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Keso de Bola とは、 「表面は赤いのに中は黄色い」フィリピンのボール型チーズ。転じて日和見主義者。 かつてお世話になった、現地の言葉で「灯台」と呼ばれるマニラ湾岸のスラムを、ガラス越しに。
by saging 管理人sagingより
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2010年 08月 30日
フィリピン最後の晩は、4月からの4ヶ月の私の調査に多大なご協力をいただいた、5月のパシグ市長選で敗れた左派活動家Ric Reyes兄の60歳の誕生パーティー。
![]() 左派A●BAYANの元幹部なのに、中間層の活動家らは一人も招かず、パシグ市で彼のキャンペーンに奔走した貧しくて進歩的な人たち(各種左派からマ●ダロ・グループまで)のみを招き、地元パシグの質素な建物の屋上で開かれたパーティーは素敵でした。私がフィリピンを離れる直前に、調査に協力してくださった方々と一度にお会いできたことも、とても良かったです。 Ric兄のキャンペーンの中枢にいたのは、とある芸術グループのAさん。この芸術グループは、歌って踊れてギターが弾けて絵が描けてコントができる人々を集めており、政治団体(おもに左派系グループ)からの依頼を受けて、デモのステージで即興で歌ったり、ラップやコントをやったりしているプロ集団です。(もっとも、フィリピンのデモで使われるすべてのパフォーマンスがこうした雇われプロによるものだというわけではありません。) 現在39歳のAさんは10代のころからこのグループに所属し、途中で6ヶ月間エンタテイナーとして日本に出稼ぎに行った(!)以外は一貫して政治運動および芸術活動をやってきたそう。パシグ市とは縁もゆかりもないものの、Ric兄から依頼を受け、今回の選挙戦にはマネージャーとして参加。そのたぐいまれなるエンタテイメント精神でキャンペーンを大いに盛り上げつつ、キャンペーン会場との調整や電話かけなどの泥仕事も黙々とこなしていました。私は選挙期間中ずっと、彼がひたすらにロジスティックな仕事をしているところしか目にする機会がなかったので、キャンペーン最終日の演説会で彼がギターを抱えてステージに上がり、現パシグ市政を痛切に皮肉る歌を歌った姿に、心底びっくりしました。めちゃくちゃうまい! あんな有能なエンタテイナーを6ヶ月で帰しちゃうなんて、日本はなんて惜しいことをしたんでしょう。 パーティーではAさんが、「選挙キャンペーン中の知られざる秘話」、「みんなの知らないRic兄のプライベートな生活」、といったテーマでコントを披露。キャンペーン中の些細な言い争いや色恋沙汰の噂をネタに小話をつくり、人々の口癖や物真似などを盛り込んで、ネタ帳をほとんど見ずにさらさらと話す様子に、皆、ゲラゲラ笑っていました。「われわれ」の実体験に基づいているぶん、TV番組のコントよりずっとおもしろい。あんなに楽しめるパーティーって、なかなかないですよ。 ![]() それに触発されたのか、キャンペーンに参加した人々が順番に前に出て、キャンペーンでの思い出話やこぼれ話をおもしろおかしく語りました。私も。「日本語でしゃべれよ! Aさんが通訳するから!」と言われてちょっとだけ日本語で話してみたらAさん、本当に通訳してくれました。たった6ヶ月の日本滞在なのに…このひと、天才です。 その後は、タンドゥアイとエンペラドールでエンドレス。 「ねえ、俺たち、怖い? それともかっこいい?」 私のインタビューさせていただいたマ●ダロ文民グループのアホな兄ちゃんたち(いつも迷彩服を着ている)に絡まれながらアホな話をしつつ、夜は更けて行きました。まるで、スラムの日常をそのまま持ってきたような風景。でも、バックミュージックはずーっと、Aさんのお気に入りのPatatagのCDでした。 2009年 09月 16日
タイのNon-Immigrant Visaを取得するための必要書類を、バンコクでお世話になるチュラ●ンコン大学の研究機関から送っていただいたので、さっそく、ビザの申請をすることにしました。
ビザ申請なんて面倒な仕事はできれば一度で済ませたいものなので、私はもちろん、在フィリピンタイ大使館に事前に連絡し、ビザ取得に必要とされる書類を確認しました。その中で言われたのが、4cm×6cmの顔写真。ずいぶん縦長な、と思いながら、下宿から徒歩1分の写真屋さんに行き、 「4cm×6cmのID写真って可能ですか?」 と訊くと、 「もちろん!」 とのお返事。心配になって、 「4cm×6cmですよ? インチじゃなくてセンチメーターですよ?」 と確認すると、受付の女性はたいへん面倒そうに、 「これでしょ。Don’t worry!!」 と、ID写真の実物見本と価格表を出してきてくれました。そこには「パスポートサイズ」、「運転免許所サイズ」と並んで、”Saudi Visa Size 4cm×6cm" の見本が。サウジアラビアのビザってそういうサイズなのね~。 お願いすると、たちまち別の方向から、 「Saudi Visaの方、奥の部屋へ~!!」 との大声が聞こえてきて、受付の女性は「あなたの番よ」と、奥のドアを指差します。並んでいる人たちは一斉に私に注目。恥ずかしすぎます。 「奥の部屋」は広いのですが、なぜか中央に大きな鏡が置いてあり、一心不乱にお化粧する老若男女の姿が!! 皆さん、持ち込みのファンデーションや口紅やヘアジェルを駆使しながら、一斉に鏡に向かっています。唖然として辺りを見回すと、 「準備ができたら、このボタンを押してください。スタッフがまいります。」 と書かれた張り紙が!! そう、この人たちは、写真を撮られるための「準備」をしていたのでした!! 鏡の前には、”for rent”と書かれたヘアブラシとベビーパウダー。(フィリピン人は、老いも若きも、しばしばファンデーション代わりに顔にベビーパウダーをはたきます。本当ですよ!!) 私がボタンを押すと、ほどなくしてスタッフが入ってきました。 「マム、ブレザーを選んでください。」 …そう、このスタジオでは、ブレザーを貸してくれるのでした。サイズも色もさまざまで、これさえあれば、下はTシャツでも「襟付きの服」を着て撮影できるというわけです。どうりで、ID写真を撮りに来たにしてはやたらカジュアルそうな服装の人たちがいると思っていましたよ…。でも、貸出ブレザーの色はなぜか、黄緑とかピンクとか、ど派手でした。