Keso de Bola とは、 「表面は赤いのに中は黄色い」フィリピンのボール型チーズ。転じて日和見主義者。       かつてお世話になった、現地の言葉で「灯台」と呼ばれるマニラ湾岸のスラムを、ガラス越しに。
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いまさらNGO その1

 約1ヶ月前に、再就職しました。
 新しい勤務先は…日本のNGOです。

 知人からの紹介とか、もちろん元上司(議員)からの紹介とかではなく、公募情報を見て、書類を送って、3月の末に面接を受けて、4月上旬に採用通知を受け取りました。
 迷いはあったのですが、その後、4月にフィリピン、5月初旬にタイに行き、信頼できる友人たちと話をするなかで、この仕事をしたいと確信するに至り、5月下旬からここで勤務することになりました。

 NGO大嫌い、と公言してきた私がなぜNGOに勤めることになったのか?
 以下、パブリックなことを書いているようで、実際はいつもにも増して長い自分語りとなってしまうことをお許し下さい。

 私は90年代後半に日本の国際協力NGOで、その後、2000年代前半に日本のODA改革運動団体で活動してきました。前者は、外務省から資金を調達して事業を進めるタイプの、いわゆる「事業型/連携型」と呼ばれるNGOで、後者は日本のODA事業の問題点を追究し、NGOが日本政府から資金をもらうなんてとんでもないと考える、いわゆる「提言型/対抗型」と呼ばれるNGOでした。同じNGOでも両者にはわかりあえない壁があり、その壁の高さは、「NGOと外務省との間の壁」をはるかに凌駕するものでした。単に棲み分けているだけならいいのですが、互いに互いを批判するのですから、困ったものです。

 そして、その構図は、2012年の現在まで、基本的には変わることがなかったように思われます。洗練されたのは、棲み分けの手法だけ。
 フィリピンで活動する組織を見ても、日本の「事業型NGO」は外務本省や大使館との定期的な協議を着々と進め、いかにして外務省の資金を得るかという点に意識を集中させてきました。他方、「提言型NGO」はそうした協議には一切の関心を示さず(というか批判しつつ)、ODA改革という文脈で別の協議(ODA批判セッション)を展開。
 前者はフィリピンの開発NGOをパートナーとするのに対し、後者のパートナーはフィリピンのゴリゴリの社会運動組織。日本大使館のなかでも、経済担当の職員と面会に来るNGOは助成金が目的なので非常に「従順」、他方、政治担当の職員に面会に来るNGOは話の通じにくい活動家、…という、非常にわかりやすい構図ができていたように思います。(私はフィリピンでかの職場に勤務中、まさにそのことに関するペーパーを作成し、フィリピンと日本のNGOの分類表も添付して、組織の決裁を得て報告書として東京に送りました。)
 「ほっとけない」のホワイトバンド運動で知られるG-CAPジャパンの存在とか、2008年の洞爺湖サミットにおける「事業型」と「提言型」の部分的な協働とか、その後の「動く→動かす」の発足とか、フィリピンに限って言えばIBONの存在とか、例外的なものはありましたが、基本的には何も変わっていないように思われます。

