Keso de Bola とは、 「表面は赤いのに中は黄色い」フィリピンのボール型チーズ。転じて日和見主義者。       かつてお世話になった、現地の言葉で「灯台」と呼ばれるマニラ湾岸のスラムを、ガラス越しに。
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さよなら自転車
 私が泊まっているウィークリーマンションの所在地は、実は、浅草ではなくて吉原でした。いえ、もともと浅草に期待していたわけではなく、むしろ、私の好きな千住エリアに近いのが素敵だと思って決めたので、吉原が近いことはわかっていたのですが、一本裏の通りが本当にギンギンでびっくり。といっても、新宿や歌舞伎町とは全然雰囲気が違います。客待ちのタクシーが長い列を作っているのと、ごくたまにケバいお化粧の女性がうろうろしているだけで、あとは、路上にたむろしている人も呼び込みもなく、とても静かです。興味津々ですが、じろじろ見るのもなんですし、常人には立ち寄り難い雰囲気を放っている一角ですが、私には自転車という強い武器があるので、さりげなく通るふりをして毎晩通ってみました。それにしても…。お店の名前が古すぎます。「男爵」に「女帝」に「ギャル」に「貴公子」…これ、全部お店の名前ですよ。その他、唐突に現れる「女性用宿舎」なるもの、「営業時間 10:00-3:00」という電子掲示板を出しているど派手な衣装屋さん(まるでバンコクのホイクワンのようです)など…すごいです。
なお念のため、私の泊まっているウィークリーマンションは、かつては遊郭の一角であったのでしょうが、現在は健全な廉価宿です。部屋の窓からは東京スカイツリーが見えます。部屋は電子レンジと大きな冷蔵庫とIHコンロ付き、炊飯器や調理器具や食器も貸していただけるので、何でもできます。朝からご飯を炊いて、サラダと納豆で朝ごはんにして、お弁当を作って…。もう、自宅気分です。

 この1週間は、基本的に、とてもいいお天気で、暑くもなく寒くもなく、最高の気候でした。東京生活の最後をこんなふうに迎えられてよかったです。毎朝、幸せを噛み締めながら自転車を走らせました。浅草(吉原ですが)から霞ヶ関はわずか40分ですが、わざと1時間も早く宿を出て、上野を散策してみたり、東京駅の周りをぐるぐる走ってみたり、毎朝、寄り道ばかり。東京スカイツリーの至近距離から出発して、皇居近辺で東京タワーが見えてくるあたりが感無量です。最後は必ず皇居で休憩して、持ってきたお茶を飲んで、一息ついてから仕事へ。お昼休みも、お弁当をもって外に出て、皇居で食べました。霞ヶ関では、お昼休みは「節電のため消灯」で薄暗いのですもの。
 夜は夜で楽しみました。いまだに馴染みのない虎ノ門(位置関係が微妙でよくわかりません)での仕事の会食、永田町でお世話になった方々との懐かしい赤坂での食事。

週末は台東区サイクリングを堪能。朝からアメ横に行って「一本1000円」のお刺身用ブリを眺めたり(とてもほしかったのですが、当然ですがさばけないので断念)、南千住の「あしたのジョー」の人形のある商店街の近くの精肉店で(このあたりになぜかとても多い)馬肉を選んでみたり、浅草演芸場の裏の通りで午前中から飲んでいる人たちを眺めたり。なんだか、幸せな気持ちになりました。
 浅草の和装店の多さにも目を見張りました。次の赴任地であるタイに持っていく着物に合うような涼しげな帯揚げや帯締め、襦袢と半衿と名古屋帯できちんと着物っぽく着られそうな浴衣などを見て回りました。絵にかいたような江戸っ子な店主に
 「おっ、三社祭用かね?」
と聞かれ、何も知らない私は、三社祭ってなによ、と思いながらもにっこりしておきました。浅草はとってもいいところです。

 そういえば先週の金曜日は、官邸前での「金曜日デモ」を「見学」したあと、元職場(NGO)でお世話になっていた方(月島在住)のところにも遊びに行かせていただきました。
官邸前から霞ヶ関に下る坂道。そこから日比谷公園に延びる道。そう、永田町で働いていた頃、私は有楽町までの定期を持っていて、夕方、霞ヶ関で用事を済ませてから、この道を通って日比谷公園を散歩したり銀座まで歩いたりしたものです。永田町から「下りて」くるときは感じないのですが、日比谷公園から見ると、国会ってほんとうに丘の上にあるのです。外務省も坂の中腹にあるので、手前に外務省、その背後に国会が「そびえたつ」…あの風景は独特で、とても象徴的です。私はそのことを、昨年・一昨年の10月のグローバルフェスタ(@日比谷公園)のときにも感じたのでした。日比谷公園で盛り上がるNGOと、距離的には近いような気がするのに圧倒的に「遠い」外務省と永田町。
 霞ヶ関から月島はわずか20分なのに、いろいろなことを感じました。初めて通る築地、名前だけは知っていた勝どき橋。
 帰りは、清澄白河、両国を抜け、隅田川を渡って浅草へ。東京ってほんとうに狭いです。1時間と少しもあれば、千代田区、港区、中央区、江東区、墨田区、台東区、足立区を簡単に横断できてしまうのですから。

 今日は、台東区、荒川区、北区、板橋区を横断しました。
 あの震災の直後に江古田の近くで購入し、以後、2年以上ずっと私の日々の通勤に付き合ってくれた自転車を、板橋に住む元上司にお譲りすることにしたのです。
 公共交通(特に地下鉄)に乗ることに著しい苦痛を感じる自分にとって、自転車は、もう、身体の一部のようなものでした。2年間、毎日1時間~1時間半は乗っていましたし、週末は新宿から池袋はもちろん、上野に行ったり渋谷に行ったり、ずいぶん酷使しました。昨年は鶴見まで行ってくれました。前の職場では屋根付きの自転車置き場がなかったので雨の日は専用カバーをかけて大切に扱い、定期的にサイクルショップでメンテナンスしてもらっていました。
 元上司はきっと大切に使ってくださるだろうと思いますが、それでも、2年間をともにしてくれた自転車と別れることは悲しくて、最後の道中が、名残惜しくてなりませんでした。
三ノ輪から王子まで、実に殺風景な明治通り。フィリピンのLRTの駅前みたいに庶民的な煙がもくもくしている王子駅。どうしても「王子-赤羽‐十条」の位置関係のわからないあの「basta(要するに)北っぽい」エリア。「桐が丘」の道路表示(桐が丘は私が東京都内でもっとも好きなところです)。懐かしい環七に、環八に、川越街道。
 最後に、かねてからの念願であった「東京大仏」を見て、すぐ隣の赤塚植物園(充実しているのにとてもオープンで無料)に行って、とても23区とは思えない(といってもほぼ埼玉ですが)板橋を堪能し、愛車に別れを告げました。
 だってこれは、普通の自転車ではないのです。電車に乗れない私を最後まで支えてくれて、「東京を地上から見る」ことをいつも助けてくれた自転車なのです。一緒に、いろいろなところに行きました。
 愛車を置いて地下鉄の駅に向かう道のりはとてもとても遠く感じられました。
 もう、明日からは自転車がないのです。このエリア(浅草というか吉原)、浅草駅にも入谷駅にも徒歩25分くらいかかるという、実は落とし穴的な地域。どおりで賃料が安いわけです。

 いつかまた東京に住むことがあったら、住みたい街が多すぎて困ってしまうと思います。便利な新宿区に住みたいかもしれないけれど、浅草(というか吉原)は最高ですし、千住も素敵だし、以前も住んでいた板橋だってとてもとてもいいところ。人気だという吉祥寺や荻窪は、行ったことはあるけれど別にピンときません。同じ郊外なら、断然、王子か赤羽でしょう!

 もういちど。
 東京生活の最後をこんなふうに迎えられてよかったです。
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# by saging | 2013-05-16 00:02 | その他
Budgetary Manila and Tokyo
 先日まで3週間、フィリピンに行っていました。
 3週間はなかなか長いです。フルタイムの研究者でさえ、そんなに長くいることは難しいのかもしれません。
 訪問の目的は、治安部門改革とフィリピン陸軍の民生支援に関する調査。これまでの専門とはほとんど関係しない分野ですが、マニラ勤務時代のネットワークのおかげで軍にもピンポイントでインタビューができました。
 もちろん、恩多き調査地のスラムも、もちろんすべて回りましたし、親しい友人たちとも語り合いましたし、ちゃっかり、ダイビングもしてしまいました。
 フィリピン研究を始めて10年しかたちませんが、最近になってやっと向上したのは、調査の効率かなと思います。1日に3件も4件もアポを入れてあちこちを周ります。その日にしか会えない人かもしれないのだから、とにかく、ダブルブッキングでない限り、無理してでも相手の指定した日に行きます。マニラでは、時間はお金で買うものと割り切ります。タクシーをフル活用する、場合によってはレンタカーを1日借り切る、または、高架鉄道の駅までタクシー、そこから鉄道、降りてまたタクシー、といった時間と労力のもっとも節約できる方法をとる。
 かといって「ブルジョワ旅行」をしたわけではなく、宿泊は扇風機のみの400ペソ(約900円)のドミトリー(二段ベットの並ぶ大部屋)。朝7時を過ぎると暑くて寝ていられませんが、逆に言えば7時に起きることを基準に就寝時間を決めればいいのですし、昼間は私はほぼ外出していますし、夜は庭のテーブルで涼しく仕事すればいいのですから、個室は不要です。どうしても昼間に集中して仕事がしたいときは、エアコン付きの個室(1500ペソ)を借りて篭もりました。
 私は基本的に節約家なので、必要なときに必要なお金を使うセンスって、なかなか身につかないものですが、フィリピンではやっとそれができるようになってきた気がします。

 すばらしい3週間でした。自分がスラム研究から次のステップに踏み出せたことで、いろいろなことが違って見えてきた気がします。これまではフィリピンに行くたびに、まるで、自分だけがめまぐるしく変化して(私は数年おきに転職します)、「彼ら」は何も変わっていないように感じていました。でも、いまはそうは思いません。それはむしろ、彼らが「変わらない」と決めつけたい私の願望がただ投影されていただけではないかと思います。
 フィリピンやタイの新聞はもちろん目を通していますが、以前ほど些細な記事に心を乱されなくなりましたし、来週に迫ったフィリピンの中間選挙(上下院・地方選挙)にもあまり関心がありません。自分の研究プロジェクトの遂行しか考えられなくなった自分はフィールドワーカー失格なのかもしれないとか、自分は地域研究者から遠ざかりつつあるのかもしれない、と思いつつ、それでもいい、むしろそうありたい、と思っていたりします。

 明日から1週間、次の仕事のための東京研修を受けます。

 今朝、夜行バスで関西から東京に来ました。節約しているわけではないのです。新幹線が好きではないのです。速すぎるし、特に小田原~浜松間のトンネルは気分が変になってしまいます。もちろん、耐えられないほどではないので、仕事で出張するときなどはきちんと新幹線を使いますが、GW中や年末年始などの人の多い時期は決して乗りたくありません。
 夜行バスは長時間密室に閉じ込められるし、高速道路は高速道路で怖いのですが、しかたがありません。

 今朝は7時に新宿駅に到着し、3月まで借りていた新宿区のアパートにずっと置かせていただいていた自転車を取りに行って、飯田橋~四谷の外濠沿いをサイクリングしました。緑の香りがして、時折ツツジの香りがして、とてもすばらしかったです。

 1週間泊まる予定のホテルは浅草。勝手知ったる新宿か池袋にしようかと思ったのですが、浅草~入谷エリアにはたくさんのウィークリーマンション・スタイルの安宿があると知り、そこにしてみました。新宿で10平米の部屋に泊まる価格で、浅草ではキッチン付きの20平米以上の部屋に泊まることができるのですもの。

 浅草は四谷から自転車で50分程度。懐かしい永田町~溜池山王から、霞ヶ関、日比谷公園を抜け、東京在住中は何度もランニングした皇居沿いの道を走り、新装された東京駅中央口に出ます。私がもっとも苦手な駅・大手町も、地上から見ればシンプルなもの。なぜ地下街はあんなことになってしまうのでしょうかね。
 大手町から新日本橋、浅草橋を超えて浅草へ。
 GWで人がいっぱいでしたが、浅草、とても雰囲気のあるところ。外国人の友人が来るたびに案内しましたが、自分で来たことはありませんでしたし、雷門のエリア以外知りませんでした。でも、有名な合羽橋とか浅草ROXとか、それだけでなく蔵前~入谷までのさまざまな小規模商店、鮮魚店など、すごくすてきです。

