Keso de Bola とは、 「表面は赤いのに中は黄色い」フィリピンのボール型チーズ。転じて日和見主義者。       かつてお世話になった、現地の言葉で「灯台」と呼ばれるマニラ湾岸のスラムを、ガラス越しに。
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カテゴリ:フィリピン研究( 55 )
Jesse Robredo氏を偲んで
 Facebookにも書きましたが、こちらにも。

 飛行機事故で急逝したフィリピンの内務地方自治長官Jesse Robredo氏について、彼にもっとも近かった日本人であるとともに、おそらくは彼にもっとも近かった政治学者である、アジア経済研究所の川中豪先生が、追悼の文章を書かれています。

ジェシー・ロブレド内務自治長官(フィリピン)の急逝
http://www.ide.go.jp/Japanese/Research/Region/Asia/Radar/201208_kawanaka.html

 ネット上で読めるフィリピンメディアの報道ぶり、そしてFacebookでの友人たちの言葉を追い続け、信じられない気持ちと喪失感に浸っていた数日間でしたが、川中先生の文章を読むと、「私たちは何を失ったのか」という意味でのリアルな喪失感をさらに感じ、あらためて悲しみがこみあげてきます。
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by saging | 2012-08-22 23:19 | フィリピン研究
あのころの未来に僕らは
 ロンドン五輪の開会式には感動しました。あれって、国家とか、近代とか、そして西洋化とかいうもののいちばん美しい部分だけが抽出された、世界でもっとも華麗なショーだと思うのです。聖火ランの演出もポール・マッカートニーも良かったですが、やっぱり見どころは各国選手団の入場行進です。あれ、大好きです。4年に1度のお楽しみです。
 ただ、私の家にはテレビがありません。東日本大震災のあと、仕事以外でテレビを見るのをやめたからです。この世の中でどうしても見なくてはならないテレビ番組なんて、オリンピックの開会式と、選挙の開票速報くらいしか思いつきません。
 テレビを見る必要が生じると、私はいつもジムに出かけ、カーディオ(有酸素運動)マシンの前に取り付けられた小型テレビを見ることにしています。昨日の開会式もそうやって鑑賞しました。それなりに正しいオリンピックの観賞方法だと思います。画面の中の一体感や「スポーツマンシップ」と、自分の孤独感のギャップがものすごいのですが。おまけに、ジムのマシンのテレビ画面って、動きを止めると消えてしまうので、開会式をぜんぶ観たかった私は3時間弱もマシンを動かす羽目になってしまったのですが。まさか3時間同じ運動を続けるわけにもいかないので、トレッドミルやエアロバイクやクロストレーナーやステップマシンを交互に使いながら、なんとかHey Judeまで見届けることができました。すごい達成感です。いろいろな意味で。

私が国際協力業界に引き寄せられたのは小学6年生のときでした。バルセロナ五輪の夏です。テレビでその華やかな開会式の様子を観て、「スポーツは国境を越えるんだなあ。どこの国の選手もみんな仲良くていいなあ。」と単純に感動したのですが、その直後に某NGOの子ども国際会議でインドに行って衝撃的な「貧困」に触れてしまい、帰国後はもう、テレビの中のお祭り騒ぎやさまざまな国際交流イベントの映像を観ても決して楽しい気分になることはできませんでした。その「何をしても心から楽しめない思い」みたいなものは、大学に入るまで続きました。そして、唯一それが軽減されるのは、その罪悪感を埋め合わせるためにNGOで活動しているときだけでした。そのようにして私は活動家になったのです。
 高校に入ってから、バングラデシュ、フィリピン、エチオピア、ウガンダに行きました。いずれのときも、上のような気持ちは変わりませんでした。気持ちが晴れるのは自分の関わるそのNGOの活動が成功したときだけで、だから、永遠に活動をやめてはいけないような気がしていました。自分の楽しみのために時間やお金を使ってはいけないと思い続けていました。何度か、同年代の活動仲間と一緒にハンスト(食事を抜いて募金する)をしました。(それはハンストとは言わないよ、という突っ込みは控えていただけましたら幸いです。)
 高校3年生のとき、「安心してオリンピックを見たい」という趣旨の小論文を書きました。そのときの原稿はまだ持っています。「私はオリンピックの開会式のあの華やかさと世界が一致団結しているようなあの様子がとても好きなのに、インドに行って以来それを楽しむことができないから、これからもNGO活動を続けます、いつか、私を含むすべての人が心からオリンピックを楽しめる世界になるように」という内容の小論文です。いま思えば、ひどすぎる。周りの大人はそんな10代がいたら殴って目を覚ましてやらなければならないと思いますが、誰もそんなふうにはしてくれませんでした。むしろ、私のそうした「罪悪感たっぷり」な文章は当時、高校の先生たちにも大人にも受けてしまって、私は高校在籍中に3回も小論文/エッセイコンテストに入賞し、海外に連れて行っていただきました。

 映画『クワイエットルームにようこそ』で、蒼井優演じる拒食症の入院患者が、自分が拒食症になった理由を「自分が一食たべた分、世界のどこかの価値のある誰かの食事が一食減ると思ったら食べられなくなった」と言うシーンがあります。蒼井優は一見、他の患者よりはるかに「まとも」に見える役を演じているので、というかほかの演出が壮絶すぎるので、あまり印象に残らないシーンかもしれませんが、私にとっては、あの静かな狂気がいちばんのリアリティです。あれって、入院とか薬で治るものじゃないと思います。
 
 幸いなことに私は狂うこともなく、入院とも薬とも無縁なまま、大学入学を直前に「これではいけない」と思ってNGOの活動をいっさい辞め、大学では、自分のためだけに時間とお金を使う生活をしようと決意しました。そしてその試みは幸いなことに成功し、私は大学に入った途端にひどく享楽的になりました。周りの友人たちは大学に入ってからNGOやボランティアに目覚めていったというのに。

 いまは、普通に享楽的に生きています。テレビは好きではないけれど、あれば普通に見ます。バラエティもお笑いも歌番組も楽しめます。良かった、普通の大人になれて。
 
 五輪開会式。
 ものすごく多くの影を抱える各国が、汚いものばかりに満ちている世界が、そして混沌をきわめるロンドンが、あれだけの美しさを、あれだけの虚構の一体感を創りだしているという事実に、ただただ感動をおぼえるばかりです。各国選手団の行進を見ながら、何度か、うっかり泣きそうになってしまいました。全参加国から女性選手が派遣されてよかったねとか、4年後には南スーダンの選手も自国から出場できるといいねとか、シリアの選手も早く自国に戻って練習できるといいねとか、簡単にそんなふうに考えるべきではない陳腐で単純な感想を自分のなかで繰り返しながら、ともかくマシンを動かし続けることの肉体的苦痛が強すぎて、だんだんどうでもよくなってしまいました。
 よく女性誌とかに「テレビを見ながらできるエクササイズ」が特集されていますが、そのたびに私は、「そんなに頑張らなくてもいい方法があります。テレビはジムで見ればいいんです」と教えてあげたくなります。
 ジムって本当に万能です。テレビが見られるのはもちろん、そしてシャワーやお風呂が充実しているのはもちろん、注目すべきはラウンジの使い勝手の良さです。マニラやバンコクにいたころから、私はジムのラウンジに本や論文やラップトップを持ち込んで勉強したり、朝から新聞を読みに行ったりしていました。周りにもそんな中間層や外国人がたくさんいました。いま通っているジムのラウンジにも、何時間も普通に仕事らしきことをしている人たちがたくさんいます。(休日の自宅に居場所がないのだと思われるお父さんたちも。) ジムは静かで涼しくて(冬は暖かくて)、周りには健康でエネルギッシュで前向きな人たちしかいないので、仕事の効率が格段に上がるのです。飲食も自由ですから、一日中いられます。トレーニングウエアのまま仕事をして、それに飽きたら、また走ったり泳いだりお風呂に入ったりすればいいのです。
 今日ももちろん、一日中ジムで本を読んだり仕事を片づけたりしていました。自宅が暑すぎるこの時期、モールやファストフードやファミレスに逃避している方々はたくさんいらっしゃると思いますが、避暑ならがぜんジムがおすすめですよ~。

 最近、国際協力NGOで働く自分のアンビバレンツについていろいろ考えているのに加え、昨日の開会式のせいで、さらにいろいろ頭と心を使ってしまい、自分の心の振れ幅についていけなくて、なんだか気持ち悪く疲れてしまいました。
 こういうときは身体を動かすに限ります。私は永田町に勤めていた時から、ほぼ週4-6日のペースでジムで運動しています。最近はほぼ毎日です。残業後の22時台からでも行きます。4月からはランニングサークルに所属し、週1回、20時半から迎賓館や皇居の周りを走っています。ランニングは大嫌いですが、信頼できるインストラクターやジム仲間に勧められてやってみたら、ちょうど季節が新緑の美しい頃で、外を走ることは気持ちが良くて楽しくて、続けられそうな気がしたのです。もちろん私は超初心者なので1キロ7分くらいかかるし、走っている最中はそれこそ意識が飛びそうなくらい苦しいし、間違っても一人で外を走りたいとは思わないのですが、インストラクターやジム仲間と一緒なら走ろうという気になります。ただ、最近は蒸し暑いせいで苦しさにも拍車がかかります。
 終業後にジムに行くってものすごく疲労しますし、朝食の量は倍くらいに増えましたが、適度な疲労とストレス解消のおかげでお酒の量も減り、毎日が快適な感じです。私は32歳ですが、ぜんぜん体力が衰えた気がしません。むしろ増進しています。
 今日も、筋肉痛にもかかわらずBody Combat(格闘技系)のクラスに出て、ジム仲間と暴れてきました。五輪に関連して思い出してしまったいろいろなことを振り払いたくて。激しい運動と筋トレをして、もう本当に体力の限界、と思ったところ、スタジオからDancing Queenがきこえてきたので、つい、踊りに行ってしまいました。この曲はいつもフィリピンを思い出させてくれます。
 そして今日は心から、本当に気持ちよく疲れました。こういうのも「身体性」っていうのでしょうか。それはよくわからないけど、とにかく、ジム、最高です。明日からの1週間も頑張れそうです。(でも、明日の筋肉痛は心配です。)
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by saging | 2012-07-29 18:03 | フィリピン研究
政治学者への幻想
 ここ数週間は、仕事で新規案件の〆切が続いたことに加え、週末ごとに学会や研究会があって、なんだか嵐のようでした。今日は久しぶりに、何もない週末。本を読んで、ジムを堪能しようと思います。
 