 2002年に大学院に入ったとき(フィリピンにはまだ旅行でしか行ったことがなかった頃のことです)、私は実は、こうした「日本のNGO界の二分化とその政治的影響」について、特にフィリピンで活動する組織を中心として研究したいと思っていました。が、私はすでに「事業型」と「提言型」の双方で活動した経験があり、特定の組織や人々に関わってしまっていたので、そんなリスクのあることはできません。
 そこで思いついたのが、
 「代わりに、フィリピンのNGO界の分裂について研究するのはどうか?」
ということでした。当時はフィリピン「ど素人」の私でしたが、フィリピンの社会運動やNGOがすごく分裂しているということくらいは、伝聞で知っていました。さっそく、当時、京都のR大学にいらっしゃったフィリピン研究の先輩のAさん(いまでも、ものすごくお世話になっています)を訪ねてご相談したところ、
 「方向性としては決して間違っていないと思います。私も、日本で働くフィリピン人について直接的に言えない、調査できないことを香港で働くフィリピン人の事例を通じて言おうとしているところがあります。ただ、そういう隠喩的な研究はとても難しいし、やりたいことが明確にあるなら、ものすごく遠回りになってしまいます。」
と言われました。
 つまり、修士課程に入ったばかりの私にはそんな手法は無理ということです。…が、私は、フィリピンのNGOの政治的分裂そのものについてもものすごく興味があったので、日本のNGOのことはとりあえず忘れて、そちらに集中しよう、と思いました。
 …そしてフィリピン大学に留学し、先生方や、所属していた研究所の研究員の方々に、
 「政府との距離の取り方や支持政党の違いによるNGO同士の分裂とか、ひいては住民の分裂、について研究したいのですが、どのセクターがいいでしょうか。やっぱり農地改革でしょうか?(当時、Boy Morales氏が農地改革長官を退いて間がなかったため)」
と聞くと、誰もかれもが、
 「分裂といえば都市貧困セクターに決まってる。あんなに分裂してるセクターはほかにない!」
と口を揃えるので、都市貧困セクターを専門にすることにしました。
 …いまではすっかり「専門は都市スラムの住民運動」と公言している私ですが、当時は、都市貧困のトの字にも関心がなかったことをここに告白します。
 あれから10年。その間、フィリピンNGO界のとんでもない分裂っぷり、対立っぷりに圧倒されつづけ、タイにいたときもタイ人の活動家から「フィリピンNGOって些細なことで分裂しすぎだからダメなんだよ!」と指摘されてやっぱりそうかといささかショックを受け、でも、分裂の只中で理念のもとに奮闘する熱すぎる活動家たちの熱を感じるにつれ、そして、そうした分裂の連続が生み出す住民運動のダイナミズムと、上のほうで起こっているゴタゴタを冷静に眺める住民たちの落ち着きぶりを知るにつれ、どんどんフィリピンの都市貧困セクターに惹かれていって、現在に至っています。もちろん、その間もずっと、日本のNGOのことを忘れることはありませんでした。分裂や対立の現場に瀕したときの活動家や普通の住民の対応を見るたびに、日本だったらどうだろう、と思いつづけてきました。
 
 でもこの10年間、日本のNGOのことは大嫌いでした。「大嫌い」なんて単語をBlogに書くなんて非常に大人げないと思うのですが、本当に「大嫌い」としか言いようのない感情だったので許してください。次回からの投稿ではできるだけ書かないようにします。
 フィリピンに長期滞在をする前の私は、そこまでNGOが嫌いではありませんでした。ただ、自己啓発や「何かスピリチャルなもの」に頼らないといけないような崇高すぎる「ミッション」の置きかた、誰かの自己犠牲によってしか成り立たないような組織運営のありかたはおかしい。従業員の福利厚生の不足を精神論でカバーするような組織はやはりNGOとしておかしい。私が思っていたことはそれだけでした。
 もちろん、明らかにdo-gooderな人たちやスタディツアーと称してスラムを「見学」に行くような困った人たちを見て憤りを感じることはありました。でも、私は関わらないから距離を置こう…という感じでした。別に喧嘩する必要もないでしょうに、と。
 大学に入ってから途上国支援に目覚めた友人たちに、「あなたはなぜ突然にNGOをやめたのか」と訊かれることも多々ありました。中高生時代、地元ではかなり有名なNGO活動家だった(地元メディアに頻繁に出演し、学校の朝礼にも幾度となく登壇)私が大学に入った途端に活動をやめ、自分のためだけに時間とお金を使う普通の大学生の生活に切り替えたのですから、友人たちの戸惑いはいかばかりであったかと思います。でも、私は彼女たちに何も説明しませんでした。あえて喧嘩する必要はありませんから。
 大学院の研究室の先輩に勧められた、中野敏男(1999)「ボランティア動員型市民社会論の陥穽」『現代思想』第27巻第5号には、さすがに、『ゴーマニズム宣言 脱正義論』並みの衝撃を受けました(読んでいらっしゃらない方はいますぐお近くの図書館へ!)。でもまあ、それはそれだし、私はそういう人たちには関わらなければいいのだし、と思っていました。

