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Keso de Bola とは、 「表面は赤いのに中は黄色い」フィリピンのボール型チーズ。転じて日和見主義者。 かつてお世話になった、現地の言葉で「灯台」と呼ばれるマニラ湾岸のスラムを、ガラス越しに。
by saging 管理人sagingより
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カテゴリ:都市下層と下流 2007年 11月 01日
![]() 明け方、投票が始まるずっと前から私は、ケ○ン市第1区のBバランガイの投票場になっているB小学校に向かいましたB小学校前の表通りにテントを張って構えている(候補者が投票場内でたむろすることは禁止)N氏を始めとした候補者陣営にまずご挨拶をして、投票場に入り、各陣営が雇った、膨大な数の”Poll Watchers”と呼ばれる監視役の人たちとおしゃべりしながら、投票場内での”Watchers”の行動を観察。バランガイBは巨大な有権者人口を抱えており、N氏の住むスクワッター地区で約9,000人、その隣の別のスクワッター地区で900人、プロパー(非スクワッター)で6,000人とのこと。単純計算で計16,000人、それに加え、「バランガイ青年団」に投票する15~18歳の青年たちがひとつの小学校にどっと押しかけるのですから、大混雑します。私は10時半頃までそこに居ましたが、有権者の足は止まず、長蛇の列。 その後、やっぱり知人がバランガイ評議員に立候補しているケソン市パ○タスの投票場を少しだけ見に行きました。ここも、小学校の教室数に対して有権者が多すぎる(教室数は慢性的に不足している)上に、トンドと並んで貧困の代名詞にされており、今年5月の中間選挙では「トイレにまで投票会場にした」との汚名を着せられていました。廊下を会場にしての「廊下投票」は普通に行われていましたが、さすがに「トイレ投票」はないでしょう…。 午後は辛うじて職場に戻ったもの、定時で退社し、今度は開票を見るべく、FXタクシーに飛び乗り、再びケ○ン市B小学校へ。 (うちの職場ではこの日は「出勤日」でした。どこからどう見ても「さぼりすぎ」の私ですが、上司は寛大に許してくれました…ごめんなさい、心の中で謝っています。) 開票は予定通り15時から、投票会場となった小学校の各教室で開始されたようです。 小中学校が投票場に指定されていたとしても、投票場所が体育館や講堂など1つに限定されている日本と異なり、こちらでは、学校の各教室が投票会場(precinctと呼ばれる)となります。そして、1つの投票会場あたり3名の役員(と呼ばれる公立学校教員)が置かれることになっています。ちなみに今回、このB小学校では60教室以上が投票会場になっていました。 私が到着した19時には、すでに3/4以上の教室で集計が終了し、役員(繰り返しますが、選挙管理委員会の人ではなく、公立学校の教員)は、集計結果の書かれた模造紙と開票後の投票用紙を片づけているところでした。開票はそれぞれの教室でするわけですから、すべての開票が終わると、集計結果の書かれたマス目模造紙(Election Returnと呼ばれる)が60枚以上できるわけです。 さて、これをどうやって集計するのか? ここからが重要です。 3年ごとに行われる国政選挙・地方選挙の場合は、それら60枚以上の模造紙はそのまま市役所に運ばれ、同小選挙区の他の投票会場から届けられた模造紙と一緒にされて、別の役員がもういちどそれを読み上げ/集計用の別のマス目模造紙に書き込み/電卓で集計…というプロセスになります。しかし、バランガイ選挙の場合は? 私も実は、バランガイ選挙の集計をどこでするのか、というのは疑問に思っていたことから、選挙管理委員会の広報部/情報公開部にしつこく問い合わせていました。その結果、 「バランガイ選挙では、通常は、1つのバランガイ=1つの投票場(小学校)なので、集計は投票場で行う」 というルールがあることを知りました。そりゃそうでしょう。わざわざ市役所に運んで集計をする意味などありませんから。 ところが一部の役員は、前回5月の国政選挙と同様、集計は市役所でやるものと思いこんだようで、5月と同じように、開票後の模造紙を畳んで投票箱に入れ、表通りで待っていた選挙管理委員会地方事務所の小型トラックに詰め込んで、どんどん小学校を出て行きます。役員、といっても前述のようにこの日しか選挙に関わらない公立学校教員ですから、情報が周知されていなかったのでしょう。 開票の会場内にも表通りにも溢れんばかりの人々(”Watchers”+ただの見物人)がいて、それを目撃しているわけですが、誰もそれを疑問に思っていない様子。5月はそうだったのですから。他の役員たちも、開票を終えた順に表通りに並び、投票箱に腰を下ろして、これでお仕事は終わりとばかりに、次の小型トラックが来るのを待っています。 この様子を見ていた私は、 「えっ!! 集計はここじゃなくて市役所でやるんですか?」 と、周りにいたWatchersや座っている役員に尋ねました。 「そう、市役所でやるんだよ。」 「市役所のどこで? 会議室とかですか?」 「市議会堂だよ。5月もそうだっただろう。」 「市議会堂!? あそこ、狭いですよね? 市内の全部のバランガイが、市役所でそれぞれに集計するんだとしたら…そんなスペースがあるんですか?」 「うーん、そうだねぇ。」 実は、誰も詳細は知らない様子。前回のバランガイ選挙はもう5年前の2002年だったものですから、皆、やり方を忘れている様子。周りのWatcherたちもそろそろ心配になってきたようで、 「集計はどこでどうやってやるのかね。」 「ここでやるんじゃないの。だって、市役所行く意味がないしな。」 「あの広い会議室でやるんだと思ってたけど。」 「でも、会議室、片づけ始めてるよ。」 「じゃ、市役所でやるのかな? 市役所は私たち、入れるのかな?」 とあちこちで話し合っています。 頼りになるはずの、カトリック系の民間選挙監視団体”PPCRV”のボランティアたちは、 「集計は、市役所じゃなく、ここでやるはず。2002年もここでやったのを覚えている。」 という重要な証言をしながらも、 「でも、今年は集計も市役所でするのかもね~。」 「まぁ、バランガイ選挙って混乱するものだし、不正が起こるものだし。」 と、そそくさと荷物をまとめて帰路についてしまいました。 