 明日からの研修中は、浅草のこのホテルから永田町エリアまで自転車で通うつもりですが、おそらく40分もかかりません。東京の東側は土地が平坦で走りやすいですね。永田町から池袋に行くと50分はかかります。池袋のほうが浅草より都心っぽいのに。浅草からあと10分も走れば千住ですから、千住から霞ヶ関や永田町に通うというのもありでは? 雨の日は日比谷線を使えばいいのですし。私が以前に住んでいた板橋よりは、よほど都心に近そうです。次に東京の中心で働く機会があったら、千住か入谷に安く住んで自転車通勤、というのをぜひともやってみたいです。(とはいえ、世の中はよくできているもので、千住の平均家賃は板橋より高いのですよ…。)
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# by saging | 2013-05-07 01:38 | その他
回転ドアは、回転すること自体を目的としなくてもいいのかも
  前回の投稿から半年が経ってしまいました。その間、NGOで普通に働いてきました。会計簿をチェックしたり、収支報告書を作ったり、ボランティアさんに書き損じはがきのカウントをお願いしたり、在外職員の日当や宿泊費を計算したり…そんな毎日でした。貧乏暇なしのNGOですから、毎月の残業時間は160時間を超えました。
 私は、でも、それでもよかったのです。この半年間は、とても健康でいられました。秋のかなしさも冬の暗さも払拭できるくらいに、毎朝、6時に起きることができました。アメリカでの国際学会で報告し、ケニアや南スーダンに出張し、兵庫県の防災シンクタンクでの活動に力を注ぎ、元指導教官とは「国際協力NGOの提言能力に対する共同研究」を実施し、知人の紹介で、東南アジア情勢に関するテキストを執筆(共著)しました。
 NGOでの給与は手取りで16万円台(160時間残業しても、手当はありません)ですが、さまざまな副収入や研究助成金をいただいているおかげで、議員秘書時代に引っ越してきた新宿区の35平米のマンションの家賃を払い、研究書籍を買い、なんとか貯金して暮らしていくことができています。大嫌いな地下鉄に乗ることは月に1回くらいです。雨の日はバスで通勤します。
 あんなに「嫌い」だったNGOに転職してみても、自分の価値観に特に変化はありません。内部に身を置くと、つくづく、日本のNGOの組織基盤や財政の脆弱さや人材不足が目につきます。私がNGOに対して抱く「胡散臭さ」は、いまも変わりませんし、会議などで他団体の職員と会っても、社交辞令は最低限にして、そそくさと帰ってしまいます。
 
他方で、研究関心や、今後の研究活動に対する姿勢は大きく変わりました。フィリピンやスラムへの興味は薄れ、前回の投稿でも述べた「自衛隊とNGOとの関係」というテーマに強く惹かれるようになりました。12月には、駒門駐屯地で実施された、自衛隊と文民との合同演習に参加。2月に南スーダンに出張した際は、仕事の合間に自分の研究のための調査と、同国での国連PKOに派遣されている自衛隊員へのインタビューを実施し、職場の上司とともに「仕事ではなく研究活動として」1つの論文にまとめました。今年の前半には世に出る予定です。NGOに就職したことで自衛隊にシンパシーを抱くようになるなんて、つくづく稀なケースだと思います。

 この5月から、ふたたび東南アジアに住み、働くことにしました。研究職ではありません。以前にフィリピンで従事していたのとまったく同じ職種です。
 そのいちばんの理由は、「研究職に就かない研究者」として、日本のアカデムの常識や縛りから自由になりたかったからです。日本で学会や研究会に出席するときにいつも感じる、どうしようもない閉塞感。顔を合わせるたび、研究の話ではなく「あの人はどこどこに就職できてラッキー」、「あの人はあんなところで研究員をしているから●●先生にこき使われてたいへん」といった話で盛り上がる同年代の研究者たちへの失望。大学に就職することにまったく関心を示さない私に対し、「大学に就職できない人」という哀れみや軽蔑の視線を向ける人々。「大学への就職には興味がない」と言ってしまえばきっと「異端」扱いされるでしょうし、「研究への関心を失った」、「真面目に研究する気がない」、「就職を諦めてしまった」と勝手に解釈されてしまう。
 私は出身大学から「研究員」の肩書きをいただいているので、学会や研究会での自己紹介ではそれで通しますが、何かの折に、「有給」でも「常勤」でもない研究員であること、ほかに有給常勤職を有していること、非常勤教員すらろくにしていないこと、などを相手にお伝えすると、その瞬間に、相手の私に対する評価が急落することが、ありありとわかります。今回の転職にしても、それを告げた瞬間、お世話になっている大学の先生方の表情に失望の色が浮かぶのを、私は手に取るように感じます。
 大学に就職しないと研究者ではない、という考え方が、私にはまったく理解できないのです。私は博士号取得後もずっと、大学に就職すること、フルタイム研究者になることを考えたことがありませんでした。現実の政治に関わる仕事をしながら、政治学者として鍛えられる人生を歩みたかったからです。いかなる研究職にも応募したことがありませんし、JREC-INを見るのは半年に1回くらいです。「大学に所属していなくても応募できる研究助成金」情報は、週に1回はチェックしているのですが。

 NGO職員であろうと議員秘書であろうと、仕事をもちながら研究を続けることは容易なことではありません。時間的な制約、先に述べたような研究者たちからの偏見や無理解はもちろんのこと、就職先からも「これだから研究者は使えない…」という目で見られることを覚悟しなくてはなりません。私はマニラで働いていたときは、院生であることをずっと隠していました。議員事務所でも、博士であることはひた隠しにしてきました。現在のNGOだってそうです。入った当初から、事務局長は、私の直属の上司にあたる人(現在の共同研究者)が博士号をもっていることについて、「彼は研究者だから実務はあまりできない」と言っていました。しかし、彼は始業時間より2時間も早く出勤してゴミを出し、掃除をし、お湯呑を片付け、台所のタオルを自宅に持ち帰って洗っている、事実を知るまでに時間はかかりませんでした。会計簿をチェックするのも、職員が海外に赴任するときの超過荷物の計算も、他の職員の書いたどうしようもなくダメな報告書の誤字脱字のチェックも、Excel関数を入れ込んだ経理のフォーマットの作成も、彼は進んで、そして黙ってこなしていました。私も過去の職場でまったく同じ経験をしました。誰よりも朝早く出勤して掃除をしても、コピー機のメンテナンスや他の職員の出張旅費の計算や文書整理などの下仕事を担当していても、博士というだけで、周囲の人に格好の攻撃の理由を与えてしまうのです。少しでも仕事に不備があると「これだから研究者は…」と、ここぞとばかりに批判される可能性があるのです。特に私は、文系で博士で、おまけに女性です。ゴミ出しもコピーもお茶出しも、ほかの誰にも決してやらせない、いつもそう思って働いています。
 大学に就職していたら、きっと一生、こうした日本社会での「研究者への風当たりの強さ」や、「研究職についていない研究者への差別」を実感することができなかったと思います。その点において、私は政治学者として、この道を選んでよかったと、心からそう思っています。
 私が自衛隊に強い関心とシンパシーを抱くようになったのも、そのことが一因です。自衛隊には、医師や技師といった特殊な技能を持つ人たち、工学博士や理学博士、そして、安全保障を学んだ博士や修士の人たちがたくさんいます。彼らは、それぞれの任務に従事しながらも、当然のようにアフターファイブに学会や研究会に出席し、アカデミアの言語を駆使して職業研究者とコミュニケーションをとりながら、自衛隊の論理を文民に伝えるべく努力しています。私は現在のNGOに就職してから、自衛隊の方が参加する研究会に何度となく出席させていただく機会を得て、「研究者の枠」にはまらない彼らの柔軟さ、研究者でありながら公務員であることへの誇り、他の業界から学ぼうとする貪欲さを感じ、自分のこれまでの生き方を見直すとともに、強く動機づけられました。今回の論文において自衛官の方々のインタビューを実名入りで引用したいと申し出たときも、草稿を送って事実関係や表現の確認をお願いしたときも、先方は、24時間以内に詳細に回答をくださいました。日本のNGOはあれほどまでに研究者を敬遠し、研究者から「評価される」ことに抵抗を覚え、二言目には「研究者は現場の事情も知らないくせに…」と批判するというのに、自衛隊のこの柔軟さと寛容は、私にとってはとても驚きでした。

 私は結局はずっと、日本の学術会に勝手に期待し、依存し、甘えてきたのだと思います。自分が理解されるスペースがどこにもない、自分が明らかに適応できない、偏狭で生きづらい日本の学術界、閉鎖的な院生研究室やPD研究室。そこから逃げ出したかったからこそ、私は、大学院在籍中、ずっと日本を離れていました。でも、博士号取得後は、私が大学に就職しないことに露骨に失意をあらわす先生方、20代をともに楽しく過ごしたはずなのに大学に就職した途端に急に言葉が通じなくなってしまった研究仲間たち、博士というだけで「使えなさそう」というイメージを抱く日本の公務員や日本のNGO職員、そうした方々に囲まれながら、一生懸命、その人たちに迎合しよう、皆に受け入れてもらえるように努力しよう、自分を合わせよう、と思っていました。研究者になる気などもとからなかったくせに、日本の大学に就職する気もまるでないくせに、なんとなく日本の学会に関わり、繋ぎ留めたくもない人脈に固執し、それでいて「自分は彼らとは違う」と自負し、自分が「彼ら」から浮いてしまうと、「彼ら」の理解不足を嘆く。そんなに不満なら、別の世界に行けばいいのに、結局はどこにも行く能力がないから、あるいは、行く勇気がないから、なんとなく、くすぶってきたのだと思います。
 そのことを、同じ経験をもつ上司から端的に指摘され、上司とともに自衛隊員との接触を重ねるうちに、自分は、日本の閉鎖的で特殊なアカデミアのサークルに固執する必要はないのだと思うようになりました。思い切って、しばらく、日本で研究者として活動することを諦めようと思います。研究資金へのアクセスの便宜上、日本の大学の研究員としての肩書きは使いつづけるにしても、精神的には「幽体離脱」しようと思います。
 フィリピンでは、博士号をもつ人がNGOで働くことも、公務員が博士課程に在籍することも、議員秘書が博士であることも、NGO幹部や議員秘書が政治学会でアカデミックな報告を行うことも、どれも当然のことです。欧州での勤務経験が長い上司も、同じように言っていました。欧州のNGOと同じだと思ってたまたま日本のNGOに応募してみたら、日本のNGOはボランティアに毛の生えたようなアマチュア集団で驚いた、そして、NGO職員の地位が低すぎること、学会で自己紹介をする時にNGOの名刺を出して驚かれることにもショックを受けた、と。つくづく、日本が特殊なのだと思います。

 10月末にミシガン大学での国際フィ●ピン研究学会に出席し、数年来お世話になっている先生と畏友たちとパネルを組んで報告もさせていただきました。充実感でいっぱいでしたが、同時に漠然と、「自分はもう、地域研究者でも、urban poor研究者でもないのかも」と感じました。
 マニラで彼らと出会ってから、もう10年近くになります。あいかわらず、フィリピンもurban poorも大好き仲間たちです。ミクロでマニアックなスラムの話題で盛り上がる楽しさは、あの頃と変わりません。ただ、お互いに別々の組織で別々の仕事につき、それぞれの属するinstitutionなりcommunityなりsocietyなりのなかで生きているのだな、ということを、会うたびに、しみじみと感じます。シカゴでの乗り換えを含め実質12時間のフライト、10時間の時差によるJet Lag, そしてとんでもない寒さ(10月末だというのにみぞれが降っていました)と暗さ(朝は8時まで真っ暗)に苦しめられながらも、在米の畏友とパネルのChairであるは先生(スラム研究者で人類学者でありながらも普遍的なセオリーを論じる犯罪学者)の優しさ、日本から一緒に行ってくれた畏友の心遣いに助けられ、単なる「スラムの話」を超えたことを常に話題にすることができました。地域研究とは程遠い仕事について数年が経っていることもあり、むしろ、日本政治とか平和構築とかの範疇にある恩顧政治とか治安部門改革とか民軍関係とか、そうした、実務に基づいた話しかできなくなっている私、「フィリピンオタクにはなりたくない」と内心で思っている私を、彼らは受け入れてくれました。そのことがとても嬉しかったし、たとえ専従研究者ではない道を選び続けたとしても、私は彼らとまた共同研究を続けられると思います。
 