 しかし、フィリピンに渡航してから、私は大きく考え方を変えました。フィリピンは良くも悪くもNGO大国。あちらにいたときはことさらに、「日本のNGO」の能力の低さ、感度の低さ、嫌らしさ(またこんな単語を…ごめんなさい)に苛立つことばかりでした。

●なぜか「村人と一緒に」家だのパイプラインだのを作ることで「彼らを支援している」気分になって自己満足する日本のNGO、または大学生サークルのスタディツアーとかワーキングキャンプ。まったく体力のない日本人が、「邪魔」と「感謝の強要」以外に、いったい何ができるというのでしょう? という私の質問に、誰も答えてくれない。この質問への模範解答は、「何もできない。日本人が遊びに行って、経験させてもらって帰ってくるだけ。こちらが得るものは確実だけれど、あちらが得るものがあるかどうかはわからない。」だと思うのですが、それを明言する人っていないものですね。
●ろくに英語もできないのに、フィリピン人たちに対して明らかに上から目線の日本人駐在スタッフ。フィリピン人は会計ができない、なんてことを平気で言いますが、だからといって彼/彼女自身に簿記のスキルがあるわけでもなく、優秀なフィリピン人スタッフたちから英語で嫌味を言われても陰口を言われていても気づきません。お気楽すぎ。
●安全上、午後2時以降は事業地(スラム)には行きません、と公言することで危機管理をしたつもりになっている日本人駐在スタッフ。日が暮れはじめる午後4時半ではなく、「午後2時」である根拠は、いくら尋ねてもまったく不明でした。私も調査のために一時期、その地域でお世話になりましたが、他のスラムに比べると、少なくとも午後6時までは安全と感じました。逆に、2時は午前の授業を終えた小学生たちが帰宅してきてもっとも活気づく時間帯。子どもをもつ女性を支援していたはずのNGOが、なぜ2時には引き上げなくてはならないのか、本当に謎でした。
●そんな不透明な↑のNGOに対し、興味本位で「スラムを見たいので案内してください」と無邪気にコンタクトする大学生グループ。
●それに対して「1日1万円で案内します」と返答する駐在スタッフ。スラムって見世物ですか?
●そのことに対してまったく疑問を抱かずに「スラム観光」を依頼し、「日本人が失った心の豊かさがここにある」などと、少なくともここ15年は使い古された勝手な感想を述べる大学生グループ。いったい、いつの日本人のことを言ってるの!?
●スタディツアーの前日に「明日から当団体はフィリピンに行くのですが、現地にいる方、どなたかボランティアで通訳をしてくれませんか? 私も英語には自信がなくて。」とメーリングリストで流すスタディツアー引率者。…アカウンタビリティとか危機管理とかスタディツアー費用の会計とか、いったいどうなっているの?
●ADBやUSAID, 日本国外務省、JICAがやることは、何も聞かなくてもなんでも憎いと確信している日本のNGO活動家。でも、国連やCIDAにはいつも寛容。なぜカナダはいいの? 単に米国嫌いなだけでは?