そうこうして、ほとんどの教室で開票が終わりかけた頃、役員の一人なのか選挙監理委員なのかどこかの陣営のWatcherなのかわからない(何のIDもつけていない)「ある男性」が、小学校の入り口に立ち、大声で叫びました。 「集計はここでやるんだ、市役所じゃない! まだ市役所に持っていくな!」 即座に、周りにいた人々が、 「えぇーっ! 市役所でやるんだろう!?」 「ほら、だから言ったじゃないか!! 役員を外に出すな!」 とそれぞれ一斉に叫びまくり、あちこちで大激論。ある一団は、小型トラックに模造紙を詰め込もうとしていた役員たちに「違う、違う!」と言いながら強制的に引きずりおろし、怒った役員と揉め合いに。「市役所だ、市役所だ!」と集団で叫ぶ野次馬少年グループと、「ここだ~!」と叫ぶ少年グループが衝突を煽り、表通りでトラックに乗り込もうと順番を待っていた役員らは、群衆によって再び小学校の中に押し戻されました。間もなく、投票会場の小学校から20Mも離れないところでキャンプを張っていた警官が登場。小学校の入り口のゲートを閉め、役員らが出られないようにしたのです。もちろん、役員と警官、そしてそれを取り巻く群衆で押し問答。 数十分後。 「開票はやっぱり小学校でやるらしいよ」 ということで、一応、大部分の人々は納得したらしく、騒ぎは鎮静。役員らは小学校の中に戻っていきました。やれやれ。 …と思ったら、数分後、表通りの一角で、群衆の一団が大騒ぎ。その騒ぎが飛び火して、あちこちですごい声が上がり始めました。途切れ途切れに聞こえるのは、 「不正だ! 不正だ!(Dayaan! Dayaan!)」 「投票箱がなくなった!」 「投票箱がすり替えられたらしい!」 やがて、N氏陣営の候補者の一人であるおばちゃんから携帯メールにメッセージ。 「すごい不正(anulmaya)が起こってるの! すぐ陣営テントに来て!」 各候補者の陣営テントは表通りの路上にあり、私のいた場所から20Mと離れてはいません。どこで不正が起こっているというの?…と思いながら行くと、彼らの説明はこうでした。 「開票が市役所で行われると勘違いした役員らによって投票箱に詰めてすでに運び出されてしまった開票後の模造紙が10枚(つまり10教室分)あることが判明した。誤って市役所に持って行ったとの説明だが、明らかに対抗馬による不正の戦略である。確実に中身は改ざんされているであろう。」 ちょっと待って下さい。それは不正云々ではなく、ごく単純に、情報不足であった役員らの初歩的なミスなのでは? 彼らがさっき、まさにこの場で投票箱をトラックに積み込んでここを去っていった現場を、あなたたちも皆も、当然のように見てたじゃないですか!! 「不正発生!」と叫んでいる他の群衆の言い分も、だいたい同じようなことでした。「仕組んだのはどこの陣営だ、出てこい!」と叫んでいる人もいれば、「早く探せ!」と叫んでいる人もいれば、「市役所に行ってしまえば他の小学校から来た投票箱とごっちゃになってもう所在がわからなくなるに違いない、投票やり直しだ!」と主張する人もいて、あちこちで口論、揉み合いが始まり、またしても警察がなだめに出てきて逆に群衆を興奮させ…。もう、とても首都圏とは思えない混乱ぶり。もう深夜ですから、人々はそれぞれに苛立ち、ひどく混乱しています。 なんだか…フィリピン政治の一番悪いところを、縮図的に見てしまった気がしました。 わからないことを事前にしかるべき筋に確認するということを一切せず、当日になってから混乱する。それでも「いや、確認した」「いや、根回しした」と自己を正当化し、まったく反省しない。その場しのぎで自己判断を下して行動し、それを「正しい」と堂々と信じ込む。あることを信じ込んだり鵜呑みにしたりすると、それと異なることは受け入れない。 それなのに、人々は(階層を問わず)強いプライドと正義感をもっている。 ノエルは“Tatsulok”で”ang hustisya ay para lang sa mayaman.(正義は金持ちのためにだけあるみたいだ)”って歌っていますが、正義に対する主張の強さは、むしろ貧困層のほうが強いのでは? 選挙ではそれがものすごく裏目に出る。 各人が各人の勝手な正義感に基づいて行動する結果、敗者が負けを認めず「不正をされて負けた」と自己を正当化することが許される。 各人が各人の勝手な正義感に基づいて行動する結果、自分の正義感に沿わない者はすべて「不正」と呼ぶことが許される。 各人が各人の勝手な正義感に基づいて行動する結果、NAMFRELやPPCRVといった「中立」を標榜する選挙監視団体同士もが、お互いの主張が少しでも異なると「じゃ、あちらは偽物、こちらが本物の中立団体」という説明で事を片づけることが許される。 国政レベルでも同様。各人が各人の勝手な正義感に基づいて行動する結果、野党は少しでも路線が分かれそうになると、「あっちは寝返り、こちらが真の野党(奇しくも、5月の中間選挙で野党連合が自らに付けた連合名はGenuine Oppositionでした)」という説明でおしまい。 市民社会も同様。各人が各人の勝手な正義感に基づいて行動する結果、自らのCause(大義)を正しいと信じてやまない政治的なNGOたちは、受益者(=支持者)を獲得しようとし、他のNGOと縄張り争い、受益者(=支持者)の奪い合いを繰り返して、受益者を分断。 協調は生まれず、選挙不正はいつまでもなくならず、国民はあらゆるレベルで分断され、野党もNGOも貧困層も分裂の一途を辿る。そして、分裂した貧困層の利害を集約、表出できるグループはいつまでも生まれない。 6月のフィ○ピン研究会で発表させていただいたときは、努めてアカデミックな言語で上品に表現しようとしましたが、本心ではもっとストレートに、上のように思っていたのです。誰もが(自分の信じる)正義を守ろうとして、事態をより複雑に、悪い方向に動かしてしてしまっているように思えてなりません。この人たちの、この出所不明の正義感はいったい何なのか。明らかに自己利益でしか動いていないくせに、どうしてそこまで自己を正当化して、正義漢面をしているのか。国のリーダーから「善きクリスチャン」の中間層から貧困層に至るまで皆一様に、「異なる意見に耳を傾ける」という概念はこの国の人にはないのか。違いを認めあい協調して良い方向へ、という決断がなぜできないのか。口先だけでUniteとかCooperateとかMagkaisaとか言っても、所詮は、受け入れられない第三者と対立する戦略としての”Unite”しか、この国にはないのでは? ごめんなさい。