大阪のカラオケ喫茶じゃないんだから…。私はすでに襟付きブラウスを着てきたのでお断りして、とにかく、撮っていただきました。スタッフはデジカメで5枚も撮った挙句、 「どれがいいですか、選んでください。撮り直しも可能です。」 とのこと。一昔前のプリクラみたい。 私がその部屋を出るとき、老若男女はまだ、一心不乱に鏡に向かっておられました。…ほんとに、フィリピン人ってナルシストです。 さて、タイ大使館領事部。受付担当は英語の堪能そうな、フィリピン外務省にいそうなタイプのフィリピン人男女。よかった、とりあえずは英語もタガログ語も通じそう。私は安心し、ビバ・フィリピン人スタッフ!と心の中で叫びました。勝手なものです。 番号札をもらって待つこと2時間。まあ、以前の在マニラ日本大使館のことを思えばはるかに良い環境ですし、私は持参した本を読んでいたのでぜんぜん飽きなかったのですが、そうでない人にとって、2時間の待ち時間は過酷だったようで、窓口に苦情を申し立てる人多数。 「あんたたち、どうしてそんなにくだらない書類ばかり追加的に要求してくるの!? 前回はこれでいいって言ったじゃない! タイに幻滅だわ。シンガポールだってマレーシアだってこんなひどくなかったわよ!」 「総領事に会わせなさい! 抗議してやる!!」 と英語で怒鳴る白人女性も何人か。逆にフィリピン人は、決して激昂せず、あくまでも “Opo, sir, opo…. Sir, sir…” と素直なのですが、なんだかんだと窓口で15分くらい粘る人もいました。だから時間がかかるんですね…。 やっと私の番がくると、万全に用意していたはずなのに、事前に確認していたのとはまったく別の、「タイからの書類にサインした人物のThai National IDのコピー」が必要だと言われました。 「そういう重要なことは前回言ってよ!」 と心の中で思いましたが、そこは我慢します。しかも、窓口対応フィリピン人スタッフったら、NRCT(外国人がタイで研究をする際に許可を得なくてはならない政府機関)からのレターを指して、 「これにサインした人物のIDのコピーが必要です。」 と言うのです。 「これはNRCTの書類で、NRCTって国家機関ですよね。これにサインした人物って、NRCTの課長級でしょ? だったら、IDを提出するまでもないのでは? または、私の所属機関であるチュラロンコーン大学からの私のVisaをエンドースしてくださった大学機関のこの教授のIDということですか?」 と私が訊くと、 「あ、そうそう。この教授のIDです。」 しっかりしてくださいよ…。一応はビザ用語に慣れている私だからスムーズにいったものの、ビザ申請に慣れない留学生などだったら、このスタッフの一言に翻弄されてNRCTに連絡をして、「そんなの知らない」と言われて、右往左往して…と、たいへんな時間のロスになるはず。ひどすぎ! 以前だったら私も白人女性と同様に罵声を浴びせたと思うのですが、きっといまこの瞬間にも、我が国の大使館(というか入国管理局)は特にフィリピン人に対しては同じような条件をつけているのでしょうし、フィリピンの入国管理局はもっともっともーっとひどいし、そもそも、役所ってそういうところ。最近、在フィリピン日本大使館のビザ発給不祥事も表ざたになったことだし、あまり他国ばかり責められません。 「…ほかに必要なものはありますか?」 「あとは、ビザ申請料2800ペソのみです。」 …前回問い合わせたときは「申請料は申請時ではなく受け取り時に必要」って言ったじゃない…。 「わかりました…じゃ、また明日来ますね、Thank you, Sir!!」 と、窓口のフィリピン人職員に笑顔で言った私は、ヤクニン社会に侵されてしまった「事勿れ主義者」なのでしょうか。 ちなみに、ビザ申請書には「3cm×4cmの顔写真を添付のこと」とありました。4cm×6cmじゃなかったの!? 窓口でそのことを尋ねても、 “Ma’am, it’s ok!” とのこと。It’s OKじゃなくてさ、どっちなの!? (フィリピン的文脈からは、おそらく、「4cm×6cmでOK!」という意味なのだと思います。) 翌日、指定された書類を持って出直し。途中、ビザ申請料(2800ペソ)を下ろすためにATMに寄ると、機械に向かう私の後ろにぴったりはりついてくる中年の女性が。フィリピンでは、他人がATMを操作しているときに平気で後ろや横から画面を覗いている人に遭遇します。多くの場合は決して悪意があるわけではなく、単なる好奇心のようなので、まったく、困ってしまいます。 「あのー、もうちょっと離れていただけますか?」 と、私は丁寧に言ったつもりだったのですが、彼女のお気に障ったらしく、 「プライバシーを気にするなら窓口に行けばいいじゃない!」 そうきますか…。彼女の脳内の辞書にはプライバシーという語彙がちゃんとあるのですね。だったら覗かないでいただきたいのですが。彼女は、 「バストス! バランガイに訴える!」 ”Wala naman mangnanakaw dito!” と言い捨て、ガードマンに言いつけにいきました。バストスはあなただって! Kahit walang mangnanakaw, may mangloloko pala katulad mo! って心の中で悪態をつきました。 そしてタイ大使館に行くと、書類は受け取ってもらえたものの、 「申請料は今日は要りません。領事が書類をチェックしてビザの種類を正式に決定してから、申請料の金額を電話で連絡しますので払いに来てください。」 とのこと。とりあえず受け取ってもらえたのだからほっとしていますが、もしかすると、申請料の支払いとビザの受け取りで、最低でもあと2回は足を運ばなくてはならないということ? 私の下宿はタイ大使館に比較的近いからいいけれど、ケソン市居住者だったらブチ切れそう。 本当に毎度のことながらフィリピンのダメっぷりといい加減さには心底辟易…と言いながらも、きっとフィリピンとたいして変わらないであろうタイに勝手に期待し、 「まあ、変わらないといったら、役所なんて所詮、日本も変わらないって!」 などと勝手なことを思いながら、フィリピンとタイの織りなすこのなまぬるい雰囲気のハーモニーを、ちょっと楽しんでいる私です。期間限定なのでしょうね、こういう心地よさは。 2008年 10月 12日
先週帰国した折、F大学で、人生初の「講義」を担当させていただきました。