 その後、いわゆる役所と呼ばれる職場に勤めたことで、私の「フィリピンで活動する日本NGO嫌い」はさらに加速したのですが、他方で、フィリピンのNGO、あるいはフィリピンで活動する他国のNGOにおいては、本当に尊敬できる組織、そして心から素晴らしいと思えるスタッフと出会うことができました。2007-2008年に日-フィリピンEPAの批准をめぐって大活躍したフィリピンの「批准反対派NGO」の中には、ものすごく聡明で、話が上手で、かつ人当たりが良い(ついでに美男・美女の)、そして建設的な議論のできるスタッフが何人もいました。フィリピン政府もフィリピンの上院議員も、そして日本国政府も、あれには完敗でしたよ…。私は上司にそのまま、
 「勝てる気がしません。かつてのネリア・サンチョみたいなものです。」
と報告しました。(それに対して「そうですか、ネリア・サンチョね。」と言った我が上司の理解の深さもかなりのものですが。) …彼女たちのその後はいまでもFacebookでフォローしていますが、本当に優秀で、人間的にもできた人たちばかりです。

 当時の仕事と関係して、忘れられない出来事が2つあります。1つ目は、フィリピン国内の左派動家の殺害がきわめてセンシティブな政治的問題になっていた時期のこと。私はある真夜中に開催された、超党派の活動家たちによるStop the Killingというチャリティライブに参加しました。外交団が参加するようなものではなく、完全にフィリピン人のためのイベントで、左派政党の議員の方々や、それぞれに対立する左派グループの幹部の方々も多数出席していました。皆、当時の私の所属を知っていましたから、それぞれにいろいろと言いたいことはあったでしょうに、何も言わずに、ただ順々に黙って強くハグしてくれただけでした。それに気づいた各組織のスタッフや若い活動家たちはすぐに私を取り囲んで議論を吹っ掛けようとしてきたのですが、各組織の幹部たちが「今夜は音楽を聴く時間だから質問は慎みなさい」と強く制してくれたのでした(それぞれが互いに牽制し合っていたこともあるのでしょうが)。
 2つ目は、有給を取ってキアポでの都市貧困層の集会に参加したときの日のことです。どちらかというと急進的なNGOが主催する集会でしたので、私は幹部の方々にご挨拶したあとは、目立たないように、少し離れたところからステージを見ていました。するとまったく偶然にも、かねてから存じ上げている日本NGOの活動家の方に見つかってしまいました。私は彼がフィリピンに来られていることすら知りませんでした。私が立っていた場所がたまたま、その日本NGOの支援するコミュニティの方々の立っておられるすぐ近くだったのです。彼は私に、なぜこんな場所に来ているのか、日本政府のスパイなんじゃないか、と決めつけ(日本政府はキアポでの小集会に人員を送るほど潤沢な資源を有してはいません)、私が「いえ、今日は個人的な関心で、有給を取って来ています」と言っても聞く耳をもたず、「名刺を下さい、持ってますよね、名刺!」と詰め寄られました。もちろん持っていましたから差し上げましたが、とにかくしつこく絡んでいらっしゃるのです。結局、そばにいたフィリピン人の活動家数名が、彼を引き離してくれたのでした。そして数週間後、今度は仕事でその急進的なNGOの幹部(私も頻繁に会っていた人で、キアポでの集会には参加していなかった)と同じ場に居合わせることになったとき、彼はなんと、私に謝罪したのです。
 「君が我々の集会に姿を見せるときはほとんどがプライベートであることは、皆が知っている。日本政府はそんなところに人を送ったりしない。でもあの日本人はそのことを知らなかった。もっと早く止めに入るだったのに、と担当者が言っていた。ごめんね。」
 …KYとか、空気を読む、という日本語が定着し始めたのはちょうどあのころだったと思いますが、私はその意味を、あの夜のライブで実感したものです。(なんて、ちょっと持ち上げすぎですね。普段はもっと頑固な人たちなのですが…。)
 経験からNGOを語ろうとすると、どうしても、組織じゃなくて組織に所属する個人の話になってしまいがちですが、上記の2つのエピソードで私が申し上げたいのは、それらの組織にたまたま優秀で柔軟な幹部やスタッフ(理事なり事務局員なり)がいたのが素晴らしということではなくて、そうした優秀で柔軟な幹部やスタッフの価値観が組織内で共有され、指示として伝達されていたのが素晴らしい、ということなのです。

