Keso de Bola とは、 「表面は赤いのに中は黄色い」フィリピンのボール型チーズ。転じて日和見主義者。       かつてお世話になった、現地の言葉で「灯台」と呼ばれるマニラ湾岸のスラムを、ガラス越しに。
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カテゴリ:仕事('10年~)( 5 )
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 今年の残暑は長かったですが、私はいつも、「1年中この暑さでも大歓迎!」と思っていました。夏が長ければ長いほど嬉しいのです。青すぎる空、蝉の声、モコモコと分厚い真っ白な雲。神田川沿いをこれでもかとばかりに生い茂る木々の緑、鬱陶しいに飛び交う虫たち、日本では夏にしか見られないような鮮やかな花の色。1日に何度も水シャワーを浴び、3日に1回はゴーヤチャンプルーを作っては冷奴と一緒に食べ、その美味しさに感動する毎日。
 こんな日が、ずっとずっと続いてほしいのにと思っていました。9月と10月は、1年でいちばんさみしい季節です。遠くから運動会の音楽が聞こえてくるたびに、かなしくてたまらなくなります。夏の空気がどんどん消えていって、あの暗くて重い冬がまためぐってくることが、怖くてなりません。あと数ヶ月もしたら、この視界から緑が消えてしまって、室内は暖房の淀んだ空気で満たされてしまって、私はきっとまたいっさい電車に乗れなくなり、デパートも地下街も歩けなくなり、書店やスーパーに行くことさえ困難になるのでしょう。
 先日、職場の近くで、とても鮮やかなピンクの花をつけた百日紅が剪定されていたので、業者の方にお願いして、落ちた枝をいくつかいただいて、事務所に生けました。いい色ですね、と上司に言われ、こんな色の花は夏にしか咲きません、と答えたら、とてもとてもかなしくなりました。
 上司は、秋には秋の花が咲きますよ、と言って、先週、すすきの穂までついた秋のアレンジメントを買ってきて、事務所に生けてくれました。
 落ち着いた色合いの花々を見ていると、今年こそは、秋や冬の美しさを楽しめる自分でありたいと思います。
 9月30日は、仲秋です。満月に向かう今日の月は、きらきらしてとびきり美しいです。

 この夏は、この数年間でいちばん充実していました。6月末に上司と示し合わせて決めた「朝7時に出勤して始業の10時まで研究活動をする」計画もおおむね達成。ドナーからのプレッシャーを受け、雑用に追われ、夜もついつい遅くなり、時間に追われるながら「援助」を行う仕事のなかで、ありがちな「援助バイアス」に呑みこまれたくはない、援助業界に毒されたくはない、研究者としての立ち位置やフィリピンで学ばせていただいたことをぜったいに忘れたくない、という思いがとても強くて、とにかく毎日、ものを読み、ものを書き続けました。朝の3時間くらい勉強したってどうにもならないのだと思うけれど、それでも、やらないよりはずっとましです。
 涼しいけれどすでに明るい5時台にベランダに出て、のびのび育ったゴーヤやレモングラスやパクチーに水を遣って、前夜に干しておいたランドリーがすでに乾いていることに感動して、お弁当を作ってトーストを焼いて新聞を読むときの幸福。ラジオ体操の出席カードを首からひらひらさせながら走っている小学生とすれ違いながら、ほとんど車の通らない道を自転車で走り抜ける解放感。日中の暑さを予告するかのように、川面をゆらゆらかがやかせている神田川の幻想的な美しさ。開け放したオフィスの窓からきこえる蝉の声のノスタルジー。
 海外にも海にも山にも花火大会にも行かなかったけれど、幸せな夏でした。海外に逃亡したいとは一度も思いませんでした。この小さな事務所で、とても狭い世界で、仕事と研究をしていられるだけで良かった。
 
 私の「NGO嫌い」はあまり払拭されていませんし、NGOで働くことのジレンマも解消されないままです。研究との整合性についても、悩み続けています。都内での生活はできるものの貯金はろくにできないようなこの薄給でいったいいつまで続けられるのかと、途方もない不安も抱えています。いつも何かに追われ、追い詰められています。役所に提出する数々のしょうもない書類の作成、「いいことしたい」オーラをまとった同業NGOのピュアな方々とのミーティング、常に温度差のある海外駐在事務所の職員からの愚痴や批判、とても苦手な簿記(だいぶ慣れましたが)や収支報告書の作成…。

 それでも幸せで、生きているなー、と思いました。

 昨年の夏は、民主党の代表選で終わってしまいました。蝉の声を聴くたびにあの夏の選挙を思い出します…と言えたらそれはそれで素敵なのでしょうが、蝉が鳴いていたかどうかすら、まったく思い出せません。各陣営の選対本部はなぜか都内のホテルの小宴会場に、候補者控室はスイートルームに設置されていました(議員会館でいいのでは、と思うのですが、マスコミをシャットアウトしなければならない事情とか、いろいろあるのです)。合同演説会や代表選が実際に行われる別のホテルには別途、決起集会のための部屋が予約されていて、支持議員らが熱く政策議論を繰り広げる(=他陣営のワルグチを言ってお祭りを盛り上げる)場所になっていました。ホテルの利用料を知っている私は、ただただ、目が点でした。
 上司がそれらのホテルのスイートで演説原稿をチェックしたり先輩議員らと戦略を話し合ったりしている間、私はずっと部屋の入口に控えていました。他方、各関係者や報道機関用に向けた文書作成やメール・留守電のチェックもしなくてはならないので、議員が取材や演説会で席を外す2-3時間の隙を見計らってタクシーで議員会館に戻り、事務作業をして、またホテルに戻っていました。いったいどれだけ無駄なお金を使うのだろうと思いながら、各ホテルと議員会館を往復する毎日。夜は、議員の先生方が全員帰宅された後にスイートルームの鍵を閉め、議員会館に戻り、翌日の日程表をタイプして印刷し、議員宿舎の上司の部屋に届け、もちろん終電はないのでタクシーで帰宅し、数時間後にスイートルームの鍵を開けて清掃をお願いして、ルームサービスのコーヒーとサンドイッチを注文して先生方を出迎えます。
 あれはあれでものすごく勉強になりましたし、must do experienceだったと思っています。けれども、あの代表選に限らず、永田町での仕事は果てしなく空虚で、精神的にも肉体的にも、ただただ疲弊しました。政治というものが自分のすぐ手の届くところにあるというのに、ものすごく遠くて、一生触れられないもののように感じていました。自分で選択したことなのだから、これを承知で政治家の秘書になったのだから、と思い込もうとして、なんとか慣れようとすることで精一杯で、自分が主体的に何をしたいか、研究者としてどう生きていたいか、など、ほとんど考える余裕がありませんでした。国会審議に外交に、党内の人間関係や●●グループの人間関係。まるで難易度の高いテトリスのように、やってもやっても仕事が降ってきて、同時多発的にめまぐるしく物事が進行する毎日。地元事務所の先輩秘書との人間関係も難しすぎるし、他事務所の秘書さんや、上司のカウンターパートである官僚や経済界にも気を遣って、おまけにメディアとの付き合い方にも細心の注意を払わなくてはならない。影踏みをして走りながら手元でテトリスをして、口で歌って、なんだか足元が不安定だと思ったらそういえばやたらと揺れるバスに乗っていたんだ、そんなところで走ったり歌ったりしたら怒られるよ…、みたいな感じでした。

 NGOに転職して4ヶ月が経って、私は少しずつ、永田町の常識から脱しつつあります。この職場では、職員は自分のお湯呑を自分で洗います。男性職員がゴミを出そうとしたり、タオルを洗濯しようとしたりします。私が真っ青になって止めると、「sagingさん、古い」と言われます。議員事務所では考えられなかったことです。
 所詮は弱小NGOなので、組織のマネジメントにも会議の進め方にも予算の立て方にも人材育成にも問題だらけですが、議員事務所には雇用契約書も給与明細もありませんでしたし(さすがに源泉徴収票はありました)、事務所予算というものもありませんでした。収入も支出も不定期すぎて予測不能だからなのでしょうが…。


 8月のとある週末、職場の「先輩」と同僚の何名かで、横浜に停泊中のピースボートの見学会に行きました。…といっても、私たちはピースボートに関心があったわけではありません。船会社での経験の長い「先輩」(職務上は先輩ではありませんが、民間企業を早期退職してNGOに転職された人生の先輩)が、純粋に船そのものを見に行こう、と提案してくださったのでした。
 まずは、日本郵船氷川丸に集合。先輩の解説のもと、たっぷり2時間かけて内部を見学し、その重厚さと美しさに酔いしれ、ボイラー室の機械に「萌え萌え」で大興奮。
 その後はピースボートに移動し、その満員御礼ぶりを横目に、船体の塗装、従業員の国籍、図書館の品揃え…といったマイナーなところばかりを楽しみました。お盆休みに友人Wさんの研究室で古市憲寿『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 』を斜め読みさせてもらった(本当に斜め読みで十分だと思います)直後だったので、スタッフの説明に真剣に聞き入る若者やファミリーやご高齢の方々のことが気になりながらも、私も単純に、船そのものを満喫しました。ピースボートの「ピース」部分にはいっさい関心を向けず、ひたすらマニアックに船を観賞しつづける私たちがまさか、日常的に「平和」を扱うNGOの職員だなんて。