私は過去の研究会発表や学会発表と同じように、パワーポイントを駆使して、写真を多用しました。そしてもちろん、フィリピン研究者に必須の「エンタテイメント要素」も、あちこちに織り交ぜておきました。 従来の「受動的」で「無知」で「かわいそう」な貧困女性のイメージを覆したくて、とびきり明るい「お祭り選挙」の写真を何枚も見せ、選挙期間を通じて貧困層の目に映っているものはお金だけではなく「いつか使えるかもしれない、そして今後自分が社会上昇できるかもしれない『情報』」だということを強調し、貧困層がいかに賢く選挙を利用しているか、というお話をさせていただきました。 フィリピン研究会やフィリピンの学会でなら、比較的すんなりと受け入れられる私の仮説。しかし、フィリピンはおろか、スラムを訪れたことすらなく、日本を出たこともなく、ともすれば日本の「選挙」を経験したこともない学生さんに対してそれを語ることは、ある意味「無茶」だったかもしれないと、途中から思い始めました。だって私の議論って、ともすれば「貧困層のロマン化」につながりかねない危険性を常に孕んでいるのですから。 1時間きっかりの講義を終えてから、自分の言葉足らずを反省していると、そこをきちんと察してくださっているY先生が、すかさず助け舟を。私の話のポイントを簡潔に整理してくださった上で、 「…そして、彼女たちの選挙時のこうした積極的な政治参加は非常に興味深い。しかし、それがフィリピン全体の貧困問題の解決に繋がっているのでしょうか。構造的暴力の解決につながる可能性があるのでしょうか?」 と問いかけてくださいました。さすが先生。さすが教育者です。 その後、小グループに分かれて学生さんたちのディスカッション。教室を回っていると、やはり、 「選挙を賢く活用してるって言われても、所詮、お金がほしいだけじゃないんですか?」 「選挙が終わったら無職に戻るんですよね?」 「選挙時以外は、政治家の公約が守られているかどうかとかは誰も気にしないんですか?」 と、冷静な意見が飛び交っていました。 講義後、受講生の皆さんが書いてくれたレスポンスシートを、Y先生の研究室で読ませていただきました。「フィリピンにもカラオケがあることに驚きました」という素直な感想から、「貧困層が何をやっても政治が変わらないなら意味がない」という達観した意見まで、率直なコメントを読みながら、改めて、自分が言葉足らずだった点、また、自分の考えを押しつけてしまった点を思い知らされました。私が言いたかったのは、このものすごい貧困、そして絶望的な選挙不正という構造的暴力の中にあって、彼女たちがそれとどう向き合っているのか―真正面から戦えないから、ちょっと斜に構えながらだけれど、それでも彼女たちなりの戦略で向き合っているんですよ―ということ。ただ、それを「戦略」と見るのか、「所詮はカネに釣られて政治家に利用されているだけ」と見るのか、その解釈は、見る人によって異なるはずです。私はこう解釈するけれど、あなたたちはどうですか。外部者としての私たちが他国の「貧困」を見て勝手に表象をするとき、そこには、実にさまざまな解釈があって、だからこそ、Y先生の教えておられる構造的暴力の視点が必要なんですよって、私はそこまで言うべきだったのです。それなのに私は中途半端に無責任に途中で講義を終えてしまい、最後まで正しく言葉を継ぐことができなかったから、受講生の方々に混乱を招いてしまったのだと思います。 ただ、何人かの方のリスポンスシートに、 「政治家も貧困層も、互いに利用しあっているんだと思う」 と書かれていて、私は、自分の下手な講義から、私のキーワードをはっきりと読み取ってくれた方々がいるということに、ものすごく感銘を受けました。 講義って、研究会報告や学会報告よりもはるかに気を遣わなくてはならない行為なのですね。だって、教育の一環ですからね・・・。全国の「教員」の皆さまを本当に尊敬します。 今回の「講義」を通じて、改めて、自分の立ち位置を振り返ることができました。私もいつか教壇に立つ日が来るかどうかわかりませんが、とてもとても大切な、貴重な経験をさせていただきました。 Y先生と、受講生の皆さん、そして、外部から聴きに来てくださった皆さまには、本当に、感謝の気持ちで一杯です。本当にありがとうございました。 2008年 07月 14日
大学に通ったり試験を受けたりしているうちに、気がついたらもう、休暇の半分以上が過ぎていました。(ロングバケーション。普通の職場では2週間もお休みを取ることなんてできないでしょう…。)
最近気づいた(というか、気になって仕方がない)ことは、 ①日本の車はやっぱり、どうしようもなく丸い。車のくせによくあんなに丸くなれるものだと、毎日、感心しています。車種も色もどうでもよく、丸さにしか目がいかなくなってしまいました。 ②東京三菱銀行とUFJ銀行が合併したので、街なかにUFJのATM機が増えてとても便利になっている!(合併したのって、いつでしたっけ?) ③携帯電話がないって素晴らしい。私は一応、フィリピンで使用しているSmartの携帯をローミングしているのですが、さすがに、電話なんて滅多にかかってきません。自分から誰かに電話したいときに公衆電話を探すのがすこし不便ですが、携帯から解放された生活がこんなに快適なものとは知りませんでした!(私と待ち合わせをしてくださる方々にとっては不便極まりないと思いますが…。) ④日本の家は掃除がしにくい。久しぶりに実家で掃除をして、本当に驚いています。特に洗濯機と洋式トイレ、確かに高性能ですが、構造が複雑で、とんでもないところに凹凸が多すぎます。掃除なんてしない人間(独断と偏見で男性だと思う)がデザインしたに違いありません。ただでさえ埃が溜まり易い場所に置くものなのですから、もう少し、掃除する人のことを考えたデザインにできないものでしょうか。 ⑤日本の大学の教職員は親切すぎる。フィリピンの厳し~いプロフェソールや、昼休みの5分前には窓口を閉めてしまうにべもないスタッフ、そしてに思いっきり非効率なシステムに慣れている私にとっては、すべてのことがあまりにスムーズに進む日本の大学は天国のようです。審査試験を私の帰国時期の都合に合わせてくださるというだけでも恐縮なのに、先生方があまりに親切で、本当に驚きました。事務手続きもものすごくシステマティックで、学内LANのパスワード再取得も、コピーカードの再発行も、1分で終わってしまう。在学証明は簡単な機械操作で直ちに取得できる。発表でパワーポイントを使いたいと教務に申し出れば職員の方が機器の設定までやって下さる。