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Keso de Bola とは、 「表面は赤いのに中は黄色い」フィリピンのボール型チーズ。転じて日和見主義者。       かつてお世話になった、現地の言葉で「灯台」と呼ばれるマニラ湾岸のスラムを、ガラス越しに。
管理人sagingより
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Divide and Rule
24日の夜、マニラから関西に帰ってきました。当日のお昼ごろまでずっと、オルティガスのロビンソン・デパートの近くから、ラジオを聴きながら、現実にエドサ聖堂前で繰り広げられるラリー(デモ)を見ていました。(…わざわざ見に行ったわけではありません。その日、ある研修生が私と同じ便で日本に旅立つことになっていて、私はオルティガスにある前の職場のマニラ支店で彼を待っていたのです。)その集会とクーデターの陰謀とは別物だということは、そのデモの中にいた友人たちからきいてわかっていましたが、今回は無許可デモだったし、ましてその日の朝に非常事態宣言が出されていた以上、さすがに近づくことはしませんでした。目の前に広がるその「まるで2006年じゃないみたいな」集会は、決して重大なものには思えませんでした。彼らが再びあの場所で何かを起こせるとは思えませんでした。

その日はもう未明から、たくさんの知人から電話やテキスト(携帯メール)が入ってきました。「ラリーに行こう」と。いやいや、いくら誘われても、仮にそれが私の帰国の日でなかったとしても、私はそこに参加したり、現場を見にいったりすることはなかったでしょうけど。私は外国人ですし、身分上のこともあるし、そもそも危険だし、ここまでくれば、家でテレビにかじりついていたほうがよほど良いわけですから…。
すでに渋滞しはじめたC-5道路を通って空港に向かう長い道すがら、友人たちからの絶え間ないテキスト・メッセージとラジオの中継から、どの勢力がどこでどうデモをしているのか、だいたいのことは把握できました。
結局は、アキノ派も左派(各派)も国軍もエストラダ派も最後まで分裂したまま、そして中間層や貧困層の動員もできないまま、何のオルタナティブも見出せないままに、2月革命記念20周年のこの日を迎え、やむをえず「とりあえず」見切り発車してしまったのだろうなという気がしてなりません。それがまさに「分断して統治」されているこの国の特徴のかもしれません。
空港から友人たちに「さようなら、私はこれから日本に帰ります。この国に悪いことが起こらないようにと祈ります。4月に会いましょう」という一斉送信テキストを送ったら、彼らの多くは「いや、何か起こるべき(Dapat may mangyayari)なんだ」、「4月に君に会うときにはきっと政権は代わっているよ」と返してきました。
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People Power20周年の記念行事は水曜日から始まりました。私のお世話になっている都市貧困連合、”April 30 Working Group”の人たちは、左派やエストラダの過激なラリーが当初から予想されていた昨日(24日)ではなくあえてその日(22日水曜)に、AK○AYANとBMPとLaban ng Masaなどの連合組織を中心とした集会の最後列に参加しました。このグループは、「エドサ3」の流血の前夜にあたる2001年4月30日に、「過激な行動に走らないこと」、「エドサ3に行かないこと」を誓って結成された都市貧困層の連合体で、現在まで、その時々の政治状況によっては左派や各種の政治的組織に賛同することはあっても、特定の組織に「動員され、付和雷同する」ことは断固として拒否する、というポリシーを貫いています。そしてその組織化には、NGOのコミュニティ・オーガナイザーがかなり重要な立場を占めてきました。
私は、スクワッターの人々が具体的にどうやってこのラリーに参加するのか知りたくて(もっと露骨に言えば、「金」がどう動くのか知りたくて)、それを見に行ったのです。
April 30 Working Group傘下の住民組織リーダーたちは、昨年からずっと、コミュニティ・オーガナイザーの誘いで、いくつかの反アロヨの政治組織や野党議員とのミーティングに参加していました。もちろん、April 30 Working Groupには、いまだにアロヨを支持しているリーダーたちもいますので、彼らはいっさい参加していません。
今回のラリー(彼らの言葉ではpilgrim―「巡礼」)の予定は1月末に決定され、その後、人々はそれぞれ、自分たちのコミュニティの中でジープニーを手配し、近所の人たちに声をかけつづけていました。ラリーは当初は21日に行われる予定でしたが、一週間前になって、22日に変更されました。18-19日の週末には、オーガナイザーたちが各コミュニティをまわり、動員戦略ミーティングを行いました。
22日当日の朝早くから、私は自分のステイ先の近くの、ケソン市の川沿いコミュニティの人たちと一緒にいました。人々は、分配された予算を使ってサンドイッチやパンシット(焼きそば)などの「お弁当」をつくってビニール袋に詰め込み、正午すぎ、人間と水と食糧をジープに積んで、マニラ首都圏の各地からGMA-Kamuninの交差点に集まってきました。
そこからPeople Power Monumentに向けて、私たちは、EDSA大通りを行進しました。数えきれないほどの政治組織と、各セクターの組織が参加していました。先頭から最後列までの距離は30分くらいあったはずです。都市貧困層は最後列でした。彼らは、すぐ前を歩く左派アクティビスタのシュプレッヒコールにもあまり乗らず、非常に穏健に陽気に、自分たちの出身地を書いたプラカードだけを持って、ただ歩いていました。NGOオーガナイザーたちはコミュニティごとの参加者数とジープニー数を数え、それを集計していました。3,000人はいたはずです。
私は歩きながら、人々に非常にインフォーマルなインタビューを続けました。今日の動員のための「準備金」はどのくらいだったのか、それは誰を通して誰に渡されたのか、動員に現金を用いたのか、ジープニーはどうやって手配したのか…。初めて会う人たちではありませんから、彼らは非常に正直に答えてくれたと思います。彼らは言いました。
「現金で人を動員している都市貧困組織は最悪だ。」
私が行ったのはもちろん正式な調査ではありません。ただの観察です。が、私の聴いた限りでは、現金の受けわたしが行われていた例はありませんでした。(食糧は別)

