Keso de Bola とは、 「表面は赤いのに中は黄色い」フィリピンのボール型チーズ。転じて日和見主義者。       かつてお世話になった、現地の言葉で「灯台」と呼ばれるマニラ湾岸のスラムを、ガラス越しに。
管理人sagingより
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回転ドアは、回転すること自体を目的としなくてもいいのかも
  前回の投稿から半年が経ってしまいました。その間、NGOで普通に働いてきました。会計簿をチェックしたり、収支報告書を作ったり、ボランティアさんに書き損じはがきのカウントをお願いしたり、在外職員の日当や宿泊費を計算したり…そんな毎日でした。貧乏暇なしのNGOですから、毎月の残業時間は160時間を超えました。
 私は、でも、それでもよかったのです。この半年間は、とても健康でいられました。秋のかなしさも冬の暗さも払拭できるくらいに、毎朝、6時に起きることができました。アメリカでの国際学会で報告し、ケニアや南スーダンに出張し、兵庫県の防災シンクタンクでの活動に力を注ぎ、元指導教官とは「国際協力NGOの提言能力に対する共同研究」を実施し、知人の紹介で、東南アジア情勢に関するテキストを執筆(共著)しました。
 NGOでの給与は手取りで16万円台(160時間残業しても、手当はありません)ですが、さまざまな副収入や研究助成金をいただいているおかげで、議員秘書時代に引っ越してきた新宿区の35平米のマンションの家賃を払い、研究書籍を買い、なんとか貯金して暮らしていくことができています。大嫌いな地下鉄に乗ることは月に1回くらいです。雨の日はバスで通勤します。
 あんなに「嫌い」だったNGOに転職してみても、自分の価値観に特に変化はありません。内部に身を置くと、つくづく、日本のNGOの組織基盤や財政の脆弱さや人材不足が目につきます。私がNGOに対して抱く「胡散臭さ」は、いまも変わりませんし、会議などで他団体の職員と会っても、社交辞令は最低限にして、そそくさと帰ってしまいます。
 
他方で、研究関心や、今後の研究活動に対する姿勢は大きく変わりました。フィリピンやスラムへの興味は薄れ、前回の投稿でも述べた「自衛隊とNGOとの関係」というテーマに強く惹かれるようになりました。12月には、駒門駐屯地で実施された、自衛隊と文民との合同演習に参加。2月に南スーダンに出張した際は、仕事の合間に自分の研究のための調査と、同国での国連PKOに派遣されている自衛隊員へのインタビューを実施し、職場の上司とともに「仕事ではなく研究活動として」1つの論文にまとめました。今年の前半には世に出る予定です。NGOに就職したことで自衛隊にシンパシーを抱くようになるなんて、つくづく稀なケースだと思います。

 この5月から、ふたたび東南アジアに住み、働くことにしました。研究職ではありません。以前にフィリピンで従事していたのとまったく同じ職種です。
 そのいちばんの理由は、「研究職に就かない研究者」として、日本のアカデムの常識や縛りから自由になりたかったからです。日本で学会や研究会に出席するときにいつも感じる、どうしようもない閉塞感。顔を合わせるたび、研究の話ではなく「あの人はどこどこに就職できてラッキー」、「あの人はあんなところで研究員をしているから●●先生にこき使われてたいへん」といった話で盛り上がる同年代の研究者たちへの失望。大学に就職することにまったく関心を示さない私に対し、「大学に就職できない人」という哀れみや軽蔑の視線を向ける人々。「大学への就職には興味がない」と言ってしまえばきっと「異端」扱いされるでしょうし、「研究への関心を失った」、「真面目に研究する気がない」、「就職を諦めてしまった」と勝手に解釈されてしまう。
 私は出身大学から「研究員」の肩書きをいただいているので、学会や研究会での自己紹介ではそれで通しますが、何かの折に、「有給」でも「常勤」でもない研究員であること、ほかに有給常勤職を有していること、非常勤教員すらろくにしていないこと、などを相手にお伝えすると、その瞬間に、相手の私に対する評価が急落することが、ありありとわかります。今回の転職にしても、それを告げた瞬間、お世話になっている大学の先生方の表情に失望の色が浮かぶのを、私は手に取るように感じます。
 大学に就職しないと研究者ではない、という考え方が、私にはまったく理解できないのです。私は博士号取得後もずっと、大学に就職すること、フルタイム研究者になることを考えたことがありませんでした。現実の政治に関わる仕事をしながら、政治学者として鍛えられる人生を歩みたかったからです。いかなる研究職にも応募したことがありませんし、JREC-INを見るのは半年に1回くらいです。「大学に所属していなくても応募できる研究助成金」情報は、週に1回はチェックしているのですが。