住まわせてもらっている分際で、他人の国の選挙を勝手に(制度的にはaccreditationを得ているとはいえ)覗いておきながら、勝手に失望して、こんなに赤裸々に悪口ばかり書いてほんとうに申し訳ないけれど、思い切ってここで全部書き出したいのです。 私はもう以前ほどこの国の政治に魅力を感じておらず、以前ほどスラムの人たちに尊敬の念を感じていません。そして、貧困層の政治行動に意味を見いだせず、貧困層に固有の「政治的役割」があるとも思っていません。 今回突然にそう思い立ったのではなく、本当はずっと前から、都市貧困層なんて国政から見ればどうでもいいのでは、と思っていたのです。でも何となく未練があり、もしかしたら貧困層が潜在的な政治パワーを持っているかもしれない、との思いを引きずってきただけです。でも、これでは博士論文は書けません。 もうスラムに住み込みをしたいと思わないし、フィールドべったり、調査対象者(と私が勝手に呼ぶ人たち)べったりの調査はしたくありません。私は都市貧困者と寄り添って生きていきたいなどと思っていないし、雰囲気で活動家と盛り上がっていたくもありません。私は自由主義社会の勝ち組になりたいのです。 6月に研究会のために日本に帰国したときも、7~9月の日本の夏休みシーズンに日本から多くの「フィリピン研究」の先輩・同輩とマニラで会い、ときには我が家に泊まってもらったときも、指導教授に再三マニラでお会いいただいた際にも(なんとも有難いことに、私の指導教授は各種研究プロジェクトの関係で年に何度もマニラにいらっしゃるのです)、上のことを言おうとして、でも、言い出すタイミングと言葉が見つかりませんでした。文章にしようとも試みましたが、混乱するばかりで書けませんでした。自分自身がうまく消化できていないことを、他人に筋道立てて説明することなんてできないのですから。 でも、今回のバランガイ選挙にかこつけて、ここで書くことにしました。 書けて良かったです。 「良かった」だなんて、不謹慎でごめんなさい。N氏たちはこの選挙に切実な望みをかけていたのに、この選挙で人生が変わってしまった人もいるのに、選挙絡みとみられる殺人が全国で25人(国家警察)にのぼっているのに。 “The Poll was conducted generally Peacefully.”という選挙管理委員会発表とは裏腹に悲しい選挙だったけれど…、この国にまたひとつ勝手に失望した自分をまたひとつ憎みながら、自己中心的な私は、「良かった」と思います。だって、自己中でも何でも、前に進まないと。 愛することができなくなったスラムの人々を無理に愛しているのだと思いこもうと努めるのも、ちっとも共鳴できない運動家に共鳴している振りをするのも、調査研究のためと一生懸命自分に言い聞かせて尊敬できない人たちにすり寄るのも、対象を愛さなくてはと思って幻想を作り続けて勝手に失望するのも、もうやめます。そして、前に進まないと。 ずいぶん極端なことばかり書きましたが、私は特にこの国の政治的な部分ばかり見ているのでひどく偏りがあるのであって、この国が、そしてこの国の人がもうすべて嫌になった!と叫んでいるわけではありません。これからもスラムには行きますし、「元調査地」の友人や知人とは、これからも自然体でずっとお付き合いしていただきたいと思っています。角度を変えても、どのみちこれからも「運動」を追いつづけます。いろいろありますが、N氏を始めとする個別のリーダーたちのことは、やっぱり尊敬しています。それに何よりも、この先もあの人たちに恩を返し、罪を償わなくては。 決して、過去を殺して新しく生まれ変わろうと思っているわけではないのです。そんなことはできませんから。これまでのことを引きずりながらも、少しずつプラスの方向に「転換」できるように、これから、がんばります。 2007年 11月 01日
![]() 5年ぶりに行われるバランガイ選挙の、キャンペーン最終日です。土曜なので仕事は休み。 日中は、私の以前の調査地を含むトンド-ビノンド-キアポ地区を回り、お祭り騒ぎを見学しました。国政選挙、地方選挙と違って、バランガイ選挙の場合、キャンペーン資金も、そして選挙区の大きさもごく限られています。面積の大きなバランガイであれば、地方選挙よろしくジープやバイクの長い長い車列を作るわけですが、面積の小さい人口密集地域では、徒歩での路地練り歩き作戦が何よりも重要。つまりはFace to Faceなわけで、手書きの看板を掲げ、質の悪いコピー紙のチラシを配り、ドラムや笛で音楽を奏でながらご近所を歩き続ける、「超・手づくり選挙」。子どもも参加して(というか子どもの方が多かったりして)、端からはお祭り行列にしか見えないこともあります。 このトンド-ビノンド地区は人口密集がすさまじく、わずか50Mほどの二本の路地だけでひとつのバランガイを形成しているところもあります。バランガイになるには最低500世帯の登録が必要なはずですから、100Mに500世帯が住んでいるということに。単純計算すると、1メートル5世帯!? …スラムならそれも考えられなくはないですが、おそらく、登録だけしていて住んでいない人もいるのでしょう…。 こうした人口密集地には当然ながら子供が多く、したがって小中学校も多いはずなのですが、それでも、ひとつの小学校に10以上のバランガイが含まれることも珍しくありません。選挙当日は、数万人の人々がひとつの小学校に詰め掛けるのです。これはすごいです。ケ○ン市コモンウェルスやパ○タスの投票場の混雑振りも、こことは比較になりません。 私は2004年大統領選のときにトンドの元調査地の「半ばパニック」の投票風景を目にして以来、敢えて選挙当日にトンドに行く気は起こらなくなりましたが、今回も、選挙翌日の英字紙Starは、人で溢れる同地区の投票場の写真を一面に掲載。Inquirer紙は、近隣バランガイの「朝5時に来たが(開場は7時)、人でいっぱいで入れない。」というおばあさんの発言を引用。TVニュースは、「PA地区(まさに、私の元調査地)で、投票場の中に入り込んでビラを配っている子供が発見され、リム・マニラ市長が厳重注意」とのニュースを伝えていました(投票場から30M以内でのビラ配りは禁止)。あらゆる犯罪と麻薬と臓器売買の温床と呼ばれる超ブラック・エリアのPA地区がリム市長に目をつけられているのは当然のこと。