 非専従研究者の落とし穴は、先住の仕事の忙しさを理由に研究をサボってしまうことだけではありません。「専従研究者よりも現実の政治を知っている」自分を過大評価し、研究活動をしない自分を正当化してしまうことこそが、最大のリスクです。
 私はフィリピン勤務中も議員秘書時代も、まさに、仕事が忙しいことを理由に研究をないがしろにしてきました。霞ヶ関や永田町にいると、普段の仕事がダイナミックでそれなりに充実しているので、それなりに「成し遂げた感」を感じてしまい、実際は研究活動などしていない、論文も書いていないのに、あたかも研究をしたような気分になってしまうのです。気をつけなくては。

 これまではずっと、学会報告も論文発表も、「議員秘書が/NGO職員が仕事の片手間でやっている」と思われたくはない、24時間研究に専念できる人たち(そうそういないでしょうが)と同じ土俵で評価されたい、「別に仕事をしているわりにはすごいよね」とは絶対に言われたくない、あたかも専従研究者のように涼しい顔をしていたい、と思って、とても気負ってきました。でも最近では、非専従研究者に対して「片手間で研究して…」という見方しかしないような人たちに合わせる必要もないし、同じ土俵で張り合う必要もないと考えるようになりました。むしろ、どんどん片手間で、好きなことをすればいいのだと思います。むしろ、大学という組織からも先生という上司からも自由な立場だからこそ、業績づくりのための論文量産競争、ポストに関する噂話、狭い世界の人間関係、地域研究VS●●政治学などといった不毛な対立、学内政治…そうしたことに無縁でいられるからこそできることを、周りを気にすることなく、まさに自由奔放にやろうと思います。

 私はこの数年間ずっと、研究者と、NGOと、官僚(行政)と、そして政治家(立法)の橋渡しになりたいと思ってきました。すべての業界を渡り歩いてわかったのは、自分は、研究者にもNGO職員にも官僚にも、永田町の人間にもなれないということでした。それであれば、軸足は不安定ながらも、これからも世界のボーダーを超えて異なる海を泳ぎつづけながら、自分が楽しいと思えること、自分が価値を見いだせることに心を注いでいきたいと思います。
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# by saging | 2013-03-20 21:22 | その他
右へ左へ回転ドア
 今年の残暑は長かったですが、私はいつも、「1年中この暑さでも大歓迎!」と思っていました。夏が長ければ長いほど嬉しいのです。青すぎる空、蝉の声、モコモコと分厚い真っ白な雲。神田川沿いをこれでもかとばかりに生い茂る木々の緑、鬱陶しいに飛び交う虫たち、日本では夏にしか見られないような鮮やかな花の色。1日に何度も水シャワーを浴び、3日に1回はゴーヤチャンプルーを作っては冷奴と一緒に食べ、その美味しさに感動する毎日。
 こんな日が、ずっとずっと続いてほしいのにと思っていました。9月と10月は、1年でいちばんさみしい季節です。遠くから運動会の音楽が聞こえてくるたびに、かなしくてたまらなくなります。夏の空気がどんどん消えていって、あの暗くて重い冬がまためぐってくることが、怖くてなりません。あと数ヶ月もしたら、この視界から緑が消えてしまって、室内は暖房の淀んだ空気で満たされてしまって、私はきっとまたいっさい電車に乗れなくなり、デパートも地下街も歩けなくなり、書店やスーパーに行くことさえ困難になるのでしょう。
 先日、職場の近くで、とても鮮やかなピンクの花をつけた百日紅が剪定されていたので、業者の方にお願いして、落ちた枝をいくつかいただいて、事務所に生けました。いい色ですね、と上司に言われ、こんな色の花は夏にしか咲きません、と答えたら、とてもとてもかなしくなりました。
 上司は、秋には秋の花が咲きますよ、と言って、先週、すすきの穂までついた秋のアレンジメントを買ってきて、事務所に生けてくれました。
 落ち着いた色合いの花々を見ていると、今年こそは、秋や冬の美しさを楽しめる自分でありたいと思います。
 9月30日は、仲秋です。満月に向かう今日の月は、きらきらしてとびきり美しいです。

 この夏は、この数年間でいちばん充実していました。6月末に上司と示し合わせて決めた「朝7時に出勤して始業の10時まで研究活動をする」計画もおおむね達成。ドナーからのプレッシャーを受け、雑用に追われ、夜もついつい遅くなり、時間に追われるながら「援助」を行う仕事のなかで、ありがちな「援助バイアス」に呑みこまれたくはない、援助業界に毒されたくはない、研究者としての立ち位置やフィリピンで学ばせていただいたことをぜったいに忘れたくない、という思いがとても強くて、とにかく毎日、ものを読み、ものを書き続けました。朝の3時間くらい勉強したってどうにもならないのだと思うけれど、それでも、やらないよりはずっとましです。
 涼しいけれどすでに明るい5時台にベランダに出て、のびのび育ったゴーヤやレモングラスやパクチーに水を遣って、前夜に干しておいたランドリーがすでに乾いていることに感動して、お弁当を作ってトーストを焼いて新聞を読むときの幸福。ラジオ体操の出席カードを首からひらひらさせながら走っている小学生とすれ違いながら、ほとんど車の通らない道を自転車で走り抜ける解放感。日中の暑さを予告するかのように、川面をゆらゆらかがやかせている神田川の幻想的な美しさ。開け放したオフィスの窓からきこえる蝉の声のノスタルジー。
 海外にも海にも山にも花火大会にも行かなかったけれど、幸せな夏でした。海外に逃亡したいとは一度も思いませんでした。この小さな事務所で、とても狭い世界で、仕事と研究をしていられるだけで良かった。
 
 私の「NGO嫌い」はあまり払拭されていませんし、NGOで働くことのジレンマも解消されないままです。研究との整合性についても、悩み続けています。都内での生活はできるものの貯金はろくにできないようなこの薄給でいったいいつまで続けられるのかと、途方もない不安も抱えています。いつも何かに追われ、追い詰められています。役所に提出する数々のしょうもない書類の作成、「いいことしたい」オーラをまとった同業NGOのピュアな方々とのミーティング、常に温度差のある海外駐在事務所の職員からの愚痴や批判、とても苦手な簿記(だいぶ慣れましたが)や収支報告書の作成…。

 それでも幸せで、生きているなー、と思いました。

 昨年の夏は、民主党の代表選で終わってしまいました。蝉の声を聴くたびにあの夏の選挙を思い出します…と言えたらそれはそれで素敵なのでしょうが、蝉が鳴いていたかどうかすら、まったく思い出せません。各陣営の選対本部はなぜか都内のホテルの小宴会場に、候補者控室はスイートルームに設置されていました(議員会館でいいのでは、と思うのですが、マスコミをシャットアウトしなければならない事情とか、いろいろあるのです)。合同演説会や代表選が実際に行われる別のホテルには別途、決起集会のための部屋が予約されていて、支持議員らが熱く政策議論を繰り広げる(=他陣営のワルグチを言ってお祭りを盛り上げる)場所になっていました。ホテルの利用料を知っている私は、ただただ、目が点でした。
 上司がそれらのホテルのスイートで演説原稿をチェックしたり先輩議員らと戦略を話し合ったりしている間、私はずっと部屋の入口に控えていました。他方、各関係者や報道機関用に向けた文書作成やメール・留守電のチェックもしなくてはならないので、議員が取材や演説会で席を外す2-3時間の隙を見計らってタクシーで議員会館に戻り、事務作業をして、またホテルに戻っていました。いったいどれだけ無駄なお金を使うのだろうと思いながら、各ホテルと議員会館を往復する毎日。夜は、議員の先生方が全員帰宅された後にスイートルームの鍵を閉め、議員会館に戻り、翌日の日程表をタイプして印刷し、議員宿舎の上司の部屋に届け、もちろん終電はないのでタクシーで帰宅し、数時間後にスイートルームの鍵を開けて清掃をお願いして、ルームサービスのコーヒーとサンドイッチを注文して先生方を出迎えます。
 あれはあれでものすごく勉強になりましたし、must do experienceだったと思っています。けれども、あの代表選に限らず、永田町での仕事は果てしなく空虚で、精神的にも肉体的にも、ただただ疲弊しました。政治というものが自分のすぐ手の届くところにあるというのに、ものすごく遠くて、一生触れられないもののように感じていました。自分で選択したことなのだから、これを承知で政治家の秘書になったのだから、と思い込もうとして、なんとか慣れようとすることで精一杯で、自分が主体的に何をしたいか、研究者としてどう生きていたいか、など、ほとんど考える余裕がありませんでした。国会審議に外交に、党内の人間関係や●●グループの人間関係。まるで難易度の高いテトリスのように、やってもやっても仕事が降ってきて、同時多発的にめまぐるしく物事が進行する毎日。地元事務所の先輩秘書との人間関係も難しすぎるし、他事務所の秘書さんや、上司のカウンターパートである官僚や経済界にも気を遣って、おまけにメディアとの付き合い方にも細心の注意を払わなくてはならない。影踏みをして走りながら手元でテトリスをして、口で歌って、なんだか足元が不安定だと思ったらそういえばやたらと揺れるバスに乗っていたんだ、そんなところで走ったり歌ったりしたら怒られるよ…、みたいな感じでした。

 NGOに転職して4ヶ月が経って、私は少しずつ、永田町の常識から脱しつつあります。この職場では、職員は自分のお湯呑を自分で洗います。男性職員がゴミを出そうとしたり、タオルを洗濯しようとしたりします。私が真っ青になって止めると、「sagingさん、古い」と言われます。議員事務所では考えられなかったことです。
 所詮は弱小NGOなので、組織のマネジメントにも会議の進め方にも予算の立て方にも人材育成にも問題だらけですが、議員事務所には雇用契約書も給与明細もありませんでしたし(さすがに源泉徴収票はありました)、事務所予算というものもありませんでした。収入も支出も不定期すぎて予測不能だからなのでしょうが…。


 8月のとある週末、職場の「先輩」と同僚の何名かで、横浜に停泊中のピースボートの見学会に行きました。…といっても、私たちはピースボートに関心があったわけではありません。船会社での経験の長い「先輩」(職務上は先輩ではありませんが、民間企業を早期退職してNGOに転職された人生の先輩)が、純粋に船そのものを見に行こう、と提案してくださったのでした。
 まずは、日本郵船氷川丸に集合。先輩の解説のもと、たっぷり2時間かけて内部を見学し、その重厚さと美しさに酔いしれ、ボイラー室の機械に「萌え萌え」で大興奮。
 その後はピースボートに移動し、その満員御礼ぶりを横目に、船体の塗装、従業員の国籍、図書館の品揃え…といったマイナーなところばかりを楽しみました。お盆休みに友人Wさんの研究室で古市憲寿『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 』を斜め読みさせてもらった(本当に斜め読みで十分だと思います)直後だったので、スタッフの説明に真剣に聞き入る若者やファミリーやご高齢の方々のことが気になりながらも、私も単純に、船そのものを満喫しました。ピースボートの「ピース」部分にはいっさい関心を向けず、ひたすらマニアックに船を観賞しつづける私たちがまさか、日常的に「平和」を扱うNGOの職員だなんて。