いくら学費を払っているとはいえ、この至れり尽くせりぶり、いちいち、うろたえてしまいます。この安楽さに、慣れすぎないようにしないと。 ⑥日本の学生は横柄すぎる。生協で無理な要求を通そうとする学生、教務の昼休みの時間に平気で戸を抉じ開けて一方的に用件をしゃべる院生を数回目撃しました。それに対して何も言わない職員さんもすごい…。人間ができているというか、なんというか。教員にせよ、生協や教務の職員にせよ、日本の大学で学生を相手にするって、これこそ、魂を擦り減らす労働じゃないでしょうかね。 ⑦日本の市役所と郵便局の窓口の人はやさしい。以前は、横柄か慇懃無礼かどちらかだと思っていたけれど、ちっともそんなことはありません。 ⑧日本の電車はやっぱり、とても速い。脱線しないか心配になります。 ⑨日本のバスはバス停のあるところでしか停まらないくせにとても遅い。 …立場が変わってモノの見方も変わったのだ、という説明で片付けられません。他者への想像力が欠如しているからでしょうか。これでは、日本に適応できません。友人Wataruさんは、久しぶりにフィリピンに渡航する際によく「体の中の細胞がすべてフィリピン産の原子によって構成されるような感覚」っていう表現を使うけれど(プラスの意味で)、私の細胞はなかなか生まれ変わらないみたいです。 フィリピンに帰りたいとか、逆に帰りたくないとか、そんなことはちっとも思わないのですが、なんでしょうか、この不思議な感覚は。 先日、ある用件で、京都から遠く離れた地方都市の病院を訪れました。田畑に囲まれた空気のきれいな場所にあるサナトリウム併設のその病院は、土曜の午後だというのに多くの外来客と、入院患者への面会と思われる方々で混み合っていました。入り口には作業療法中の患者さんたちの作品がかわいらしく展示されていて、職員の方々はとてもきびきび明るくて親切そうでしたが、待合ロビーの空気はとても重くて、私は行き交う人々のそれぞれの思惑をいちいち想像してしまって、なんだかまたひとつ、余計な偏見をもってしまった気がしました。これから生きていく上で百害あって一利ないような、どうしようもない種類の偏見。 その翌日、自宅で、映画「グッド・ウィル・ハンティング」を観ました。他人との関わりに問題を抱える青年と精神科医の交流を描いた、数年前の話題作。臨床心理士を目指して大学院に通う末の弟が、夏のオープンキャンパスで使うとかで、たまたま大学図書館からビデオを借りてきていたのです。 ・青年の台詞にもあったけれど、セラピーを施す側の精神科医がしゃべりすぎでは? ・主人公の青年、比較的まともでは? 極端に頭がいいのにちゃんと土方の仕事をこなしていて、仲間たちと付き合うことができて、適当なガールフレンドだって作れて…十分じゃないですか。心を閉ざしている理由も実にわかりやすくて、ニートとか引きこもりの日本の若者に比べればはるかに扱いやすそう! …という点がすごく気になりましたが、いい映画でした。弟たちの企画どおり、カウンセリングやセラピーを身近に感じてもらうための導入としては、たぶん、とってもいいんでしょうね。だいたい病院って怖いところだし、その中でも精神科ってもっとも敷居が高いところですが、要はイメージの問題なのかもしれません。 けれど、それにしたところで、あのときの病院と、静かなJRの駅から片道30分、行きも帰りも、蒸し暑い薄曇の中をひたすら歩いた記憶は、もう、まるで真夏の午後の空気みたいにべったりと張りついて取れません。つい最近のことなのに、どんなに思い出そうとしても、よみがえる記憶は、曇った空の下に伸びるがらんとした国道と、病院の近くにあった人気のない業務スーパーの看板と、本数の少なそうな私鉄の踏み切りばかり。(こうして言葉にするといかにもハルキ的かつス○シ○オ的ですが、事実は、もっと、ずっと重かったです。) ちなみに私は太宰治の「皮膚と心」を読んで以来、皮膚科が怖く、大学病院の皮膚科の前を通ることすらできません(幸いなことにこれまで、特に行く必要を感じたことはないのですが…)。 でも、ハルキとか太宰とかを思い出せるようになってきただけ、私の体の中にも少しずつ日本産の細胞が生まれつつあるのかも。新しく買った伊坂幸太郎の本はマニラに持っていこうとと思います。日本でEraserheadsを聴いてもいまいち響かないのと同じように、マニラで日本のものを読んでも、うまく感覚が掴めないかもしれないけれど。 この乖離感。他者への想像力を鍛えれば、いつか乗り越えられるのでしょうか? 2008年 03月 17日
先回は言いたい放題を書きましたが、その中で「女性であること」について追記を。
別に、職場で男女差別を受けていると感じているわけでもないし、性差にこだわる気はまったくないのです。女性であることは決してマイナスではなく、逆に私自身、「女性であること」や「若さ」を武器(というか言い訳)に使っています。バレンタイン・デーにはお世話になっている男性にメッセージカード入りのチョコを配って楽しんでいます。こういうイベントごとは利用しなくっちゃ。 逆に、私が女性であるがために周りに気を遣わせてしまっていることもたくさんあると思います。圧倒的に若く、しかも唯一の女性である私が自家用車をもたずに公共交通で通勤し、水道水を飲み、屋台で食事をし、NGO出身で左派に友人が多い…とあっては、私が自覚していないだけで、周りの人たちには気を揉ませているのだと思います。 そうやって、問題がすべて自分の中に「埋め込まれて」しまっていることで、本当の解決を遠ざけているのは自分の行動かもしれないと思います。H和学/F大学関係者の皆さまに、そう言われそうですね。目先のことにばかり気を取られて、本当はこういうのが一番、「暴力」を助長するんだって。 こんなことばかり考えていると、どんどん頭でっかちになりそう。そうじゃなくて、もっと身近なところから始めたいものです。 最近は特に仕事上、フィリピンの女性団体の人たちや女性活動家にお会いすることも多いのですが、バリバリのフェミニスト活動家でも、家族や身の周りの人を愛し大切にしている人って、女性云々という以前に、人間として素敵だと思います。 女性だから損をしている、と卑屈になるのではなく、女性であることを言い訳にしちゃだめだと突っ張るのでもなく、周りの人たちのやさしさやあたたかさや配慮を、いつも身のまわりに感じていたいと思います。何の解決にもならなくても、まずは人間として、そういうところをちゃんとしていかないといけないですね。 2006年 11月 10日