 その次の週末は、職場の上司に、東富士演習場で行われた陸上自衛隊の富士総合火力演習(通称「そうかえん」)に連れて行ってくれました。ピースボート見学の翌週が自衛隊の演習見学! 自分の左右のレンジの広さにもびっくりですが、うちのNGOの職員の多様さにも、改めてびっくりです。
 上司はNGO職員のくせにweapon studiesが大好きで(ミリオタではありません)、NGO職員のくせに自衛隊との協働などを模索する、安全保障の研究者。私は彼に感化され、肯定するにせよ否定するにせよ、軍や自衛隊についてもっと知らなくてはならないと思うようになり、「そうかえん」もぜひ見たいとお願いして、連れて行ってもらいました。
 …すごかったです。そもそも、私は軍による実弾使用を見たのは初めてでした。複数の戦車による同時着弾訓練、観測ヘリコプターOH1の変態機動、ヘリからの対戦車地雷散布、戦車用通路開通用の地雷原処理車。なかでも、10式(ひとまる式、って読みます)戦車のなんだか気持ちの悪いキャタピラーの動きとすさまじい変態機動――まるで流鏑馬みたいに、走りながら撃ったり、バックしながら目標に向かって発射したり――は、圧巻でした。初めて見る実弾発射に興奮したり、ぴったりと揃った同時着弾訓練のあまりの「美しさ」に息を呑んだり、地雷散布ヘリにショックを受けたり(あれはトラウマになりそうです)、離島攻撃を想定した陸・海・空の総合防衛演習のリアルさに恐ろしくなったりと、忙しい2時間でした。
 演習そのものだけではなく、会場の雰囲気も独特で面白かったです。もともとこの火力訓練には訓練中の若手隊員らの士気向上という目的があります。迷彩服姿の隊員の方々が客席にずらーーーーっと並んで座っておられる姿は圧巻でした。弾着(着弾のことだと思うのですが、自衛隊用語? 無線放送も「だんちゃーく!」って言います)のたびに、「おおおおおお!」というどよめきや拍手が彼らの一団から沸き起こるのがおもしろかったです。そして休憩時間になると、隊員たちが
 「久しぶりっ!いまどこに!?」
と肩を叩きあい、直立不動で再会を喜びあう光景があちこちに。
 JRの最寄駅からの往復には特別バスが用意されていて、その誘導を行う隊員の方々も実にユニークでした。御殿場駅で誘導してくださった方々は制服ではありませんでした(いくら演習場の最寄駅と言っても、御殿場駅前で迷彩服の人たちが誘導をしていたらいろいろと支障があるのでしょう)が、会場付近でで誘導してくださっていた方々は迷彩服でした。
 「Cの座席のチケットをお持ちの方はッ、そのまま前進してくださいッ!」
と独特のアクセントでアナウンスしたり(前進って…!)、長蛇の列に配慮して、
 「ご気分の悪い方はいらっしゃいませんかッ? お隣、前後の方々の顔色を確認してくださいッ。」
といったアナウンスをしたり、並んでいた参加者のリクエストにこたえて小さなお子さんを抱いて記念撮影に応じたり…。自衛隊もたいへんですね、って思ってしまいました。
 周りの参加者の方々もユニークでした。迷彩ズボン+迷彩帽の「いかにもミリオタ」みたいな男性たち、帽子に日の丸ピンバッチを付けた不思議青年たち、ものすごく性能の良さそうカメラで空に向かってカシャカシャ連写しまくっている戦闘機ファンと思われる男性、演習に出ている知人をオペラグラスで探す、自衛官の親類または知人と思われる家族連れ、「●●県自衛隊父兄会」の幟を立てているグループ、爆音のたびに泣きわめく子どもを一生懸命になだめていたものの結局中座してしまった男性…など、本当にさまざまな方がいらっしゃいました。(私たちのほかに、NGO職員がいたかどうかはさだかではありません。)
 夕方、都内に戻り、いつものようにジムに行くと、野球場のグリーンが演習場に見え、飛んでいる鳥が軍用機に見えてしまいました。自分の脳が怖くなりました。たった2時間演習を見ただけなのに、これはいくらなんでも危険すぎます。

 その翌日、都内のとあるカフェで、元フィリピン共産党員の某氏がフィリピンの左派と社会運動について語られる場にお邪魔しました。初めて行ったカフェでしたが、本棚にはチェ・ゲバラ本や日本の労働闘争史の本がずらーっと並び、どこの国籍だかわからないけれど「いかにも活動家」って感じの方々がお揃いでした。ドリンクがとても安く、バナナジュースがものすごくおいしいカフェでしたが、エアコンが故障中でものすごい暑さ。そんななか、1990年までのフィリピン共産党の軌跡について2時間もレクチャーを受けてしまいました。
 …「そうかえん」と足して2で割るとちょうどいい感じ。すごく中和されました。Neutralize(中和)というのはフィリピン国軍用語では「反政府分子の制圧」を意味しますので「殲滅」と訳すのが適切なのですが、そういう意味ではなくて、「中和」されました。

 先週は、「大規模災害発生時における民軍協力」をテーマに陸上自衛隊がアジア太平洋地域の軍関係者を招聘して実施した国際会議に参加させていただいてきました。会議のメインは、10名程度のグループに分かれての机上訓練(具体的なシナリオを想定してのディスカッション)。大規模災害が発生して地方自治体の機能が一時的に麻痺した場合、軍はどのような役割を担うのか(interim government機能を担うのか、あくまでもcivilian controlを尊重して中央政府からの出向や地方自治体の回復を待つべきなのか)、人命救助や医療活動を行ううえで地方自治体や文民組織とはどのように連携すべきなのか、軍による被害アセスメントと地方自治体によるそれが違った場合はどうすればよいのか、軍組織の一元的なcommand systemとはまったく異なる「多様で統一性のない」NGOと協力するにはどうしたらいいのか、国民に対する情報の一元化を目指すならば軍は政府発表を尊重すべきだが、現場でメディアに求められた際には答えるべきなのか、それとも露出は極力控えるべきなのか、など…。
 参加者の方々は軍人で、全員軍服。彼らから、”What do you think, Civilian?”と話を振られるのですが、「民」の代表として招聘されて参加していたのは、国連組織、国際赤十字、そして我が団体を含む4団体の国際NGOのみ。Civil-Military Corporationっていうなら、NGOや人道支援団体だけではなく、地方自治体なり総務省なり内閣府なりから役人を招聘すればいいのに、と思いました。それに、他の3つのNGOは緊急支援経験の蓄積があるのに、我が団体だけはなぜか「災害救援も緊急援助もしないけれど自衛隊に近いから招聘された団体」ですので、部外者感たっぷりでした。私は机上訓練の途中から、NGOとしてではなくて「かつて政および官で働いていた文民」として、政および官の論理を代弁する役割に徹しました。つくづく、自分のNGOアイデンティティの薄さを実感します。
 机上訓練の後半は、災害発生時における国内の民軍関係のみならず、他国軍の支援を受け入れたり、あるいは他国に応援に行ったりする場合の法的枠組みや各国の規制についての議論もなされました。そのときも、軍はもちろん、参加していたUNもNGOも、各国の官の果たす決定的な役割についてほとんど考えていないようでしたので、私は思わず、
 「その役割は軍じゃなくて大使館だと思います。」
 「そこは敢えて軍のリエゾンオフィサーが出てこなくても、Military Attache(駐在武官)がやりますよ。」
とNGOなのに「官」を代弁するかのような発言を繰り返してしまいました。なお、別のグループにいた我が上司も、文民のくせに途中からフロアの議論を横取りし、ファシリテーター役を買って出ていたようです。
 実際、こうした場面で本当に求められているのは、「自分の持ち場」からの話しかのできない人ではなくて、政・官・民に加え、学(academe)、軍、そしてNGOと、いろいろな世界の論理を理解し、壁を越えられる人材なのだと私は思っています。米国式に言えば「回転ドア式キャリア」をもつ人材。私が数年おきに転職を繰り返しているのも、究極的にははそのような形で日本と世界に貢献したいからです。
 …という熱い話はさておき、この会議、ものすごくおもしろかったです。それにしても、”You, civilian”って呼ばれたのも、「文民の皆さん」って呼ばれたのも、生まれて初めてです。

 右なのか左なのか、と問われれば、私はどちらかといえば左なのだと思います。2年前にある会合で、フィリピンの選挙監視NGO(NAMFREL)を賞賛するマレーシア人研究者の報告をきいたときに私が、
 「選挙ガバナンスは政府の仕事なのだから、NGOを礼賛するだけでなく、中央選挙管理委員会(COMELEC)の能力強化を考えることが必要ではないか。」
と発言したところ、別のマレーシア人から、”You are very right-leaning”って言われたことがあります。それのどこがどうrightなのか。
 フィリピンにいたとき、私はThe Leftにものすごくシンパシーを感じていました。役所で働いていた時は「sagingさんはアカ」と言われていました。
 でも、NGO業界にあっては、私などはかなりの右なのかもしれません。

 右か左かなんて、ほんとうに、その国の文脈次第、あるいは個人の価値観次第なのだと思います。
 私は、左と言われても、右と言われても、かまいません。むしろ、NGO職員でありながら、そして「援助業界」にいながら「右寄り」であることを強みにしていたい、と思います。