それにしても、選挙当日に自らPA地区に乗り込むとは、リム市長もさすがです。 ------------- 夕方からは、例によってケ○ン市B地区へ、N氏の陣営の最後の演説会(miting de avance)を見に行きました。N氏の住民組織連合は最近、「修正左派系かつ修正エストラダ派」とでも呼ぶべきある政治ブロックと強い繋がりを持っており、彼らのネットワークで、ノエル・カ○ンゴンが応援に駆けつけました。他にも「修正左派系かつ修正エストラダ派」の有名なNGO(こう書くと、わかる人には一発でわかってしまうと思いますが)のワーカーが2人来ていて、ギターを弾くのだといいます。この2人、私が現在の仕事に着く前からの知り合いで、仕事上のセミナーなどでも何かと顔を会わせるし、コンス○ラシー・カフェでもしばしば鉢合わせするし、とにかく、行動範囲がかぶっているのです。今回も、事前に相談したわけではないのにこんなところで会ってしまって、お互いに 「あー、また会ったー! ほんとに、You are everywhere!」 「Ikaw din!(あんたこそ!)」 という感じでした。 普段はバスケットボールコートとして使われている広場にステージが設けられ、バックには候補者のポスターが全面に貼り尽くされています。そうそう、エストラダ前大統領の大きな写真も飾られていました! ステージの上に並べたプラスチック椅子に、N氏を除くN氏陣営のバランガイ評議員候補、そして青年団候補の若者が全員着席。そしてまず、地域の子どもたちによるダンス。フィリピンでお決まりの、あのセクシーダンスです。皆、衣装まで着ちゃって、かなり気合いが入っています。次から次から出てくる子どもダンサー。これがまた、どの子もうまいのです。スラムの道端で朝から晩まで踊って鍛えている様子が目に浮かびます。観客は子どもの方がずっと多く、ステージを取り囲んで大声で囃し立て、ステージやスピーカーによじ登る子どもたちを、ステージ整理係のおばちゃんが払い落とすように制しています。ステージの隣からは常に爆竹の音が鳴り響いています。 そして、ノエル・カ○ンゴン登場。観衆熱狂。ノエルは開口一番、「ちょっと待て、君たち、有権者か?」…それくらい子どもが多いのです。 ノエルは、”Kalayaan(自由)”や”Tatsulok(ピラミッド型社会)”や”Ako’y Isang Mabuting Pilipino(善いフィリピン人は…)”などを次々に披露。スラムのど真ん中で聴く”Kalayaan”や”Tatsukok”の生演奏は、ライブハウスやカフェとは比べものにならないほど説得的で、私も久しぶりに、全身の血が沸くほどの昂揚感を覚えました。”Ako’y Isang Mabuting Pilipino”は笑わせどころの多い歌なのですが、後半部分の”Di ko ibebenta ang aking kinabukasan, ang boto ko’y aking pinahahalagaan.(僕は将来を売らない。僕の票はとても大切なもの)”というフレーズで、観衆は最高潮に昂揚。 ノエルは最後に”Kanlungan”を歌い、その中盤でやっとN氏が登場。ノエルと肩を組んで歌い、ヒーローっぷりをアピール。すてきな演出です。 5月に市議会議員に立候補してスラムを回っていたときのN氏はTシャツにつっかけで「貧困層」を自らアピールするような服装をしていたのですが、本人曰く「バランガイ選挙では地元のヒーローとのイメージを植え付けることが大切」なので今回は襟付きシャツに革靴、ネックレスまで付けています。それでも富裕層に比べればとてもシンプルであることに変わりはないのですが。 続く候補者スピーチで圧巻だったのは、N氏の 「もう、利用されるのは終わりだ!」 「票を守るぞ。騙されないぞ。投票当日の朝から開票が終わる翌朝まで投票場に居座って、票を守るんだ!」 という言葉。それに続く司会者のおばちゃんの、 「私たちからは一票も買わせない!」 「私たちの敵はプロパー(非スクワッターを指す言葉)じゃない。システムだ!」 という叫び。 もちろん、実際に票を買う人だっていっぱいいるのでしょうが、世間一般には買票の巣窟と思われているスクワッターの人々が「私たちからは一票も買わせない!」と叫ぶというのは、貧困者をアホだとしか思っていない中間層や、英字紙のコラムニストらに聴かせてやりたいです。 とはいえ、彼らを美化してばかりははいられません。N氏陣営はきっと、近所のスクワッター仲間が彼以外に投票したら、「買われやがって!」と言うのでしょうから。たとえその人が熟考して、金を受け取らずに現職に票を投じたのであっても、「いや、金をもらったんだ」と決めつけ、聞く耳をもたないでしょう。 その点では、「貧困層はみんな買われている」と他者を決めつけている中間層と彼らの思考形態には、ほとんど違いがないのではないかと思います。(選挙当日も強くそう感じました。この点については次回詳しく書きます。) それに、10月1日の投稿で書いたように、N氏は今年5月の選挙で圧勝した三選目のケ○ン市長(つまり当時は現職)から多額の選挙資金を受け取っています。「買われて」はいないものの、「現職市長から資金を受け取る」って、いったいどうなんですかね。本人は「市長をうまく利用している」つもりであっても、市長からしたら懐柔策でしかないわけで。英字紙のコラムニストなら、もっともらしい理由をつけてN氏を批判するはずです。 N氏たちが「自分たちは買われない」と叫ぶその「自分たち」は、「この地区のスクワッター全員」や「貧困層全員」ではなくて、狭い「われわれ」なのですから。彼らは「スクワッター」でも「貧困層」とかいうアイデンティティを有しているのではなく、「買われるスクワッター」と「買われないスクワッター」を分けることで、「買われないスクワッター」というアイデンティティを確立し、そこに誇りや正義を感じているわけです。そして、彼らが「買われるスクワッター」というレッテルを貼った他者もまた、そう思っているのです。 スクワッターが自分たち貧困層を差異化し、自らを「賢く立ち回る住民」と自己規定し、自分と政治行動を異にする他者を「無知な住民」を批判するという現象については、修士論文でも触れたのですが、上記の「中間層との比較」も含め、今後、さらに研究で深めたいと考えています。 2007年 11月 01日