 その次の週末は、職場の上司に、東富士演習場で行われた陸上自衛隊の富士総合火力演習(通称「そうかえん」)に連れて行ってくれました。ピースボート見学の翌週が自衛隊の演習見学! 自分の左右のレンジの広さにもびっくりですが、うちのNGOの職員の多様さにも、改めてびっくりです。
 上司はNGO職員のくせにweapon studiesが大好きで(ミリオタではありません)、NGO職員のくせに自衛隊との協働などを模索する、安全保障の研究者。私は彼に感化され、肯定するにせよ否定するにせよ、軍や自衛隊についてもっと知らなくてはならないと思うようになり、「そうかえん」もぜひ見たいとお願いして、連れて行ってもらいました。
 …すごかったです。そもそも、私は軍による実弾使用を見たのは初めてでした。複数の戦車による同時着弾訓練、観測ヘリコプターOH1の変態機動、ヘリからの対戦車地雷散布、戦車用通路開通用の地雷原処理車。なかでも、10式(ひとまる式、って読みます)戦車のなんだか気持ちの悪いキャタピラーの動きとすさまじい変態機動――まるで流鏑馬みたいに、走りながら撃ったり、バックしながら目標に向かって発射したり――は、圧巻でした。初めて見る実弾発射に興奮したり、ぴったりと揃った同時着弾訓練のあまりの「美しさ」に息を呑んだり、地雷散布ヘリにショックを受けたり(あれはトラウマになりそうです)、離島攻撃を想定した陸・海・空の総合防衛演習のリアルさに恐ろしくなったりと、忙しい2時間でした。
 演習そのものだけではなく、会場の雰囲気も独特で面白かったです。もともとこの火力訓練には訓練中の若手隊員らの士気向上という目的があります。迷彩服姿の隊員の方々が客席にずらーーーーっと並んで座っておられる姿は圧巻でした。弾着(着弾のことだと思うのですが、自衛隊用語? 無線放送も「だんちゃーく!」って言います)のたびに、「おおおおおお!」というどよめきや拍手が彼らの一団から沸き起こるのがおもしろかったです。そして休憩時間になると、隊員たちが
 「久しぶりっ!いまどこに!?」
と肩を叩きあい、直立不動で再会を喜びあう光景があちこちに。
 JRの最寄駅からの往復には特別バスが用意されていて、その誘導を行う隊員の方々も実にユニークでした。御殿場駅で誘導してくださった方々は制服ではありませんでした(いくら演習場の最寄駅と言っても、御殿場駅前で迷彩服の人たちが誘導をしていたらいろいろと支障があるのでしょう)が、会場付近でで誘導してくださっていた方々は迷彩服でした。
 「Cの座席のチケットをお持ちの方はッ、そのまま前進してくださいッ!」
と独特のアクセントでアナウンスしたり(前進って…!)、長蛇の列に配慮して、
 「ご気分の悪い方はいらっしゃいませんかッ? お隣、前後の方々の顔色を確認してくださいッ。」
といったアナウンスをしたり、並んでいた参加者のリクエストにこたえて小さなお子さんを抱いて記念撮影に応じたり…。自衛隊もたいへんですね、って思ってしまいました。
 周りの参加者の方々もユニークでした。迷彩ズボン+迷彩帽の「いかにもミリオタ」みたいな男性たち、帽子に日の丸ピンバッチを付けた不思議青年たち、ものすごく性能の良さそうカメラで空に向かってカシャカシャ連写しまくっている戦闘機ファンと思われる男性、演習に出ている知人をオペラグラスで探す、自衛官の親類または知人と思われる家族連れ、「●●県自衛隊父兄会」の幟を立てているグループ、爆音のたびに泣きわめく子どもを一生懸命になだめていたものの結局中座してしまった男性…など、本当にさまざまな方がいらっしゃいました。(私たちのほかに、NGO職員がいたかどうかはさだかではありません。)
 夕方、都内に戻り、いつものようにジムに行くと、野球場のグリーンが演習場に見え、飛んでいる鳥が軍用機に見えてしまいました。自分の脳が怖くなりました。たった2時間演習を見ただけなのに、これはいくらなんでも危険すぎます。

 その翌日、都内のとあるカフェで、元フィリピン共産党員の某氏がフィリピンの左派と社会運動について語られる場にお邪魔しました。初めて行ったカフェでしたが、本棚にはチェ・ゲバラ本や日本の労働闘争史の本がずらーっと並び、どこの国籍だかわからないけれど「いかにも活動家」って感じの方々がお揃いでした。ドリンクがとても安く、バナナジュースがものすごくおいしいカフェでしたが、エアコンが故障中でものすごい暑さ。そんななか、1990年までのフィリピン共産党の軌跡について2時間もレクチャーを受けてしまいました。
 …「そうかえん」と足して2で割るとちょうどいい感じ。すごく中和されました。Neutralize(中和)というのはフィリピン国軍用語では「反政府分子の制圧」を意味しますので「殲滅」と訳すのが適切なのですが、そういう意味ではなくて、「中和」されました。

 先週は、「大規模災害発生時における民軍協力」をテーマに陸上自衛隊がアジア太平洋地域の軍関係者を招聘して実施した国際会議に参加させていただいてきました。会議のメインは、10名程度のグループに分かれての机上訓練(具体的なシナリオを想定してのディスカッション)。大規模災害が発生して地方自治体の機能が一時的に麻痺した場合、軍はどのような役割を担うのか(interim government機能を担うのか、あくまでもcivilian controlを尊重して中央政府からの出向や地方自治体の回復を待つべきなのか)、人命救助や医療活動を行ううえで地方自治体や文民組織とはどのように連携すべきなのか、軍による被害アセスメントと地方自治体によるそれが違った場合はどうすればよいのか、軍組織の一元的なcommand systemとはまったく異なる「多様で統一性のない」NGOと協力するにはどうしたらいいのか、国民に対する情報の一元化を目指すならば軍は政府発表を尊重すべきだが、現場でメディアに求められた際には答えるべきなのか、それとも露出は極力控えるべきなのか、など…。
 参加者の方々は軍人で、全員軍服。彼らから、”What do you think, Civilian?”と話を振られるのですが、「民」の代表として招聘されて参加していたのは、国連組織、国際赤十字、そして我が団体を含む4団体の国際NGOのみ。Civil-Military Corporationっていうなら、NGOや人道支援団体だけではなく、地方自治体なり総務省なり内閣府なりから役人を招聘すればいいのに、と思いました。それに、他の3つのNGOは緊急支援経験の蓄積があるのに、我が団体だけはなぜか「災害救援も緊急援助もしないけれど自衛隊に近いから招聘された団体」ですので、部外者感たっぷりでした。私は机上訓練の途中から、NGOとしてではなくて「かつて政および官で働いていた文民」として、政および官の論理を代弁する役割に徹しました。つくづく、自分のNGOアイデンティティの薄さを実感します。
 机上訓練の後半は、災害発生時における国内の民軍関係のみならず、他国軍の支援を受け入れたり、あるいは他国に応援に行ったりする場合の法的枠組みや各国の規制についての議論もなされました。そのときも、軍はもちろん、参加していたUNもNGOも、各国の官の果たす決定的な役割についてほとんど考えていないようでしたので、私は思わず、
 「その役割は軍じゃなくて大使館だと思います。」
 「そこは敢えて軍のリエゾンオフィサーが出てこなくても、Military Attache(駐在武官)がやりますよ。」
とNGOなのに「官」を代弁するかのような発言を繰り返してしまいました。なお、別のグループにいた我が上司も、文民のくせに途中からフロアの議論を横取りし、ファシリテーター役を買って出ていたようです。
 実際、こうした場面で本当に求められているのは、「自分の持ち場」からの話しかのできない人ではなくて、政・官・民に加え、学(academe)、軍、そしてNGOと、いろいろな世界の論理を理解し、壁を越えられる人材なのだと私は思っています。米国式に言えば「回転ドア式キャリア」をもつ人材。私が数年おきに転職を繰り返しているのも、究極的にははそのような形で日本と世界に貢献したいからです。
 …という熱い話はさておき、この会議、ものすごくおもしろかったです。それにしても、”You, civilian”って呼ばれたのも、「文民の皆さん」って呼ばれたのも、生まれて初めてです。

 右なのか左なのか、と問われれば、私はどちらかといえば左なのだと思います。2年前にある会合で、フィリピンの選挙監視NGO(NAMFREL)を賞賛するマレーシア人研究者の報告をきいたときに私が、
 「選挙ガバナンスは政府の仕事なのだから、NGOを礼賛するだけでなく、中央選挙管理委員会(COMELEC)の能力強化を考えることが必要ではないか。」
と発言したところ、別のマレーシア人から、”You are very right-leaning”って言われたことがあります。それのどこがどうrightなのか。
 フィリピンにいたとき、私はThe Leftにものすごくシンパシーを感じていました。役所で働いていた時は「sagingさんはアカ」と言われていました。
 でも、NGO業界にあっては、私などはかなりの右なのかもしれません。

 右か左かなんて、ほんとうに、その国の文脈次第、あるいは個人の価値観次第なのだと思います。
 私は、左と言われても、右と言われても、かまいません。むしろ、NGO職員でありながら、そして「援助業界」にいながら「右寄り」であることを強みにしていたい、と思います。

 私は、いろいろな世界を同時に生きていたいのです。
 土日は研究者に戻って、職業研究者と一緒に、普通に学会や研究会に出席したい。
 役所や永田町で一緒だった方々とは、ずっと友人でいたい。
 私がいまのNGOに転職を決めたのは、この組織が、NGOなのにやたらと省庁に近い、という特徴をもっていたからです。私も何かというと役所に行っていますし、マニラの元職場で上司だった方々やカウンターパートだった方々に連絡をして、省庁の担当者を紹介していただいていますす。どの方も本当に親切に、メール1本、電話1本で気軽にそのようなことをしてくださり、「せっかくsagingさんがNGOにいるなら、こういうことができれば…」と提案してくださいます。役人の柔軟さに感激。
 永田町には遠くなってしまいましたが、それでも、お世話になっていた秘書仲間や政党職員の方々とはいまでも食事をしたり、メールをやりとりしたりしています。政党職員の方々とのコミュニケーションなんて、むしろ、以前より多いくらい。毎日一緒に働いていた頃は、お互いに勤務時間以外では会いたくもない、と思っていましたし、議員会館の食堂でランチ、なんて夢のまた夢で、5分でも時間が空いたら何か食べる、という感じの生活でしたので、誰かと食事を一緒にしたことは一度もありませんでした。いまのほうがずっと、普通の会話をしています。そして、
 「『近いうちに』会っておこう」
というのが合言葉です(笑)。


 右にも左にもレンジが広いということ、官僚に対しても民間に対してもオープンで柔軟であるということは、ものごとが順調にいっているときは、多様な層からの支持を集め、仲間を増やすことができます。ただ同時に、下手をすると、右にも左にも敵だらけ、四面楚歌という状況になります。
 …誰のことだと思いますか?
 もちろん、民主党のことです。そして、私の元上司のことです。
 私自身も同様なのだと思います。「回転ドア」でいることは、いつもリスクを伴います。これからもずっと、右だとか左だとか、おまえはどっちの見方だ、とか、さんざん責められたり、批判されたりすることはあるのでしょう。
 それでも、異なる世界を行き来しながら生きることの魅力にはあがなえません。
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# by saging | 2012-09-29 01:15 | 仕事('10年~)
Jesse Robredo氏を偲んで
 Facebookにも書きましたが、こちらにも。

 飛行機事故で急逝したフィリピンの内務地方自治長官Jesse Robredo氏について、彼にもっとも近かった日本人であるとともに、おそらくは彼にもっとも近かった政治学者である、アジア経済研究所の川中豪先生が、追悼の文章を書かれています。

ジェシー・ロブレド内務自治長官(フィリピン)の急逝
http://www.ide.go.jp/Japanese/Research/Region/Asia/Radar/201208_kawanaka.html

 ネット上で読めるフィリピンメディアの報道ぶり、そしてFacebookでの友人たちの言葉を追い続け、信じられない気持ちと喪失感に浸っていた数日間でしたが、川中先生の文章を読むと、「私たちは何を失ったのか」という意味でのリアルな喪失感をさらに感じ、あらためて悲しみがこみあげてきます。
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# by saging | 2012-08-22 23:19 | フィリピン研究
あのころの未来に僕らは
 ロンドン五輪の開会式には感動しました。あれって、国家とか、近代とか、そして西洋化とかいうもののいちばん美しい部分だけが抽出された、世界でもっとも華麗なショーだと思うのです。聖火ランの演出もポール・マッカートニーも良かったですが、やっぱり見どころは各国選手団の入場行進です。あれ、大好きです。4年に1度のお楽しみです。
 ただ、私の家にはテレビがありません。東日本大震災のあと、仕事以外でテレビを見るのをやめたからです。この世の中でどうしても見なくてはならないテレビ番組なんて、オリンピックの開会式と、選挙の開票速報くらいしか思いつきません。
 テレビを見る必要が生じると、私はいつもジムに出かけ、カーディオ(有酸素運動)マシンの前に取り付けられた小型テレビを見ることにしています。昨日の開会式もそうやって鑑賞しました。それなりに正しいオリンピックの観賞方法だと思います。画面の中の一体感や「スポーツマンシップ」と、自分の孤独感のギャップがものすごいのですが。おまけに、ジムのマシンのテレビ画面って、動きを止めると消えてしまうので、開会式をぜんぶ観たかった私は3時間弱もマシンを動かす羽目になってしまったのですが。まさか3時間同じ運動を続けるわけにもいかないので、トレッドミルやエアロバイクやクロストレーナーやステップマシンを交互に使いながら、なんとかHey Judeまで見届けることができました。すごい達成感です。いろいろな意味で。