 NGOでの仕事と研究者としての活動を激しく行き来するなかで、私は4月以前とはまるで別人のようになってしまい、心の振れ幅がとても大きくて困ります。
 議員秘書でいたときは、黙ること、余計なことを口にしないことを、誰に強いられたわけでもなく自然に身につけ、そのように振る舞っていました。私は上司(議員)に対して「尊敬しています」とも「ついていきます」とも一度も言ったことがないし、そもそも雇用契約書というものが存在しない雇用関係だったし、上司に私自身のプライベートな話をしたことも皆無なのですが、それでも上司は、私が何があっても彼を守るつもりでいることも、私が仕事を楽しんでいることも理解していたと思います。そして私も、上司からは褒められることも承認を受けることもなかったけれど、彼が私を信頼してくれていることをいつも確信していました。ある種の政治の世界では(永田町では、とは敢えて言いません)、忠信とか信頼とかいうのは、言葉じゃなくて行動で示すものなのですよ…。すごく日本的というか封建的です。(もちろん、これが永田町の典型、というわけではありませんが、ベテラン議員事務所のひとつの典型ではあると思います。現在の民主党の若い(当選回数の少ない)議員やいわゆる「市民運動出身」「市民派」を標榜する議員の事務所は傍目で見ていても恥ずかしいくらいアツいですし、そういう事務所の秘書さんからは、 「sagingさんは若いのにまるで永田町の人みたい。何考えてるかわからない。秘書って上司に似るんですね」と揶揄されてきました。似てませんって…!! 私の元上司を知っている方は笑ってください。)

 NGOに転職してからというもの、うってかわって「話さなければ始まらない」状況におかれています。いろいろなキャリア・バックグラウンドをもつ経験豊富な人たちがなぜかこんな給与の低い弱小NGOに結集して一緒に仕事をしようとしているのですから、何をするにしても、きちんと言葉で説明しないとチームプレイなんてできないのです。民間出身の人は、民間企業の常識はこうだから私はNGO運営のここが理解できないんです、とはっきり言わないといけないし、私のようなよくわからない風来坊バックグラウンドの職員は、外務省出身の人たちがうっかり使ってしまう意味不明な役所用語や独特の言い回しを、役所経験のない人たちに解説しなくてはなりません。日々の些細なそんな会話の中で、お互いの強みや弱みが露わになり、職員同士のあまりのカルチャーの違いが露わになり、これはたいへんだと皆が思うようになり、各自が仕事に精を出すというわけです。
 在外事務所の職員との関係もたいへんです。駐在職員って往々にして「本部の人間は現場の苦労を知らない」と思っていて、すべての不満を言葉に凝縮させて表現する傾向があります(私もフィリピンで働いていた時はそうでした)。ましてや、現場での日々のストレスに悩まされ、過去にうまく本部とコミュニケーションができなかったネガティブな経験ばかりを思い出しては「どうせ何を言ってもわかってもらえない」と思っているような職員であればなおさらです。彼らの「あなたたちには現場のことはわからない」という「マジックワード」の裏にある具体的な不満とか意見とか提案とかを吸い上げられるようなオープン・クエスチョンをしていかないといけませんし、彼らに「話をきいてもらえた!」と思ってもらえるためには、私も自分のことを話さないといけません。(私の好きではないコーチングの世界ではこれをアイ・メッセージと言います。)
 いまの職場は、NGOのくせにやたらとハードコアでクールな事業を実施し、職員もクールで、熱血do-gooderや国際協力に夢をみる人たちは皆無です。私にとってはとても生きやすい世界のはずです。それなのに私はなぜか、私よりずっとクールなはずの他の職員から(軽口のなかで)
 「sagingさんは斜に構えすぎです。あなたはNGO職員なんですよ?」
と揶揄されて必要以上に動揺したり、在外事務所との熱いコミュニケーションを模索したりしなくてはならないのです。
 私は実は熱血コミュニケーションが好きなのですが(だってコーチング研修も受けたくらいですから)、自分がそれにのめりこんでしまうことが怖いので、そして、そういう「青さ」に耐えられないので、普段はクールに(友人Wさんの言葉を借りれば「ツンデレに」)振る舞うようにしています。

 そして私はこういう状況(職場で意識的に饒舌でならなくてはならない状況)をうまく消化できないままに研究会に出席しては、ハイになってさらに喋ってしまい、そして、私よりずっと出来る先輩や同年代の仲間たちから、
 「sagingさんの思っていることはこうなんですよね、それは政治学/社会学/人類学的に言えばつまり…」
と解説してもらっては「救われている」、そんな毎日です。
 先週末のフィ●ピン研究会全国フォーラムは私がもっとも心地よく感じる、もっとも気のおけない人たちと結集できる貴重な場でした。研究会の後の懇親会(それも2次会)で私は、自分が職業研究者にならない理由について、
 「大学に就職した同年代の研究者を見ていても幸せそうに見えない。」
 「学内政治だとか、教授との関係だとか、雑用だとか、やりたくもないつまらない調査にとりあえずファンドが付いたからしかたなく食べるためにやっているのだとか、普通の人が20代前半のうちに経験するような青い愚痴を恥ずかしげもなくむしろ得意げに披露する同年代の研究者に苛々する。」
 「学会や研究会のたびに私はあなたたちの排他性に絶望する。大学に就職した者同士で固まって、学内政治やポストの話ばかり。久しぶりに会うのだから研究の話をしたいのに。それが研究者になるということなの?」
 「同年代の誉れで憧れの研究者になったはずのあなたたちの不毛さに失望する。政治学者のくせに学内政治を楽しむことすらできない、研究者としての自分を客観的に見ることもできない、私はあなたたちにそんな研究者になってほしくはなかった。」
…などと言いたい放題の発言をして、私の大好きな研究仲間の友人たちを少なからず傷つけました。ごめんなさい。
 職場では一つの言葉を紡ぎだすにも気を遣うくせに、気心の知れた友人たちに対してはそんな暴言を吐くことしかできない自分にひたすら苛立ちました。

 本当は、私は職業研究者に「なりたくなかった」のではなく、「なれなかった」のです。
 「なりたくなかった」のは事実です。そもそもなろうとしたことがないし、興味がないし、学振にも大学のポストにも一度も応募したことはありません。
 博士課程在籍中――つまりフィリピンの「日本の役所」で働いていたころ――、私は政治学者でありながら自分の置かれている状況をうまく説明することができなくて、数ヶ月おきくらいにフィリピンに調査に来ては我が家に泊まって私の話につきあってくれる友人たち(政治学者のWさんやTさんや人類学者のAさんやMさん)や指導教官に依存して、彼らが私の日々のストレスをスマートに吸い上げてアカデミックに分析してくれることに感銘をおぼえていました。そして彼らを見ていて、自分はどんなにトレーニングを重ねても決してあんなふうにはなれない、自分が職業研究者として教壇に立つのは百年早い、と痛切に思い知ったのです。
 努力をすれば研究者になれたのかもしれません。私はフィールド調査が好きだし、文章を書くのも好きだし、英語論文を読むのも早いし、theoreticalな話も大好きだし、別に人当たりも悪くないし、きっと学内政治だってうまく乗り切れると思います。でも私には、他者への想像力というものが決定的に欠けているのです。そして想像力というのは、政治学者としての素質の根本を成すものだと私は思っています。
 フィリピンにいたころ、役所で働いた経験のない、いえ、役所にかぎらず社会人経験のない友人たちが、私のつまらない愚痴をきいては、役所の論理や役人の論理を政治学や人類学のフレームワークを用いて鮮やかに解き明かしてくれて、そのことに私はものすごく救われたのですが、同時に、私はあのころ、自分が研究者にはなれないことを確信していました。彼らがどうしてあんなに、未知の分野、経験のないことに想像力を働かせて他人を救うことができるのか、私にはさっぱり見当がつきませんでした。そしてとても悔しく思いました。私は、自分が経験したことしか自分の言葉で語ることができません。想像力の欠如というのは、政治学者として致命的な欠陥です。それに気づいたとき、私は、自分の人生の目標である「日本政治と日本の市民社会のmediatorとなること」を、政治学者として追求するのは諦めました。その代わり、異なる世界を――民間企業、官、政、アカデミア、NGO――を、順番に経験して「エクスポージャー」をして、そこからmediation pointを追求していくことにしました。

 研究仲間の皆さん、特に政治学者の皆さん、ごめんなさい。私はおそらく、勝手に職業研究者を美化して、勝手にあなたたちに期待して、その期待どおりに動いてくれないあなたたちに勝手に苛立っているだけなのです。
 