 私は、いろいろな世界を同時に生きていたいのです。
 土日は研究者に戻って、職業研究者と一緒に、普通に学会や研究会に出席したい。
 役所や永田町で一緒だった方々とは、ずっと友人でいたい。
 私がいまのNGOに転職を決めたのは、この組織が、NGOなのにやたらと省庁に近い、という特徴をもっていたからです。私も何かというと役所に行っていますし、マニラの元職場で上司だった方々やカウンターパートだった方々に連絡をして、省庁の担当者を紹介していただいていますす。どの方も本当に親切に、メール1本、電話1本で気軽にそのようなことをしてくださり、「せっかくsagingさんがNGOにいるなら、こういうことができれば…」と提案してくださいます。役人の柔軟さに感激。
 永田町には遠くなってしまいましたが、それでも、お世話になっていた秘書仲間や政党職員の方々とはいまでも食事をしたり、メールをやりとりしたりしています。政党職員の方々とのコミュニケーションなんて、むしろ、以前より多いくらい。毎日一緒に働いていた頃は、お互いに勤務時間以外では会いたくもない、と思っていましたし、議員会館の食堂でランチ、なんて夢のまた夢で、5分でも時間が空いたら何か食べる、という感じの生活でしたので、誰かと食事を一緒にしたことは一度もありませんでした。いまのほうがずっと、普通の会話をしています。そして、
 「『近いうちに』会っておこう」
というのが合言葉です(笑)。


 右にも左にもレンジが広いということ、官僚に対しても民間に対してもオープンで柔軟であるということは、ものごとが順調にいっているときは、多様な層からの支持を集め、仲間を増やすことができます。ただ同時に、下手をすると、右にも左にも敵だらけ、四面楚歌という状況になります。
 …誰のことだと思いますか?
 もちろん、民主党のことです。そして、私の元上司のことです。
 私自身も同様なのだと思います。「回転ドア」でいることは、いつもリスクを伴います。これからもずっと、右だとか左だとか、おまえはどっちの見方だ、とか、さんざん責められたり、批判されたりすることはあるのでしょう。
 それでも、異なる世界を行き来しながら生きることの魅力にはあがなえません。
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by saging | 2012-09-29 01:15 | 仕事('10年~)
住めば都
 周りの方々が「残暑」への不満を漏らす9月、私は去りゆく暑さがただ名残惜しくて、まだギンギンに輝く太陽の下で少しずつ国会議事堂付近の道路に銀杏の実が増えていくのを見るたびに、ただただ、かなしく思っていました。
 昨年秋、初めて永田町のいちょう並木の紅葉を目にしたときは、久しぶりの日本の秋の美しさにわくわくしたものですが、その後、すっかり葉を落としてしまった木を見るたびになんだか気が滅入って、冬の長さが耐えられなくて、3月に若葉の芽を見つけてからは毎日、枝の緑が少しずつ増えて議事堂を覆い隠していくのを日々、とても楽しみにしていました。
 今年は、紅葉を楽しめるでしょうか。あんなに長い間かかって葉をつけたのに、またあっという間に落ちてしまうなんて、そしてまた長い冬がやってくるなんて、考えただけでかなしくなってしまいます。道に踏みつぶされている銀杏の実と同じくらいかなしい。

 永田町は、いちょうの並木よりもっと移り変わりの激しいところです。わずか数ヶ月の間に、民主党代表選があり、新内閣が発足して、臨時国会が召集されて閉会して、間もなく次の臨時国会が開かれようとしています…。管総理はいつやめるのか、なんて言っていたのが昨日のことのようなのに。物事があっという間に先へ行ってしまいます。
 私がどの党のどの政治家の秘書をしているかはこのblogでは永久に伏せさせていただきますが、8月末に行われた与党民主党の代表選前の前後は、早朝から深夜までむちゃくちゃなスケジュールが続きました。でも、東京ってそれでも、一人で暮らしていける町なんですよね。どこにでもコンビニがあって当座必要なものはなんでも買えるし、24時間営業のスーパーも珍しくないし、電車は朝5時から翌朝1時まで走っているし。何度も未明にタクシーで帰宅しましたが、首都高速を使えば職場から自宅まで20分で着いてしまうという事実に驚愕。こんな大都会の真ん中に高速道路が通っているなんて。洗濯機が回せる時間帯に帰宅できなくても、街のあちこちに24時間営業のコインランドリーがあり、集荷・配達をしてくれるクリーニング・サービスもあるのです。
 都会万歳。都心大好き。
 マニラの中心地エルミタに3年間住んでいたときもずっと、そう思っていました。ジープニーも乗り合いタクシーFXも普通のタクシーも24時間びゅんびゅん走っていて、自宅から徒歩5分以内のところにコンビニが4軒、歓楽街の従業員を対象とした朝5時まで営業の食堂や焼鳥屋台なども豊富にありました。かと思えば、朝5時半開店のパン屋さんや食堂もあるし、7時になれば果物屋台が家の前に来るし。
 前職の契約を終えてフリー生活を満喫していたときはその反動で、銀行どころかATMもないようなフィリピンのど田舎の町に滞在し、タイではではバンコク都のはずれのタイ語しかできない知人のお宅にお世話になり(私はタイ語が日常会話くらいしかできません)、それなりに不便ではありましたが、そういう生活が楽しいと思っていました。田舎に行けば田舎最高って思うし、郊外に行けば(私の実家もかなりの郊外です)郊外素晴らしいって感じてしまうものなのでしょう。ゴキブリとネズミさえいなければ、マニラのスラムだって快適です。(いえ、いても快適です。まあ、ゴキブリのいないスラムなんて海沿いくらいしかないのですが…そして海沿いにはフナムシがいるのですが。)

 住めば都、とはよくいったものです。

 議員秘書になって1年が経ちました。
 いろいろありましたが、お蔭さまで私は、ずっと健康に過ごしております。自分が健康でなければ他人(特に上司)を支えることはできないということを実感する仕事ですので、私は常日頃、自分の健康を維持することに細心の注意を払っています。
 まず心掛けているのは、通常は70%くらいの力しか出さないことです。私は、政治家秘書としてはかなり休ませていただいているほうだと思います。疲れたら休む、ではなくて、疲れる前に休みます。欠勤するということではなくて、働かなくていいときは働かない、ということです。私は基本的には土日は出勤しません。金曜の夜に徹夜をしてでも(金曜の夜の電車に乗る苦痛を考えれば徹夜したほうがだいぶましです)、週末は自分の時間にします。平日もできるだけ早く帰りますし、自宅には仕事を持ち帰りません。
 …実際はそんなうまくはいかなくて、秘書というのは24時間秘書ですから、いつでも電話はかかってきますし、メールは来ますし、必要があれば深夜でも休日でも働きます。平日は上司のスケジュールをフォローしたり来客や電話の応対に追われるので、上司の講演資料を作ったりスピーチ原稿を書いたりといった作業ができるのは土日か深夜に限られてきますし、落ち着いて経理の計算をしたり職場の備品を買い揃えたりできるのもやはり土日になります。それでも、私はかなり休ませていただいています。私の上司は、四六時中ついて歩いてお世話をする秘書を必要とするタイプの国会議員ではありません。彼が秘書に求めるものや彼の秘書との距離のとりかたは、伝統的な日本の政治家とは大きく異なります。だから私は、いわゆる政治家秘書としての典型的なふるまいを身につけるよりも、政治家としては特異なキャラクターをもつ上司の特異な要求に応えるべく独自に勉強すること、そして、いつでも上司を支えられる健康で強い秘書でいられるために自分のwellnessを保持しておくことをプライオリティにしています。仕事以外の時間はできるだけ、やりたいことをします。本や論文を読んだり、勉強会に行ったり、人に会ったり、体を鍛えたり。

 先週末の三連休も満喫しました。例によって金曜日の夜から土曜日の午前中までかかって仕事(上司の海外出張準備)を終わらせ、午後からは電車好きの従弟(小学5年生)と一緒に鉄道フェスタ@日比谷公園へ繰り出しました。私は決して電車好きではありませんが(むしろ電車に乗るのは嫌いですが)、上司が大の鉄道ファンなので、なんとなく気になって。鉄道写真展の入賞写真展覧会が素敵でした。私は鉄道に乗るのは好きではありませんが、鉄道沿いの風景や鉄道のある風景を見るのは大好きで、「撮り鉄」である我が上司の写真作品に毎日満足していますが、全国レベルの入選作品はやはりすごいです。あとは、各鉄道会社の豊富な展示をあれこれ見たり、子どもたちを押しのけてグッズを買いまくる大人げない大人たちにドン引きしたり、路線図のプレート(?)を求めて長蛇の列をつくる鉄ヲタな人たちにあきれたりして、楽しみました。 
 そのまま、荒川沿いの「足立の花火」へ。例年は7月開催のようですが、今年は震災の影響もあって10月の開催となったようです。実は私は足立の花火の存在すら知らなかったのですが、日頃お世話になっている鍼灸師の先生方(私の東京生活における救世主です)のクリニックが足立区にあって、お声かけいただきました。8月の隅田川花火のときもお誘いいただいたのですが、民主党代表選の2日前だったため泣く泣く欠席。今度こそは、と楽しみにしていました。先生のお友達やご親戚や患者さんたち(私にとっては全員初対面)で集まって、10月の河原にブルーシートを敷いて、夕方5時からお酒を飲み、ガスコンロで湯豆腐とか水餃子とかつくって、幸せすぎる気持ちで50分間の花火鑑賞。その後、クリニックをにお邪魔して二次会。先生方をはじめ参加者が全員ものすごい酒豪とあって、持ち寄られたお酒はどれも全部おいしく、たいへん楽しい飲み会でした。
 翌日は(前夜の深酒も忘れて)朝からジムに行って、その後、靖国神社参道で開催されたタイ・フェスティバルへ。ソムタム屋台がなかったのが残念でしたが、ラープ・ガイ(鶏のひき肉ハーブ炒め)、冷凍のイサーンソーセージ(酸っぱい)、冷凍のチェンマイソーセージ(辛い)、ネーム(唐辛子入りの酸っぱく発酵させた生ソーセージ)、グリーンカレーの素、もち米、マクア(タイの丸い茄子)などを購入し、大満足でした。ネームは、バンコクならセブンイレブンで30バーツくらいで売られているのですが、日本ではなかなか入手できず、私はいつも、池袋の某タイ料理店の自家製のものを買っています。味が強いので、これ一本で生キャベツ半分くらい食べられます。ソーセージも、春雨やお米やハーブが練りこまれていてものすごくパンチのある味。存在感としては、ソーセージというより日本の「餃子」に近いかもしれません。これ一本で野菜もごはんもビールも進みます。おすすめ。バンコクに住んでいたときは、ホストファミリーがイサーン(タイ東北部)出身だったこともあり、2日に1回は食べていました。イサーンの彼女の実家から届いたソーセージの味は忘れられません。日本にも「タイ・ソーセージ(サイクロッ)」と「ネーム」が置いてあるタイ料理店はありますので、見つけたらぜひお試しを。