10月は、実にいろいろなことがありました。ただでさえ政情のごたごたが取り沙汰されている中、パンリロ・パンパンガ州知事が生中継の記者会見で突然「大統領府で開催された会合の後で現金入りの紙袋を受け取った」と暴露。そして、偶然にもバランガイ選挙のキャンペーン解禁日の午後、首都圏マカティ市のショッピングモールで爆発事件が発生。我が職場の緊張感も高まり、さすがに私も、平日の晩や週末やバランガイ選挙のキャンペーンを見物に行くどころではありませんでした。
そしてもうひとつ。2001年4月に逮捕され、今年9月12日に公務員弾劾裁判所で有罪判決を受けていたエストラダ前大統領への恩赦。、判決以降、一貫して恩赦を拒否し無罪を主張して最高裁への上訴を主張してきた前大統領は、10月の第4週目になって突然、恩赦を望むと発表。これを受け、10月25日、アロヨ大統領はなんと、即座に恩赦を宣言。 そして、「歴史的に刻まれるであろう10月26日」がやってきました。前大統領は本当に恩赦を受け入れるのか? 本当にそんなに簡単に釈放されるのか? …皆が、固唾を呑んで見守っていた…、はずです。 この日、早朝から、マカティのホテルで上司とカウンター・パートとの朝食会に同席した私は、もう居ても立ってもいられず、朝食会が終わると同時に、上司に 「今日が、大事な日だというのはわかっています。でも、いえ、だからこそ、午前中だけは、外出させて下さい。午後には戻って、猛スピードで仕事をしますから。」 と申し出ました。 寛大な上司の許可を得て、私はさっそく、前々回の投稿で書いた、ケ○ン市第1区の巨大スクワッター、B地区を訪れました。エストラダ派の急先鋒をN氏がバランガイ長に、N氏が会長を務める住民組織連合からほか6名のリーダーがバランガイ評議員に立候補しています。狭い狭い、人一人やっと通れるようなスラムの路地をキャンペーンして回っている彼らを探すのは非常に困難ですが、何といってもN氏はこの地域では超有名人。道端にたむろする人々に片っ端から、「N氏のキャンペーン団、ここを通りましたか?」と聞いて回り、「来た来た。あっちのほうに行ったよ」、「5分前にそこを右に曲がったよ」…といった情報を辿ると、ちゃんと見つけられました。こういうところ、さすがはスラムです。 N氏が会長を務める住民組織連合は、2001年5月の「EDSA3」に参加し、最前線でマラカニアン宮殿に向かって投石したグループのひとつでした。あれから6年半。今日にもエストラダが自由の身になるかもしれないというのに、彼らはキャンペーンの間も休憩中も、前大統領には触れません。 「エラップ(エストラダの愛称)、今日中にも釈放されるみたいですよ!」 と私が水を向けると、思い出したように、 「恩赦を受け入れるんだな。それがいいよ。」 「それは良かった。嬉しいよ。長かったもんな。」 「でも、彼は無罪だよ。少なくともアロヨよりはね。」 と答え、本当に嬉しそうな顔で、エラップがこの土地をスクワッターに譲渡すると宣言したのに政権交代でそれがすべてチャラになってしまったこと、自分たちの作った「EDSA3」の証言ビデオを見てエストラダが涙したという逸話など、何度も繰り返し語ってくれた話をまた語ってくれました。でも、それだけ。興奮もせず、ラジオやテレビのニュースににかじりつくわけでもなく、彼らは淡々としていました。中には、 「えっ、恩赦なんて出たの? 全然知らなかったわ。」 というリーダーも。 N氏らが前大統領の釈放にヒートアップしないことは、私にとって、非常に大きな驚きでした。こういうことって、TVニュースや新聞を見ているだけではわからないものですね。 私がそこを去った同日午後、エストラダ前大統領は恩赦を受け入れ、公務員弾劾裁判所は前大統領の釈放を許可。現地時間の午後5時すぎ、前大統領は、地盤であり自宅のある首都圏サン・ホワン市(最近、町から市になったのです)に戻るべく、6年半を過ごしたリサール州の別荘をあとにし、約1時間後、サン・ホワン市庁舎前に現れ、支持者らに熱狂的に迎えられました。別荘前にも支持者が集結していたようですが、市庁舎前はすご人出で、お祭り騒ぎだったようです。 しかし、N氏のグループからわざわざサン・ホワン市に行った人は皆無でした。 別に彼らは、前大統領からの恩恵を、そして「EDSA3」を忘れたわけではないのです。彼らの運動はずっと継続しています。ただ、いつもギリギリの利益を考えながらギリギリで生きている彼らは、日常に忙しく、そして、差し迫るバランガイ選挙に忙しかったのです。 それを考えると、彼らをあれだけ路上に駆り出した「EDSA3」って、相当なものですね。 TVの実況中継を見ていた私には、エストラダ人気はまったく衰えず、それこそ、国じゅうとは言わないまでも首都圏じゅうのエストラダ派が大喜びしているかのように見えましたが…、それは、私が職場からブラウン管を通して見ていた世界。あのスラムからN氏の目からは、前大統領はどんなふうに見えるのでしょう。立ち位置によって世界はまったく違って見えてしまうから、自分がどこにいるのかをいつも確認しなくては、と改めて思わされました。 2007年 11月 01日
今日は、フィリピンのお盆(All Saints Day)です。
ラマダン明け休日を含む三連休を前にした10月11日の晩。 連休はどこにバランガイ選挙の準備状況を見に行こうかな、と考えていた矢先、畏友Wataruさんのホストファミリーのお母ちゃんから、miscall(ワン切り)。よくあることなので、どうせまた何かおしゃべりがあるんだろうと思って、軽い気持ちでかけなおしたら、お母ちゃんが泣きながら、 「お父ちゃんが死んだ。Wataruに電話で伝えて。」 私はもちろん直ちに、日本にいるWataruさんに電話しました。 Wataruさんのお父ちゃんとお母ちゃんは、首都圏ケ○ン市Philcoaの路上商人で、スクワッターです。以前はランソネス(ある種の果物)を売っていましたが、数年前にハム・ソーセージに切り替えてからは、なかなか繁盛している様子でした。支店を出して(路上商人なのに支店と呼ぶのもおかしな話ですが)、仕入れ用に中古ジープを買って、フィリピン大学の食堂にも卸して…と、最近は特に、順風満帆に見えました。 1年前、友人「武坊威」と、私のホストファミリーでもあった彼の家族との関係が決定的に悪化して以降、私は「都市貧困研究」をこのまま続けることに自信がなく、意識的にスラムから距離を置くようにしてきました。それでも、Philcoaを通るときには必ず、お父ちゃんとお母ちゃんの店を覗きました。だって路上にいるんですもの、なんとなく、通りすぎるわけには行かなくて。