 嵐のような学会・研究会続きの数週間が終わって、私に残ったのはそんな反省ばかりです。でも、こうしたことに改めて気づくことができたのも、やっぱり研究会の場でした。それも、政治学ともフィリピン研究会とも関係のない、職場の上司と一緒に出席した「安全保障系」の研究会です。
 平日の夜に開催される、平和構築・安全保障系の研究者プラス防衛省、陸上自衛隊、防衛研究所のなかで研究マインドの高い人たちが結集するそのクローズドでチャタムハウスルール適用のその研究会に、私は、NGO職員としてなのか政治学者としてなのかよくわからない微妙な立場で出席しました。報告者は博士課程の院生。リサーチクエスチョンと仮説と実証が乖離しすぎのどうしようもない報告で、私のみならずすべての出席者は苛々していたと思うのですが、質疑応答がすばらしかった。私の上司は真っ先に挙手して「NGO職員です」とわざわざ強調して発言(でも内容は完全にアカデミック)。それに続き、陸上自衛隊が、
 「お前の報告はすべて机上の空論。データは豊富だが結論がわからない。リサーチの体裁をなしていない。俺から言わせれば、そのリサーチクエスチョンへの答えは●●●●…10秒で終わりだ。」
…という意味のことをものすごく大人な洗練された軍人らしい言葉で述べたり、防衛大学校の方が、軍の論理から見たプリンシパル・エージェントモデルについて話しはじめたり、とにかく、ものすごくおもしろかったのです。実務者の英知がもっとも精鋭化された形で結集されるとこうなるのかと感動しました。
 私はもっともっと彼らとお話したかったので、終了後の食事をごいっしょさせていただいたのですが、そこできいた話たるやもうほんとうにridiculousでした。自衛官でありながら修士号を取り、理論と実践の統合の困難さをもっとも痛切に感じてきた人たちの(でもあくまでも洗練された)言葉は切実すぎて、私は内心、ものすごく感極まってしまいました。
 「軍隊は完結された組織でなくてはならない。軍のなかには掃除担当もお風呂を沸かす担当もいる。もちろん料理担当もいるし、医者も看護師もいる。そして研究者もいる。でも、研究者は軍隊の内部で完結してはいけないのだから矛盾ですね。」
 「『軍隊は言われたことしかやってはいけない』この言葉に込められた意味を理解できる民間人がどれだけいるというのでしょう。普通は曲解される。でも私は研究会でこの発言を続けたい。」
 「何も経験のない院生や純粋なNGOワーカーが、軍の論理なんて一切知らないままに無垢な正義感から自衛隊や軍を批判するのがやるせない。彼らは特に左派でもないし悪気もないのだろうけれど…。そして、おそらく向こうも、自衛官の話なんて聞いても無駄だと思っている。こんな現状のままで民軍連携だSSRへの市民社会の参加だなどと議論すること自体が、とても空虚に思える。」
…すごいですよ。普通の研究会ではまず出てこない話ですよ。
 私はフィリピンで働いていたとき、人権担当をしていたこともあり、軍や警察の方と仕事をすることが何度もありました。そしていつも、
 「君は国家の仕組みを何もわかっていない!」
と叱られたり、
 「君に悪気はないと思うけれど、そんなだから左って言われるんだよ!」
と言われたりしました。いま思えば、彼らのストレスは相当なものだったと思いますが、私はその経験のおかげでずいぶん変わりました。こんなふうに自衛隊の方々と意見交換ができるようになったなんて、あの頃の私からしたらとても信じられません。

 いまの職場に転職して、議員事務所とは違ったカルチャーの中で「口を開く」ことを訓練されたこと、何よりも議員事務所で働いていた頃よりも自由時間が増えて研究活動に向き合えるようになってきた、そして、NGOワーカーでありながら研究者である上司(安全保障系)の影響でそちら方面の研究会にもアクセスできるようになったこと、そうしたすべてが、この数週間のうちに私の生活を変え、私の研究への姿勢を変えてくれたことを心から嬉しく思っています。
 これまでと決定的に違うのは、私はいまでは、研究仲間以外の人たち(研究会で出会う異業種の人たちや職場の上司や同僚たち)に対しても、この投稿で書いたようなことを言葉にして話せるようになってきたということです。だから私は、きっとこれからはもう、自分の勝手に期待する「政治学者像」を仲間たちに強要してひどいことを言ったりしなくてもやっていけると思います。
 昨日、職場の上司(研究者)と食事をしたときに、私は正直にこう言いました。
 「いまさら何を言っているのかと思われるのでしょうが、私はNGOで働くことと研究者であることのアンビンレンツに、必要以上に疲弊してしまいます。駐在事務所の職員からの現実的なメールや電話を受けるたびに、私がこれまで研究者として主張してきたpeople centeredとかlocal ownershipっていったいなんだったのだろうと思ってしまい、ものすごい無力感です。そして、目先の辻褄をあわせてドナーを納得させて安定的なファンドを獲得することだけに夢中になってしまう自分が許せません。ファンダメンタリストだったはずなのに、たかが2ヶ月でこんなに日和ってしまう自分は研究者ではありません。また、職場で些細な諍いが起こるたびに、自分が仮にも政治学者ならばどうしてこんな問題すら解決できないんだろうと思います。政治学者の友人たちと険悪なムードになってしまうたびに、こんなために自分は政治学を勉強したのではなかったのにと思います。…でも、私が思い描く政治学者なんて幻想なのです。だって実際、学内政治をスマートに処理できる政治学者なんていますか? 業績のある著名な政治学者ほど身近に敵が多いし、平和学者たちは自分の周りの紛争をおさめることすらできない。…それはわかっているのに、私は完璧を求めたい。完璧なNGOワーカー、完璧な政治学者になりたいんです。そしてそんなふうに『青い』ことを考える自分がとても嫌です。」
 つくづく面倒くさい部下ですが、このどうしようもない私の発言に対する、上司の回答は秀逸でした。
 「NGOワーカーでありながら研究者でいるのか、研究者でありながらNGOワーカーでいるのか、私もよくわからないけれど、たぶん私たちは後者なのです。なぜなら私たちは、こういういかにも研究者らしい、ややこしくて結論のない話が大好きだからです。いつまでもこういう話で盛り上がっていたいと思う時点で、私たちは研究者なのです。職場でこういう話をしたら思い切り引かれると思いますが、私たちのなかではどんどんこういうつまらない話をしましょう。そして、ミクロ経済学者は、自分の家庭のミクロ経済は奥さんに任せているものなのですよ。」
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by saging | 2012-07-21 12:02 | フィリピン研究
「フィリピン研究」について その2
 今回の投稿は、このblogを読んでくださっているフィリピン研究仲間に向けてのメッセージです。
 内輪のお話で申し訳ないのですが…週末の研究会、楽しかったです。
 皆さま、ほんとうにありがとうございました。いろいろな制約上、1日しか参加できなかったけれど、それでも楽しかったし、普段使わない頭脳と感情をフルに使いました。

 博士号をとって1年が過ぎ、もうすぐ31歳になるのに、研究会で新しい研究を発表することもできず、キレのあるコメントもできず、後輩に何か模範を示すこともできない自分への反省は尽きません。
 でも、私には、フィリピン研究に対するひとつの野望(?)があるのです。前回のblogで、
 「practitionerとしての立ち位置からこそ、フィリピン研究に何らかの貢献をしたい。」
と書きましたが、それはつまり、フィリピン「研究」の「幅」を大きく広げることです。

 フィリピン研究者って、NGOとの融和性は、たぶんほかのどの地域研究者よりも高いのでしょうけれど、政府やビジネスセクターとの断絶が甚だしいのではないかと思います。

 私は日本の大学院の修士課程に3年、博士課程に5年在籍しましたが、特に博士課程のときはほとんどフィリピンにいたので、いわゆる大学院の施設内で論文を書いたことはありません。大阪で研修生受け入れをしていた中小組合やマニラの職場で働くほどに、大学院というものを敬遠したくなりました。私が博士課程でお世話になっていた大学院は比較的オープンなのですが、それでも、院生やポスドクの先輩の話はあまりに狭すぎて、せっかくの産学連携の機会においても初めから「産」を見下すし、研究職以外への就職を馬鹿にする風潮は溢れていて、残念に思いました。せっかく政治学なのに。そしてせっかく地域研究なのに。院生の分際で、「上から目線」すぎる。
 3年間マニラに住んでいたときは、職場の上司や同僚の「研究者アレルギー」を身体で感じました。「院生」や「学者さん」は「使えない」との先行イメージで忌み嫌われます。私はずっと自分が院生であることを黙っていました。職場以外でも、在留邦人の会合で知り合うビジネスマンはやはり「研究者」に厳しくて、特に人類学や社会学は「暇つぶしの学問」としか思われていないようなきらいがあって、非常に残念でした。
 そのあたりを痛感し、なんとかして、日本の若手研究者と、私がマニラで親しくしていただいていた大使館員やビジネスマンや邦人プレスの方々とを結びつける機会を創造したいと思っていました。自宅で勉強会を企画するとか、食事会を設けるとか。でも、私の中に明確なビジョンとか叩き台があったわけではないので、それらの計画もすべてなあなあに流れるだけでした。
 2010年選挙のとき、私は邦人プレスの方々から取材(主に貧困層の意識調査)への協力を打診され、私の出入りさせていただいているスラムのバランガイや住民組織の方々をご紹介して、あとは当人同士の合意で自由に取材していただく、という感じでご協力しました。私が住みこんでまで調査したはずのコミュニティでまったくの奇想天外な質問を始める邦人プレスを眺めるのも、あとから住民に「あの質問の意図はなんだ」と訊かれるのも、ひとつひとつが、本当に勉強になりました。ついつい対象にどっぷり肩入れしがちな地域研究者は、ニュースバリューを求める日本の読者の視点、投資家に売れる記事を書かなくてはならない外国人の視点といった、あたりまえの視点を置き去りにしがちです。もっと協力できたら、お互いにとって本当にwin-winだと思うのですが。
 