私が国際協力業界に引き寄せられたのは小学6年生のときでした。バルセロナ五輪の夏です。テレビでその華やかな開会式の様子を観て、「スポーツは国境を越えるんだなあ。どこの国の選手もみんな仲良くていいなあ。」と単純に感動したのですが、その直後に某NGOの子ども国際会議でインドに行って衝撃的な「貧困」に触れてしまい、帰国後はもう、テレビの中のお祭り騒ぎやさまざまな国際交流イベントの映像を観ても決して楽しい気分になることはできませんでした。その「何をしても心から楽しめない思い」みたいなものは、大学に入るまで続きました。そして、唯一それが軽減されるのは、その罪悪感を埋め合わせるためにNGOで活動しているときだけでした。そのようにして私は活動家になったのです。
 高校に入ってから、バングラデシュ、フィリピン、エチオピア、ウガンダに行きました。いずれのときも、上のような気持ちは変わりませんでした。気持ちが晴れるのは自分の関わるそのNGOの活動が成功したときだけで、だから、永遠に活動をやめてはいけないような気がしていました。自分の楽しみのために時間やお金を使ってはいけないと思い続けていました。何度か、同年代の活動仲間と一緒にハンスト(食事を抜いて募金する)をしました。(それはハンストとは言わないよ、という突っ込みは控えていただけましたら幸いです。)
 高校3年生のとき、「安心してオリンピックを見たい」という趣旨の小論文を書きました。そのときの原稿はまだ持っています。「私はオリンピックの開会式のあの華やかさと世界が一致団結しているようなあの様子がとても好きなのに、インドに行って以来それを楽しむことができないから、これからもNGO活動を続けます、いつか、私を含むすべての人が心からオリンピックを楽しめる世界になるように」という内容の小論文です。いま思えば、ひどすぎる。周りの大人はそんな10代がいたら殴って目を覚ましてやらなければならないと思いますが、誰もそんなふうにはしてくれませんでした。むしろ、私のそうした「罪悪感たっぷり」な文章は当時、高校の先生たちにも大人にも受けてしまって、私は高校在籍中に3回も小論文/エッセイコンテストに入賞し、海外に連れて行っていただきました。

 映画『クワイエットルームにようこそ』で、蒼井優演じる拒食症の入院患者が、自分が拒食症になった理由を「自分が一食たべた分、世界のどこかの価値のある誰かの食事が一食減ると思ったら食べられなくなった」と言うシーンがあります。蒼井優は一見、他の患者よりはるかに「まとも」に見える役を演じているので、というかほかの演出が壮絶すぎるので、あまり印象に残らないシーンかもしれませんが、私にとっては、あの静かな狂気がいちばんのリアリティです。あれって、入院とか薬で治るものじゃないと思います。
 
 幸いなことに私は狂うこともなく、入院とも薬とも無縁なまま、大学入学を直前に「これではいけない」と思ってNGOの活動をいっさい辞め、大学では、自分のためだけに時間とお金を使う生活をしようと決意しました。そしてその試みは幸いなことに成功し、私は大学に入った途端にひどく享楽的になりました。周りの友人たちは大学に入ってからNGOやボランティアに目覚めていったというのに。

 いまは、普通に享楽的に生きています。テレビは好きではないけれど、あれば普通に見ます。バラエティもお笑いも歌番組も楽しめます。良かった、普通の大人になれて。
 
 五輪開会式。
 ものすごく多くの影を抱える各国が、汚いものばかりに満ちている世界が、そして混沌をきわめるロンドンが、あれだけの美しさを、あれだけの虚構の一体感を創りだしているという事実に、ただただ感動をおぼえるばかりです。各国選手団の行進を見ながら、何度か、うっかり泣きそうになってしまいました。全参加国から女性選手が派遣されてよかったねとか、4年後には南スーダンの選手も自国から出場できるといいねとか、シリアの選手も早く自国に戻って練習できるといいねとか、簡単にそんなふうに考えるべきではない陳腐で単純な感想を自分のなかで繰り返しながら、ともかくマシンを動かし続けることの肉体的苦痛が強すぎて、だんだんどうでもよくなってしまいました。
 よく女性誌とかに「テレビを見ながらできるエクササイズ」が特集されていますが、そのたびに私は、「そんなに頑張らなくてもいい方法があります。テレビはジムで見ればいいんです」と教えてあげたくなります。
 ジムって本当に万能です。テレビが見られるのはもちろん、そしてシャワーやお風呂が充実しているのはもちろん、注目すべきはラウンジの使い勝手の良さです。マニラやバンコクにいたころから、私はジムのラウンジに本や論文やラップトップを持ち込んで勉強したり、朝から新聞を読みに行ったりしていました。周りにもそんな中間層や外国人がたくさんいました。いま通っているジムのラウンジにも、何時間も普通に仕事らしきことをしている人たちがたくさんいます。(休日の自宅に居場所がないのだと思われるお父さんたちも。) ジムは静かで涼しくて(冬は暖かくて)、周りには健康でエネルギッシュで前向きな人たちしかいないので、仕事の効率が格段に上がるのです。飲食も自由ですから、一日中いられます。トレーニングウエアのまま仕事をして、それに飽きたら、また走ったり泳いだりお風呂に入ったりすればいいのです。
 今日ももちろん、一日中ジムで本を読んだり仕事を片づけたりしていました。自宅が暑すぎるこの時期、モールやファストフードやファミレスに逃避している方々はたくさんいらっしゃると思いますが、避暑ならがぜんジムがおすすめですよ~。

 最近、国際協力NGOで働く自分のアンビバレンツについていろいろ考えているのに加え、昨日の開会式のせいで、さらにいろいろ頭と心を使ってしまい、自分の心の振れ幅についていけなくて、なんだか気持ち悪く疲れてしまいました。
 こういうときは身体を動かすに限ります。私は永田町に勤めていた時から、ほぼ週4-6日のペースでジムで運動しています。最近はほぼ毎日です。残業後の22時台からでも行きます。4月からはランニングサークルに所属し、週1回、20時半から迎賓館や皇居の周りを走っています。ランニングは大嫌いですが、信頼できるインストラクターやジム仲間に勧められてやってみたら、ちょうど季節が新緑の美しい頃で、外を走ることは気持ちが良くて楽しくて、続けられそうな気がしたのです。もちろん私は超初心者なので1キロ7分くらいかかるし、走っている最中はそれこそ意識が飛びそうなくらい苦しいし、間違っても一人で外を走りたいとは思わないのですが、インストラクターやジム仲間と一緒なら走ろうという気になります。ただ、最近は蒸し暑いせいで苦しさにも拍車がかかります。
 終業後にジムに行くってものすごく疲労しますし、朝食の量は倍くらいに増えましたが、適度な疲労とストレス解消のおかげでお酒の量も減り、毎日が快適な感じです。私は32歳ですが、ぜんぜん体力が衰えた気がしません。むしろ増進しています。
 今日も、筋肉痛にもかかわらずBody Combat(格闘技系)のクラスに出て、ジム仲間と暴れてきました。五輪に関連して思い出してしまったいろいろなことを振り払いたくて。激しい運動と筋トレをして、もう本当に体力の限界、と思ったところ、スタジオからDancing Queenがきこえてきたので、つい、踊りに行ってしまいました。この曲はいつもフィリピンを思い出させてくれます。
 そして今日は心から、本当に気持ちよく疲れました。こういうのも「身体性」っていうのでしょうか。それはよくわからないけど、とにかく、ジム、最高です。明日からの1週間も頑張れそうです。(でも、明日の筋肉痛は心配です。)
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# by saging | 2012-07-29 18:03 | フィリピン研究
政治学者への幻想
 ここ数週間は、仕事で新規案件の〆切が続いたことに加え、週末ごとに学会や研究会があって、なんだか嵐のようでした。今日は久しぶりに、何もない週末。本を読んで、ジムを堪能しようと思います。
 
 NGOでの仕事と研究者としての活動を激しく行き来するなかで、私は4月以前とはまるで別人のようになってしまい、心の振れ幅がとても大きくて困ります。
 議員秘書でいたときは、黙ること、余計なことを口にしないことを、誰に強いられたわけでもなく自然に身につけ、そのように振る舞っていました。私は上司(議員)に対して「尊敬しています」とも「ついていきます」とも一度も言ったことがないし、そもそも雇用契約書というものが存在しない雇用関係だったし、上司に私自身のプライベートな話をしたことも皆無なのですが、それでも上司は、私が何があっても彼を守るつもりでいることも、私が仕事を楽しんでいることも理解していたと思います。そして私も、上司からは褒められることも承認を受けることもなかったけれど、彼が私を信頼してくれていることをいつも確信していました。ある種の政治の世界では(永田町では、とは敢えて言いません)、忠信とか信頼とかいうのは、言葉じゃなくて行動で示すものなのですよ…。すごく日本的というか封建的です。(もちろん、これが永田町の典型、というわけではありませんが、ベテラン議員事務所のひとつの典型ではあると思います。現在の民主党の若い(当選回数の少ない)議員やいわゆる「市民運動出身」「市民派」を標榜する議員の事務所は傍目で見ていても恥ずかしいくらいアツいですし、そういう事務所の秘書さんからは、 「sagingさんは若いのにまるで永田町の人みたい。何考えてるかわからない。秘書って上司に似るんですね」と揶揄されてきました。似てませんって…!! 私の元上司を知っている方は笑ってください。)

 NGOに転職してからというもの、うってかわって「話さなければ始まらない」状況におかれています。いろいろなキャリア・バックグラウンドをもつ経験豊富な人たちがなぜかこんな給与の低い弱小NGOに結集して一緒に仕事をしようとしているのですから、何をするにしても、きちんと言葉で説明しないとチームプレイなんてできないのです。民間出身の人は、民間企業の常識はこうだから私はNGO運営のここが理解できないんです、とはっきり言わないといけないし、私のようなよくわからない風来坊バックグラウンドの職員は、外務省出身の人たちがうっかり使ってしまう意味不明な役所用語や独特の言い回しを、役所経験のない人たちに解説しなくてはなりません。日々の些細なそんな会話の中で、お互いの強みや弱みが露わになり、職員同士のあまりのカルチャーの違いが露わになり、これはたいへんだと皆が思うようになり、各自が仕事に精を出すというわけです。
 在外事務所の職員との関係もたいへんです。駐在職員って往々にして「本部の人間は現場の苦労を知らない」と思っていて、すべての不満を言葉に凝縮させて表現する傾向があります(私もフィリピンで働いていた時はそうでした)。ましてや、現場での日々のストレスに悩まされ、過去にうまく本部とコミュニケーションができなかったネガティブな経験ばかりを思い出しては「どうせ何を言ってもわかってもらえない」と思っているような職員であればなおさらです。彼らの「あなたたちには現場のことはわからない」という「マジックワード」の裏にある具体的な不満とか意見とか提案とかを吸い上げられるようなオープン・クエスチョンをしていかないといけませんし、彼らに「話をきいてもらえた!」と思ってもらえるためには、私も自分のことを話さないといけません。(私の好きではないコーチングの世界ではこれをアイ・メッセージと言います。)
 いまの職場は、NGOのくせにやたらとハードコアでクールな事業を実施し、職員もクールで、熱血do-gooderや国際協力に夢をみる人たちは皆無です。私にとってはとても生きやすい世界のはずです。それなのに私はなぜか、私よりずっとクールなはずの他の職員から(軽口のなかで)
 「sagingさんは斜に構えすぎです。あなたはNGO職員なんですよ?」
と揶揄されて必要以上に動揺したり、在外事務所との熱いコミュニケーションを模索したりしなくてはならないのです。
 私は実は熱血コミュニケーションが好きなのですが(だってコーチング研修も受けたくらいですから)、自分がそれにのめりこんでしまうことが怖いので、そして、そういう「青さ」に耐えられないので、普段はクールに(友人Wさんの言葉を借りれば「ツンデレに」)振る舞うようにしています。

 そして私はこういう状況(職場で意識的に饒舌でならなくてはならない状況)をうまく消化できないままに研究会に出席しては、ハイになってさらに喋ってしまい、そして、私よりずっと出来る先輩や同年代の仲間たちから、
 「sagingさんの思っていることはこうなんですよね、それは政治学/社会学/人類学的に言えばつまり…」
と解説してもらっては「救われている」、そんな毎日です。
 先週末のフィ●ピン研究会全国フォーラムは私がもっとも心地よく感じる、もっとも気のおけない人たちと結集できる貴重な場でした。研究会の後の懇親会(それも2次会)で私は、自分が職業研究者にならない理由について、
 「大学に就職した同年代の研究者を見ていても幸せそうに見えない。」
 「学内政治だとか、教授との関係だとか、雑用だとか、やりたくもないつまらない調査にとりあえずファンドが付いたからしかたなく食べるためにやっているのだとか、普通の人が20代前半のうちに経験するような青い愚痴を恥ずかしげもなくむしろ得意げに披露する同年代の研究者に苛々する。」
 「学会や研究会のたびに私はあなたたちの排他性に絶望する。大学に就職した者同士で固まって、学内政治やポストの話ばかり。久しぶりに会うのだから研究の話をしたいのに。それが研究者になるということなの?」
 「同年代の誉れで憧れの研究者になったはずのあなたたちの不毛さに失望する。政治学者のくせに学内政治を楽しむことすらできない、研究者としての自分を客観的に見ることもできない、私はあなたたちにそんな研究者になってほしくはなかった。」
…などと言いたい放題の発言をして、私の大好きな研究仲間の友人たちを少なからず傷つけました。ごめんなさい。
 職場では一つの言葉を紡ぎだすにも気を遣うくせに、気心の知れた友人たちに対してはそんな暴言を吐くことしかできない自分にひたすら苛立ちました。