自分ではハムやソーセージをそんなにしょっちゅう食べるわけじゃないけれど、調査地へのお土産やら何やらで、毎回何か買っていました。お父ちゃんは、いつも気前よくおまけしてくれました。近くで鶏を揚げている路上商人仲間に自慢のハムを揚げさせ、食パンに挟んで近所の人に振舞っていることもありました。とても油っぽい、ただ空腹を満たすだけのサンドイッチですが…それでもおいしかったです。 彼らと一緒に暮らしていたWataruさんとは違って、私の場合、お父ちゃんとは路上の雑踏の中で話すことがほとんどでしたが、初めてゆっくり話したのは、昨年のクリスマス。せめてクリスマスくらい、「武坊威」一家に挨拶だけはしておこう、と思った私は、お土産にハムを持っていこうと、25日の昼間、お父ちゃんの店に寄りました。しかし誰もいません。近くにいた路上商人仲間によると、クリスマス・セールで疲れ果てたお父ちゃんとお母ちゃんは、昼間は店を閉めてご自宅で休憩中とのこと。そっとご自宅に行ってみると、お二人は近所の人に、パーティ用のスパゲッティ(あの、うどんみたいに太くて茹ですぎでピンク色でとてもとても甘いやつです)を振舞っている最中でした。私も招き入れられ、楽しく、他愛もないおしゃべりをしました。帰り際、プレゼント用にハムのブロックを買いたいと申し出た私に、二人は、ソーセージをどーんとおまけしてくれました。気の晴れないクリスマスでしたが、私はすこし幸せな気持ちになって、「元ホストファミリー」の家に向かいました。 亡くなる10日くらい前にハムを買ったとき、お父ちゃんはいつもどおり元気で、私の名前を呼ぼうとして、やっぱりいつもどおり、Wataruさんのガールフレンドの名前と私の名前(一音違いなのです)を区別できず、 「あぁっと、この子は、どっちだったかな…。」 とつぶやき、お母ちゃんに「いいかげん覚えなさいよ!」と言われていました。 それが、お父ちゃんの最後の思い出になりました。 あのとき買ったハム、まだ、我が家の冷凍庫にあります。いつ解凍して食べればいいんでしょうか。私にはまだ、判断がつきかねています。 さまざまな困難に直面しながらも貧しいホストファミリーと関係を築き続けているWataruさんが私にはとても羨ましく、あのお父ちゃんとお母ちゃんは、私にとって特別の意味をもつ人たちでした。 私の現在の仕事は「都市貧困」とは一切無縁、というよりも、私は実に、彼らとは180度違う世界を生きています。私が物理的にも精神的にもどんどん「あの世界」から遠ざる中で、Philcoaの路上にいつもいるお父ちゃんとお母ちゃんは、「あの世界」を思い出させてくれる数少ないチャネルでした。 お父ちゃんの死を知らされた数時間後、私はまだ暗いうちにバスに乗って首都圏を離れました。幸いなことに週末でしたから…。とにかく「あの世界」の核をなす「都市貧困」から離れたく、そのためには手っ取り早く、物理的に首都圏を離れたかったのです。できることならこの国を離れたいとさえ思いました。 残された家族の経済状況や、葬儀代や、具体的にいくら渡すのか、ということを、Wataruさんと露骨に話しました。私も、たくさんの人にたくさんのお金を貸しているし、「武坊威」とは、金銭を巡って無駄な争いをしました。それでもやはり、仮に彼らが新たな借金を申し込んできたら、私はまだ、黙って貸してしまうのだと思います。過去にどんなに痛い目を見ていても。それは、「あの世界」と関わりをもつかぎり続くでしょう。今後もおそらく、私たちは「あの世界」の人々に、半ば無制限にお金を貸してしまうのでしょう。返ってくる見込みがなくても。というか、この国でお金を「貸す」とは、「寄付する」ことを意味するのですから。 人の生死も、借金も、他人の人生に勝手に関わることを決めた私たちが選んだ問題。あるいは、他人の人生を「調査対象」にする自己中心的な私たち「調査者」がせめてもの償いをできる機会なのかもしれません。 どれもこれも、自分が勝手にこの国に来て、勝手に他人の人生に関わらせてもらって、勝手に選択したこと。それを、貧困のせいだとか、都市化のせいだとか、フィリピン文化のせいだとか言って責任転嫁するのは本末転倒です。 お父ちゃん、短い間でしたが、本当にありがとうございました。どうか、天国で幸せでいてください。そこから、家族を見守っていてください。お母ちゃんと子どもたちを、ずっと守ってください。お父ちゃんの埋葬にはすごくたくさんの人が参列していて、びっくりしました。私も、お父ちゃんが教えてくれたこと、お父ちゃんに助けてもらったことを、できるかぎり、無駄にしないようにします。 Wataruさん、あなたはあなた自身の幸せと成功を求めてください。収入がすべてなんて言いませんが、あなたが仕事を得て安定することが、あなたの家族(+Extended Family)のためなのでしょうから。 ---------- 後日談ですが、10月31日の晩に私がPhilcoaを通ったときは、お母ちゃんはいつものあの場所でちゃんと露天を再開していて、やたら元気な「親戚」のおばちゃんと一緒に忙しくソーセージを売りさばいていました。 「40 days(四十九日みたいなもの)の儀式は11月21日にするから来てね。Wataruもそれに間に合って来られるのかな? あなた飲めるんでしょ? 歌は? 踊りは? 平日だけど、夜を徹してやるから、仕事終わってから来て、みんなでご飯食べて、楽しく飲みましょうね。泊まっていってね。」 よかった。お母ちゃんがあそこに戻ってくれて。あのおしゃべりが戻ってくれて。 2005年 12月 07日
11月第2週目の週末は関東へ。いつもどおりの「格安」夜行バスで週末に横浜に向かい、朝早くからBUKO PIEさんを最寄り駅に呼び出しておしゃべりにお付き合いいただき、お昼にはフィリピン人の研修生がお世話になっている横浜の会社を訪問、研修生と会社の方と一緒に昼食。その後、渋谷でアメリカ人のUrban Poor活動家のRさん(今年7月に武坊威と私に山谷と隅田川を案内してくれた女性)と落ち合い、近くの公園で、おじさんたちとお話しながら、野宿者のための炊き出し準備に参加。いつも思うのですが、野宿者のおじさんたちはなぜあんなに料理の知識が豊富で、包丁さばきが見事なのでしょうか。