 2年前にタイ学会に出席したとき、全体会でタイの当時の政情についてのセッションがあったのですが、在タイの日本の商工会関係の方やタイへの投資家の方々が多数参加していたせいで、単なる「タイおたくによるタイ論議」ではなく、カントリーリスクや外交上の問題といった非常にマクロかつプラクティカルな議論がなされていて、すごくうらやましいと思いました。フィリピン研究の関連学会でも、機会があれば、大使館や外務省や国際交流基金や各種商工会などのビジネスセクターをセッションなり懇親会なりにどんどん招待して交流できればとてもいいのに。
 私がバンコクに滞在していた6ヶ月の間に、いろいろな研究会、勉強会に誘っていただいたのですが、バンコク留学中の学生や研究者のほか、大使館員、邦人プレスの支局の方々、JICA専門家、シニアボランティア、商工会所属の企業の駐在員、そして駐在員夫人までが集まって自由に議論をする会合やサークルがたくさんあって、やはりすごくうらやましく感じました。タイ語すらできない私も、報告の機会を与えていただき、フィリピンに駐在経験のあるビジネスマンや特派員の方々から、ものすごく貴重なアドバイスをいただきました。未熟な研究者の作法に則って報告をした私に対して、practitionerの方々が、正面から向き合ってくださったことが非常に嬉しかったです。私がマニラに3年も住んでいたときに実現したかったのはまさにこういうことなのだと思いました。いつかもういちど私がマニラに住むことがあれば、今度こそ、自分がそのような研究会を主宰したいです。いえ、日本でも、いつか、もう少し休日シフトの確定的な勤務体系に恵まれたら、私が研究会を立ち上げたいと本気で考えています。
 それから、個人的な研究関心としては、いますぐにはできないけれど、数年以内には私自身が、フィリピン政治と日本政治の比較みたいなことをやりたいと思っています。
 まずやりたいのは、EPAをはじめとする「議会の承認が必要な条約」の批准に際しての国内外での取引の研究です。議会での一票という強いカードをもつ国会議員と、圧倒的な情報をもつ行政府との駆け引きに、各種ステイクホルダー(EPAなら、各産業界やロビイストやグリーンピースのような国際NGOや看護協会やetc)が絡んでくるあのダイナミックな政治過程、実は、大統領制と二院制をとるフィリピンでも、ここ日本でも、驚くような共通点がたくさんあると思うのです。
 あと、表舞台の政治じゃなくて、不透明な便益供与とか、あそこに道路作ってほしいだとか作ってほしくないだとか、そうした「政治家の陳情処理の日比比較」もやってみたい。仮説は「フィリピン政治家は実はそれほど腐敗していない。腐敗が目立つシステムになっているだけ。」です。永田町で観察しているかぎり、日本の政治家もフィリピンのイロコスあたりの政治家もあんまり変わらないんじゃないかと思いますもの。(私の上司は違いますが。)

 私が博士号の取得後に研究職を目指さなかったのは、研究職に魅力を感じなかったからではありません。ほかにやりたいことがあったからです。大学に残らなかったのは、研究に見切りをつけたからではありません。自分の専門分野(政治学)+フィリピン研究で新しいことをするには、大学の外に出たほうがいいと思ったからです。永田町に骨をうずめたいとか、自身で政治家を目指したいとかなんていっさい思っていません。でも、いつか大学に戻りたいとも、いまのところはまったく思ってはいません。大学にいなくたって研究はできるはずですし、こういう研究の続けかたは、ありだと思っています。

 まずは、研究会の場に役人に来てもらえるようにしたい。政治家や官僚から求められる資料を集め、ポンチ絵(って役所用語?)作り続ける優秀な日本の下っ端役人の情報収集能力と勘って、研究者の比にならないこともあると思います。外務省南東アジアⅡ課の方々に研究会に来ていただいて、研究者の発表にコメントをしていただきたい。たぶん、誰も予想だにしないようなコメントが出てくるはずです。
 私は現時点ではフィリピンの政治研究にあまり将来性を感じないけれど、もし、こうしたことが実現できたら、新しいビジネスチャンスが広がると思います。
 研究職についている人たちにとって、顧客は学生とアカデム仲間なのでしょうけれど、私はまったく別のところに顧客を求めたいと思っています。いつか数年後、たとえば●紅の会議室内で、あるいは共●通信のマニラ支局内で、院生も実務家も皆で集まっての私たちの親密な研究会の月例会ができたら、すごくおもしろいんじゃないかと思います。私一人でやるんじゃなくて、マニラで一緒にお仕事させていただいていた役人の方々とか、かつてマニラ特派員だった方々とかで比較的同年代の方々と一緒にやってみたい。
 同年代の研究者と将来の共同研究の夢を語り合う時間は最高ですが、研究者以外の方々とのこうした協働の夢を語ることもまた、最高です。いまだから言えるけれど、役人も本当に、まんざらじゃありません。控え目に言って。永田町で働き始めて以来、マニラでご一緒いただいた役人の方々とメディアの方々に、ネットワーク作りの面でも情報の面でも、そして精神面でも、ものすごく支えられています。マニラ生活中に得た人脈は財産だと、そう思います。
 あと一歩。あと一歩頑張れば、こうしたネットワークをアカデムの世界にも広げられる気がするのですが…。
 
 大学院棟の研究室ではほとんど人脈をつくることができなかった私は、こちらのほうで貢献していきたいと思うのです。

 ほんとうに向こう見ずで身の程知らずの大胆すぎる野望ですが、そういうことを考えている若手(私はもうそろそろ若手じゃなくなるのかもしれないけれど)が一人くらいいてもいいと思うのです。

 今回、久しぶりに研究者仲間と会って、教育者としての経験を有し、数々の学会に出席し、大学行政の論理の中で生きている同世代の友人たちの論理をうまく理解できなくなりつつある自分に気づきました。18歳を相手に授業をしている彼らと、国会議員の委員会質問を毎日聴いている私とでは、いろいろ違って、きっと当然です。むしろ、異端のくせに研究会に出てくる私のほうが、彼らに合わせるべきなのでしょう。(頑張って合わせたつもり。)
 でも、きっと昔よりはお互いにmatureになっているから、いくら違っても、お互いのバックグラウンドが違うことを理由に排除しあったり非難しあったりは決してしないし、何を言っても大丈夫という信頼があるから、きついことも失礼なことも言い合える、そのことを、改めて心地よく思いました。どんなにネットワークが広がっても、こういうことが言えるのはこの仲間うちだけ、という絶対的な安心感のようなものがあります。

 親愛なるフィリピン研究者の先輩・友人の皆さんへ。研究会後の懇親会の席で私が研究会のレベルについての評価を「私の指導教官からのメッセージ」として伝えたのも、そもそもあえて指導教官からそのような話を聞いてきたのも、決して場当たり的なものではなく、もちろん指導教官からの差し金ではなく、以上のような背景をもつ私が、自分自身の選択と判断で行ったことです。もし今回のような場がなかったとしても、私はいずれ、MLなどで同じことを言ったでしょう。私は自分の指導教官のことを、フィリピン研究者の中でもっとも「アカデム以外の世界」との接触をもっている研究者として尊敬しているからです。指導教官からの縛りなんて一切ありません。(そもそも、大学に残らなかった私にとって、指導教官への忠誠心などなんの役にたちましょう。)私は指導教官の口を借りただけで、私自身も同じことを思っていたし、いつか誰かが言わなくてはならないことなら、研究職に就いていない、学会の人間関係のしがらみも一切ないような私が言うのが一番だと思ったから、あのようにさせていただいたまでです。
 研究者の先輩の、そして仲間の皆さまが、そのことを正面から受け止めてああやって議論してくださったことが私はとてもうれしかったし、やはりこの仲間とこの環境は最高だと思いました。あんな話題を出したことで愉快でなかった人もいるでしょうに、ありがとうございます。先輩方、いつも生意気でごめんなさい。それを補って余りあるくらいの成果を、来年…はどうかわからないけれど、数年後には必ずこの研究会にもってきますから、どうかお許しください。
 来年のこの日まで、お互いに元気で切磋琢磨いたしましょう。
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by saging | 2011-06-05 23:43 | フィリピン研究
「フィリピン研究」について
 最近、うっかりやってしまったこと。

・友人と話しているときに「梅雨」と言うべきところを「雨季」と言ってしまいました。2回も。まったくの無意識のうちに…。指摘されるまで気づきませんでした。

・イギリス人と英語で話しているとき、扇風機のことを「ベンティラドール」と言ってしまいました。これも無意識のうちに。怪訝な顔をされるまで気づきませんでした。私にとってベンティラドールは英語です。ほかにも、とっさに英語で言えない言葉がいくつかあります。たとえば水道の蛇口は英語ではfaucetって言うそうですが、私はいつもその単語を思いだすのに数秒はかかります。あれは「グリポ」です。日頃はごく当たり前のように仕事で英語の翻訳も通訳もしていますが、英語母国語圏で暮らしたことがないというのは、大きなマイナスなのかもしれません。

・近所のリサイクルショップで扇風機を購入するとき、店で試運転させてみて、「風力弱いなー。壊れてるのでは?」って思ってしまいました。(東南アジアの扇風機はものすごく強力。)