 NGO職員であろうと議員秘書であろうと、仕事をもちながら研究を続けることは容易なことではありません。時間的な制約、先に述べたような研究者たちからの偏見や無理解はもちろんのこと、就職先からも「これだから研究者は使えない…」という目で見られることを覚悟しなくてはなりません。私はマニラで働いていたときは、院生であることをずっと隠していました。議員事務所でも、博士であることはひた隠しにしてきました。現在のNGOだってそうです。入った当初から、事務局長は、私の直属の上司にあたる人(現在の共同研究者)が博士号をもっていることについて、「彼は研究者だから実務はあまりできない」と言っていました。しかし、彼は始業時間より2時間も早く出勤してゴミを出し、掃除をし、お湯呑を片付け、台所のタオルを自宅に持ち帰って洗っている、事実を知るまでに時間はかかりませんでした。会計簿をチェックするのも、職員が海外に赴任するときの超過荷物の計算も、他の職員の書いたどうしようもなくダメな報告書の誤字脱字のチェックも、Excel関数を入れ込んだ経理のフォーマットの作成も、彼は進んで、そして黙ってこなしていました。私も過去の職場でまったく同じ経験をしました。誰よりも朝早く出勤して掃除をしても、コピー機のメンテナンスや他の職員の出張旅費の計算や文書整理などの下仕事を担当していても、博士というだけで、周囲の人に格好の攻撃の理由を与えてしまうのです。少しでも仕事に不備があると「これだから研究者は…」と、ここぞとばかりに批判される可能性があるのです。特に私は、文系で博士で、おまけに女性です。ゴミ出しもコピーもお茶出しも、ほかの誰にも決してやらせない、いつもそう思って働いています。
 大学に就職していたら、きっと一生、こうした日本社会での「研究者への風当たりの強さ」や、「研究職についていない研究者への差別」を実感することができなかったと思います。その点において、私は政治学者として、この道を選んでよかったと、心からそう思っています。
 私が自衛隊に強い関心とシンパシーを抱くようになったのも、そのことが一因です。自衛隊には、医師や技師といった特殊な技能を持つ人たち、工学博士や理学博士、そして、安全保障を学んだ博士や修士の人たちがたくさんいます。彼らは、それぞれの任務に従事しながらも、当然のようにアフターファイブに学会や研究会に出席し、アカデミアの言語を駆使して職業研究者とコミュニケーションをとりながら、自衛隊の論理を文民に伝えるべく努力しています。私は現在のNGOに就職してから、自衛隊の方が参加する研究会に何度となく出席させていただく機会を得て、「研究者の枠」にはまらない彼らの柔軟さ、研究者でありながら公務員であることへの誇り、他の業界から学ぼうとする貪欲さを感じ、自分のこれまでの生き方を見直すとともに、強く動機づけられました。今回の論文において自衛官の方々のインタビューを実名入りで引用したいと申し出たときも、草稿を送って事実関係や表現の確認をお願いしたときも、先方は、24時間以内に詳細に回答をくださいました。日本のNGOはあれほどまでに研究者を敬遠し、研究者から「評価される」ことに抵抗を覚え、二言目には「研究者は現場の事情も知らないくせに…」と批判するというのに、自衛隊のこの柔軟さと寛容は、私にとってはとても驚きでした。

 私は結局はずっと、日本の学術会に勝手に期待し、依存し、甘えてきたのだと思います。自分が理解されるスペースがどこにもない、自分が明らかに適応できない、偏狭で生きづらい日本の学術界、閉鎖的な院生研究室やPD研究室。そこから逃げ出したかったからこそ、私は、大学院在籍中、ずっと日本を離れていました。でも、博士号取得後は、私が大学に就職しないことに露骨に失意をあらわす先生方、20代をともに楽しく過ごしたはずなのに大学に就職した途端に急に言葉が通じなくなってしまった研究仲間たち、博士というだけで「使えなさそう」というイメージを抱く日本の公務員や日本のNGO職員、そうした方々に囲まれながら、一生懸命、その人たちに迎合しよう、皆に受け入れてもらえるように努力しよう、自分を合わせよう、と思っていました。研究者になる気などもとからなかったくせに、日本の大学に就職する気もまるでないくせに、なんとなく日本の学会に関わり、繋ぎ留めたくもない人脈に固執し、それでいて「自分は彼らとは違う」と自負し、自分が「彼ら」から浮いてしまうと、「彼ら」の理解不足を嘆く。そんなに不満なら、別の世界に行けばいいのに、結局はどこにも行く能力がないから、あるいは、行く勇気がないから、なんとなく、くすぶってきたのだと思います。
 そのことを、同じ経験をもつ上司から端的に指摘され、上司とともに自衛隊員との接触を重ねるうちに、自分は、日本の閉鎖的で特殊なアカデミアのサークルに固執する必要はないのだと思うようになりました。思い切って、しばらく、日本で研究者として活動することを諦めようと思います。研究資金へのアクセスの便宜上、日本の大学の研究員としての肩書きは使いつづけるにしても、精神的には「幽体離脱」しようと思います。
 フィリピンでは、博士号をもつ人がNGOで働くことも、公務員が博士課程に在籍することも、議員秘書が博士であることも、NGO幹部や議員秘書が政治学会でアカデミックな報告を行うことも、どれも当然のことです。欧州での勤務経験が長い上司も、同じように言っていました。欧州のNGOと同じだと思ってたまたま日本のNGOに応募してみたら、日本のNGOはボランティアに毛の生えたようなアマチュア集団で驚いた、そして、NGO職員の地位が低すぎること、学会で自己紹介をする時にNGOの名刺を出して驚かれることにもショックを受けた、と。つくづく、日本が特殊なのだと思います。