 大学院での私の研究内容は、フィリピンのNGOの政治的分裂と、それらのNGOに「支援される側」である貧しい人々がそれをどう見ているかを分析するものでした。そのために私は、NGOのことを批判的に冷静に眺める「支援される人々」の側に立つことを決めていました。研究者なんだから「側に立つ」じゃなく中立でいるべきだ、と言われるかもしれませんが、こんな政治的なテーマで研究をしていて、中立でいるなんてできるはずがありません。私が知るかぎりにおいて、「中立」を標榜している研究者は100%、NGOの側に立っています。当然のことです。NGOのほうが声が大きいし、彼らは英語で情報を発信してくれるのですから。かなり意識しないと、「支援される」側の声を拾い集めることはできません。だから私は調査中、調査に協力してくれていたNGOの側と住民の側のそれぞれに、「私は住民組織の肩をもつことになると思う」と申し上げました。NGOに対しては、失礼千万な話です。もともと、私は彼らの手引きを受けて各スラムのコミュニティに入ったのですから!
  …でも、NGOの幹部やオーガナイザーたちはそれを聞いて、
 「かまわない。君の研究テーマを最初にきいたときから、きっとそういうことになるのだと思っていた。俺たちのワルグチをいっぱいきいてきてくれればいい。Reflection, Self Reflection. でもあとで情報くれよな。ちょっとでいいから。」
と言いました。そもそもそれ以前から私は、彼らに対し、
 「それって本当に住民主導なの?」
 「このあいだのあの件って、住民を誘導してなかった?」
と、失礼なコメントを発しまくり、何時間もの議論にお付き合いいただいていました。私が博士論文なんてものを書くことができたのは、こうした、本当に理解のある、寛容な人たちに恵まれて調査をさせていただくことができたからなのだと思います。
 そして私はスラムに入り、NGOについてのたくさんの批判をきかせていただきました。「支援される人々」が「支援する人々」に抱く不満、失望、そしてそれを表だって述べることに対する躊躇や、「支援してもらっている分際で…」という後ろめたさ。でも、彼らは本当に雄弁でした。決して感情的ではなく、何が許せて何が許せないのかを、具体的に、説明をつけて語ってくれました。
 私は論文を書く前には、あるいは学会報告をする前には、必ず、私の研究の中で不幸にも槍玉にあげられることになってしまったNGOの幹部やオーガナイザーの方々に原稿を見てもらいました。あるいは、プレゼンをして意見をいただく時間をとってもらいました。彼らの側から見たら、ひどすぎる話です。要は、勝手にワルグチを書かれて、それを見せられて、「はい、何かご反論はありますか。なければ学会で報告します。」と言われるようなものですから。無茶苦茶です。にもかかわらず、彼らは何度も付き合ってくれました。彼らの理解の深さと寛大さには、私は一生頭が上がりません。
 もちろん、私はできるかぎりの「御礼」として、両者の橋渡しをするようには務めました。住民の側から
 「NGOに直接話すのは嫌だから匿名でこの不満を伝えておいてほしい」
 「いまから言うことを英語でうまくとめて手紙としてNGOに持って行って。」
と言われてそのとおりにしたり、NGOの側から、
 「いやそれはものすごい誤解だからこの資料を持って行ってこの5人の人たち全員に一人ひとり説明して訂正してきてほしい」
と言われてその務めを果たしたり、むくれてしまったNGOワーカーと和解したくてたまらないのにウジウジしている住民リーダーのおばちゃんをNGOのオフィスに引っ張っていったり、逆に、訣別を告げられてしまった住民リーダーとまた関係を復活させたいと願っているNGOオーガナイザーに、私のアシスタントという名目で一緒にコミュニティについてきてもらって、私をダシに会話してもらって、なあなあに和解をしてもらったりしました。
 「研究者としてそれはどうなのか? イシューにも組織にも関わりすぎでは?」
と言われるかもしれませんが、私は自分のやりかたを決して後悔してはいません。公害に第三者はいない、と言ったのは宇井純先生ですが、本当に入り込もうと思ったら、第三者ではいられないのですよ、絶対に。それでなければ私は博士論文を書けなかったと思います。そして、NGOの方々も住民の方々も皆、彼らの協力がなければ私が博士論文を書けなかったということを知っています。本当に、彼らには一生、頭が上がりません。
 