 もう、すっかり日本に馴染んだ気分でいるのですが、ときどき、こうして失敗します…。

 ちなみに、扇風機をリサイクルショップで買うことにしたのは、家から近いこと(持って帰れる)、組み立ててもらえることが理由です(フィリピンなら近所の人に気軽に頼んで組み立ててもらえたのに…)が、結果的に、1000円しかしない美品(タイマー付き)を手に入れることができて、たいへん幸せです。フィリピンより安い。

 2週間前、国際交流基金@四谷三丁目で、20年前にフィリピンと東京で上映されたミュージカル、「エル・フィリ――愛と反逆2部作」の映像を観てきました。
 久しぶりに、全身の血の温度がおかしくなるんじゃないか、とすら思いました。
 エンタテイメント性と音楽性のきわめて高い、フィリピンのお芝居。ましてや、Tanghalang Pilipinoのミュージカル! 深くて美しいタガログ語の歌と、最初の30分を観ただけでも耳について離れない、あのテーマソング(Ryan Cayabyabの音楽)。久しぶりの(というか昨年5月のフィリピンでの選挙以来1年ぶりの)、昂揚感。日本に戻ってきてからは覚えたことのない、全身を駆け巡る、あの昂揚感。
 ミュージカルは、前半は『ノリ・メ・タンヘレ』、後半は『エル・フィリブステリスモ』(いずれもホセ・リサール著、原著はスペイン語)をかなり忠実にタガログ語で再現した作品になっています。『ノリ』も『フィリ』、も、私にとっては、 ショニール・ホセの『仮面の群れ』(原作は英語"The Pretenders")の次くらいに好きな作品で、ある種の「原点」です。大学生の頃、大学図書館の書庫で、何日もかけて読みました。
 舞台では、『ノリ』、『フィリ』とも、あの長い長い原作が、2時間~2時間半にまとめられています。つまり、全編通して5時間。主役のクリソストモ・イバラを演じるAudie Gemorraと、マリア・クララ役のMonique Wilsonの声量と歌唱力と演技の才能は、ただものではありません。特にAudie Gemorra, 5時間にわたってずーっと舞台に出ていて、かなりのアクロバティックな動きもあるのに、その都度、まったく呼吸が乱れず、最後まであの声量で歌いあげるなんて、いったい、どんな喉をお持ちなのでしょうか。
 始まってわずか数分で、CCP(フィリピン文化センター)のシアターの椅子に座っているかのような錯覚にとらわれました。マニラで働いていたとき、何度も何度も通ってお芝居を見まくったCCPシアター。職場からも自宅からも10分の距離だったものですから、上院(CCPから3分)で働く友人たちと誘いあっては仕事帰りに劇場に立ち寄って、20時あるいは21時開始の最終上映を観て、終了後、劇場の向かいのレストラン街でマニラ湾を眺めながらビールを飲んだり、マニラ湾に沿って家まで散歩したり…という生活。お芝居が200ペソ(約400円)、レストランのビールが高くてもせいぜい50ペソ(約100円)だったからできた贅沢を、懐かしく思い出します。『仮面の群れ(The Pretenders)』がTanghalang Pilipinoによってタガログ語版で"Ang Mga Huwad"として舞台化されたときは、10回の上映のうち5回観に行き、原作者にまで呆れられ、毎回毎回、主人公のニー・サムソンが ”Lamig ng bakal.” と言って路面の鉄を撫でるシーンの演出に感極まってしまい、千秋楽にはわざわざ、小説の舞台であるマニラ市アンティポロの下町を散策してから(ってスラムなのですが)、同じく小説の舞台のひとつであるキアポで花を買い、トニー・サムソン役の俳優さんに渡しました。(いま思えば、いろいろおかしすぎます。)
 
「エル・フィリ――愛と反逆2部作」の最初の15分を観て、美しいタガログ語のちりばめられた歌をきいただけで、マニラでのそんな日々が次々に思い起こされて、東京の四谷三丁目からマニラのあのCCPのシアターにワープしたような感じがして、なんだか、懐かしくてたまらなくなりました。
 「マリア・クララ」のマリア・クララも良かった。単語そのものの響きをなつかしくすら思います。「マリア・クララ」は『ノリ』『フィリ』のヒロインですが、他方で、フィリピンの女性用の民族衣装のトップスの形をあらわす言葉でもあります。透ける素材で、肩の部分が幾重にもショール状にふわっと重なったもの。前編の『ノリ』部分ではマリア・クララが着替えまくるので、幾通りもの「これぞマリア・クララ」なゴージャスな衣装を堪能することができました。私もパーティー用にいくつかマリア・クララを持っていたのですが、フィリピンを離れるとき、1つを除いてすべて友人にあげてしまいました。残念ですが、日本ではなかなか着られません。
 …こんな他愛もない感慨ばかりで、前半2時間で感動をほぼ使い果たしてしまって、せっかくの後半はなかば放心状態で受動的に観てしまったのが残念でなりません。でも、それでなくてもきっと、5時間は集中できないかも…。

 先週は、ここでも触れたことのある、フィリピンのNGOというかカトリックの使徒組織というか…のGawad Kalingaのアントニオ・“トニー”・メロト氏が、日経新聞の「日経アジア賞」授章式のために来日されていました。トニー氏は私がもっとも尊敬する人のうちの一人です。マニラで初めて彼の講演をきいたときの衝撃は忘れられません。私は10代のときに自己啓発セミナーの洗礼を(さらっと)受け、その策略的な言葉の数々を強く嫌悪したものですから、以来、「綺麗な言葉」が大嫌いです。でも、彼の発する「現実味をともなう希望の言葉」は、本当に素晴らしいと思うのです。あんな言葉を発することのできる人は、彼と、私が調査させていただいたスラムのひとつであるS地区の会長N(呑んだくれですがなぜかすごい求心力、頭もかなり切れます)と、フィリピンの選挙管理委員会(COMELEC)のサルミエント選管くらいなのではないかと思います。(私以上にサルミエント選管の言葉に感激していたある外交官は、故コリー・アキノ元大統領に対したときと同じものを感じると言っていました。「この人の前に立つと。こちらの邪悪な心も清められてしまう」というような、宗教でも啓発系の何かでもなく、向き合った人を幸せにしてしまうような人が、この世には存在するのだと。)
 そんなトニーのスピーチを聴きたくて、私はなんとか仕事に都合をつけて、授賞式に出席させていただきました。
 すごく、良かった。後半は(同時通訳への配慮から)用意した原稿を読むだけの彼でしたが、前半では、「同時通訳には申し訳ないけれど、予定外のことを話します。ただしゆっくり話しますから、許してください」と言って、東日本大震災に見舞われた日本、そしてアジア全体について、短く語ってくれました。翌日の日経新聞の記事にはちっとも出ていなかったけれど、あのスピーチは本当に良かったです。私もあんなふうに他人を愛し、他人を許せる人になりたいと思いました。これも綺麗事ですが…それでも。
 授賞式の後で、少しだけ、トニーやご家族、在京フィリピン大使館の方々とお話をして、私はすぐ職場に戻ったのですが、彼と話ができて、本当に良かったです。このことだけを支えにあと1年は働くことができます…なんてことは言いませんが、すごく幸せでした。

 日本の政治家の言葉――特に国会での言葉、質問でも答弁でも――を聴くのも、私は好きです。
 政治家によって周到に用意され、練られた言葉、文字通り洗練された言葉って、耳に心地よいです。街頭で叫んでいる社会運動家の言葉とはやはり違うな、って思うことが多くあります。(街宣車以下みたいな言葉も、もちろんありますが…。)
 
 こういったことを感じられるのも、フィリピンのお蔭なのだろうと思います。

 今週末は、年に一度のフィ●ピン研究会全国フォーラム。
 いまから、ものすごく楽しみです。
 開催場所は東京なので、フル参加はできなくても、できるかぎりで参加します。実は、木曜日の国会で衆議院内閣不信任案可決→衆議院解散→総選挙、とかいう流れになっていたらフィリピンどころじゃなかったのですが(だって解散したらボスは失職、秘書も失職、そのまま選挙活動に突入です)、いまのところ、そんな電撃的な動きはなさそうです。

毎日、永田町のあれこれに翻弄されて、「扇風機」や「蛇口」の英語すらとっさに出てこない私ではありますが、上司と英語圏のお客様との懇談の通訳を含め、それなりに働いています。そして、健康でいます。自分がこうして日本で、しかも東京で働けるなんて、いまでも夢のようです。
 これも、フィリピンのお蔭だと思っています。

 私はいわゆる研究職には就いていませんし、次にいつフィリピンに渡航できるかすらまったく見通しが立ちません。きっと、地域研究者失格なのでしょう。そもそも土日の予定が状況によってものすごく変動する(当日にならないとわからない)ので、学会にはとてもエントリーすることができずにいます。7月締切の紀要論文を亀の歩みで書くのがやっとですから、研究者を名乗ることも恥ずかしいくらいです。
 それでも、フィリピン研究者としてのインプットとアウトプットはずっと続けていきたいし、日頃は教育機関(大学)から遠く遠く離れているぶん、できるかぎり学会や研究会の場に出て、先生方や先輩から受けた寛大さとご恩を後輩に返していくことは、決して忘れないようにしたい。また、たとえ研究職に就かなくても、マイナーな地域研究者がpractitionerとして別の仕事をしながら好きな研究を深めていくことは可能なのだということ、文系の博士号取得者(とくに女性)には就職はないなんてことは嘘っぱちだということ、そして、大学ではないところに就職しながらも研究にたずさわっていくことはじゅうぶんに可能なのだということを、仲間や後輩たちに示したい。むしろ、practitionerとしての立ち位置からこそ、フィリピン研究に何らかの貢献をしたい。そう思っています。

