケ店を再開しましたが、テナントのオーナーとうまく行かず、ビジネスチャンスを求めてバギオに住む妹のもとへ。しかし、末の娘が16歳で妊娠してしまい、バギオでのビジネスをあきらめて、末の娘とともに、パンパンガ州で鶏の丸焼きスタンドを営む長男のもとに身を寄せ、ネットカフェとローディング・ステーション(携帯電話のプリペイド度数を売る店)を経営。自宅では長男の妻がレンタルDVDショップを経営し、それなりに収益は上がっている様子でした。

「私はずっと、子どもたちのためにお金を稼ぐことを使命としてきた。私の得意分野は、商売と家庭。選挙なんて一時の熱病みたいなもの。本当に家族の生活を変えたいなら、政治じゃなくて商売に精を出さなきゃ。私たちみたいな庶民が選挙運動に加担したって、結局は、政治を生業にしてるJたちに都合よく利用されるだけなのよ。」
昨年5月に私がパンパンガ州の彼女のもとを訪れたとき、彼女はそう言いきりました。

でも、それから半年後の今年1月。Mさんから一通のテキストが入りました。
「ケ○ン市のB市議会議員のキャンペーンのためにマニラに戻ってきて、ケ○ン市の両親の家に住むことになった。会いましょう。」

もちろん私は、彼女を訪問しました。なんと彼女はいつのまにか、2004年選挙で政党Aと同盟関係を結んでいたケ○ン市1区選出の若手女性のB市議会議員の有給スタッフとしてケ○ン市庁舎で働きながら、連日のように、あの懐かしいケ○ン市1区を蛇行するパシグ川支流の貧困コミュニティを回り、B市議主導のさまざまなプロジェクト(特に、十分な教育を受けずに18歳を迎えて有権者になった青年層への職業訓練プロジェクト、青少年のためのスポーツ施設の拡充など)を紹介するワークショップを開催しているのだといいます。
「Mさん、私はてっきり、あなたは政治から手を引いて商売に戻ったと思っていたけど!」
私がそう言うと、彼女は答えました。
「2004年選挙の熱が冷めたとき、私は本当に、もう二度と政治になんか関わりたくないと思った。2005年に発覚した大統領の不正疑惑も、去年の非常事態宣言も、別にどうでもいいと思ってた。政党Aがどんなに私を街頭デモに誘っても、私は行かなかった。私がデモに参加したのは、2004年選挙直前のメーデー、あの1回きりだった。政治には辟易してると思ってた…。選挙が近づき、B市議が私を雇用したいと言ってきたとき、始めは、収入のためにと思って受けた。でも、実際にキャンペーンをするにつれて、私は、自分が2004年選挙でどれだけ多くのことを学んだかを思い出した。市議会議員なんてどうでもいいと思ってたけど、やっぱり大切。都市貧困層を取り込むことの重要性。まだ頭の固まっていない青年層を取り込むことの重要性。いろいろなことを思い出した。」

私だってそれは同じです。いまになって、あのときの経験のありがたさを感じずにはいられません。あの経験のお蔭で、選挙前の数ヶ月にいったいどんなことが起こるか、だいたいの予想はつきます。候補者資格をめぐる論争。政治殺人。国家警察の「ホットスポット(要注意地域)」情報を選挙管理委員会が代弁して発表するタイミング。各候補者のキャンペーンのパターン。サンプル・バロットの大切さ。投票日当日の流れ。開票の手続き。
…どれもこれも、2004年選挙で、あのケ○ン市1区で、選挙ジープに乗りながら学んだことばかり。あれがなければ、私はいまの職場で、もっともっと慌てる羽目になっていたはずです。

あの頃は最底辺のどん底のスラムから物事を見ていましたが、奇しくも仕事としてあの頃よりずっとずっとマクロな視点から2007年選挙を見る立場になったいま、やっとわかることがたくさんあります。たとえば、日本人には理解しがたいほどの政党鞍替えの多発。政党制の弱いフィリピンの特徴としてずっと言われていることですし、実際、新聞には連日のように、鞍替えをする候補者の記事が出ています。でも、上院議員の鞍替えの話なんて、正直なところ私は今でもどうも現実感をもって捉えられないし、鞍替えの人数や割合を数字で出されても、ピンと来ないものがあります。けれども、ケ○ン市1地区では連日のように市議会議員の鞍替えの話が囁かれていたこと、当時から現職にあったベルモンテ市長には反対の立場を唱えていた左派政党Aがある日突然ベルモンテ派の市議会議員とちゃっかり連合を組んで共同キャンペーンを始めたこと、スラムの人たちが実にしたたかに日和見的に「組む相手」をコロコロ変えていたこと…を思い出し、そして、あの頃はろくに目も向けていなかった上院候補の動きについて大手英字紙のコラムを読むと、「ああ、国政レベルでもそうなんだ」と、変な(というか間違った)納得の仕方ですが、そうやって初めて理解できるのです。