 本当は、私は職業研究者に「なりたくなかった」のではなく、「なれなかった」のです。
 「なりたくなかった」のは事実です。そもそもなろうとしたことがないし、興味がないし、学振にも大学のポストにも一度も応募したことはありません。
 博士課程在籍中――つまりフィリピンの「日本の役所」で働いていたころ――、私は政治学者でありながら自分の置かれている状況をうまく説明することができなくて、数ヶ月おきくらいにフィリピンに調査に来ては我が家に泊まって私の話につきあってくれる友人たち(政治学者のWさんやTさんや人類学者のAさんやMさん)や指導教官に依存して、彼らが私の日々のストレスをスマートに吸い上げてアカデミックに分析してくれることに感銘をおぼえていました。そして彼らを見ていて、自分はどんなにトレーニングを重ねても決してあんなふうにはなれない、自分が職業研究者として教壇に立つのは百年早い、と痛切に思い知ったのです。
 努力をすれば研究者になれたのかもしれません。私はフィールド調査が好きだし、文章を書くのも好きだし、英語論文を読むのも早いし、theoreticalな話も大好きだし、別に人当たりも悪くないし、きっと学内政治だってうまく乗り切れると思います。でも私には、他者への想像力というものが決定的に欠けているのです。そして想像力というのは、政治学者としての素質の根本を成すものだと私は思っています。
 フィリピンにいたころ、役所で働いた経験のない、いえ、役所にかぎらず社会人経験のない友人たちが、私のつまらない愚痴をきいては、役所の論理や役人の論理を政治学や人類学のフレームワークを用いて鮮やかに解き明かしてくれて、そのことに私はものすごく救われたのですが、同時に、私はあのころ、自分が研究者にはなれないことを確信していました。彼らがどうしてあんなに、未知の分野、経験のないことに想像力を働かせて他人を救うことができるのか、私にはさっぱり見当がつきませんでした。そしてとても悔しく思いました。私は、自分が経験したことしか自分の言葉で語ることができません。想像力の欠如というのは、政治学者として致命的な欠陥です。それに気づいたとき、私は、自分の人生の目標である「日本政治と日本の市民社会のmediatorとなること」を、政治学者として追求するのは諦めました。その代わり、異なる世界を――民間企業、官、政、アカデミア、NGO――を、順番に経験して「エクスポージャー」をして、そこからmediation pointを追求していくことにしました。

 研究仲間の皆さん、特に政治学者の皆さん、ごめんなさい。私はおそらく、勝手に職業研究者を美化して、勝手にあなたたちに期待して、その期待どおりに動いてくれないあなたたちに勝手に苛立っているだけなのです。
 
 嵐のような学会・研究会続きの数週間が終わって、私に残ったのはそんな反省ばかりです。でも、こうしたことに改めて気づくことができたのも、やっぱり研究会の場でした。それも、政治学ともフィリピン研究会とも関係のない、職場の上司と一緒に出席した「安全保障系」の研究会です。
 平日の夜に開催される、平和構築・安全保障系の研究者プラス防衛省、陸上自衛隊、防衛研究所のなかで研究マインドの高い人たちが結集するそのクローズドでチャタムハウスルール適用のその研究会に、私は、NGO職員としてなのか政治学者としてなのかよくわからない微妙な立場で出席しました。報告者は博士課程の院生。リサーチクエスチョンと仮説と実証が乖離しすぎのどうしようもない報告で、私のみならずすべての出席者は苛々していたと思うのですが、質疑応答がすばらしかった。私の上司は真っ先に挙手して「NGO職員です」とわざわざ強調して発言(でも内容は完全にアカデミック)。それに続き、陸上自衛隊が、
 「お前の報告はすべて机上の空論。データは豊富だが結論がわからない。リサーチの体裁をなしていない。俺から言わせれば、そのリサーチクエスチョンへの答えは●●●●…10秒で終わりだ。」
…という意味のことをものすごく大人な洗練された軍人らしい言葉で述べたり、防衛大学校の方が、軍の論理から見たプリンシパル・エージェントモデルについて話しはじめたり、とにかく、ものすごくおもしろかったのです。実務者の英知がもっとも精鋭化された形で結集されるとこうなるのかと感動しました。
 私はもっともっと彼らとお話したかったので、終了後の食事をごいっしょさせていただいたのですが、そこできいた話たるやもうほんとうにridiculousでした。自衛官でありながら修士号を取り、理論と実践の統合の困難さをもっとも痛切に感じてきた人たちの(でもあくまでも洗練された)言葉は切実すぎて、私は内心、ものすごく感極まってしまいました。
 「軍隊は完結された組織でなくてはならない。軍のなかには掃除担当もお風呂を沸かす担当もいる。もちろん料理担当もいるし、医者も看護師もいる。そして研究者もいる。でも、研究者は軍隊の内部で完結してはいけないのだから矛盾ですね。」
 「『軍隊は言われたことしかやってはいけない』この言葉に込められた意味を理解できる民間人がどれだけいるというのでしょう。普通は曲解される。でも私は研究会でこの発言を続けたい。」
 「何も経験のない院生や純粋なNGOワーカーが、軍の論理なんて一切知らないままに無垢な正義感から自衛隊や軍を批判するのがやるせない。彼らは特に左派でもないし悪気もないのだろうけれど…。そして、おそらく向こうも、自衛官の話なんて聞いても無駄だと思っている。こんな現状のままで民軍連携だSSRへの市民社会の参加だなどと議論すること自体が、とても空虚に思える。」
…すごいですよ。普通の研究会ではまず出てこない話ですよ。
 私はフィリピンで働いていたとき、人権担当をしていたこともあり、軍や警察の方と仕事をすることが何度もありました。そしていつも、
 「君は国家の仕組みを何もわかっていない!」
と叱られたり、
 「君に悪気はないと思うけれど、そんなだから左って言われるんだよ!」
と言われたりしました。いま思えば、彼らのストレスは相当なものだったと思いますが、私はその経験のおかげでずいぶん変わりました。こんなふうに自衛隊の方々と意見交換ができるようになったなんて、あの頃の私からしたらとても信じられません。

 いまの職場に転職して、議員事務所とは違ったカルチャーの中で「口を開く」ことを訓練されたこと、何よりも議員事務所で働いていた頃よりも自由時間が増えて研究活動に向き合えるようになってきた、そして、NGOワーカーでありながら研究者である上司(安全保障系)の影響でそちら方面の研究会にもアクセスできるようになったこと、そうしたすべてが、この数週間のうちに私の生活を変え、私の研究への姿勢を変えてくれたことを心から嬉しく思っています。
 これまでと決定的に違うのは、私はいまでは、研究仲間以外の人たち(研究会で出会う異業種の人たちや職場の上司や同僚たち)に対しても、この投稿で書いたようなことを言葉にして話せるようになってきたということです。だから私は、きっとこれからはもう、自分の勝手に期待する「政治学者像」を仲間たちに強要してひどいことを言ったりしなくてもやっていけると思います。
 昨日、職場の上司(研究者)と食事をしたときに、私は正直にこう言いました。
 「いまさら何を言っているのかと思われるのでしょうが、私はNGOで働くことと研究者であることのアンビンレンツに、必要以上に疲弊してしまいます。駐在事務所の職員からの現実的なメールや電話を受けるたびに、私がこれまで研究者として主張してきたpeople centeredとかlocal ownershipっていったいなんだったのだろうと思ってしまい、ものすごい無力感です。そして、目先の辻褄をあわせてドナーを納得させて安定的なファンドを獲得することだけに夢中になってしまう自分が許せません。ファンダメンタリストだったはずなのに、たかが2ヶ月でこんなに日和ってしまう自分は研究者ではありません。また、職場で些細な諍いが起こるたびに、自分が仮にも政治学者ならばどうしてこんな問題すら解決できないんだろうと思います。政治学者の友人たちと険悪なムードになってしまうたびに、こんなために自分は政治学を勉強したのではなかったのにと思います。…でも、私が思い描く政治学者なんて幻想なのです。だって実際、学内政治をスマートに処理できる政治学者なんていますか? 業績のある著名な政治学者ほど身近に敵が多いし、平和学者たちは自分の周りの紛争をおさめることすらできない。…それはわかっているのに、私は完璧を求めたい。完璧なNGOワーカー、完璧な政治学者になりたいんです。そしてそんなふうに『青い』ことを考える自分がとても嫌です。」
 つくづく面倒くさい部下ですが、このどうしようもない私の発言に対する、上司の回答は秀逸でした。
 「NGOワーカーでありながら研究者でいるのか、研究者でありながらNGOワーカーでいるのか、私もよくわからないけれど、たぶん私たちは後者なのです。なぜなら私たちは、こういういかにも研究者らしい、ややこしくて結論のない話が大好きだからです。いつまでもこういう話で盛り上がっていたいと思う時点で、私たちは研究者なのです。職場でこういう話をしたら思い切り引かれると思いますが、私たちのなかではどんどんこういうつまらない話をしましょう。そして、ミクロ経済学者は、自分の家庭のミクロ経済は奥さんに任せているものなのですよ。」
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# by saging | 2012-07-21 12:02 | フィリピン研究
SDFグッズ
 先日、直属の上司に初めて、1対1で飲みに連れて行ってもらいました。
 とても小さい職場ですから、特に改めて飲みに行く必要もないくらい一日中ずーっと一緒に仕事をしているのですが、そして、上司も私も決して「飲みニュケーション」信奉者ではなく、必要なやりとりは勤務時間内にさんざんしているのですが…、上司も私もお酒が好きなので、改めて。
 そのとき、私は思い切ってこう言いました。
  「面接でも申し上げましたが、私はここ14年くらい、日本のNGOが大嫌いでした。はっきり申し上げて、憎んでいました。そのことで、業務に支障をきたしているのではないかと心配です。たとえば私は、NGOの集まる会議やイベントに出席しても、ほかの参加者とは挨拶以外にはろくに口もきけないし、普通にsocializeすることができません。仕事だからと割り切ろうとしても、できません。政治家の事務所に勤務していたときは、自分の信念を曲げてよくわからない政治家の方々や財界人の方々にいい顔をすることができたし、仕事だと割り切って地方有力者に頭を下げることもできました。でも、いまはできません。だってNGOですから。割り切れません。今後、割り切れるように努力はしますが、いまはできません。そのことで私は組織にマイナスを与えているのではないですか。気になる点があれば、どうか指摘してください。」
上司は言いました。
 「憎んでいた、とまで言われるとちょっとびっくりですが、でも、そこまでNGOを嫌ってきたというのは、sagingさんの財産ですよ。引け目を感じることはありません。日本のNGOに必要なのは、熱血な人たちじゃなく、NGOを客観的に見られる人材です。だから私たちはあなたを採用したんです。国際協力したい、人の役に立ちたい、困っている人を助けたい…そんなふうに思っているだけの人は、うちでは絶対に採用しませんから。NGO嫌いでも、シニカルでもいいんです。むしろ、日本のNGOにはそういう人が必要です。だから、無理をしてまで他のNGOと交流しようとする必要もないし、テンションの違う人たちに自分を合わせようとする必要もないんですよ。」

 …それは、この14年で最大の承認の言葉でした。
 マイナスの感情でしかなかった「日本NGOへの嫌悪感」を、逆に「財産」として評価してもらえるなんて。
 研究をしても論文を書いても克服できなかった自分のコンプレックスが、こんなところで解消されるなんて。

 先週は、上司がアフリカ某国の実情についてリクジの朝霞駐屯地で講演&意見交換をすることになり、私も連れて行ってもらいました。
 上司は決してミリヲタとかではありませんが、安全保障を専門とし、長いあいだその分野で研究をしてきた人なので、戦闘機や武器の種類にやたらと詳しく、敷地内に入っただけでとても嬉しそう。NGOの分際で、PKOの広報戦略や民生支援として現地で予定されている事業について好き勝手にコメントしていました。先方出席者の大半は、PKO部隊経験者もしくは派遣予定者。フィリピンや諸外国なら、このように治安部門と直接意見交換を行うようなNGOもありですが、日本のNGOではなかなか、たぐいまれなる存在だと思います。日本では、シンクタンクとNGOが完全に分かれているからでもあるのでしょうね。もちろん、特定非営利法人のシンクタンクもありますが、そういうのはだいたい、すでに元政治家や評論家として活躍している人や、大学で職ををもっている人が理事長を務めるなど、その団体の顔となる人のための組織、という側面がとても強いです。組織として、日本/海外の治安部門と互角にわたりあい、単に安全保障政策や現地情勢について意見交換を行うだけでなく(それはシンクタンクがやっています)、現地を知る立場からこその提言のできる団体というのは、まだ日本には存在しないのではないでしょうか。