 私はフィリピン研究者で良かった。
 今回のblog記事で書いたことはほんの一片にすぎません。ここには書けない永田町のさまざまなことも含めて、そして、もっと大きな意味を含めて、私はフィリピン研究者で良かった。そして、スラム研究をしていて良かった。
 詳細はまた別の機会に書くとして…マニラのスラムであんな自己満足にすぎないような研究をさせていただいたこと、スラムであんな偉大な方々に出会えたこと、彼らの言葉に心揺さぶられるlife-changingな経験をしたこと…。本当に幸せだったなと、そう思います。
 一生かけて続けたいし、還元したいです。

 フィリピン研究仲間の皆さま、週末、東京でお会いできることを楽しみにしております。
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by saging | 2011-06-02 23:33 | フィリピン研究
若手研究者の礼儀(反省)
 感動的なつくばでの学会から1日が経って改めて思うこと。
 国際会議をオーガナイズするって、本当に労力の要ることだと思います。参加者の半分くらいが外国人だったそうです。それも、日本ベースの研究者だけではなくてこのためにフィリピンその他からいらっしゃった方も多数。そのロジだけでも大変な作業のはず。基本パネル構成、公募パネル構成、そしてペーパーのアブストラクト審査…と、何年もかけて準備していただき、その都度、詳細なご連絡をいただきました。S先生はじめ実行委員会の皆様、本当にありがとうございました。今回の実行委員の先生方は中堅研究者世代で、たぶん学内でももっとも多くの業務を抱え、科研の業務も抱え、大変なお立場だと思います。

 私は先日、出身大学の「研究員」の資格をいただきました。議員秘書の肩書で研究活動をするわけにはいかないので、本当に幸いなことです。さっそく、尊敬する先生から、来年度申請分の科研の分担者としてのお誘いをいただき、初めて科研の書類というものを真剣に読みました。そして、書類の量と作業の多さにびっくり。申請してくださった研究代表者の先生に、ただひたすら、申し訳なく思いました。

 これまでずっとお世話になりっぱなしだった私たちもアラサー世代も、そろそろ恩返しをしないといけないと思わされました。何年後になるかわからないけれどこのような会議を企画して未来の研究を担えるように、そしてもっと下の世代にこのような機会を提供できるように、いまから準備しないといけないのかなと。そろそろ、自分の報告や議論に一杯一杯になるのではなくて、いまのうちから日々、同世代の研究者(日本人・フィリピン人に限らず)との交流を深め、人脈を広げ、もちろん自分たちの研究もより広げて深めていくことを考えないといけませんね。
 職を得るために、履歴書に書けるように業績を量産すること、規格に合うような(通るような)論文を書くこと、自分の書きたいことを論文に過剰にかぶせて自己満足すること。多かれ少なかれみんなそういうところがあって、それが、不安定な若手研究者の生存術なのだろうな、と思います。
 私はいつも、同世代の院生、あるいは非常勤の仲間たちが、教育者志望のくせに学生の指導とかTA業務についてあれこれこぼしたり(修行なんだからありがたくやればいいじゃん)、科研とかCOEとかその他様々な先生のファンド・プロジェクトに入れていただいているのに、研究会やシンポジウムのアレンジとか会計とか海外ゲストへの対応とか雑用に愚痴を言ったり(お金もらって研究機関でインターンしているようなものだからありがたくやればいいじゃん)、「自分の研究をする時間がない自慢」をしあっていることが疑問でしかたがなく、あなたたちの辞書には、「奉仕」という言葉も、「させていただきます」っていう言葉もないのか?と思って、心の中でかなり苛々することが多いのですが、自分のことに一杯一杯で周りが見えていないという点では私も負けず劣らず自己中だなあ、というかどうして私はそんなに「上から目線」なのか。今回、そう思いました。同年代や、少し上の世代の方々とお話しするなかで。
 私は研究職についていないこともあり、また、院生時代にあまり大学に居なかった(というより日本に居なかった)こともあり、日本の大学の常識がわかっていません。日本の文系の院生が苦労して通る道であるガクシンにも非常勤の公募職にも、ただの一度も応募したことすらありません。だから、それがどのくらい大変なことなのか理解していません。
 来年度の科研が採択されたとしても、私がフルタイム研究職についていないことや、所属機関である母校と現住所(東京)がとても離れていることなど、手続き的な面で、周りの方々や研究代表者の先生にあれこれとご迷惑をかけることは必至だと思います。申し訳ないかぎりです。

 上の世代に非礼を申し上げることも、そして横の仲間たちに甘えて迷惑をかけることも、決して消すことはできないので、下の世代に還元することが恩返しの一歩なのでしょうが、私のように研究職につかないということ(大学で教えないということ)は、つまり、下の世代に還元できる機会がないということで、これもなんだか、私だけフリーライドしているような気がします。って、これも実は一昨日、初めて気づいたのですが。仲良しの研究仲間が
 「僕らももっと下の世代を育てることに意識を向けないといけない」
って言うのをきいて、私はそういうことに本当に無頓着だなあと思いました。もっと意識して、別のところで補って還元できるように考えないとなと。
今回の学会を通じて、そんなふうに反省させられる瞬間が何度もありました。自分の報告に夢中になる前に、そして政治とかなんとか大きなことを言う前に、もう少しもうすこし周りを見渡さないと、きっと、人としてダメな気がします。
 
 いま、21時から開始された衆議院本会議での官房長官と国交大臣の不信任案の投票風景を観ています(ここで観られます)。フィリピンの議会だったら、こういうときは当の本人は立ち上がらないか、そもそも議場に現れないことが暗黙の了解で、それをdelikadesaっていうらしいですよ。礼儀、たしなみ、奥ゆかしさ、作法、または、文化的常識? 礼儀…って訳すのが一番近いのだと思っていますが、いまだに理解できない概念の一つです。
 予算案は明け方までに衆議院を通るのかなー。The night is still young.

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写真は、日曜の朝のつくば。駅前からすでに何もなくてだだっ広いのに、都市開発のディテールに凝っているような、不思議な町でした。セグウェィでも走っていそうな感じ。駅前は夜になると妖艶なイルミネーションで彩られ、屋外メリーゴーランドも! 朝、ホテルのロビーでお茶を飲んでいるときに偶然お隣にいらっしゃった設営関係者の方曰く、メリーゴーランドはこの時期限定だそうです。クリスマスの時期になるとクバオのアラネタコロシアム前やコモンウェルスの空き地に突如として現れる、安全性にかなり疑問が残る簡易遊園地、"Fiesta Carnival"を思い出しました(…って、またマニアックなことを書いてしまいました…ついつい…)。
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by saging | 2010-11-15 22:19 | フィリピン研究
つくばでの幸せ
 つくばから帰ってきました。幸い、行きも帰りもつくばエキスプレス(TEXっていうそうですよ)から振り落とされることもなく。
 楽しかった! 本当に楽しかったです。学会の内容も、自分の報告したパネルに関するnever-endingなディスカッションも、懐かしい方々との再会も、新しく知り合った方々とのおししゃべりも。1日目の晩は悪友たちと朝方まで飲みつづけてしまいました。はしゃぎすぎ。マニラに住んでいたときは彼らが来るたびにそんな飲み方をしていたことを思い出しました。

 前回のこの学会の開催は4年前の06年11月で、ちょうど私がマニラで働きはじめて半年が経った頃でした。フィリピンがASEAN議長国としてサミットを控えていたときです。無理に休暇をいただいて帰国して参加したものの、アカデミックな議論についていけないこと、周りの友人たちは学会だのガクシンだの論文だのと言っているのに自分は一向に博士論文執筆のめども立たないこと、フィリピンに住んで仕事をしているくせに自分自身はなんのアウトプットもできないことなどを思い知らされ、フラストレーションが募る一方でした。友人Wさんと一緒に泊った山谷の安宿で明け方まで愚痴をぶつけまくり、同席していたWさんの彼女(いまは奥さま)に多大な迷惑をかけたことはいまも鮮明に覚えています。

 その後もずっと私は、「フィリピンに住み、高給を受け取り、研究を続けるにふさわしい環境にあるのに思い通りに研究が進まないこと」とか、「自分のテンションをコントロールできないこと」とか、「フィリピン研究のインナーサークルはとても心地よいけれどそれに甘えて『フィリピンオタク』にはなりたくないこと」など、いろいろなアンビバレンツを感じ、「こんなはずじゃないのに」、「こんなことじゃだめなのに」と思ってきました。

 でも、年が経つにつれて、少しずつですが、いろいろなことを自分の中でうまく処理できるようになってきているような気がします。あいかわらずいろいろダメなんだけれど、まあいいか、と思えるようになったというか。
 私は結局研究職を志さず、フィリピンとはほとんど関係のない仕事につき、毎日、お茶を出したり電話を取ったり新聞をチェックしたりエクセルやアウトルックを操作したりしています。タガログなんて絶対話しませんし、日中はフィリピンのことなんてほぼ考えません。夜、家に帰ってから、あるいは朝、家を出る前に、数時間だけ本を読んだり、今回の学会報告のペーパーのようなものを書いたりするくらいです。努力があまりに不足しているし、本当に全然ダメだと思うのですが、それについてあまり不安とか焦りを感じなくてもすむようになってきました。30歳にしてやっと、少しずつ要領が良くなってきたかな、と思います。フィリピン研究仲間とマニアックな話題で盛り上がるのも、純粋に楽しめるようになりました。オタクだってまあいいじゃない? そのぶん、フィリピン以外のことも話せる自分になればいいんだから…と思うようになりました。何かがあって不安やパニックに襲われたとしても、「いま不安だ/いま自分はパニックだ…おとなしくしておこう。そう長くは続かないのだから大丈夫」と思えるようになりました。だからきっともう大丈夫。