 フィリピンでお世話になった通算6年半のあいだ、そんな寛容なNGOワーカーの人たちに出会い、心を許せる友人を得ることができた一方、日本のNGOで尊敬できるような組織には、ついに出会うことができませんでした。私は日本のNGOに心底失望していました。フィリピン研究会全国フォーラムをはじめとした研究会で「活動報告」なるものを行うNGOというか学生グループも本当に素人っぽくてイノセントで、話をきいているだけでつらくなるくらい(ごめんなさい、またこんな感情的な表現を…)でした。友人の皆さんはよくご存じのように、私は日本の気心知れた友人たちとお酒を飲むと、ものすごい勢いで、この世のかぎりのNGOのワルグチをまくしたてます。そしてフィリピンでは、お酒を飲まなくても日常的にNGOを批判しまくっています。

 フィリピンの友人たちは、(現役のNGOワーカーや活動家も含め、)そんな私のワルグチに、何時間も忍耐強く付き合ってくれました。日本NGOやdo-gooderのあふれるマニラ首都圏。私の「日本NGO嫌い」、「do-gooder嫌い」は友人たちには広く知られていて、彼らも、
 「saging, こんなすごいdo-gooderのスタディツアーを見たぜ!」
 「君が大嫌いなあの日本人の映画監督、またゴミ捨て場で映画撮ってるぜ! それがひどくてさ…。」
といった情報で私を煽ってきました。ただ、彼らは私の嫌悪感は理解してくれたものの、なぜ私がそこまで不寛容なのかは理解できないといった感じでした。
 「君が憤るのはよくわかる。でも、放っとけよ。たかが数百万円のプロジェクトじゃないか。そんなことにいちいち怒るなって。もっとわかりやすい『悪』はほかにあるだろう。」
彼らが言っているのは、要は、そういうことでした。

 2009年に、フィリピンの洪水被害への日本のNGO事業に関するモニタリングを担当したとき、私は信頼できるフィリピンの友人たちに助手をお願いしました。当時、私はフィリピンをしばらく離れてタイに住んでいて、いまなら真っ新な心で日本のNGOの新しい面を発見できるかもしれないと密かに思っていたのです。偏見を排除してありのままのモニタリングをしたいから、そのように助けてほしい、と彼らに依頼していました。が、結果としては友人たちは私の暴走を止めるどころか私と一緒になって、日本のNGOの能力の低さにつくづくショックを受ける結果に。たまたまかもしれませんが、このときに対象となった日本NGOったら、7団体のうちの5団体は現地(フィリピン)での活動経験がなく、私から見れば、本当にトンデモナイって感じでした。

 ……。
 このモニタリングのずっと前から、私は感じはじめていました。こうやって日本のNGOの悪口を言い続けていても、私はどこにも行けない。お世話になったフィリピンの方々に、何もお返しすることはできない。
まだ10代だったときにお世話になっていたNGOで、こう言われたことがありました。
 「君は他人に厳しすぎる。偽善だっていいじゃん、善なら。」
…「ボランティアは偽善」だなんて懐かしい言葉がまだ流通(?)していた頃のことです。あの中野敏男論文が世に出るよりもっと前ですね。

長くなるので、続きます。
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by saging | 2012-06-18 00:13 | その他