 あと、先週は、フィリピンに関わる某NGOの方々(いつも仲良くしていただいて感謝しています)との飲み会がありました。飲み会っていう言葉、私はあまり使わないのですが、あれは飲み会か酒盛りとかとしか形容しようのない会でした。だって、「日本酒飲み放題デー」という信じられない設定のあるお店に5時間近くいたのです。安かろうナントカじゃなくて、日本酒はしっかりおいしいし、店員さんが温かい感じでコミュニケーション好き。途中から、私がフィリピンで働いていたときに上司だった方々(現在は霞が関勤務)が合流し、NGOスタッフと、NGOが苦手なはずの彼らと、NGO出身なのにNGOが苦手な元「官僚の部下」の私と…というよくわからないメンバーで飲むことに。立場上はカウンターパートなので、お互いにいろいろあるのですが、なぜかウマが合うというのか、「フィリピン大好き」で繋がっているというのか、いえ、ただ「酒豪」というだけで繋がっているというのか、とにかく不思議なグループです。このインフォーマルさ、さすがフィリピン。5時間の会話の中でいちばん印象に残ったのは、
 「もうすぐクリスマスだねー。」
 「今年、クリスマスどうする?」
というやりとり×複数回。フィリピン人は8月末からクリスマスの話題で盛り上がりますが、普通の日本人は、10月中旬に「もうすぐクリスマス」なんて口にはしません。それを平気で口にしあえるのが、このグループ、すごいと思いました。(私はハロウィンの飾りつけを見るたびに「もうすぐクリスマス」って思いますけれども、「そういうこと思っちゃダメ、ここは日本だから」と一生懸命に自分に言い聞かせています。)
 結局、2軒目まで行って、午前1時まで飲みつづけました。忙しいに違いない元上司が最後まで付き合ってくれたことが、とても嬉しかったです。マニラで3年間、席を並べてずっと横で指導してくださった元上司。さんざん迷惑をかけ、それなりに叱られ、何度となく明け方まで働き、本当にいろいろありましたが、ずっと私のメンターでした。先の民主党代表選のときも、私は何度も、その上司から教えていただいた仕事の進め方、特に当時徹底的に叩き込まれたロジスティックの詰めのやりかたを思い出し、「こんなとき、彼だったらどう指示するだろう」と想像しながら働きました。実際にメールで助言を受けたりもしていました。

 最近はこんな感じで過ごしています。といっても実際はフィリピンにいた時に比べれば人と会う頻度は激減、以前のように日替わりでデートしまくったりもしていません。平日の夜はジムに行って帰宅するだけのことがほとんどですし、外食も月に2回くらい。日中は議員会館を出ることができないので、というか事務所を空けることができないので、この1年余り、昼食は必ず持参しています。議員会館内の食堂を利用したことがありません。
 ジムには、週5-6日通っています。東京のジムは早朝から深夜まで営業しているので助かります。仕事で混乱した心も頭も、30分ゆっくり泳ぐだけで落ち着きますし、週に数回のBodyCombat(格闘技系エアロのスタジオレッスン)なしの生活は私には考えられません。マニラでもバンコクでも参加していた、大好きなプログラムです。激しくて無理のある動きですが、鍼灸師の先生とジムのインストラクターにストレッチの指導をしてもらっているので、少々の無理をしたくらいではどこも痛めることはありません。現在の曲はこんなかんじ。
 http://v.youku.com/v_show/id_XMjkzNTI0MTk2.html
 (コピーペーストしてご覧ください。私はキックとムエタイが好きなので、9:55から始まるテンションの高いトラック3とか、29:20から始まるキック満載のトラック6とか、膝蹴りの激しすぎるトラック7とかは、もう病みつきです。蹴りのフォームや足を高く上げることに集中していると、仕事のことなんてすべて忘れられます。)
毎朝、起床時にこれらの音楽をかけたり、動画を見たりしてテンションを上げています。動画を見ただけで、走り出したくなります。
 最近はインストラクターに勧められて、タイでやっていたBodyPump(軽量バーベルを使った有酸素運動のスタジオレッスン)も再開したし、加圧トレーニング(インストラクターについてもらっての1対1でなくても自分でできるもの)も始めました。うっかりしていると、そのうちに長距離マラソンとかも始めてしまいそうです。
 村上春樹の影響でも、「I984」の影響でもないつもりですが、実はそうなのかも。

 私の普段通っているジムは会員数が制限されているくらい狭く、プールは18メートル、スタジオは一つしかありませんので、週末は自転車で帰宅のA羽支店にも通っています。A羽支店は巨大で、スタジオだけで3つあり、スカッシュコートがあり、メインのプールも2つあり、さらにはマッサージプールや露天風呂も充実していて、まるで一大アミューズメントパークのよう。最高にリラックスできます。(唯一の問題は、帰り際に、あの有名な立ち呑み屋「いこい」に立ち寄りたくなる誘惑を必死で断ち切らなくてはならないことです。)
 板橋区の我が家からは、A羽駅まで自転車でちょうど片道30分。「ジムに来る必要がないくらいの走りっぷりですよね」とインストラクターに笑われながら、通っています。私の好きなルートは、環七から中山道を北上して、本蓮根から西が丘サッカー場(夕暮れどきの競技場は最高に美しい)の横を通って、A羽台団地を遠くに見ながらKヶ丘の都営住宅(Kヶ丘中央商店街のレトロさは病みつきになります)の横を通ってA羽台に入り、マンモス団地とは思えない暗さのなかを抜けて、最後に一気に坂をおりてA羽駅に出るコースです。私も団地育ちなので、あの圧倒的な団地群はとても好きです。団地がとても「日本的」なものであることを感じます。
 板橋区と北区は、本当にいいところだと思います。東京とは思えない空気感があります。施設も多いし、子供も多いし、工場も多いし、外国人も多いし、平均所得は低いのかもしれないけれど(だからこそ23区なのに計画停電の対象エリアに指定されたのかもしれないけれど)、家賃も格安。板橋の我が家は、家具つきで25平米の分譲マンションなのに、家賃が管理費込みで月6万円。オートロックで、窓からの視界が良く、徒歩圏内にスーパーが4軒。駅まで徒歩13分ですが、自転車なら4分。そこから職場の最寄り駅まで地下鉄で約25分。乗り換えなし・直通です。1年前にいまの仕事が決まった直後、ネットで探して2日で即決した物件ですが、こんなにいい物件は、そうそうないと思います。なんといっても家具つきですよ。レ●パレスなどと同様、電化製品はもちろん、食器、寝具、タオルや清掃用品、洗剤まで入居時に完璧に用意されていました。海外帰りで家具を一切もっておらず、日本円の貯金も心もとなく、しかも急に仕事が決まったために2週間以内に引っ越さなくてはならなかった私は本当に助かりました。衣類や身の回りのものだけを入れた段ボール2箱だけをもって入居したのが1年前。内装は清潔で、管理会社も管理人さんも親切で、これまで、とても快適に暮らしてきました。