 また1週間が始まり、仕事に追われ、緊張の続く職場での日々がずっと続いていきます。でも、私はそれを労働だとは思いません。以前は、フィ●ピン研究会や学会への出席は唯一の休息で休暇で娯楽で、それらは常に労働の対極にあるものだと思っていました。でもいまは、いわゆる「研究者」ではない自分が学会に出て政治学博士として報告したりコメントしたりすることにも、身体の休息や仕事の準備に充てるべき休日に学会に出てはしゃぐことにも、何の問題も感じません。それでいいのだと思っています。いろんな役割を兼ねながら生きることを楽しみたいのです。
 これまでは、学会や研究会が終わるたびに「この幸せをエネルギーにして明日からの労働を乗り切ろう」と思い、仕事で困難を感じるたびに「次の学会を楽しみに走ろう」と思っていたけど、いまはそんなふうには思いません。友人Aさんが以前に言っていたように、研究以外の仕事に従事するフルタイム労働者が、研究を、労働の対価としての休暇と捉えるなんて、おかしすぎます。いまはただ、「昨日も今日もいい日だった。明日からもいい日であってほしい」と思うだけです。結局はどれも、好きでやっているのだから…。

 この4年間でそういうことを教えてくれたすべてのフィ●ピン研究仲間の皆さんと、先生方と、マニラでお世話になった人たちと、マニラの元職場、あと、いまの職場に感謝しています。これからもしばらくは、物理的に可能なかぎり、仕事も学会もエフォート率100%でやっていきたいと思っています。(エフォート率は主観だから。まさか100になることはありません。でも、2つを足して100を切ることもないはず。)
 素晴らしい週末をありがとうございました。本当に楽しかったです。そして、幸せでした。
 フィ●ピン研究仲間の皆さま、これからもよろしくお願いします。
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by saging | 2010-11-15 01:46 | フィリピン研究
国際学会@つくばを控えて

 この週末は、国際フィ●ピン研究学会@つくば。
 ものすごく楽しみで、興奮して眠れません。
 
 楽しみその1は、魅力的な学会プログラム。あたりまえですが、どの国籍のどの報告者が話すことも、すべて、フィリピンについて。プログラムを見ながら、わくわくですよ。世界各地からいらっしゃる著名な先生方のお話、期待で眠れません。
 
 楽しみその2は、尊敬する先生方、先輩方や旧友との再会! 本当に楽しみです。

 楽しみその3は、久しぶりにフィリピンどっぷり、地域研究どっぷりの学会報告ができること。
 私はここ1年以上、学会でも研究会でも講義でもその他いかなる場面においても、何かを報告・発表するときには、「かっちりした報告」をするようにしてきました。リサーチクエスチョン、仮説、分析枠組み、方法論、実証…と進む、オーソドックスなプロシージャーに則ることが、政治学博士/to be 政治学博士)の責任だと思っていました。地域研究者からはものすごく批判されましたが、地域研究から脱却したいとも思っていたのです。でも、勉強不足のため、比較政治の方々にはまったく及ばず。中途半端すぎます。
 加えて、ここ1年以上は、フィリピンマニアにはなりたくないとの強い思いから、タイや日本との比較を視野に入れた報告しかしてきませんでした。
 でも今回は、久しぶりに、全力でフィリピンについてお話させていただきたいと思っています。当Blogでもさんざん取り上げているNoel Cabangonにもスライドでご登場いただく予定。マニアックすぎですが、フィリピン・マニアばかりが集う場ですから! 友人のOさんもフィリピン武術アーニスについて報告するそうですし、4年前に開催されたときは「マッチョ・ダンサー」について報告した人もいましたから、Noel Camangonがちらっと登場するくらいは許されるはず。

 楽しみその4は、初めてのつくば。すごく遠いイメージがあったものですから、先日、秋葉原のつくばエキスプレスの窓口に電話をかけて、
 「事前予約は必要ですか」
と尋ね(新幹線に乗るときと同じようなものかと思って)、
 「いえ、普通の快速ですから。PASMOで乗れますよ。」
って言われて、恥ずかしく思いました。

 …と、とにかく、心待ちにしていた学会なのですが、ここで大問題。
 昨日初めて知らされた、つくばエキスプレスに関する衝撃情報。
 ・在来線でもっとも速く、時速130キロ!
 ・おまけに途中で地下を通る

 130キロ! 振り落とされませんかね?
 地下を通るときもハイスピードなのでしょうか。
 
 ますます気になって眠れません。

 友人の皆さん、もし明日、私が学会に遅刻したら、それは、寝坊ではなくてつくばエキスプレスに振り落とされたからだと思ってください。(って、言い訳にしか聞こえませんね。)

 昨日(金曜日)は仕事で極度に緊張するシチュエーションがあり、そのあとずっとドキドキして、電話応対とか普通の業務はできるものの、なんだかハイな感じで落ち着かず、学会報告の最終チェックにもまったく身が入りませんでした。いいかげん、もう少しうまく切り替えができるようにならないと。
 深夜にジムに行ってプールで泳ぎ、やっと少し落ち着きましたが、あいかわらず、楽しみと不安とで眠れず、かといって学会報告について何かよい案が浮かぶわけでもなく、30歳とは思えないそわそわっぷりです。遠足前の小学生みたい。

 でも、がんばります。本当に楽しみですよ。
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by saging | 2010-11-13 02:56 | フィリピン研究
選挙と期待
 今日は、北海道5区の衆議院補欠選挙でした。
 明日は、フィリピンの全国一斉バランガイ選挙です。

 …同列に並べるなって感じですが、私は3年前のバランガイ選挙にものすごく燃えました。ケソン市B地区のスラムのバスケットボールコートに作られた特設ステージで、バランガイ議長に立候補している住民リーダーN氏が
「利用されるのはもう終わりだ!」
と叫び、Noel Cabangonが
「僕は将来を売らない。僕の票はとても大切なもの」って歌った瞬間に聴衆がすごい声を上げて拳を振り上げたあの晩、私は、全身の血の温度が上がるのを感じるくらいの昂揚感に包まれました。それが2007年10月。あれを超える感動にはあっていません。それくらいに感動を覚えてしまう集会でした。
 ちなみにN氏は、今年も立候補しています。
 N氏の活動するB地区のスラム一部は去る10月23日、強制立ち退きによって取り壊されました。首都圏の立ち退きなんてちっとも珍しくないのですが、同地区の住民組織は本当に強く、人間の壁をつくって撤去部隊と数時間も睨みあい、4人のリーダーが投石を受けて負傷。そのニュースは翌日のほとんどの主要紙に取り上げられていました。私も複数の友人たちからメールをもらって知り、びっくりして現地のリーダーたちに電話しましたが、
 「大丈夫。日本から祈っていてくれれば、それだけでいいから。私たちは勝つから、いまに見ていて。」
という、いかにもあの地域のリーダーらしく気が強い答えが返ってくるばかり。
 B地区はSM North EDSAやTrinomaのあるケソン市の一等地にあり、人間の壁が幹線道路EDSAを封鎖する形になったためにすさまじい渋滞がオルティガス地区にまで及んだそうで、私もフィリピンの友人たちから、
 「B地区ってあなたが入ってたとこじゃない? 大迷惑なスクワッターとして有名になったよ。」
と言われました。
 ちなみにB地区はエストラダ派の巣窟みたいな場所です。5月の大統領選直後、アキノ政権べったりのNGOが入ってきて、
 「アキノ政権になったからもう大丈夫、デモに行くのをやめろ。」
って説いて回っていたそうです。
 ぜんぜん、大丈夫じゃなかったじゃない! アキノ政権になった途端に立ち退きですよ。だったら、アロヨ政権のほうがましよ! 選挙前はNGOも政治家もいっぱい来てたけど、結局、誰も庇護してくれないんじゃない!
 …そりゃ、バランガイ選挙に自ら立候補するしかない、本当にそれしか道がないと、外から見ている私でも思いますよ。あれはひどい。
 アキノべったりのNGOの友人たちに、
 「アキノ政権、ぜんぜんpro-poorじゃないじゃん、よりによってB地区で立ち退き実施するって、大胆もいいとこでしょう。」
と言うと、
 「いや、あれはアキノ大統領の外遊中(ニューヨークでの国連総会出席中)に起こったことで、大統領の決断ではないはず…。」
とかなんとか。NGOのくせに、なんですか、その煮え切らない態度は。身内に甘すぎるよあなたたち!
 …でも、「リーダーの外遊中(それも、国連総会出席中!)に起こったことだから」を理由にしている…って批判、どこかの国にもそのまんまあてはまってしまう気がしますので、これ以上あれこれ言うのはやめておいたほうがよさそうです…。

 私は日本の日常の中で果たせない夢とかフラストレーションとかをフィリピンに被せて、勝手に期待していただけなのかなあ。日本の政治に深くかかわる仕事をするようになって、もちろん政治も選挙も大好きだし、日々、真剣に取り組んでいるつもりだけれど、私の現在の真剣さは、N地区のバランガイ選挙に向けるほどの熱い目線とか、心が震えるほどの共感とかには遠く及びません。「日本の有権者たる、自分と同じ普通の人たち」に対する自分の情熱の低さに、あきれてしまいます。いえ、もちろん情熱はありますが、フィリピンへのそれに比べてあまりにも低すぎるのです。
 「貧者のロマン化」的なスラム研究をいちばん嫌悪して、批判してきたつもりだったのに、私は自分の「見果てぬ夢」を勝手にスラムに投影して、フィリピンの人たちの行動を理想化して、自分がこうあってほしいと勝手に望む「民衆」像を、他国の貧困層の言動に勝手に読み込んでいるだけなのかもしれなません。
ここ2ヶ月くらい、ずっとそう感じています。