「弱い政党制」なんて百回言われてもなんだかいまいちよくわからなかった(数週間前にマニラでお会いいただいた歴史研究のO先輩と、まさにこれをテーマに研究している政治学院生仲間のTさん、ごめんなさい…)けれど、文献で読んだだけでは絶対にわからなかったリアルな動きが、すぐ目の前にあるのでした。
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by saging | 2007-04-05 01:11 | フィリピン研究
2007年選挙とケ○ン市1区 その1
今年5月は、中間選挙の年。2月以降、職場でもプライベートでも、選挙を扱う時間がどんどん増えてきて、最近はついに、寝ても覚めても選挙のことばかり考えています。夢まで選挙一色。
仕事が忙しくなっているのはもちろんですが、他方では大学院生としてマニラの都市貧困地区の研究を続けようとしている私にとっては、自分のためにも、この選挙は絶対に見逃せません。

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blogを更新するのは、5ヶ月ぶりとなってしまいました。忙しかったからというわけではなく、いろいろなものを書き溜めてはいたのですが、文章を整理してblogにアップするまでに非常に時間がかかっていたのです。

今の仕事に就いて1年になります。初めのうちは、平日の夜と土日は自分の時間と決めてスラムを出歩いたり本を読んだりしていたのですが、昨年7月、非常にdemoralizingな出来事が続き(いつか書きます)、私は都市貧困研究への自信と志気を急速に喪失しました。加えて、7月には職場で大行事があり、私はいつか、仕事に意識を傾注するようになりました。

8-9月は、職場での大行事も終わって自由な時間ができたにもかかわらず、夏休みを利用してマニラにお見えになったフィリピン研究者の先生方や先輩や院生仲間など多数の方々にお会いいただいたにもかかわらず、再び研究に戻る意欲も起こりませんでした。平日の晩も休日も、職場で過ごすことが当たり前のようになっていました。

10月以降は、自分が直接に担当していたイベントがクライマックスを迎えたことと、12月に予定されていたこの国の「国家あげての大行事」のお蔭で、未明まで残業することも当たり前のようになってしまっていました。
そんな中、10月下旬、上司の計らいにより出張扱いで出席したフィ○ピン政治学会@ミンダナオ島西部(日本政府による渡航勧告の出されている地域)、そして、11月初旬、職場に無理を通させてもらって出席したPSCJ(First Philippine Studies Conference of Japan)@東京では、何人ものフィリピン研究者の先生方や先輩や院生仲間たちにお会いいただき、改めて、自分が決定的に遅れをとっていることを強く実感しました。

しかしどうすることもできないまま、「国家あげての大行事」に巻き込まれ、さらにそれは12月だけでは終わらず、信じられないほど慌ただしいクリスマスと年末年始が過ぎ、1月にすべてが終わってからも、それから数週間はただ呆然として過ぎました。時折、思い出したように、たまっていた本を読み始めたり、畏友・Wataruさんに送ってもらった原稿を読んだりして俄に志気が上がるのですが、残業に慣れすぎてしまって、7時前に職場を出るなんてしばらくはできませんでした。そうこうしているうちに選挙も近づき、平日の晩はオフィスで資料を作り続けるか仕事で誰かと会っているかのどちらかで、スラムに行ったり本を読んだりものを書いたりできるはずの平日の深夜や土日も、スラムには足が向かないままでした。

だからといって、欲求不満だったわけではありません。何はともあれ、私は今の仕事がとても好きで、満足していて、仕事でもっと向上したいと思っていて、スラムに行かなくたってじゅうぶんに、それはそれで幸せだったのです。2004年選挙はあまりにミクロなところしか見ていなかったものですから、毎日、目を皿のようにして英字新聞を読むのも、まるでぜんぜん違った国を見ているみたいでおもしろいです。2ヶ月に及んだ「国家あげての大行事」だって実に楽しみました。視野を広げるという点においても経験蓄積という点においても、本当に勉強になりまた。「エレベーターをブロックする」という仕事ひとつにしてもでも。
私はフィリピンに来てから、どんどん楽天的な性格になっているようです。

…さて、しかし、ケ○ン市1区の巨大なスクワッター居住区であるS地区の住民リーダーN氏が市議会議員に立候補すると聞いたとき、私は久しぶりに、仕事とは別の、あの、胸の高鳴りと躍動感を覚えました。S地区は、畏友・武坊威が調査を行った地域で、N氏は彼の修士論文の中心人物です。「金やエストラダのイメージに釣られやがって」との貧困者への中傷に堂々と対抗し、かつてエストラダ派であった住民組織を率いて「エドサ3を思い出す集会」などを開催し、スノッブな自称市民社会のNGOの中でも、だんだん有名になりつつあるN氏。都市貧困地区が多く、左派とNGOがあふれ、それらがこぞって動員の縄張りを争い、与党議員も左派と組むしかないといわれているあのケ○ン市1区から、N氏のような「左派嫌いで、エストラダからも距離を置き、organizeされることに抵抗する無党派貧困層」が市議会議員に立候補するというのは相当におもしろいことで、まさに、今回の選挙、何かが起こるんじゃないかと私は勝手に期待しているのです。N氏は何も、無党派の都市貧困層を代表するという崇高な信条のためだけに立候補したわけではなく、あからさまに実利的な目論見で立候補しているわけですが、それがまた良いのです。ここだけの話、資金も地盤もないN氏が勝つ見込みはきわめて低いわけですが、この出来事から、首都圏における地方選のありかたの変化と、2001年以降の市民社会の変化の兆しを読み取ることができると思えます。
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by saging | 2007-04-05 01:06 | フィリピン研究