先頭集団がPeople Power Monumentの前の通行止めをなぎ倒して警官と揉めていた(これは後で知りました)ころ、私たちはまだCubaoのファーマーズ・プラザの前にいて、急に列が止まってしまってただ、立ち往生していました。
「人が多すぎて最後まで行けないんじゃない?」
「ふーん、そんなに多いんだ。まあ、多いのはいいことだよね。でも私たちもゴールまで行きたいのに、残念。」
「だいたい、なんで都市貧困層は最後列って決まってるのよ? 農民とか漁民は先のほうにいるんでしょ。」
「インフォーマル・セクターは大切に思われてないんじゃないの?」
「ひどい! でもさ、前のほうに行くのも怖いじゃない? ここでいいよね。」
「前には行きたくない。私たちは別にアクティビスタじゃないもの。拳をあげたくはない。ただ、アロヨが私たちの居住を脅かしていることを訴えたいだけ。」

そしてようやく列が動き出し、それからまた動いたり止まったり、のろのろ約2時間もかかって、私たちもやっと、Peoples Power Monumentに到着しました。特設ステージでアクティビスタたちが演説し、歌やギターのパフォーマンスが繰り広げられていました。しかし、都市貧困層はとことん、ステージからいちばん離れたところにいて、「私たちはmodestだから」と口にしつづけました。司会のアクティビスタが各セクターの「代表」をステージに呼んでスピーチを求めたときも、”April 30 Working Group”の代表とされているモンタルバンの再定住地から来た女性(Vさん)は、ステージに上がろうともしませんでした。司会は何度も彼女の名前を呼びましたが、彼女はステージに上がることを拒否したのです。
そこへ、日本人のフィリピン研究者の先輩(ベンダー研究)のWさんが合流し、私は彼と一緒にいったん、April 30 Working Groupの方々から離れて、次々とステージで話す人々の演説をICレコーダに録音していました。
当初の予定では集会は午後3-6時でしたが、すでに時間は午後7時をまわり、地方から来た農民や漁民の方々は帰り支度を始めました。そして、暗くなってきたデモ会場に突然、強力なライトが近づいてきました。Wさんが「おかしい」と言って、その直後、私たちは、EDSAいっぱいに広がった機動隊が横三列になってどんどん近づいてくるのを見ました。人々は蜂の子を散らすように逃げました。アクティビスタの人々は機動隊の行く手を拒むべく動かず、ステージ上の司会は、
「みんな、逃げないで! 私たちは何も間違ったことはしていない。このデモは路上活動の許可をとっている。武力も暴力も行使しない穏健な団体なのだから、逮捕される筋合いは何もない。その場に立っていてください。」
と叫びました。
10分の後、機動隊は撤退し、参加者たちは拍手でそれを見送りました。

そのあと、“April 30 Working Group”を組織化している、私の尊敬してやまないコミュニティ・オーガナイザーの友人たち(ちなみに全員男性で、全員が元アクティビスタ)がこう言いました。
「これでおしまいだ。“April 30 Working Group”の都市貧困層の方々は全員、これから帰ってもらう。Saging, 君も帰れ。今回は危ない。普段なら僕も君に『しっかり見届けておけ』といって誘うところだけど、今回は僕たちを信じて、この人たちと一緒に帰ってくれ。」
…もちろん、私は従いました。そして、ケソン市方面に帰る都市貧困層の人たちといっしょに、またジープニーに積み込まれて、ケソン市Tatalon地区の川沿いのリーダーの家に寄って、残った「お弁当」を、参加しなかった近所の人たちに配分するのを手伝ってから、家に帰りました。

私は、ラリーそのものに興味があったわけではないのです。ただ、都市貧困層がこうした動員にどんなふうに参加しているのかを知りたかったのです。分断され(あるいは分断を選択して)統治される人々の側の論理を言葉にしたいのです。スラムの人々は「分断して統治」される民の典型です。ラリーのたびに
「金に釣られ(bayaran)、ジープニーやトラックで運ばれてくる(hakot)」
と批判されるスラムの人々と一緒に「運ばれ」てみれば、何かに気づくことができるかもしれないと思ったのです。
彼らを美化するわけではありません。現金は動かさなかったかもしれませんが、選挙前と同様に、各住民組織には、ラリー準備資金として、政治組織からそれなりの額の「金」がおりてきています。そして、そこにはNGOのオーガナイザーが介在し、多かれ少なかれ、金と人を「操作」しています。
…こういうことって、どうしたら「学術的」に説明できるのでしょう。いやもちろん、それを考えるのが私の義務なわけですが…。インタビューでひとつずつ事例を積み上げても、それは、いくつにも分断された都市貧困層の一部を描いたことにしかならないと思います。かといってこんなこと、量的に調査して証明ができるはずもなく。
「ラリー研究」をしたいなどとは思っていませんが、これも明らかに「スラムの政治」を示す一端の現象であるだけに、どうしても、言葉で説明したいと思ってしまうのです。
写真は、EDSA-Cubao(ilalim)での行進中、出身地のプラカードを掲げる若いリーダー。
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by saging | 2006-02-26 22:13 | フィリピン研究