 もちろん、いまさら「自らの研究姿勢」に悩むほど私は繊細ではないし、たとえ悩んだとしてもそれをトロすることが許されるほどもう若くもないし、この週末もそういう感情を「なかったこと」にして学会発表をしてしまうくらいのずるさと器用さは身につけています。ほとんどのものごとは時間が経てばうまく消化していけるのだと思えるくらいの図太さも。そして、明日のバランガイ選挙でのN氏の勝利を祈れるくらいの図々しさも。
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by saging | 2010-10-24 23:01 | フィリピン研究
フィリピン追憶写真 その2
 今年4月から7月まで私が行ってきた調査の目的は、非常に局地的なマニラの都市貧困層の運動と、国政選挙・地方選挙と、国際的な左派の社会運動、の3つがどのように相互に作用し、当事者たちが多層な運動をどう捉えているかという点を明らかにしようとすることでした。
 
今回いちばん嬉しかったのは、調査対象とさせていただいた方々との密な意見交換、フィードバックを繰り返しながら調査を進めることができたことでした。一方的なインタビューとか、こちら側からの勝手な分析とかを論文にするのではなくて、こちらが記録したもの、書いたもの、あるいは書こうとしているものを相手に投げ返してコメントや反論をいただき、書き直す。
 人間関係のマナーの一般論としてはきっとそんなの、当たり前のことなのですが、調査者としてそれを実行するのは、少なくとも私にとっては、これまで、とても難しいことでした。

 このBlogにも随時書かせていただいているように、私は「貧困層を組織化しようとする自称市民社会組織、あるいは自称NGO」の態度に注目しており、博士論文では、「組織される側」である都市貧困層の視点を描くことで、「組織する側」である市民社会組織(左派やNGOや一部の政治団体)を批判的に書きました。といっても私は決して市民社会組織そのものを批判したのではなくて、市民社会組織を手放しで称賛するような研究者やNGOワーカーを批判しようとしたのですが、左派やNGOから見れば、自分たちの見せたくない側面(住民を利用したり動員対象とみなしたりする利己的な側面)ばかり描かれたのだから、一方的なものに映るはずです。私は何をどこまで書くか、どう発言するかということには注意を払っているし、博士論文の事例とさせていただいたNGOとはいずれも長くお付き合いさせていただいていて信頼関係はあるはずなので、彼らは決して私を拒絶したり責めたりはせずに私の「一方的な」分析を受け止めてくれましたが、それでも、アンフェアです。
 だから今回は、次の段階として、「組織する側」からの反駁を交えた論文を書きたいと思ったのです。

 今回の調査では、事例収集のために特にある政治組織(でも自称市民社会組織)にお世話になりました。私はそれ以前から、
 「組織する側の市民社会組織と、組織される側の都市貧困層の意図が違っていることを書きたい。」
 「たとえば市民社会組織が政治動員にどんな手法を使っていくら払っているかも書きたい。」
と、迷惑極まりないことを申し上げていましたが、この組織の幹部らは私を受け入れてくださいました。ありがたいことです。
 「(ある政党が)赤だったロゴを黄色に変えましたが、抵抗はなかったのですか?」
 「都市貧困層に対して、『アキノ新政権のもとではデモに行くな』と呼びかけているらしいですが、左派としてそれはいかがなものですか?」
 「都市貧困層を組織化するのは最終的には左派の大義実現のためだって前提で話を進めさせていただいていいですよね?」
 これまでもこのBlogに書いてきたような(おおよそ失礼極まりない)疑問や解釈を、私は逐一、彼らにぶつけてきました。それぞれに対し、彼らは本当に丁寧に回答し、反駁し、同意してくださいました。もちろんすべてを語っていただけるわけではないのですが、イデオロギーと現実のジレンマ、まだ整理されていない思い、EDSAⅡとⅢで味わった挫折感や自己矛盾、そして、デモへの動員に一人あたりいくら払っているかまで、とても率直に教えていただいてきました。逆に、
 「もっと批判してくれていいよ。」
と言われるくらいです。
 そして7月末、私が帰国する2週間前に、私の調査結果報告の時間を取ってくださいました。幹部および私が調査地とさせていただいた地域のエリア・コーディネーターらが集まってくださり、朝9時から午後3時まで、昼食をはさんで6時間! 私が話し、それに対して彼らが、事実関係の修正をしてくれたり、私の誤解を正したり、意見を述べたりしてくださる形で進行。それでも時間が足りず、そのあとさらに3晩、彼らの事務所の近くで飲みながら続きをやっていただきました。
 彼らの寛大さに、私は言葉を失うほどです。本当に。私はこれからもきっと彼らに批判的なことを書き続けるけれど、ものすごく尊敬していますよ。
 調査結果は、11月の学会で発表予定です。

 あるNGO事務所のゲートに貼られていたステッカー。
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 もうひとつ。マニラを去る1週間前には、調査地のひとつであるN地区のスラムで、私の調査結果報告会&お別れ会をしていただきました。
 スケジュールやセッティングはすべて彼らが綿密に計画。大雨のなか、パワーポイント用のプロジェクターとスクリーンまで、どこやらのNGOの事務所から借りてきてくれたのですから驚きです。タガログ語による私の拙い報告は、調査地の方々からガンガン突っ込まれました。
 「あなたが引用したその発言の意図はそういうことではない。」
 「あなたの分析は正しくない。それは2009年に決まったことだから、2010年選挙とは関係ない。」
などなど。…やらせていただいて本当に良かったです。
 報告会のあとはお別れ会。スラムでの独自の生産・消費活動がありますので、私が持参するのは日本酒のみで、お料理と飲み物はN地区で用意していただくことにしました。もちろん費用は私の負担。何人くらいの規模にするかを事前に決めて、料理の内容も相談。
 「料理は買うんじゃなくて、いつもどおり、住民組織の事務所で大鍋で作ろうと思うんだけど。」
 「お願いします! ●●さんところのヤギ(N地区ではなぜかヤギの養育がさかんで、ケソン市のど真ん中なのに、ヤギだらけ)をつぶしていただくのはどうですか?」
 「それは安上がりでいい! パンシット(焼きそば)かご飯かどっちがいい?」
 「皆さんにお任せします。」
 「ビデオケ・セットは使う?」
 「もちろんお願いしまーす!」
という感じで予算決定。
 このような調査地との関わりかたには批判もあるでしょう。私も以前は、自分がお金をもっていることを誇示するような行動は慎むべきだと思っていました。実際、ある別の調査地では、私はこのようなことはしませんし、N地区でも、私は最初のうちは当時の職場を言わず、日本の大学院生としか名乗っていませんでした。しかし、N地区の住民リーダーたちはさまざまなミドルクラスの政治集会やフィリピン大学でのシンポジウムに日常的に招かれている「やり手」でして、私が当時の職場から仕事で訪れた先々で、しょっちゅう鉢合わせする羽目になったのです。スラムに行くときはTシャツにジーンズですが、平日の昼間は(スラムの人たちから見れば)華美な服装をして、しかも運転手つきの職場の車で乗り付けるわけですから、いつまでも身分を隠し続けられるわけがありません。結局、私は自分の所属を告白しましたが、彼らは別に驚きもせず、態度も変えることなくお付き合いしてくださいました。
 彼らのほうから借金を申し込まれたことなんて一度もありません。私がごく最近驚嘆したのは、彼らが、彼らの住民組織の会長が2007年に市議会議員に立候補した際に私が寄付した金額を正確に覚えていたことでした。決してまとまった額をどーんと渡したわけではありません。当時、週末のたびに彼らの選挙キャンペーンに付きまとっては話をきかせていただいていた私は、キャンペーンが夜遅くまで長引いてしまった晩に皆さんの夕食代を出したり、予想外に多くのキャンペーン要員が集まってきてジープが足りないときにジープ1台の数時間分の借り上げ代金を提供したり、電話料金を肩代わりしたり…といったことを繰り返していました。どれも、数百ペソ~1000ペソ程度。彼らを陣営に取り込みたかったケソン市議らは数十万ペソ、NGOは数万ペソ単位の寄付をしていたわけですから、私の寄付なんて、寄付ともいえないショボショボのものです。にもかかわらず、彼らは、私自身が忘れている金額を、きちんと覚えているのです。私自身はすっかり忘れていたのに。

 こんな感じで、私は「調査対象」に対する尊敬の念を新たにしながら、フィリピンを離れました。それは、調査者にとっていちばん幸せなことだと思います。その尊敬は決して、調査対象への勝手な思い入れとか、貧者のロマン化とか、調査を達成した自己満足のすり替えとか、しばらく遠ざかってしまうマニラへのセンチメンタリズムとか、そんなものではないと言い切れる自信があります。彼らはほんとうにすごい。私は彼らのすごさを、博士論文で書いたよりもっとうまく熱く、言葉にしたいと思っています。

 2007年5月選挙直前のN地区。
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 アキノ新大統領施政方針演説の日、G-CAP(Global Call to Action against Poverty)とともに下院近くでデモに参加するN地区の人々。
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by saging | 2010-08-29 21:49 | フィリピン研究