赴任2ヶ月目にBlogを更新して以来、はや半年ほどが経ってしまい、気がつけばすでに赴任から7ヶ月が経ってしまいました。あまりにBlogを更新しないので心配してくださった皆様、申し訳ございません。忙しくて時間がないといったわけではなくて、単に私が怠惰なだけなのです。
この7ヶ月というもの、仕事はとても楽しく、上司は尊敬できる魅力的な方ばかりで、環境に恵まれ、幸せに過ごさせていただいてきました。「この世界」になかなか適応することができず、せっかく買った自家用車をドライバーごと他の人に譲って公共交通で通勤するようになり、ランチタイムには皆さんと一緒に日本食の日替わり弁当の出前を頼むより近くのカンティーンのほうが性に合っており、水道の生水は飲むし、エアコンを使わないので電気代が月に200ペソを切って管理人さんに怪しまれれ、週末は相変わらずスラムを徘徊し、知り合いがいっぱいのディビソリアやキアポの露天商で買い物をし、身元を隠して政治的集会に出席し… …と、相変わらずこっそりとやんちゃしておりますが、以前よりはずいぶん慎重に、保守的になったはずです…。上司や職場やそれに関係するもろもろの方面に迷惑をかけるわけにはいきませんから、特に通勤中の身の安全には、かなり気をつけるようにしています。 現在は、この週末に東京で開催される第1回国際フィリピン研究会議アジア地区日本大会(http://www.d1.dion.ne.jp/~zmackey/PSCJ2006japanese.html)のため、忙しい時期に無理やりに休暇をいただいて、少しだけ日本に帰ってきています。大会が終わったらすぐにマニラに戻ることになりますが、フィリピン研究者の先生方、先輩、そして友人たちに会えることが楽しみでなりません。 2006年 03月 12日
日曜日である今日は、日本オーラル・ヒストリー学会(JOHA)主催のオーラル・ヒストリー実践講座@日本女子大に行ってきました。私はオーラル・ヒストリーを調査手法として使用したいとはいまは思っていないのですが、オーラル・ヒストリーと通常のインタビューはどう違うのかを知りたいとずっと思っていたので、参加させていただきました。インタビューの大家の先生方による実演インタビューまで見せていただき、本当に良かったです。やはり、オーラル・ヒストリーは、「聞き手の聞きたいことの核心を聞く」普通のインタビューや、「参与観察」の中での日常会話による情報収集とは大きく異なるのです。場所を設定して、アウトラインを決めて、相手の背景や生い立ちから聞いていかなくてはならないとのこと。もしそうだとすれば、きっとこの先も、私はオーラル・ヒストリーを使用することはないと思います。スラムの方々の生い立ちについて「じっくり」話を聞くとき、私は、彼らの住むまさにそのスラムの中の家々や、道端(座る場所はあちこちにあるので)、サリサリストアの軒先なんかを選んできました。普通の感覚で言えば、とても「じっくり」どころではないのですが。近所からはカラオケが鳴り響いているし、どこかの子どもが泣きながら近寄ってくるし、犬は入ってくるし、隣のオッちゃんは入ってくるし、扇風機の音はうるさいし(私はかなり高感度のICレコーダーを持っているのですが、フィリピンの扇風機の煩さには勝てません)…という喧騒の中でのインタビューしかできません。本日のレクチャーの中で、講師の先生が、「もし、インタビューの途中で電話が鳴ったり、あるいは話し手がマイクをきにしてどうしても集中できない様子であれば、その日のインタビューは切り上げるのがよろしい」とおっしゃっていたのですが、そんなにも敏感にならなくては、オーラル・ヒストリーは完成しないのだなあ、と改めて思いました。私がスラムのリーダーをインタビューするために、仮に、静かなオフィスやスターバックスなんかをインタビュー場所として設定してしまったら、そのほうが、彼らの自然な発話を妨げることになると思います。
…その帰り道に、目白駅のすぐ近くの駐輪禁止エリアで、今日の強風で倒れた自転車を起こそうとよろよろしている白髪の女性がいたので、私はあわてて彼女に近づき、「おばちゃん、私がやりますから!」と(関西訛で)言いました。自転車を直してから、よくよく見ると、彼女は一見して「野宿者」のようで、歩道の花壇の植え込みに座り込み、横には4つも紙袋が置いてありました。しかも、ツッカケ履きから見える彼女の靴下は、膿のようなものでどろどろに汚れていたので、私は、怪我をしているのですか、と聞きました。彼女は、怪我もありますが、この色は、誰かに茶色の液体をかけられたからです、と答えました。私が思わず、 「失礼ですが、寝るところとか、ご家族とかあるんですか。もしなかったら、病院とか、市役所の相談窓口とか、相談に乗ってくれる団体とか、一緒に探しましょか?」 と、(かなりの関西訛で)聞きました。彼女は、 「家とか、寝るとことか、家族とかはないけど、一応、知り合いでときどきは相談できる人はいるんです。」 と言いました。 「ほな、おばちゃん、いま、なんか困ってることとかあったら手伝いますけど。その知り合いに連絡取るときの電話代とか、交通費とかあります?」 と言うと、おばちゃんは、 「いまお金なくて…。ちょうど、一昨日から食べていないので、誰かから500円くらい恵んでもらおうと思って、ここ(花壇)に座ってたんですけど、この自転車があって、歩道から遠すぎてダメみたいで。で、自転車をどけようとして…。」 と言いました。私はあわてて、 「いやオバちゃん、そんなんやったら、そもそもこんなとこに自転車停めて、オバちゃんに自転車整理させる若者が悪いんやから、とりあえず、そのお詫びに私がオバちゃんに500円払います。」 と言って、彼女に500円を渡し、 「どこで何を買って食べはるんですか? よかったら私が買ってきますけど。」 と聞きました。だって、おばちゃんの身なりでは、目白駅前のお洒落なマクドナルドはもちろん、ファミリーマートだって拒否されそうなのです。 「じゃあ、そこのマクドナルドで何か安い食べ物と、熱いコーヒーが飲みたいです。」 オバちゃんは、私の500円をもう一度私の手に返して、そう言った。…幸いなことに私はその数分前に、路上のお兄さんから、マクドナルドの全店舗共通クーポン券をもらっていたので、オバちゃんに、 「すぐそこにファミリーマートとドトール・コーヒーもありますけど、マクドナルドでいいんですか? マクドナルドだったらいつも、80円バーガーと、コーヒーも100円ですけど、私クーポン持ってますから、選んでください。」 