 ただ、そんな快適な我が家を、私は近く、出ようとしています。
 理由は、通勤電車です。私の利用している路線は東京メトロの中では一番すいているようで、普通に新聞を読めるくらいなのですが、それでもどうしても、慣れることができません。私が冬が来ることを恐れる最大の理由は、気候ではなくて、電車です。あの過剰な暖房と、密室の空気、人々の衣類が黒一色でしかないあの風景、それら衣類が数ヶ月も洗われていないものであること…考えるだけで気が狂いそうになります。誰にも、絶対に触れたくない。というか同じ空間にいたくない。梅雨や夏の通勤電車が嫌いと言う人はたくさんいるようですが、私にとっては、冬のほうが耐えられません。
 本当は、とても気候の良いこの季節でさえ、耐え難いのです。知らない人たちと同じ空気を吸って吐くことが耐えられない。地下の空気を吸いたくないし、密室の車内の空気はもっと吸いたくありません。前後左右に立っている人たち、同じ車両に乗り合わせた人たちのすべてを、汚い/気持ち悪いと感じてしまいます。そんな自分自身が嫌だし、自分はそんなにも人間が嫌いだったのか、どこか神経がおかしいんじゃないか、と、愕然としてしまいます。 電車ががらがらにすいている土日でさえ嫌だし、電車に乗る以前に、地下のホームに降りたつことにさえ、毎回、まず勇気がいります。もうずっと、平日の朝は、25分間ストレートで乗り続けられることのほうが少なく、途中の駅で降りてホームで休憩したり、駅の外に出て深く呼吸してからホームに戻ったり、1駅歩いてから次の電車に乗ったりしています。効率が悪すぎます。新聞を読んで気を紛らわせる、時間帯を変える、車両を変える、女性専用車に乗ってみる、始発駅まで行って座ってみる、音楽を聴く、BodyCombatの動画を見る…など、いろいろ試してみたのですが、どれもダメでした。本来であればドアツードアで40分のはずの通勤に、1時間半くらいかかっています。自転車のほうが早いくらいです。実際、気候のいい日は自転車で通勤しています。
 このままでは、冬を迎えられる自信がありません。
 自転車で職場と自宅を往復するたびにいろいろなルートを試しながら、新宿区なら、私の収入に相応しい物件が借りられるのではないかと思うようになりました。市谷がつくエリアはアップダウンが激しいものの、道を選べば快適。若松河田、牛込柳町、神楽坂くらいなら永田町から25分圏内です。新宿御苑や、曙橋より四谷寄りのエリアならさらに余裕。といえども、新宿区だって、板橋に比べれば家賃は高めです。早稲田までいくと安くなりますが、早稲田はさすがに遠すぎるかと。
 そもそも、「通勤電車が嫌だから」って都心に引っ越したいだなんて、甘えすぎなのかもしれない。1時間以上の通勤ならともかく、25分の電車に耐えられないだなんて、どこのお嬢様?って感じです。だって、みんな乗っているのに。みんなにできることが、なぜ私にはできないんだろう。こんなに多くの人たちが毎朝、普通に電車に乗っているのに。なぜ私は乗れないんだろう。私が東京に、あるいは日本に、あるいは社会に適応できないということなのか。「電車に乗れない」って、「挨拶ができない」以上に、社会人としての致命的欠陥なんじゃないだろうか。引っ越しは根本的な解決にはならないし、問題を先送りしているだけなのでは。
 この数ヶ月、何度も考えました。
 でも。適応って、いったいどうすればいいの?私は生まれてからずっと電車に乗れなかったわけじゃなく、5年前に●ヶ関で研修を受けていた時には、満員の丸ノ内線と西武新宿線を乗り継いで通っていたのです。いまだって、別にぜんぜん乗れないわけではなくて、混んでいてもなぜか平気で乗れる日もあるのです。逆に、ガラガラの休日でも絶対に乗りたくないと思うときもあります。そんな私は、いったい何をどうすれば、ふたたび平気で電車に乗れるようになるのでしょうか。 いまさらメンタルクリニックの戸を叩いて、「電車に乗れないんです」って相談すればいいのでしょうか? こんなに身体のメンテナンスに気を遣って、ジムで心身を鍛えているつもりなのに、体力と筋力には自信があるのに、いろいろ努力して、工夫しているつもりなのに、これ以上、何をすればいいの?
 ずいぶん考えました。そしてこう思いました。こんな思いをしてまで通勤電車に乗る以外に東京で働く選択肢がないのだとしたら、それは、私は東京では生きていけないということです。それが甘えと呼ばれるものであろうと、社会不適応と呼ばれるものであろうと、しかたがない。それが自分の限界なのだから。
 電車に乗らなくていい生活に切り替えよう。そのためにかかる費用は、好きなことをして生きていくためのコストとして割り切ろう。そして、もし引っ越してもなお困難があるようなら、この都市で働くことをあきらめよう。
 そう思い至った日に、いま住んでいる板橋の物件の退去届を出しました。あとは、2か月以内に物件を探すだけ。家具・家電をなにひとつ持っていないことも不安でしたが、とても幸運でありがたいことに、一部、友人から譲ってもらえることになりました。

 この「都」で健康に幸せに生きるために、もう少し頑張ろうと思います。
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by saging | 2011-10-16 23:43 | 仕事('10年~)
テロルの決算 その2
 東京コネタ、もうひとつ。
 首相官邸の前庭には今日まで、日章旗とならんで「こいのぼり」がはためいていました。
 日章旗が「半旗」でなくなったのは、震災から1ヶ月が経った頃でした。4月のある日の日経新聞の「春秋」欄に、もう半旗はやめよう、というコラムが掲載された数日後のことです。半旗を眺めながら仕事をする毎日がいたたまれず、できるだけ窓の外を見ないようにしていた頃のことなので、厳密にいつ戻ったのかは定かではありませんが、ある日、気づいたのです。
 その数日後、日章旗の横に「こいのぼり」がはためいていることに気づきました。
 4月の東京は風の強い日が多かったから、こいのぼりは毎日、元気すぎるくらい元気に泳いでしました。
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 上の写真のこいのぼりは、桜田門の某庁舎のもの。官邸のこいのぼりを写真に撮るわけにはいかないので、代わりに。

 連休中に、沢木耕太郎『テロルの決算』を再読しました。2ヶ月に1度は読み、そのたびに深い感動を覚える書です。
 この書の素晴らしさを月並みなことばで表現するとしたら…。人間の描き方と、その背後にある、著者の人間理解への努力、とでも言うのでしょうか。
 私はこの書のように他人とかかわり、政治とかかわりたい。心から、そう思います。私が議員秘書という職業を強烈に志した理由のひとつがこの書であったことは間違いありません。
 …『テロルの決算』を愛読する議員秘書なんてアブナすぎますが、別に、テロルや右翼に感じ入っているわけではないですから。

 3年前に初めて読んだときはこんなことを思っていたのですが、読むたびに別の箇所が気になります。 今回は、山口二矢が右翼に傾倒し、そして社会党委員長を殺すことを企図するに至った背景として、「父親が自衛官であることを『責められている』ように感じ、左翼こそが圧倒的強者であると認識していた」ことがあったというくだりに、勝手に感動。「左翼こそが強者」っところ。ねぇ。
 私は自己の選択として議員秘書になり、仕事として議員秘書をしているわけですが、それでも、特に震災後の、被災すらしていない人たちからのきわめて一律的で情緒的な「国会議員批判」や「政治家批判」を見聞きするたびにダメージを受けます。事務所では、どんな罵声(事務所にかかってくる電話は、この世のものとは思えないくらいひどいものばかりです。震災発生前からですが…)にも、どんな不愉快な人間関係にも耐えます。仕事ですから。でも、自宅では民放は絶対につけません。活動家の友人の書き込みが否応なく現れてくるFacebookも、できれば開きたくないくらい。すべて、自分が責められている気がします。

 そんな政治家を、そんな国会議員を選んでいるのは私たちじゃないですか。

 そんな電力会社にこれまで何も言わずに消費者になってきたのは私たちじゃないですか。

 …自由な選択肢の一つとして政治に関わる仕事を選んだ私でさえ、そう思って、ここから逃げ出したくなるのです。
 
 電力会社社員の、あるいは幹部の家族は。原子力安全保安院の職員とその家族は。仮設住宅建設を担当する国交省職員の家族は。
 …中央省庁の職員といったって、皆が高給取りのエリート官僚なわけじゃないですよ。
 「国会議員も避難所に住んでみろ。」
 「中央官庁の官僚が原発内部で作業してみろ。」
 「責任企業の職員は全員失業しても当然」
…という、たぶん日本にかぎらず、何かあれば必ず投げられる、きわめて非合理的な剥き出しの感情論。そうした感情論を責めることなど、誰にもできないのですが。

 福島から避難してきた子どもたちが「放射能」って差別を受けるというのは何度も報道に出るけれど、東京電力の、あるいは関連企業の、そして全国の電力会社の家族がどんな思いでいるか、子どもたちが毎日の報道をどんな思いで見ているか、といったことは報道されません。当事者が取材を受け入れないのだから、当然のことです。
 差別とか迫害とかいうのは、「差別だ!」「迫害だ!」って叫ばれている以外のところで進行するのだ、と思います。

 こういうことを書くと左寄りの方々にまた思いっきり叩かれるのでしょうが、いまに始まったことではありません。私は、議員秘書ではなかった頃から、純粋な関心からNGOの集会に行ったら「スパイだ」っていちゃもんをつけられたり、あるシンポジウムで私がまじめに話をきいているのになぜか横に陣取って「あなたはフィリピン研究者だそうですが…」と議論を吹っ掛けてくる人に悩まされたり(周りの方々に迷惑なので退席しました)…。議員秘書になってからは(特に震災後)、ここにはとても書けないくらいひどい言葉で罵倒メールを送ってこられる知人もいます。対話をしたいと思っていても、ここまで敵意を剥き出しにしてくる相手とどう関わればいいのか。
 こういう風土なら、日本の議員秘書が左派系のNGOの集会に出ないのも無理はありませんよ。日本の活動家に「戦略」はあるのか?と、心配にすらなります。
 フィリピンの左翼も、気合いの入っている方々はもちろん頭ガチガチでしたが、全体的にレンジが広かったので、もう少し話し合う余地がありました。マニラで働いていたとき、休日に研究のためにとあるフィリピンの左派系団体のデモを見に行ったら、偶然にスタディツアーとかで来られていた日本の労組の方がいて、主催者であるフィリピン左派の幹部は私の事情を察して黙っていてくださったのですが、集会参加者(スラム住民の方々)が親切心から彼と私を引き合わせてくださり、彼は私の仕事上の名刺をしつこく要求。フィリピン人幹部の方々があとで申し訳なさそうに何度も謝ってくださって、いたく恐縮しました。

 いま思うに、フィリピンは全体的にレンジの広い社会でした。タイもそうですが、あの圧倒的格差を所与のものとして何十年も成り立っている社会って、日本にはない安定感があります。良いとか悪いとかの問題ではなく。政治的には不安定すぎるのですけれど。
 震災後の日本で広がった「自粛」という言説(と言っていいですよね?)とか、
 「被災者に比べれば私の苦しさなんて…。」
という妙な罪悪感まじりの感情とか、
 「いてもたってもいられない。」
という言葉とかって、日本ならではのものだと思います。
 皆が平等であるべきで、皆が罪をかぶるべきで、皆が頑張るべきで、皆が耐えるべき。…民放に出てくる人たちの「他人への同調を求める日本語」の気持ち悪さ、海外に出てから初めて気づきました。「ですよね?」「でしょう?」の使われ方に驚きました。ああいう否定疑問文とか付加疑問文とかは、日本語以外では使わないと思います。