すっかり暗くなってからは、野宿者連合の代表の方のスピーチをきいて、炊き出しに集まった方々とお話をして、夜9時からの渋谷駅パトロールにも参加させていただいて、山谷に近い(というか山谷そのもの)南千住の安宿に宿泊。 翌日は終日、某ワークショップ。(みなさま、お世話になりました。) 夜は、Rさんの誘いで「小泉・ブッシュ会談反対デモ」に参加。別に何も危険なことも過激なこともしていません。ただ、デモ隊を取り囲む公安の多さには驚きました。「次は右!」などの声もデモ隊よりずっと大きくて、さすがね、と思いました。彼らのほうが明らかにOrganizedですもの。 先導集団は、old-fashionedシュプレッヒコールに被り物(バンダナみたいなやつ)にタテカン文字のプラカードに…、と超古典的で、Rさんとその友達の外国人女性たちのグループも「目が点」状態でしたが、途中で彼女たちがメガホンのひとつを奪い、ラップでのシュプレッヒコールを始めたので、一気に盛り上がりました。 (私はしょっちゅうデモに出ていると思われているかもしれませんが、日本で街頭に出るのは、1997年(高校2年)のアースデイ以来です。日本のデモってあまりにold-fashionedで、観念的で、ちっともおもしろくないんですもの。先導集団のシュプレッヒコールにあわせて唱和しないと「声を出せ!」って怒られるし、音楽を鳴らしたり独自のプラカードを持ったりすると、おじさんたちから「まじめに集中しろ!」っていわれるし、なんだか、抑圧的な体育の授業みたい。ピースウォークはお通夜みたい。あれじゃ、一般人が集まらなくて当然って感じです。フィリピンのラリーはあんなに魅力的で、通行人でさえ思わず立ち止まって見入ってしまうような雰囲気なのに。) デモ終了後は、MLなどでお名前だけはかねがね存じ上げていた山谷の野宿者運動の方々ともお話しすることができ、たいへん幸運でした。 次の日は、これまた野宿者運動に長くかかわっておられ、フィリピンのCommunity Organizingにも詳しいS大学のS先生の研究室を訪問させていただき、運動と外部者のあり方についての根本的なお話を聞かせていただきました。 11月第三週の週末は、Urban Poor活動家のRさんのほうが今度は関西に来られ、一緒に釜ヶ崎に行って、超ラディカルなRさんの友人、Tさんと落ち合い、一緒に釜ヶ崎を歩いて、その後、扇町公園の野宿者のAさんと一緒に、大阪の某大学で行われた都市貧困に関するシンポジウムに参加。シンポジウムのトピックは、フィリピンの都市貧困、釜ヶ崎の雇用創出、ビッグイシュー日本版、の3本。後ろの2つについては、私は素人なので単純に勉強になると思ったけれど、AさんとRさんは強く異論を唱えておられました。けれど、私にはわからないのでした…言葉は砂漠でした。そんなものなのでしょう。 2005年 12月 07日
本家サイト「日和見バナナ」http://www.46ch.net/~saging/ を再スタートさせました。BBSはまだ動きませんが、サイトは以前のまま復活させました。これからもどうぞよろしくお願いします。
もう、11月が過ぎ去ってしまいました。日本にいられるのも実質あと数ヶ月だからと、何か新しいことをしてみようとしたけれど、結局、ただただ時間に追われるだけで、中途半端に終わってしまったのでした。 11月第1週目は「持たざるものの国際連帯行動」の関西集会なるものに突然に参加したのですが、野宿者のおじさんたちと70年代からワープしてきたような熱い男性たちの間で浮きまくってしまいました。日本にいるときよりも、フィリピンのスラムにいるときのほうが、自分が女性であることの壁を意識することはずっと少ないように思います。 それはともかくとして、その集会の参加者は野宿者のおじさんたちだったわけですが、主催者の若い男性たちは、野宿者と、「潜在的な将来の野宿者」であるフリーターやニート…との連帯を呼びかけていて、そもそもそれが、「持たざるものの集会」の意図するところであったようなのですが、それがまさに、私がその場に行ってみたいと思った理由でもあり、同時に、その場でやはり感じた違和感でもあったのです。 以下、「持たざるものの国際連帯行動」の趣旨をコピーします。 ---------------------------------------------------- ほっとけない、わたしの貧しさ 自己責任か? この生き難さ このかん、「構造改革、「民営化」、「小さな政府」路線の下に、自己責任、自助努力という名の弱肉強食の競争社会―格差社会が社会全体を覆い、さらに参戦国家―改憲へと突き進んでいます。こうした状況の中で、貧困と社会的排除―社会的不公正に呻吟する者たちは、怒りの声を発する場すら奪われてきました。 私たちは、2003年10月に「戦争と新自由主義グローバリゼーションにNO!」「社会的排除に抗して国境を越えた連帯を!」を掲げて、「持たざる者」の国際連帯行動に立ち上がりました。2回目の昨年11月3日には、日雇・野宿労働者、障害者、フリーター、失業者、移住労働者、セックスワーカー、獄中者支援者、労働組合などの多様な闘う団体・個人が一堂に集まり、各々の課題の垣根を越えて、230人の集会・デモを行いました。この行動には、日韓FTA反対で体を張った闘いを示した韓国・民主労総の仲間24人が合流し、フランス、タイなどからの参加・アピールも含め、文字通りの国際連帯行動として成功しました。 この成果を受け、今年の11月には、より多くの「持たざる者」との出会いと連帯を目指して、新自由主義グローバリゼーションと闘う広範なうねりを作り出そうと、準備をスタートさせました。 ---------------------------------------------------- …私がこの集会に関心を惹きつけられたのは、なんといってもいまどき、「持たざるもの」という発想(ソウル・アリンスキーとは関係がないらしいことがのちに判明)と、「日雇・野宿労働者、障害者、フリーター、失業者、移住労働者、セックスワーカー、獄中者支援者、労働組合などの多様な闘う団体」というターゲット。フリーターが組織化されたり闘ったりすれば日本は大変なことになるだろうけれど、幸か不幸か、その可能性はとても低いだろうと思っていたので、「日雇・野宿労働者とフリーターとの連帯」を視野に入れているこの大胆な発想に驚かされたのです。 フリーターを代表して話してくださったあるスピーカー曰く、フリーターは、自由でいたいから就職しない気ままな自由人でもなく、自ら選んでフリーターでいるのでもなく、排除され、搾取されている存在なのだとか。 …けれど、率直に言って、私には、その発想を受け入れることができないのです。