と言い、オバちゃんは、クーポンのポテトとホットコーヒーを選択。私はマクドナルドでそのとおりに注文し、レシートとおつりと一緒に、オバちゃんに渡しました。 「ねえオバちゃん、すぐそこに交番もあるし(本当に50M先には交番があるのです)…とかいっても、この自転車でさえどうにもしてくれへんのやから、何をしてくれるかはわからへんけど、市役所やったら生活保護とか相談できるところもあるし、あと、ボランティアさんの団体もあるし、なんかあったら、とりあえずはそういうとこ行ってみてくださいよ。」 と言って私はオバちゃんと別れました。オバちゃん、最初から最後まで関西訛でごめんなさい。 このBlogを見てくださっているなかで、野宿者運動に関わっておられる皆さんにご助言をいただきたいのですが、こういうとき、どうすればいいのですか? 野宿者人口は都市のほうが多いのでしょうか。もちろん、私の地元である京都にも多くの野宿者の方々がいらっしゃいますが、私は、特に彼らから物を乞われたことがありません。お一人、私が高校のとき、四条河原町の繁華街で和菓子販売のアルバイトを通して出会ったオバちゃんがいます(賞味期限が迫った商品や試食用商品を定期的にさしあげていました)が、それ以外のインタラクションは皆無なのです。支援団体による野宿者の方への「夜回り」にも参加させていただいたことがあるけれど、その場合は、団体の連絡先、炊き出し情報、などをしっかり提供できるわけでしょう。もし、一個人が、ある日、突然に野宿者の方に出会ったときには、どうすればいいのですか? 金銭を渡すだけ、というのが一番なのでしょうか。初対面なのにいきなり「野宿者ですか?」などと聞くなんて、なんだか立ち入った話をするようでよろしくないと思うのですが。生活保護より路上生活のほうを選ぶという人だってあるのですし、市役所に行くよう薦めるというのもなんだか…。 マニラには老若男女多くの物乞いさんがいますが、道行く人々もそれに慣れているので、小銭があれば渡します。私も同様です。毎日のように見かける人もいるので、その場合は、渡したり渡さなかったり。ただ、もし、いつも見かける「その人」が、具合の悪い様子だったり、明らかに麻薬に手を染め始めた様子であれば、立ち入ってでも話をしますし、必要であれば、それなりの団体で活動している自分の友人たちに相談しますが…日本の場合はどうなのでしょうか。多くの人が、途上国で物乞いに出会ったときの対応に困る、といいますが、私は、この豊かな日本で野宿者の方々に出会ったときのほうが、ずっと困ります。どうしたらよいのでしょう。 模範的な「対応マニュアル」があるとは思いませんが、友人、知人の皆様、どうかご助言ください。 2006年 03月 11日
フィリピンから帰国し、東京で1ヶ月間の「研修」を受けるため上京して、あっという間に10日目になります。現在は、都内のウィークリー・マンション、という名の、どう見ても文化住宅(関東と関西ではこの言葉の指し示すところが違うようですが、関西で「文化住宅」と言えば、戦後、労働者向けに建てられた木造2階建ての棟割りの廉価アパートの俗称です)みたいなユニットに入居して1週間になります。最近、廉価なウィークリーマンションにすべく改築したらしく、建て増ししたようなバスルームがあり、LANがあり、家具や食器なども揃っているのですが、外見も内装もなんだかおかしく、なぜか部屋の中に梯子と、「ロフト」という名の変な屋根裏があります。無理やり違法改築された、マニラのスクワッターの移転者用中層住宅(Midium Rise Housing)みたいです。周りの建物も「木賃宿」っぽし、雨が降るとあっという間にユニットのすぐ前まで浸水するし、川沿いだし、前の道を大型トラックが通ると揺れるし、歩いて30秒のところに、やたらと安いスーパーがあるし…、なんだか、これはもう、私にぴったりです。ウィークリーマンションとしては格安だし、最高です。ここは、インターネットで適当に物件を探してたまたま見つけた格安物件でして、私はそこからさらに値引きをお願いしたのですが…、こんなに私向きの物件とは思いませんでした。もちろん、良い意味で。やっぱり、私にはこういう生活が運命付けられているのでしょう。 その「文化住宅もどき」から、毎朝スーツで○ヶ関に通うのはとても不思議な感覚です。これから私は、「これまで生きてきた世界」とはまったく違う世界に入ることになるのでしょう。この「研修」でもすでに毎日がカルチャー・ショックの連続ですが、それらは良い意味でとても刺激的で、一日はあっという間です。上司の方々もとても親切に仕事を教えてくださいます。この1週間で、私はこの世界に対する認識を改めました。 事情をご存知の友人の皆様、ご心配なさらないでください。私はこれから、「新しい世界(実はそんなに新しくないのかも…)」に適応できるように努力します。たとえ、毎日の通勤電車の中や昼休みには、これまでどおりUrban Poor関連の文献を読み、帰宅後は毎晩、スラムの人たちやスクワッター・シン○ケートのインタビューテープを起こしながら、根拠のない自信で、いつかこの人たちの声を言葉にするための論文構想を夢想しつづけているとしても。 3月5日の、東京のフィリピン人コミュニティの参加する「非常事態宣言と下院議員の不当拘束に抵抗するデモ」@恵比寿公園にも行きましたよ。MI○RANTE Internationalが独自のネットワークを駆使して日本でもこういった活動を広げていこうとしているのにはつくづく感心しましたが、参加人数が極めて少なかったのは残念でした。(日本のSolidarity Group=運動団体のおじさんたちのほうが多いくらいでしたよ!)遠くからそっと見るつもりだったのに、こういった場では必ず知り合いに会ってしまうのが悲しいところです。 でも、友人の皆さん。いくら私が「新しい世界」に入ったとしても、こうした「デモ」のような場に出向くことが禁じられているわけでは決してないから、大丈夫ですよ。念のため上司にさりげなく事後報告しましたが、別に問題はないとのことでした。 あとは、私がどれくらい「この世界」の常識と良識を見につけられるかが…、とはいっても決してマニラでの「これまでの生活(=「運動」と「スラム」を追い続ける生活)」や、自分のスタイルや、これまでの人脈を葬るわけではないので、要は、どれだけうまく「これまでの生活」と「この世界での生活」を、「使い分け」られるかがネックなのでしょう。 