 
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写真は、駐屯地内の売店で購入した「自衛隊グッズ」のお菓子。右は上司が、左は私が厳選の上チョイスしました。「専守防衛」ってところがすごいです。これ、どこで作ってるんでしょうね~。国会内の売店で販売されている限定グッズ(国会議事堂のイラスト入り文房具や歴代総理の似顔絵入り湯呑、「イラ菅キャンディー」、「がんばるノダ・どじょうかりんとう」、「衆参ねじれ国会・ねじり棒」、「一兵卒でがんばっています・まめまめしく働いています・まめ煎餅」…などのオヤジギャグみたいなお菓子のデザイン元のあそこと同じでしょうか!?)
 なお売店の一角にはほかにも、迷彩柄の日用雑貨(靴下などの衣類から便利グッズまでぜんぶ迷彩)、特殊な蚊よけなど、御茶ノ水のアウトドア専門店でも見られないであろうアイテムが満載でした。私は、椅子つきリュックなどのサバイバルグッズに目が釘付け。遠隔地方でのフィールドワーク用にほしいです。(もちろん、迷彩柄だから買いませんが…。)

 先週末は、「たまたまフィリピンをフィールドとする政治経済学者」の研究会でした。楽しかったし、ものすごく刺激的でした。中堅研究者の先輩方(私は勝手に「兄貴たち」と呼んでいますが)の、フィリピン政治経済を切るための理論と問題分析が秀逸でした。私もああなりたいです。というか、私も年齢的にも、あるいは博士課程修了後の年数から考えても、そろそろ「若手研究者」じゃなくて「中堅研究者」と呼ばれてもおかしくない頃です。果たして、それなりの責任を果たせてきたのか。再来週のフィ●ピン研究会全国フォーラムでの報告ではそれなりのことをしたいと、必死です。
 その前に、来週は開●学会の都市貧困部門系の部会で報告させていただきます。これまで敬遠してきた人たちと、同じ土俵で話ができるようになりたいと思って、これも四苦八苦でレジュメを作っているところです。
 
 我が職場では、このような「職員の個人的な研究活動」は推奨されてはいますが、貧乏暇なしのNGOワーカーのこと、残業も多く、なかなかまとまった研究の時間を確保することもできません(NGOにかぎらず、どんな職業でも同じだと思いますが)。私も、ようやく覚えた会計知識で事務所の複式簿記をもとにデータを抽出したり(ピボットテーブル万歳!)、役所に提出するためのプロポーザルや予算書や報告書を書いたり、駐在事務所からのメールに対応したり、インターンへのケアをしたり、といったロジスティックな仕事ばかりに追われがちです。
 そんななか、我が上司は始業2-3時間前に出勤し、静かなオフィスで、自身の研究活動やまとまった作業をしています。前日の業務が深夜に及んでも、です。そんな姿を見せられたら、私もあれこれ言い訳せずにひたすら頑張ろうと思うしかありません。
 とりあえずは私も、始業2時間前までに出勤して研究活動をするようにしています。この時間帯って、オフィスも静かだし、自分の頭もびっくりするくらいクリアで、研究活動には最適です。これまで私はけっこうな夜型で、研究活動は深夜にしてきたのですが、これからは朝にしようと思います。特に夏は、まだ暑さや強い日差しに汚されていない朝の綺麗な空気を生かさないともったいない、という思いにさえなっています。これを機に朝型人間に転換できるといいのですが。
 
 私は、いまの職場で働けることを、とても幸せに感じます。
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# by saging | 2012-07-03 00:48 | その他
いまさらNGO その2
 (ひとつ前の投稿からの続きです。)
 私が考えを改めたのは、2年前に議員事務所に勤めはじめてからでした。私の上司はNGOや市民運動に近い人ではありませんでしたが、党内有力者の一人でしたので、NGOワーカーや市民運動家のお客様は日常的にお見えになりました。とても優秀でジェネラスな方々。自分自身を振り返って恥ずかしく思うようなすばらしい人格をお持ちの方々。スタッフの人数もギリギリなのに、そんじょそこらのお役所的な公益法人よりもずっと詳細な資料をお持ちの方々…。自分自身が、役所と永田町の常識にいったん浸かってしまったからこそ、彼らと同じ目線から政治を見たい、と思うことがたびたびありました。
 もしかして、私が出会ったフィリピンに関わる日本NGOがたまたまダメだった(またこんな表現を! お許しください)だけで、2012年の日本のNGOは、私が勝手にイメージしているよりも、ずっと能力や専門性が高いのかもしれない。そう思うようになりました。

 議員事務所を退職することに決めてからのんびりと転職活動をしていて、当初は永田町系や一般企業や公益法人とかの求人を見ていたのですが、NGOという選択肢があることに気づき、むしろそちらのほうがいまの私には必要なんじゃないか、と思うようになりましたそして、まったく知らなかったいまの職場の求人を見つけ、突然に応募し、採用通知を受け取りました。各種保険も完備だし、給与も前の職場とほとんど変わらないし(このNGOがすごいのではなく、議員事務所での給与が低すぎたのです…お米とか野菜とかの現物支給が多かったので食費を節約することはできましたが、あの労働に対してあの給与はあんまりです)。
 でも、長年「大嫌いと公言していた」日本のNGOに就職するには、心の準備が足りません。

 そんなことを日本の友人たちに相談するすべがなかった私は、無職生活中に訪問したフィリピンとタイで友人たちに会い、ありのままを話しました。そして、やっぱりNGOで働いてみなくては、と思うに至りました。
 両国のスラムの住民運動やもうすこし広範な社会運動に関わる旧友たちと2年ぶりに話すと、自分の「Community Organizing原理主義」みたいなものを思い知らされるのです。
 フィリピンとタイとでは、同じソウル・アリンスキー系列のNGOの活動家でも、アプローチがぜんぜん違うのです。
 たとえば。両国とも、日本を含むアジアの他国の居住運動に関わる活動家や住民との交流があり、つまりは頻繁に外国人の「仲間たち」がエクスポージャーやディスカッションに来るわけなのですが、フィリピンのアリンスキー型NGOでは、そういった情報はNGOの事務所でスタッフらによって管理されていて、スタッフはある日突然に住民に電話をして(あるいは電話もしないで)、外国人を伴ってスラムを訪問するのです。住民にとってはなんとも迷惑というか失礼な話ですが、それが普通なのです。何ヶ月も前にわかっていることならさすがに住民組織連合の月例会などでシェアしますが、月例会を仕切るのはNGOなので、
  「●●国から居住運動のグループが視察に来ます。○月×日前後です。彼らの関心は鉄道沿いのスラムの立ち退き。だから、A地区とB地区の皆さん、コミュニティで話を聞かせていただきます。また近づいたら連絡します。いいですね~?」
と、一方的な連絡をする傾向にあります。住民組織の人たちはそれを流すか、単に従うか、もし不満があったらあとで仲間内でこそこそ言うか、そのどれかです。
 他方、タイのアリンスキー型NGOスタッフは、住民組織連合の月例会の席上でその件を議題として少しだけ話させてもらっていいか?と住民組織連合の幹部に伺いを立て、自分に与えられた時間が来るまでおとなしく月例会を傍聴し(もちろん記録はとりますが)、司会から「ではNGOの●●さんからの議題です」と言われて初めて立って発言し、
  「●●国から居住運動のグループが視察に来たいそうです。希望日は○月×日前後です。彼らの関心は鉄道沿いのスラムの立ち退き。受け入れていただけますか?」
と訊きます。住民組織のリーダーらは口々に、
  「何人来て、どこに寝泊まりするんですか?」
  「鉄道沿いのスラムって、現存のところですか? すでに立ち退かされたところですか?」
と発言。NGOワーカーが、
  「現存のコミュニティを希望しています。彼らは10人程度。一夜のホームステイも希望されています。」
と答えると、
  「食費とかどうするの? 普通にうちの家族と同じ食事出していいの? いえ、負担したくないわけじゃなくて、ちゃんと決めておかないといろいろトラブルになるから。」
  「イスラム教徒ですか? キリスト教徒? 事前に言ってくれないと、こっちも準備の都合がありますので。」
と、具体的な質問に入ります。NGOスタッフはそれらを書き留めて、
  「詳細は次回の月例会でお知らせします。」
と返答。すると、司会をしていた住民組織連合のリーダーの一人が、
  「どうします? とりあえず条件付きで賛同ってことでいいですか? ○月×日、●●国から10人程度。賛成の人? ペンディングの人?」
と尋ねます。
 つまり、タイはフィリピンに比べて、すごく原理主義的なのです。そして言うまでもなく、私はタイのほうにシンパシーを抱くのです。
 私はタイ語では難しい話はできないので、英語を流暢に話す友人に横で通訳をしてもらわなくてはなりません。住民組織連合の月例会なんて数時間に及ぶので、通訳してくれる友人もたいへんで、いつも申し訳ないと思うのですが、興味の関心の尽きない私は通訳を酷使し、NGOスタッフである友人に英語で、
  「本当に毎回、ああやってわざわざ住民組織の意向を訊ねてるの? 理想だけれど、フィリピンでは信じられない。フィリピンでのやり方のほうが確かに現実的だと思わない?」
と尋ね、
 「フィリピンと比べるなって! っていうか、そんな単純に物事を比べるな! あんたドクターだろ!」
と叱られています。ごめんなさい。

 私は論文では、ひたすら「住民ありき」ということを書いていて、むしろNGOはダメ、というのをある意味では前提としていて、
  「住民組織は、使いやすいNGO, 気に入らないNGOを見極めている」
というくらいのファンダメンタリズムで、「住民を教え導く」ようなNGOを暗喩的に批判しています。
 でも、それではだめなのだと思います。それでは、私が恐れている「社会を知らない研究者」に成り下がってしまう。「第三者」で終わってしまいます。苦しい立場にいる人たちに、想像力を広げなくては。苦しいのは、操作されている住民たちだけではありません。「こういうのは原理原則に反する」と思いながらも裨益者を見下し、操作する立場にある人たちだって苦しいのです。
 そのことを教えてくれたのは、フィリピンとタイのNGOワーカーの友人たちでした。
 4‐5月にフィリピンとタイにどっぷり浸かって、2009年のあのモニタリングを手伝ってくれた友人たちも含めてたくさんの旧友らに会って…。先に述べた「NGOワーカーと和解したくてたまらなくて私を介してどうにか和解した住民リーダーのおばちゃんたち」に2年ぶりに会いに行くにあたって、敢えてそのNGOワーカーの当人についてきてもらって…。そうしたなかで、「NGO側の苦悩」のもっと深いところにに改めて目を向け、これまでそうしたことに想像力を及ばることを敢えて避けてきた自分を恥じました。
 そしてやっと、長いあいだ自分がいちばん許せなかった、いちばん大嫌いだった日本のNGOに向き合う決意を固めました。とりあえず、NGOで1年は働いてみようと。それも、これまで自分がもっとも遠ざけていた「事業型/連携型」のNGOで勤務してみようと。

 ドナーに申請書を書いて、概算見積もりを作って、月報を書いて、膨大な量の領収書を管理して、ものすごく細かい書式に従って報告書を書いて、突き返されて…といった、「2012年の日本のNGO的日常」を経験もしないままに、日本のNGOの能力は低いだの何だのと言うのは、きっと無責任なのです。
 
 ここで働いて半年が経った後、あるいは1年が経った後、ああ、NGOも外務省も同じなんだな、と思うのかもしれないし、こんなにNGOを苦しめる役所って最低!と思うのかもしれないし、やっぱり日本のNGOの能力が低いからダメなんだよ、って思うのかもしれません。何か言うのはそれからにして、まずは内部を知らないと。

 たとえば、どんなに高い志をもった政治家でも(私の上司は非常に高潔な人でした)、政治家のルーティーンの中ではそんなことは言っていられなくて、とにかく票、とにかく金、とにかく笑顔、とにかく握手。清にも濁にもとりあえず耳を傾け、清とも濁ともとりあえず記念撮影。
 議員事務所で毎日、そんな日常を見ていて、研究者(主に政治学者ですが、社会学者でも平和学者でも)やマスコミがいかに「こういうこと」を見ないようにして議論をしているかということに、改めて愕然として、そして我が身を振り返って、私も同じだなあと思ったことが、何度もありました。政治家の事務所で働いてから、政治資金のずさんさを批判する気も失せてしまいました。ものすごい数の領収書、微妙な支出の処理、微妙な収入の処理。すべてを完璧にすることなどできない。もし、ある特定の政治家を陥れようという悪意があれば、総務省で公開されている収支報告書を見ればいくらでも「些細なこと」をつつきまわすことはできるでしょう。