私が高校生のときにアルバイトをしていた会社(和菓子の店舗販売/のちに製造工場)にも、いま私が通訳として働かせていただいている会社にも、多くのフリーターの方がいましたが、勤勉でしっかりした人は、じきに社員として登用されていきました。いつまでもフリーターでいるのは、「残業は嫌だからアルバイトのままでいい」、「家庭の事情で残業ができない」、あるいは「夢を追っているので(演劇など)生計のためのアルバイトだけでいい」など、自分で「非正規雇用のままでいる」ことを選択した人か、あるいは、正社員になりたくてもなれないだろうと周りも思うような、それなりに問題のある人たちです。気を悪くした方がいたら申し訳ないのですが、それが私の正直な感覚であります。「同じ労働をしているのに差別だ、搾取されている」と言うフリーターの方もおられるかもしれません。しかし、どんな職場でも、正社員とアルバイトとでは、責任の重さが違うはずです。私は、いま働いている会社の正社員ではありません。正社員は自己裁量で仕事ができますが、月給計算なので、残業手当はつきません。が、成績次第で特別手当てや賞与や昇進があります。もちろん各種保険も完備です。一方、私たち非正規雇用の通訳者の給与は時給計算です。残業も休日出勤も、一定の時給で計算されます。ただしそれは上司から指令を受けた場合だけであって、自分の判断で休日にフィリピン人の研修生たちに生活サポートをしたり、24時間電話対応をしたりする分の「労働」は換算されません。特別手当もありません。つまり、私たち非正規雇用の通訳は、「上から指示された通訳・翻訳の仕事だけを忠実にやっていれば、それに見合った報酬が時間ベースで支払われる」のです。むしろ、自己裁量で仕事をしてはいけないのです。そして逆に、何が起こっても、責任を取らなくてもよいのです。たとえ研修生が失踪しても、万が一犯罪に手を染めても、それによって通訳者が責められることはないのです。 正社員に登用してもらえるという話もありましたが、大学院で勉強を続けたいという私の希望で、私はいまも非正規雇用のままでいます。しかし、私の上司はとてもフレキシブルで心が広く、人徳のある人ばかりなので、私が自分の判断で休日に研修生と一緒にミサに行ったり、時間を共有したりすることを、禁止も否定もせず、「フィリピン人の性質を知っているあなただから、あなたが思うように彼らに接してくれればいい。あなたが思うことを提案してくれてかまわない。責任は私たちがとります。」と言ってくれます。それに、給与は決して悪くはなく、国民年金と学費と生活費を払って暮らしていけますし、さらに、給与に反映されない私の休日・深夜のボランティア労働については、上司がプライベートな食事や待遇など別の面で還元してくれます。つまり、私は相当恵まれているわけです。 だから底辺労働者のフリーターのことなんてわからない、と言われるかもしれませんが、私だってそれなりにいまの仕事で努力をしているのだし、世の中の正規労働者は皆、もっと努力をしていると思います。大学院生なんて、フリーターやニートとほとんど紙一重なのかもしれませんが、同年代の人間として、やはり、フリーターは自己責任だろう、と私は思ってしまうのです。ここだけの話、私だって、コンビニやファーストフード店で、とても態度の悪い、でも明らかに30代と思われる店員を見ては、心の中で、「そんなだからいつまでもフリーターなんだよ」って思ってしまうのは事実です。彼らは、「自分だって正社員になりたいのに、ただ仕事がないんだ」、「専門能力のない若者は社会から排除されていくんだ」って言うかもしれません。でも、そんな都合のいい、と私は思うのです。 しかし、話はまだ続くのです。 私はフィリピンのスクワッター(不法居住者…最近は非正規居住と言うこともあるのですが、不法は不法)の政治行動がきわめて戦略的で、合理的で、つまりは「まとも」だと言うことを証明するために大学院で論文を書こうとしています。私に言わせれば、スクワッターも、シンジケートも、とても賢くて分別があり、きわめて合理的なのですが、大学院の指導教授からはいつも、 「根本的なことを言うけど、スクワッターなのに、移転するならあそこは嫌だ、だの、一戸建て(Low-house)ならいいけど集合住宅(tenement)はいやだの、そんなことを普通に言えるっていうのが、まず、フィリピンを知らない人には理解しがたいし、フィリピン人の中間層だって、内心は絶対に『こいつら都合のいいことばっかり言って、不法占拠のくせに、選挙のときだけ大事にされて、要求とおして厄介なやつだな!』って思ってるはずですよ。」 と言われます。確かに、もし私がフィリピン国民だったら、あんな、土地代も払わないのに数だけ多くて声の大きい人たちになんで土地をあげなくちゃいけないの、って思うかもしれません。それに、本当に貧しくてスクワッターにならざるを得ない人々がいる一方で、スクワッター・コミュニティで権力を維持したいがために、本当は郊外に土地を買えるくらいのお金があっても、あえてスクワッターとして住み続ける人々がいるのも(そして、往々にしてそういった人々がコミュニティ・リーダーになりやすいのも)事実です。 …という視点と、日本の野宿者への「好きでホームレスやってるんじゃないか」、「自業自得だ」、「その気になれば、生活保護などの社会保障制度を使えば社会復帰できるのに、それをしない、やる気のない人たちだ」という世間一般の偏見、あるいは、私自身がニートやフリーターに対して向けている「親に甘えているだけ」、「職がないんじゃなくやる気がないだけ」、「自分が働かないのを社会のせいにしている」という、半ば敵意めいた非難の目は、同じじゃないかと思うのです。 私は、朝からスラムの街角で呑んだくれているフィリピンの失業中のおっちゃんたち(でも住民運動の中ではとりわけ声が大きい)に対しては、 「仕事がないのは、彼らが怠け者だからじゃなくてフィリピン社会が貧しいからだ」 などと、やたらに寛容なまなざしを向けることができるのに、同世代の日本人のニートは許せないのです。この矛盾がきっと、大学や研究会で知り合った方々から、きわめて率直な意見として「あなたは貧困層を美しく描いているだけだ」と揶揄されるゆえんです。 長くなってきたので、次回に続けます。 < 前のページ次のページ >
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