 日本はレンジが狭いんですよ。『テロルの決算』の背景となったあの頃も、いまも、変わらず。

 真摯に自分自身を反省することなく、他人に指を向けて「逆ギレ」しそうな私はたぶん、議員秘書としてだけでなくいろいろと「失格」なのでしょうが、『テロルの決算』を読むたびに、あそこにきわめて生々しく描かれている、「頭の良し悪しや職業に関係なく、自分のことに夢中で、他人への想像力が欠如している、どうしようもない普通の人たち」への視線と、これだけどうしようもない人たちが立候補したり投票したり社会運動やったり議員秘書やったりしてぼちぼち政治を動かしているという馬鹿馬鹿しい現実がすごくリアルで、私はこれを体現するために議員秘書になりたかったんだな、と思います。
 ダメダメな個人による、ぼちぼちで目も当てられないデモクラシー。フィリピンでも日本でもそれは同じで、だからこそ政治はすばらしくておもしろいのだと思うのです。
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by saging | 2011-05-05 23:58 | 仕事('10年~)
東京コネタ集 その2
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池袋の牛丼チェーン店。ほんとうに停電でも営業するのでしょうか? そもそも、豊島区って計画停電エリアに指定されたことはないでしょ。
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 江古田の焼鳥屋さん。「全力節電」って何!? それとも、「全力」はもしかしたら「営業中」にかかっているのでしょうか。常時、1500円で60分間食べ放題・飲み放題というすさまじい看板を掲げているお店なので、なんでも全力なのかもしれませんね。
 江古田駅前は焼鳥屋さんと飲み屋さんがやたらと多い。なのに、駅付近のスーパーのレジに並んでいたときに聞こえてきた会話は、
 「こないださー、初めて大山(東武線)行ったんだけど、あそこ飲み屋しかなくない?」
 「マジ大山って飲み屋ばっかだよなー。ってか、ハッピーロードって名前、恥ずかしくねえ?」
 「屋根が付いてるほかに、メリットなくない?」
…いえ、ここ江古田も飲み屋だらけですよ。そして、「江古田銀座」っていう商店街名は、「ハッピーロード」以上に恥ずかしいんじゃないかと思います。屋根もないし。
 東京人の話って、わけわからないですよ。あと、東京弁の否定疑問文「…なくない?」って、YESで答えるべきなのかNOで答えるべきなのか、いまだにさっぱりわかりません。たぶん、いずれの場合も「ですよねー」って言っておけばいいのだと、習慣的に学んだのですが、いいですよね。っていうか、それでもう、よくなくない?

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 数週間前から、国会裏のある銀杏の木に張られている注意書き。カラスも国交省もたいへんだなあと思いながらも、つい笑ってしまいます。
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 国会裏の銀杏の木々。黄色の葉がまぶしすぎて議事堂が見えなかった季節のあと、枝だけになった木々の後ろに議事堂がはっきり見える日々が何ヶ月も続いたかと思うと、最近では、建物がすっかり覆い隠されるほどに緑がわさわさと生い茂るようになりました。
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 2週間前は、まだこんなだったのに。落葉樹ってすごい。季節ってすごい。


 昨日、チャツネを買うためにデパ地下に行ったら、カレーコーナーの広さに唖然としてしまいました。
 東京人はこんなにカレーが好きなのかと。
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 でもよく見たら、まるで書店の本棚のように陳列されている商品の大半は、箱入りのレトルトカレー。スパイスも特に珍しいものはなかったし、チャツネは1種類しかありませんでした。
 東京人はこんなにレトルトが好きなのかと。

 東京って、「人が一人で生きていけるところ」です。
これは、マニラの職場で1年間だけ一緒だった同年代の女性の言葉ですが、ほんとうにその通りだと思います。
 東京ってそういうところです。ほかの場所とは比べることができない、そういうコンテキストが存在していると思います。
 マニラは、一人で生きていけない街でした。
 大都会だし、多国籍料理のレストランもファッションモールもたくさんあって、日本の感覚ではわずかなお金さえ出せば何でも手に入るから、数週間くらい住むにはいいところです。安くて活気ある「東南アジア」の空気を楽しみながら、快楽的で開放的な生活をすることができます。手軽に私が3年間住んでいたエリアは歓楽街のすぐ近くでしたから、24時間営業のカンティーン(食堂)がいくつもあり、どんな真夜中でもできあいのお惣菜が手に入りました。毎朝の出勤途中には、カットされたパイナップルやパパイヤやメロンを屋台で安く買うことができました。
 でも、マニラは、一人で住むことができない街でした。それがなぜなのか、いまでもわからないままですが、マニラに住んでいたときは、とても淋しくて、心身が常に枯渇しているような気分でした。自宅があまりに広すぎたせいかもしれませんが、それだけではなく。

 東京は、一人で、そこそこ幸せに暮らせる街です。たぶん。

 私の尊敬する友人(東南アジア在住)が、4月のはじめから日本に一時帰国しています。東京都心での勤務も政治的業務も経験し、「東南アジア帰り」かつ「田舎者」でぜんぜん東京に馴染めない私を、ことあるごとに励ましてくれていた彼ですが、先日、こう言っていました。
 「やっぱり、俺には日本は無理だよ。」
…まあ、そうですよね。私もずっとそう思っていたし、いまも、心の片隅ではそう思っています。
 でも、どうにかなっているんですよ、これが。不思議でたまらないのですが。

 昨年末にたまたま、タイ勤務経験のある官僚の方と雑談をしていたとき、
 「sagingさん、前職はフィリピンだそうですが、何年くらい?」
と訊かれ、
 「通算6年とちょっとです。」
と答えたら、
 「6年ですか…。よく日本社会に復帰できましたね。しかも、そんな仕事に。」
 「私は3年でしたが、日本がきつくて。早期退職してタイに戻りたいですよ。」
と、しみじみ言われました。(「きつくて」って言いながらもその方はバリバリのキャリア官僚で、きわめて責任の重いポジションで、霞ヶ関で超多忙な日々をお過ごしなのですが、でも、いつもセンスのいいジム・トンプソンのネクタイをされていて、きっとタイが大好きだったんだなあ、と思います。)

 たしかに日本は(特に東京は)、生きにくい場所なのかもしれません。私はあいかわらず地下鉄が苦手で、気分とその日の服装によっては自転車で通勤することもしばしばです。それでも私は、ふたたび日本で生活することを(そしてよりによって東京で生活することを)好きになりつつあります。
 もちろん、マニラに住んでいた頃のようにはいきません。知り合いの喫茶店に寄るような気軽さでライブハウスに行ったり、いろんな人と気ままにデートしたり、週末にふらっとダイビングに行ったり、仕事帰りにふらっとお芝居やミュージカルや映画を観に行ったり、未明まで飲んで気軽にタクシーで帰ったりはできません。日本のライブハウスは一人で行きにくいこときわまりないし、好きなアーティスト以外は日本の曲ってあんまりいいと思えないし、お芝居は高すぎるし、タクシーなんて絶対乗れない。野菜も果物も高価でびっくりします。
 でも、東京で暮らしていて、この日常が幸せだなあと思う瞬間は、たくさんあります。
 毎朝、木々の緑や沿道の花を眺めながら駅に向かうこと。南国ではいつも何かしら色鮮やかな花が咲いていたから、花が咲くことがこんなに嬉しいなんて思いもしませんでした。
 数日ごとに劇的に変化するデパートやモールのブティックのディスプレイを見て歩くことも、休日に永田町から日比谷公園を通って銀座まで散歩して、銀座を歩く人々の半端じゃなく美しいファッションをみることも、東京ならではの幸福だと思います。
 大型書店で好きなだけ本を吟味するひとときも幸せです。
 仕事帰りのジムも至福のひとときです。大きな窓越しに夜空の見えるプールで泳いで、ストレッチをして、ジャグジーに入って、シャワーを浴びて、大きくて明るい鏡を使って…。この快楽に慣れすぎた私は、いまだに、自宅のユニットバスでお湯をはったことがありません。
 翌朝早起きしなくていい週末の晩、ジムでたっぷり泳いでから、帰宅してワインを飲みながら遅くまで本を読むのも、最高級の幸せです。
 休日の朝、今日は仕事に行かなくていいんだーと思いながら村上春樹をちょこっと読んで、その日本語のクールさに酔いしれるのも、やはり最高級の幸せです。外国にいたときも村上春樹の文庫本は常に何冊か持っていたのですが、外国生活中に読むのと日本生活中に読むのとでは、感じ入る箇所がまったく違うのです。

 先週、北海道の方から、舞茸と、アスパラガスをいただきました。どちらも、見たことがないくらいに大きくて立派でした。
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 舞茸は、半分は豚肉と炒めて、そして、半分は山菜と煮物にして、3日くらい楽しみました。(本当は天ぷらがお勧めだそうなのですが、我が家には電気コンロしかないのです。)
 アスパラガスは、シンプルに茹でて、塩とマヨネーズでいただきました。こんなに大きいのにあっというまに火が通って柔らかくて、本当に美味しくいただきました。
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 どこの国のどんな地域でもそうですが、地元の方が勧めて下さる食材って、本当においしいものです。