たとえお金があっても、私はレストランよりもカンティーンのフィリピン料理のほうが好きだし、ルスタンズ・スーパーでパックされている野菜より、パレンケ(市場)でおばちゃんに水をかけられている野菜を買うほうが安全に思えるのですから! そして、すべての「おいしいもの」はスラムにあると信じて止まないのですから…。2.5ペソのシュウマイ、3ペソの腸詰BBQや血を固めたBBQ、3ペソのルンピア(ソース/酢つき)、3ペソのクウェックウェ(鶉卵をオレンジ色の生地で包んだで揚げたもの)、5ペソのアイスクリーム(Dirty Ice Creamと呼ばれる)、5ペソのホットケーキ、5ペソのブコ・ジュース(ココナツ・ジュース)、Balut(孵化前の鶏卵)、10ペソの格安ハンバーガー、串刺しのグリーンマンゴー、フィッシュボール、スクイッドボール…、どれも、私の大好物でした。 それに、私は今でも、マカティ市よりは、あのSta Anaの川沿いのスラムのほうがずっと安全だと信じてやみません。私の知人(ぱっと見てフィリピン人に見えるようなベトナム人)は、なんと白昼夜にマカティのDusit Hotelの前で拳銃強盗に襲われ、車でFort Bonifacioに連れ去られて身ぐるみを剥がれました(幸いなことに命には別状なく2時間後に生還)が、一見して東洋人顔の私は、夜中の1時や2時にSta AnaのP地区の川沿いのスラムを歩いていても、誰にも危害を加えられることはありませんでした。私がケソン市で夜間によく通る片側二車線の道路だって、道の片方は政府機関、もう片方はスラムのコミュニティですが、私は必ず、スラムのある側を通ります。先日たまたま、コミュニティ・オーガナイザーをしている知人と一緒にその道を通ったときも、彼は迷わずにそちら側を選びました。「あなたもこっちを通るんだね」と言うと、彼は「いつもこっちを通るから特に意識してなかったけど、そういえば…」と言いました。私も彼も、別にそのスラムに知り合いがいるわけでもないけれど、絶対にそのほうが安全だと、自然にそう信じているのです。(注:私が修士論文で取り上げたトンドのPA地区は別です。あそこは「特殊なスラム」であり、本物の殺し屋集団や犯罪組織の拠点があること、夜間に臓器売買の契約が秘密裏に行われていること、そして政治的な理由から、治安は非常に悪く、日中でも一人で出歩くことはきわめて危険であり、ましてや日が暮れてからは「外部者(たとえフィリピン人でも)」が出歩くことはもってのほかです。私はそのせいであの調査地を思い通りに訪問できないことをいつも本当に歯がゆく思っています。) 今後は、そうした行動をある程度は慎まなくてはならないわけで、私はこれから、本業の利害を損なわないように、私自身の安全と健康を損なわないように、本業に差し支えない程度に、そして周りから後ろ指をさされない程度に(…実は、それらこそがとても難しいことなのでしょうが)、自分の信じる道を、まだまだ修正しながら進みたいと思います。 私はまだ、「この世界」の常識や不文律がわかっていないのです。不用意に「ジープニーで30分くらいです」なんて口にしてしまいそうな私は、いつもひやひやしています。私はこれまで、自分の中の常識というものを、マニラのスクワッターの方々の、あるいはフィリピン人研修生たちのそれに近づけようと努力してきました。彼らの約束(口頭でも文面でも)に対する責任意識はきわめて希薄であるとか、彼らは法律というものを重視しているように見えて実はまったく重視していないとか。そう、基本的に彼らは、政権によってコロコロ変わりうる「フィリピン法」というものに対して強い猜疑心を抱いている反面、裁判と法律の強さは認識していて、自分に都合のいい箇所だけを都合よく使おうとするのです。それだけに彼らは、「制度化されていないインフォーマルなもの」に強く惹かれ、日本人の感覚ではとても信じられないようなもの(たとえば、スクワッター・シン○ケートからの土地の売却とか、スクワッター同士の口頭での賃貸契約とか、質屋価格とか、高利貸しとか、あるいは、返済能力のきわめて低い知人に金銭を貸すこととか)を信じる可能性が日本人よりもはるかに強く、実に「インフォーマルな」契約をするのです。本当ですよ。そしてそれは、スクワッターに限らないのです。マニラ首都圏以外の地方出身の研修生たちも、一様にそうした傾向をもっていました。権利意識は強いのですが、法に対する感覚が異なるのです。誤解を生むかもしれませんがはっきり言って、彼らの権利意識は「植えつけられた」ものであるという感覚が払拭できませんでした。 「この契約書は法的に有効なのか」 「会社は私たちへの約束を守ってくれるのか」 と、しつこく尋ねる一方で、彼らの多くは、土地を持たない「貧困層」であり、会社の定めた寮則を平気でやぶり(本人たちは悪いことをしているとは思っていない)、一部はなんと、不法就労先を探すために突然に会社から姿を消しておきながら、未払い分の給与を請求してくるのでした。私はずっと、彼らの言葉をうまく理解することができませんでした。だって、 「自分は出発準備金を支払えず、自分の身分を担保できないから、仕方なく、送り出し機関(フィリピンの人材派遣会社)の社長にネックレスを渡した」 なんて言うんですよ! 一見笑えそうで、とても笑えない話です。彼らからすればそれは「正統」なのですから。たとえ「違法」であっても、少なくとも、彼らの論理ではそれは「正統」なのです。「違法でも正統」というのは私たちの常識をはるかに超えた感覚ですが…、実際、そうなのです。それが、「彼らの常識」なのです。だから、いくら政権が、「許可を得ていないデモは違法である」とか、「エドサ大聖堂前はNo Rally Zoneである」とか言っても、彼らには関係ないのですよ。「正当な」手段で弾劾手続きを踏もうとしている下院議員たちが、一方では「暫定革命政府(Transitional Revolutionary Government)」の設置を訴えるという状況がまったく理解できない、と、私はいろいろな人たちから言われましたが、LegalとIllegal、FormalとInformalがあまりに複雑に入り組んだその論理が「彼らの常識」なら、その事実を認識するしかありません。 私は、スラムの人たちの言葉と論理を理解できるようになるまで、とても長くかかりました。私はそのためにスラムに滞在し、彼らの「言葉」を共有しようとしましたが、それでもなお、私はいまだに、彼らの「言葉」なるものを理解することはできません。だって、私はフィリピン育ちではないし、貧困層でもないし、スクワッターでもないのですから。 それと同様に、この「新しい世界」の常識を身につけるには、あと何ヶ月も何年もかかるのかもしれません。でも、こちらのほうが、スクワッターや、貧困層や、「フィリピン人」の常識を身につけるよりは簡単なのかも。周りに影響されやすい私のこと、数ヵ月後には、Back to the Province論(マニラ首都圏の過剰人口であるスクワッターをこれ以上マニラで収容することはできないから田舎に帰れという論調)を唱えているかもしれません。 私がマニラに戻るのはイースター明け(4月17日ごろ)になりそうです。皆様、今後ともよろしくお願い申し上げます。 そして、先輩方、どうかいろいろとご教示ください。 2005年 05月 01日