 10月末にミシガン大学での国際フィ●ピン研究学会に出席し、数年来お世話になっている先生と畏友たちとパネルを組んで報告もさせていただきました。充実感でいっぱいでしたが、同時に漠然と、「自分はもう、地域研究者でも、urban poor研究者でもないのかも」と感じました。
 マニラで彼らと出会ってから、もう10年近くになります。あいかわらず、フィリピンもurban poorも大好き仲間たちです。ミクロでマニアックなスラムの話題で盛り上がる楽しさは、あの頃と変わりません。ただ、お互いに別々の組織で別々の仕事につき、それぞれの属するinstitutionなりcommunityなりsocietyなりのなかで生きているのだな、ということを、会うたびに、しみじみと感じます。シカゴでの乗り換えを含め実質12時間のフライト、10時間の時差によるJet Lag, そしてとんでもない寒さ(10月末だというのにみぞれが降っていました)と暗さ(朝は8時まで真っ暗)に苦しめられながらも、在米の畏友とパネルのChairであるは先生(スラム研究者で人類学者でありながらも普遍的なセオリーを論じる犯罪学者)の優しさ、日本から一緒に行ってくれた畏友の心遣いに助けられ、単なる「スラムの話」を超えたことを常に話題にすることができました。地域研究とは程遠い仕事について数年が経っていることもあり、むしろ、日本政治とか平和構築とかの範疇にある恩顧政治とか治安部門改革とか民軍関係とか、そうした、実務に基づいた話しかできなくなっている私、「フィリピンオタクにはなりたくない」と内心で思っている私を、彼らは受け入れてくれました。そのことがとても嬉しかったし、たとえ専従研究者ではない道を選び続けたとしても、私は彼らとまた共同研究を続けられると思います。
 
 非専従研究者の落とし穴は、先住の仕事の忙しさを理由に研究をサボってしまうことだけではありません。「専従研究者よりも現実の政治を知っている」自分を過大評価し、研究活動をしない自分を正当化してしまうことこそが、最大のリスクです。
 私はフィリピン勤務中も議員秘書時代も、まさに、仕事が忙しいことを理由に研究をないがしろにしてきました。霞ヶ関や永田町にいると、普段の仕事がダイナミックでそれなりに充実しているので、それなりに「成し遂げた感」を感じてしまい、実際は研究活動などしていない、論文も書いていないのに、あたかも研究をしたような気分になってしまうのです。気をつけなくては。

 これまではずっと、学会報告も論文発表も、「議員秘書が/NGO職員が仕事の片手間でやっている」と思われたくはない、24時間研究に専念できる人たち(そうそういないでしょうが)と同じ土俵で評価されたい、「別に仕事をしているわりにはすごいよね」とは絶対に言われたくない、あたかも専従研究者のように涼しい顔をしていたい、と思って、とても気負ってきました。でも最近では、非専従研究者に対して「片手間で研究して…」という見方しかしないような人たちに合わせる必要もないし、同じ土俵で張り合う必要もないと考えるようになりました。むしろ、どんどん片手間で、好きなことをすればいいのだと思います。むしろ、大学という組織からも先生という上司からも自由な立場だからこそ、業績づくりのための論文量産競争、ポストに関する噂話、狭い世界の人間関係、地域研究VS●●政治学などといった不毛な対立、学内政治…そうしたことに無縁でいられるからこそできることを、周りを気にすることなく、まさに自由奔放にやろうと思います。

 私はこの数年間ずっと、研究者と、NGOと、官僚(行政)と、そして政治家(立法)の橋渡しになりたいと思ってきました。すべての業界を渡り歩いてわかったのは、自分は、研究者にもNGO職員にも官僚にも、永田町の人間にもなれないということでした。それであれば、軸足は不安定ながらも、これからも世界のボーダーを超えて異なる海を泳ぎつづけながら、自分が楽しいと思えること、自分が価値を見いだせることに心を注いでいきたいと思います。
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by saging | 2013-03-20 21:22 | その他