 2週間前の週末、とてもお天気が良かったので、友人に勧められた「愛宕神社」と「NHK放送博物館」に行ってみました。
 休日の虎ノ門エリアは、人も車も少なくて落ち着きます。
 桜は終わっていましたが、葉桜も好きです。緑が出てくるだけで、素晴らしい。
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 「NHK放送博物館」――素晴らしかったです。2.26事件からイラク戦争開戦までの「歴史的映像」が11分のダイジェストで見られるほか、「初めてのラジオ体操」とか「玉音放送」とか、現天皇のご成婚パレードとか、東京オリンピックとかの白黒映像を繰り返し観ることもできます。両親の昔話に出てくるラジオドラマ「君の名は」も聴けますし、代表的な過去の「みんなのうた」も聴けます。過ぎ去りし昭和を、めいっぱい懐かしむことができました(といっても私は昭和を10年も生きてはいないのですが)。
 映像のパワーは強烈です。私が意識的にTVを避けるようになったのは9.11以降だと思います。映像って、観るだけで衝撃を受けてしまいます。
 フィリピンで働いていたときも、いまも、職場では常にニュースか議会中継をつけていますが、私はもともとTVが好きではなく、自宅ではほとんど観ません。日本の常識についていかなくちゃと思って無理やりつけても、民放の討論番組なんて観ているだけで苛立って、すぐ消してしまいます。
 特に今回の震災後は、自宅では、できるだけTVをつけないようにしていました。
 それなのに。NHKの誇る「歴史的映像」の数々には、不覚にも心を動かされてしまいました。思わず、『あなたと作る時代の記録 映像の戦後60年』のDVDを買おうかと逡巡してしまいました。
 帰りには愛宕神社にお参りし、近くのチーズ専門店で、Queso de Murcia al Vinoという山羊のチーズを買いました。しっかりとした山羊チーズ風味なのにヨーグルトのような酸味が前面に際立っていて、とても美味しく、感激しました。東京って、何でも手に入る街ですね。

 
 自宅に持ち帰った仕事がどうにも終わらない平日の未明、ふと、ライブハウスに行きたくなって、Noel CabangonやCynthia AlexanderやJess Santiagoの歌声が聴きたくてたまらなくなって、MP3ウォークマンに保存している数少ない彼らの曲をひたすらリピートしたり、YouTubeでライブ映像を検索したりしてしまいます。
 マニラがとても懐かしいし、帰りたい。でも、ひとりで生きられないあのマニラという街でのいろいろな苦悩と、なんだかんだ人が多くて大変な東京で生活する小さな幸せは、たぶん、相殺しあってプラスマイナゼロくらい。

 きっと、それも幸せのひとつなのでしょう。
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by saging | 2011-04-30 22:38 | 仕事('10年~)
日本帰国・新しい仕事
 通算6年以上お世話になったマニラを7月いっぱいで離れ、その後2週間のバンコク滞在を楽しみ、1週間前に日本に戻ってきました。
 そして、新しい仕事が決まりました。とても尊敬する国会議員の秘書として、永田町と●ヶ関の両方で勤務することになります。もともと私が議員秘書になりたいと思うようになったのは、以前の職場にいたとき、●ヶ関と国会議員の力関係に強く関心を抱いたから。ですから、その両方を見ることができるであろうこの仕事に、わくわくしています。永田町は未知の世界ですが、●ヶ関には以前の職場でお世話になった方々があちこちにいらっしゃるので、心強く感じます。
 数日のうちに、東京での新しい住居も決めることになります。ほとんど生活用品を持っていないので、最近は日本でも増えつつある「家具・家電つき物件」を限定で探しています。フィリピン研究者の友人の皆さまはご存知かと思いますが、私が2年前までマニラで住んでいた部屋はコンドミニアムの39階、家具・家電つきで90平米(家賃約11万円・自己負担額1割強)でした。それは極端にしても、先日までマニラで借りていた部屋は家賃約2万円で家具・家電つき45平米でしたから、東京のワンルームの価格と間取りには、ただただ、びっくりです。
 初めての永田町、初めての東京生活、それ以前に久しぶりの日本での生活。慣れるまでにはすこし時間がかかるかもしれませんが、ずっとやりたかった仕事なので、とにかく、がんばります。
 きっとやっていけるはず。ここ3年くらいずっと怖かった新幹線(速すぎる)にも地下鉄(深すぎる)にも、最近では平気で乗ることができるようになりました。いえ、そんなの当たり前のことなのですが、そんなふうにひとつずつ慣れていけると思います。
 しばらくはフィリピンともタイとも離れてしまいますが、これからも研究は細く長く続けたいと思っています。そんな欲張りな、と言われるかもしれないけれど、11月の国際フィ●ピン研究学会でも報告させていただく予定ですし、論文も書いています。
 研究者の皆さま、友人の皆さま、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

※※※

 勇ましい(?)言葉はここまで。
 以下は、バンコクから日本に戻ってくる直前に書いた文章です。読み返して、あまりにウダウダで気弱なのでアップしませんでしたが、いま書いておいたほうがいい気がするので、以下に貼り付けます。

 ※※※

 先日、通算6年間のフィリピン生活を終え、文字通りマニラから引き揚げてきました。最後の2週間は1日6件以上もアポを入れ、友人・知人へのご挨拶とディスペディーダ(お別れ会)三昧。名残惜しいのに慌ただしくて、時間はあっというまに過ぎてしまいました。
 いまは、日本に戻るまでの束の間のひとときを、バンコクで過ごしています。一応は調査が目的ですが、比較的ゆっくりしたペースでアポを入れ、友人たちに会い、タイ式マッサージの新たなライセンスも取得!
 渋滞のひどさをうっかり忘れてタクシーに乗ったらまったく動かなくなり、あきらめてラジオに耳を傾けていると「デデンデデーン、デデンデデーン」と、聞き覚えのある「でんでん太鼓みたいな音楽」が。そう、これは赤シャツ組の歌(デーンはタイ語で赤)。かかっていたのはラジオではなくて、赤シャツのサウンドトラックCDだったのでした。勇ましい音楽とは対照的に控えめに微笑む運転手が「別のもあるよ」と差し出してくれたのも、全部赤シャツCDばかり。結局ローテーションで2回くらい聴く羽目になりましたが、運賃のおつりは1バーツ単位でちゃんと返ってくる…そんなバンコク。とてもいいところです。

 明日、日本に帰って、そう遠くないうちに新しい仕事に就くことになると思います。念願かなっての就職のはずなのに、不安ばかりが増幅。
そして、フィリピンにもタイにも次はいつ行けるのか見当もつかないから、センチメンタリズムが一層加速されます。

 1年4ヶ月前に前の仕事の契約を終えて日本に帰ったとき、私はなんだか気が抜けたようになってしまって、前の仕事での自分を後悔ばかりしていて、そして久しぶりの日本に馴染めなくて、3年分の貯金額とは裏腹にただ不安で、もう二度とまっとうに社会で働くことはできないかもしれないと思っていました。特に、日本で働ける気がしませんでした。
 幸いなことに、私は当時まだ大学院に籍がありましたし、その数ヶ月後からはフェローシップで1年間、タイとフィリピンに滞在できることになっていましたので、この1年4ヶ月の間はずっと、無職のままで来ることができました。その間にちゃっかり博士論文も提出させていただき、恵まれた環境に包まれたまま、長い長い自由を堪能しました。
 この1年間、フェローシップでの研究活動をしながらも私がずっと考えていたのは、このフェローシップ期間が終わる2010年8月までにいかにして社会に復帰する自信をつけるかということでした。
 いえ、決してそんなにまで自信を失っていたわけではなく、いざとなればきっと普通に働けるとは思ってはいたのですが、確信がほしかったというか、不安から解放されたかったのです。私の不安はここ数年でどんどん膨らんでいて、3年くらい前には、日本の新幹線は速すぎて怖く、地下鉄は深すぎて怖いと思うようになり、一人では乗れなくなりました。そんなことで、まともに日本で仕事ができるはずがありません。
 1年のうちに、そうした問題をなんとか解決しなくてはならないと思っていました。
 そのために私がしたことは、心身ともにとことん健康的な生活の追求でした。私はもともとかなり健康なほうなのですが、前の職場で働いていたときはとても不規則な生活をしていて、特に最後の数ヶ月は、朝も昼も何も食べずに夜はジンか焼酎で睡眠薬を飲んで眠る、というような日も多く、いろいろなことがダメになっていました。それでも仕事はこなせたし、もともとお酒には強いから朝6時まで飲んでも7時には出勤できたのですが、このままでは取り返しがつかないことになるし(っていうか破滅まっしぐら)、そうした自堕落な生活が自分の果てしない不安の一因になっていることは明らかでした。