GWを日本で過ごすのは2年ぶりなので、この大型連休をどうしてよいかわからず、結局ずっと家にいるだけで終わってしまいそうな私。でも来週はフィリピンから来ている研修生たちと一緒に野外バーベキューパーティの予定。私の目下の懸念事項は、バーベキューといえども米(ライス)が欠かせない彼らが30人集まるのに、お米5キロで足りるかしら…ということ。なんとくだらない懸念事項かと思われるかもしれないが、なんといっても、フィリピン人は米が大好き。米がなければ「食事」ではない。たとえば、スパゲッティやサンドイッチやチキンは「おやつ」であってご飯ではない。ファーストフード店でも、フライドチキンやバーガーのセットにまでライスがついてくるのだから恐れ入る。
さらに彼らは、ビールやジンを飲みながらでも米を食べるのだ。おかしくないですか? それとも国際的にはごく普通のことなのでしょうか? 「お酒を飲むからご飯と味噌汁はあとで」というのは日本でしか通じないフレーズなのでしょうか? ・・・などと不毛なことを考えているうちに、今日はMayo Uno(5月1日)。つまり、労働者の日です。日本では5月1日なんてGWの合間の普通の日でしかないけれど、フィリピンでは違う。昨年も一昨年も、炎天下の下、マニラのメンジョーラ広場(マラカニアン宮殿前)でのラリーに参加した。あれは熱かった。選挙が大フィエスタ(祭り)だとすれば、5月1日は小フィエスタかと思うくらい。…またまたフィリピンが懐かしい。今夜は友達に電話しようと思う。 最近のPhilippine Daily Inquirer(インクワイラー紙)によると、今年の5月1日にはエストラダ派が大規模なラリーを企画して政権に揺さぶりをかけるという。多くの人は多分、「そんなの、いつものことじゃないか」と思いながら眺めている。5月1日は労働者の日であると同時に、2001年、エストラダ擁護派による街頭集会で血が流れた「エドサ3」の記念日でもある。彼らは毎年、左派の労働団体よりずっと早く(夜明け前)にメンジョーラ広場に集まり、記念集会を開催している。そろそろ、始まっているんじゃないだろうか。私がフィールド調査でお世話になったPA地区の都市貧困層の方々もきっとたくさん行っているはず。 彼らのディシプリンを擁護するかどうかは別として、私には絶対に真似のできない、あの情熱に敬意を示して。 2005年 04月 29日
週末は「東京フィリピン研究会」に初参加。今回は発表者の方も魅力的だし、テーマは「フィリピン市民社会の現代的位相」だし、是が非でも行きたい、と思って参加させていただいた。発表も議論も、とても刺激的でおもしろかった。市民社会は都市貧困層を包含できるのか、という議論はもしかしたら不毛なのかもしれないと思いながらも、それでも、私にとってはとても気になる議論で、ついつい熱く身を乗り出してしまう。発表者のIさん、事務局のMさん、そしてご参加の皆様方、すばらしい時間をありがとうございました。
7月には神奈川大学で、フィリピン研究会全国フォーラムが開催される。とても楽しみです。どなたでも参加できるので、このWebサイトをご覧になっている方で関心のある方は、ぜひ下記サイト内の案内をご参考に。 東京フィリピン研究会→ http://www.d1.dion.ne.jp/~zmackey/ 今回も、往復夜行バスを利用した。私は中高生のときから、所属していた青少年NGOの活動や会議で東京に行くために数え切れないくらい夜行バスを利用しており、ムーンライトながらにも何度も乗ったことがある。(ムーンライトながら、以前は大垣夜行と呼ばれたいわゆるJRの特急車両の鈍行で、座席がリクライニングしないばかりか電灯は一晩中つきっぱなしで、冬場は駅に着くたびに扉から風が入ってきて凍えそうになる、という、きわめてひどい環境のもとで走っている。夜行ではなく昼間に京都‐東京間を移動したことも数回ある。青春18きっぷを使えば一日乗り放題2,300円という破格の安さではあったけれど、さすがに、できればあれはもう利用したくない。)各社の夜行バスの種類、夜行で朝早く目的地に着いたときの時間の過ごしかたなどについては、他人よりはちょっと詳しいはず。高校生のときは、土曜日のお昼に学校が終わるとそのまま新幹線に乗って東京に行って、土・日と会議やイベントに出席して、日曜日の晩は大学生に付き合ってもらって夜行バスの時間まで新宿で遊び、月曜の早朝に京都に戻り、朝7時ごろから開いている銭湯に行ってから何もなかったふりをして学校に行く、という生活も体験した。よくもまあ、それで大学に進学させてもらえたものだ。そういえば、今回の研究会でお会いしたAさんに「ジャンヌ・ダルク」と呼ばれて、私はかなり衝撃を受けた。たぶん、私がNGO活動家だったこと、マニラでスラムに入っていたことを指してそうおっしゃったのだけれど…私はそれほど勇敢でもCause-Oriented(大義志向型)でもないと思います。 私がここ数年、上京の際にもっぱらお世話になっているのは、関西―関東間の格安夜行バス「オリオンツアー」http://www.orion-tour.co.jp/ である。今回は満席だったので、行きは「シティライナー」http://www.otokubus.com/ を利用した。どちらもほぼ同額(片道4300円)で、2人がけシートでリクライニングなし、車内に手洗い設備がないため、サービスエリアに止まるたびにアナウンスと電灯で全員が起こされる、という乗り心地のきわめて悪い交通手段ではあるものの、どこでも寝られる私のような屈強な若者にとっては、このくらいでいいのです。 < 前のページ次のページ >
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