 昨年8月にフェローシップが始まり、最初の2ヶ月はまず、マニラに滞在することになりました。もう二度と外国で一人暮らしなんてできないと思っていた私は知人宅にホームステイをお願いしました。そして、それまでのすべての悪習慣を断ち切るべく、フィリピン人並みの早寝早起きを励行し、温かい家族に囲まれて過ごし、朝6時からスポーツジムに通い、インストラクターと栄養士の指導のもと、マニアックに健康増進を目指しました。もちろん、友人と会うときを除いて禁酒です。
 その後、昨年10月から今年3月まで滞在したバンコクでも、知人宅にホームステイをさせていただきました。ベッドも共有で、プライベートな空間はゼロに等しかったのですが、プライバシーより不安からの解放を求める私にはまたとない環境でした。そしてまたこのホストファミリーが、早寝早起き、ほぼ菜食、朝は豆乳・夜はフルーツを欠かさず、冷たいものは摂らない、飲み物は常にハーバルティー、といった超健康志向で、内面は熱いのにいつも穏やかな、非常にタイ的な活動家ファミリー。調査どころか日常生活レベルのタイ語もままならなかった私ですが、彼らはすべて受け入れてくれました。実り多く、幸せな6ヶ月でした。
 そのおかげか、今年4月に再びマニラに戻った私はかなり元気で、炎天下の選挙キャンペーンも、豪雨の下のフィールドワークも、友人との徹夜もばっちり。20代前半の頃の体力に戻ったかと思われるほどでした。実際は30歳なのだから当たり前のように体力の限界も浮き沈みもあるわけですが、やっと、自分の状況を自分で把握し、予測し、コントロールできるようになってきました。再び、週5日は朝6時からジムに通い、信頼できるインストラクターのもとでトレーニングを行い、さらなる体力向上に努めました。
 その結果、この4ヶ月のマニラ滞在は本当に充実していました。調査自体が心からおもしろかったし、人と会うことが楽しかった。前の職場にいたときに知り合ったフィリピンの方々にも、本当に良くしていただきました。私は勝手に、以前の仕事のカウンターパートは、あくまでも仕事上の付き合いであって、「限りなく無職に近い自称研究者」に戻った私の相手なんてしてくれないのだろうな、と思っていたのですが、そんなことはなく、皆、無職になった私と、友人として付き合ってくださいました。そのことがとても嬉しくて、一番力づけられました。

 新たな問題は、フィリピンとタイが心地よすぎたこと。
 特に、友達は20代の半分以上を過ごしたフィリピンに集中していて、弁護士、医師、薬剤師などのプロフェッションをもつ知り合いもたくさんいて、何かあったらいつでも相談することができます。調査地のスラムに行けば電化製品修理のプロ、裁縫のプロ、洗濯のプロ…といった草の根の専門家ばかり。何が壊れても大丈夫。銀行だって両替商だって旅行代理店だって郵便局だってコピー店だってぜんぶ行きつけで、みんな顔見知りで、携帯電話番号も交換しているくらいです。困ることなんてほとんどない。隅々まで張りめぐらされたセーフティネットの中で生きている感じがします。マッチョで優しいフィリピン人とのLove Lifeも楽しいし、お芝居もコンサートもライブバンドも格安で楽しめるし、いつも、とても豊かな生活を享受していました。
 タイも楽しかった。夜遅くなったときなどはたまに興味本位で、便利な場所にあるバックパッカーや「外こもり」の方々の泊まる1泊200バーツ(約600円)の安宿に泊まって、旅行者のふりをして宿泊者のお話をきいたり、ロビーのギターを練習したりして、「私も外こもりしたいなあ」と思いました。(いえ、私だってすでに半分くらい外こもりだったのですが…。)
 決していつも「フィリピン大好き」、「タイ大好き」と思っているわけではないし、不便だし不衛生だしゆるすぎるし、腹の立つことはたくさんあるのですが、私があの「ゆるさ」を生きやすいと感じていることは事実です。

 日本はシステマティックで洗練されていて生活しやすくて、帰国のたびに感動してしまいます。でも、医師の友人も弁護士の友人も、電化製品を直せる友人も思い当たりません。銀行でも郵便局でも普通の店でも、なにかと話しかけづらい感じがします。2年前、休暇でフィリピンから日本に帰ったとき、自分の銀行口座から現金を引き出そうとしてATMマシンにフィリピンの銀行口座の暗証番号を何の躊躇もなく入力すること3回。安全ロックが作動し、それっきり使えなくなりました。後日、恥を忍んで窓口で手続きをして、新規暗証番号を登録していただきましたが、あれ以来、日本のATMを使うたびに緊張します。そもそも私の貯金の9割はフィリピンの銀行のドル口座に入っているので日本円の残高はこころもとないし、フィリピンではカードを使うことなんてほとんどなかったから気が付けばカードの利用限度額は大学生レベルの「月10万円」のままだし…日本での生活を築くための基盤が、そもそも、とても脆いのです。電車の路線も複雑だし、人々はよそよそしいし、日本での生活を考えると不安になることがよくあります。

 日本には当分戻らないことにして、フィリピンで、あるいはタイの日系企業あるいは日系の組織に就職するという選択肢も、ずいぶん考えました。実際、そんなお話をいただいたことが何度もあり、本当に感謝しています。
 でも、私は日本に戻って、日本で働いてみたいのです。
 念願の議員秘書になりたいから、というのはもちろん理由の一つ。昨年脳溢血で要介護者になってしまった父と、そして家族と、できるだけ近いところにいたいから、という理由もあります
 そしてもうひとつの理由は、このタイミングでいいかげん日本社会に戻らないと、このままずっと戻れないかもしれないから。
 私はいまだに、マニラでの前の職場で自分が満足に職務を遂行できなかった、という思いを消すことができないのです。努力したし、内からも外からもまあまあの評価は得ていたし、もちろん仕事に穴をあけたことは一度もないし、博士論文の土台となる研究活動もできたし、傍から見ればむしろ順調に見えたと思うのですが、私はいつも自分のパフォーマンスに満足できず、自分自身の状況は良くありませんでした。
 今年6月にマニラのデ●サール大学の政治学部で講義をさせていただいたとき、前の職場の幹部が聴講に来てくださいました。2年くらい前、すべてのことがうまく回らない時期があり、私はある日、勢い余って、7枚綴りの手紙を彼に提出したことがあります。(どれだけ大人げないのって話ですが、当時のコンテキストではそうするしかなかったのです、たぶん。)…いろいろご迷惑をおかけし、その後もいろいろなことがあり、一時はかなり気まずいことになっていたのですが、なんとか再びご挨拶させていただけるようになりました。そして今回、彼は私の講義を聴きに来てくださり、事後のレセプションにも参加してくださいました。先方の大学の先生方は思わぬゲストの出席に大喜びで、
 「sagingは、研究に理解のある素晴らしい上司に恵まれていて、だから、働きながら博士論文が書けたんだね。」
と口々に言っておられて、私はただ、自分を恥じるばかりでした。
 私はもっと努力できたはずなのに、どうしてあんなに不満と不安ばかり感じていたのだろう、と思って、そのたびに、自己嫌悪に陥ります。どうしてあのときもっとうまく立ち回れなかったのだろうとか、3年間もマニラに住んでいて自分は何をしていたんだろうとか、仕事も研究ももっと頑張れたはずなのにとか、そんな思いが募るばかり。とにかく、いろいろなことがうまくいかない3年間でした。そしてそのことが、自分の周りにいつも漂う不安感につながっているのだと思います。

 …ただ、ここ数ヶ月、タイでもフィリピンでも、ちょうど、自分が以前にいた組織の類似のポストで仕事をしている友人と親しく話す機会が何度もあって、私は彼らと話すことで、自分の過去の問題点を少しずつ具体的に振り返れるようになりました。話を聞く限り、彼らの上司はなかなかの暴君で、仕事の量も内容もハード。私は当時、自分の上司のことをそうとう無茶な人だと思っていましたが、彼らの勤務環境はそれとは比べ物にならないくらいきつそう。でも、私が彼らを尊敬するのは、彼らが日々のきつさを超えて、現状をきちんと分析し、愚痴ではない言葉で話すことができる人たちだからです。
 「うちの上司がね…。自分の時間もなくて、大変なんですよ。」
なんて話だったら誰にでもできるけれど、彼らはそうではなく、雑務や上司の暴言のなかに組織の論理を見出し、忙しい仕事のなかでも課題を見つけ出して自分の研究テーマに結びつけています(お二人とも研究者)。彼らと話していると私は自分の何がダメなのかを具体的に考えることができて、とても建設的になれるのです。
 いまでも自信はないままだけれど、彼らと話すことをきっかけに、少しずつ、自分の問題点を「総括」できるようになって、もう一度日本の組織で働きたい、挽回したい、という気持ちが強く起こってきました。そんなにうまくはいかないかもしれないけれど、少なくとも以前よりはうまくできるはず。
 マニラのTさん、バンコクのMさん、二人とも絶対ここは見ていないと思うけれど、本当にありがとうございました。

 フィリピンに、あるいはタイにずっといれば、「ゆるく」、「不安の少ない」生活ができるのかもしれません。でも、それでもきっと将来への果てしない不安は消えることがないし、不満だってきっと消えることはありません。どこにいて何をするにしても、不安を飼いならし、不満を昇華(消化ではなく)していくしか道はないのでしょう。
 マニラを離れる直前、前の職場を訪問し、かつてお世話になった方々にご挨拶をさせていただいたとき、私が一番ご迷惑をおかけしたある方がこう言ってくださいました。
 「あなたは、こんなに恵まれていたこの職場にいたときですら不満や不安があったんでしょう。次の職場では、そうとう頑張らないといけないと思いますよ。僕には、あなたが日本で通勤電車に乗って仕事に行くという状況が想像できない。日本にはFX(乗り合いタクシー)はないんですよ。もう、新幹線が嫌だから夜行バスで移動とか言ってられないんですよ。」
 このように言ってくださる方がいるのは、幸せなことだと思います。恩返しのためにも、頑張って、いい仕事をしたいと思います。

 「Congratulations! 君ならどこででもやっていけるよ。」
といって送り出してくれた楽天的なフィリピン人、タイ人の友人たちの言葉にちょっと励まされながら、そして、
 「きっと、きついよ。」
 「まあ、もしダメだったら、いつでも帰っておいで。こっちでアパート探しておいてあげるから。タイでもフィリピンでも、きっと仕事はあるから。」
そう言ってくれる在タイ、在フィリピンの日本人の友人たちにだいぶ励まされながら、明日、日本に帰ります。本当にありがとう。きっと大丈夫。がんばりますよ。
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by saging | 2010-08-22 02:50 | 仕事('10年~)