 同じように、NGOワーカーの文脈では、私がこだわってきたようなファンダメンタリズムを貫くことなんてできません。
 たとえば、現地のNGOの能力強化、とか、住民組織の能力強化、とかいったプロジェクトを実施するとしたら、何をもって能力強化とするのか、という指標を定めないといけません。たとえば、「組織を作って活動することの目的が理解できる」とか、「組織の目標を全員が理解している」とか、「時間通りにミーティングを始める」とか、「正しい領収書をもらってくることができる」とか、「会計帳簿がつけられるようにする」とか。アホみたいですが、そういう指標を定めないと、プロジェクトの前後で何が変わったかも評価できないし、どなーへの報告もできないからです。それが現実です。それに対して、
 「そんな外部から押し付けた常識と指標で現地の人たちを下に見て『教育』するだなんて発想はおかしい。私たちの常識では彼らは能力不足に見えるけれど、彼らは組織についての独自の理解と、独自の会計手法を持っているのだ!」
とか言い出したら、プロジェクトにならないですよね。
 実は、私の新職場で最初に命じられた業務がまさに
 「現地NGO/住民組織の『能力』が強化されたかどうかを測る指標を現地の文脈に沿って作成する仕事」
で、初めて指示を受けたときには本当に上のとおり叫びたくなったわけですが、それを克服することこそが求められているのだと思います。
 Local Wisdomを尊重しつつ「能力強化」をすることはできるのか?
 …なんて、いまさらこんな青いこと考えたくないのですが。なんだかどこかの国際協力団体のワークショップの課題で出てきそうな、開発人類学の授業のレポートを課せられているような、パウロ・フレイレ読書会みたいな、本当に青くて恥ずかしい感じ。でもそのように感じてしまうのは、私がこれまでいかに基本をないがしろにしてきたかを現しているのでしょう。

 NGOワーカーに必要なのは、ドナー(個人会員、寄付者、法人会員、法人寄付者、日本政府、国際機関など)を納得させること。
 これがまた、ファンダメンタリストの私にとっては大変なことです。
 ドナーありきじゃありません! あくまでも裨益者ありきです! …と叫びたいところですが、そうはいってもやっぱりドナーありきなのです。そして、ドナーの考える「成果」と、各NGOの考える「成果」は違います。
 私が2009年にフィリピン洪水支援事業のモニタリングをしたときの例を挙げるなら、私は当時、
 「『台風被災者への支援物資100袋、配布完了』って…。たしかにプロポーザルにもそう書いてあるけど、100袋程度で完了とか言っちゃえるの!? 1万世帯も居住するコミュニティで、なぜたった100袋!?」
 「『テント20個、設営完了』って…。たしかに設営は完了してるけど、なぜ20個なの!? そしてこの20個のテントに入れる人たちって、どうやって選定されたの?」
 「プロポーザルには『週1回カウンセラーを派遣して子どもたちの心のケア』って書いてあって、まあたしかに週1回カウンセラーは来てるみたいだけど、カウンセラーが来てるからといって『目標達成』なわけ!? カウンセラーがどんな成果をあげているのか、もっと具体的に示してくれないとわからない!」
と思ったものです。
 能力のあるNGOならそこで、
 「いえいえ、うちの団体の目指すポイントは、コミュニティ全体の裨益ではなくて、こういう問題を抱える数十世帯へのテント確保なのです。
 「心の問題は指標として説明しにくいのですが、私たちがメルクマールとしているのは、子どもたちが以前どおりに学校に行けるようになったかどうかです。災害直後(つまり事業前)の登校人数は20人でしたが、23人になりました。3人増えました。たいしたことではないと思われるかもしれませんが、この3人はいずれもリーダー格。彼らの変化は、被災していなかった子どもたちやすでに登校していた子どもたちを含め、周りを大いに勇気づけました。」
とか、数字とナラティブを混ぜながら説明し、相手を説得するはずです。(私がモニタリングを担当した当時は、ラショナルな説明のできるのはごく少数のフィリピン人スタッフばかりで、日本のNGOワーカーで論理的な説明ができる方は皆無でしたが。)
 ほとんど屁理屈ですし、この論理は、非・裨益者を議論そのものから排除する、「二重の排除」の危険性を孕むのですが、それはまた別途議論することとして…ともかく、こうした説明を行うことは、「独自の支援」を展開することを謳うNGOの義務のひとつです。ある事業を「立案」し、ほかからお金を受け取って「委託」を受け、それを「実施」するNGOにとっては、この「ドナーへの合理的な説明」は、最も重要な仕事のひとつになります。ここがうまくできない団体はダメですし、ドナーの側も、ここの合理性は現状よりももっともっと厳しく診断したほうがいいと思います。
 …って、私は技術的にはこれを完璧にできる自信はあります。役所・議会にいたときにはそれこそあらゆる論理の捻じ曲げでいろいろな規制を搔い潜ることを学びましたし、そうでなくても、役所向けの簡潔で一見論理的な文章を作るのは、私は得意です。ただ、原理原則的には、どうなのよ!と思います。葛藤の毎日です。
 
 そんな毎日ですが、新しい職場は、とても素敵なところです。
 私のNGO事務所に対するイメージって、ボランティアさんや自分探しの若者みたいな人たちがしょっちゅう出入りして、ボランティアさんや会員の方々から頻繁に電話がかかってきて…という感じでした。でも、ここはぜんぜん違います。この組織、良いか悪いかは別にして、収入のほとんどは政府助成金で、会員数は少ないのです。そのため、日常業務も、一般の方々との接触は皆無で、役所とのやりとりがメイン。私にとってはありがたいかぎりです。さらに、特殊な分野への専門性や職員のプロフェッショナル性を売りにしようとしていて、なんだか役所や研究機関みたい。いわゆる「いいことしたい」的な空気はあまりありません。
 とてもとても小さな職場ですが、自分がとても大切にされていることを感じます。このNGOの専門性は、私の専門である東南アジア政治とはほとんど重なることがありません。けれども、たとえば治安部門改革や現地NGOの能力強化など、分野横断的な意味では大きく重なります。なんといっても私の場合、ここ9年間、フィリピンを中心とした東南アジア政治をmajor(専攻)としてきたとはいえども、日本のNGOの研究をずっとminor(副専攻)としてきたようなものですから、「自分の専門性を生かす」ことのできるシーンは日常的にあります。専門性云々にかぎらずもう少し技術的なことをとっても、前述のように私は役所(あるいは役所系組織)への細かい申請書類や会計書類を作成するのは慣れているし、外務省好みの文章を書くのも、それ以外の一般的な「丁寧な文章」を書くのも、たぶん、普通の人よりは得意です。
 もちろん、何年も「NGO嫌い」を自認してきた私のこと、同業NGOとの合同会議での感じる独特の「NGOっぽいあの空気」とか、先述の「いかにも先進国のNGOっぽい『上から目線』を内包しがちなプロジェクト評価」とかには、戸惑いを感じています。でももちろん、そんなことは口にも表情にも出しませんよ。
 東京事務所の正職員は少ないのですが、私の前の職場である議員事務所では議員と私とあと1人、計3人しかいませんでしたので(!!)、それに比べるとずっと賑やかで、人間関係を含め、いろいろと楽しく感じられます。少なくとも、永田町(と役所)の常識にどっぷり浸かってしまった私にとっては、新鮮なことが多すぎます。周りの職員は、NGO業界一筋というような人は皆無で、国連や政府機関や民間企業での経験豊富な人たちばかりです。総務や経理の方々は、民間企業を早期退職された、まさに人生の先輩方。もちろん、アマクダリではありません。ですから毎日のように、
  「NGOの総会って、株主総会とはぜんぜん違うなあ。」
  「会員は株主みたいなものでしょ。どうやってエンターテインすべきか、株主総会を参考に検討しましょうよ。」
  「NGOの会計システムはほとんど単式簿記って本当ですか! それじゃお小遣い帳と同じじゃないですか。NGOって、会計できる人材は採らないんですか?(←うちは複式簿記です)」
  「あのNGOの担当者って、メールの文章が雑すぎます。普通の企業じゃ、あんなメール送ったらクビですよ。」
  「日本のNGOネットワークって視野が狭すぎる。共同勉強会を立ち上げるというから何をテーマにするのかと思ったら、『ブラッシュアップされたプロポーザルの書き方』だって。発想が内向きすぎ。欧米のNGOなら、『危機管理のブラッシュアップ』とか『評価・モニタリング研修のブラッシュアップについて』とかですよ。」
などの会話が飛び交います。こんな職場ですから、私もまったく浮きません。日本のNGOなるものを非常に客観的に批判的に見つつも、日本のNGOに期待を寄せる人たちばかりなのです。

 事務所へは、自宅から自転車で20分くらいです。人混みにあふれる駅前やオフィス街を通過しなくてはならなかった永田町勤務に比べ、ほとんど車の通らない穏やかな住宅地の中の細道を通ってのんびり通勤できるので、とても幸せです。
 お昼になると、皆で理事長を囲んで、お茶を入れて、あれこれおしゃべりしながらお弁当を食べます。以前の私だったら窮屈で鬱陶しいと思ったかもしれませんが、上司の不在を見計らって自席で5分以内で食事をとる生活に慣れてしまった現在では、こうやって人とゆっくり昼食を楽しめることが嬉しくてなりません。お弁当を作るモチベーションも沸いてくるというものです。毎朝、お弁当箱におかずを詰めながら、今日もみんなと一緒にご飯食べるんだな、って想像するだけで、なんだか幸せな気持ちになります。昼食時の話題は、その日のニュース、特に政治の話が多いです。といっても、キャリアも専門性もまったく違う人たちが集まっているので、前職の業界での経験や海外滞在経験を披露しあうだけで、別に殺伐とした雰囲気になったりはしません。
 新人研修はとても充実していて、PCM(いまさらですが!)から危機管理から会計まで、いろいろな技術を身につける機会を与えれました。PCMはもう本当にいまさらって感じですが、すっかりシニカルになってしまった現在になって勉強しなおすと、なんだか新たな発見があって不思議でした。
 そして、会計。もちろん、総務や経理の担当職員は別にいるのですが、さまざまな書類のチェックをする立場としては会計の基礎知識は必要とのことで、いまだに日々研修を受け、実際の会計簿を教材とした練習問題を課され、能力をチェックされています。数学の苦手な私にとっては、すごいプレッシャーです。議員事務所で働いていたときに簿記3級の勉強をしたので、基本的な会計処理はできるつもりだったのですが、ここではほとんど役に立ちません。改めてBook Offで簿記の参考書を買い、上司に借りたピボットテーブルの参考書を必死で読み…。先週はほとんど毎晩、上司から渡された、この組織の簿記システム(1ヶ国の複数のプロジェクトの収支を3つの通貨別に複式簿記にしてエクセルのシートで分けて管理)をもとにした練習問題に四苦八苦。
 でも、少しずつ仕組みがわかってきました。練習問題が全問正解だったときの達成感(高校の数学のテスト以来です)、ピボットテーブルの新しい使い方を知ったときの喜び(大学のエクセル講習会以来です)、収支がピタッと合ったときの快感。そういえば議員事務所に勤めはじめた当初、秘書検定1級のテキストを(やっぱりBook Offで)買ってきて、巻末の模擬テストの正解率に一喜一憂していたものですが、いくつになっても、勉強し、前進できるってとてもとても嬉しいことです。
 私に会計を指導してくれる直属の上司は、別に会計の専門家でもなんでもなく、私とまったく同じポジションで役所で働いた経験(国は違いますが)があり、さらには、私と同様に社会科学分野の博士で、長いあいだ海外の大学の研究所にいた人です。ある分野においてものすごい専門性をもっているのですが、現在の仕事は調査研究ではなく、海外事務所の会計簿のチェック、役所に提出するための書類作り、そして職場の総務的な「誰かが拾わなくてはならない仕事」ばかり。こんなに能力の高い人を雇用しても活用できない、それが日本のNGOの現実です。(永田町もそうですが。)でも彼は、国際的な競争力をもつNGOを目指すためにはそれではいけないと、朝の6時に出勤して、この組織の事業の基本概念のようなものをアカデミックに社会に示すための論文を書こうとしています。そして、私が研究活動を続けていることについても、土日を利用して学会に出席することについても、非常にポジティブに応援してくれます。この点だけをとっても、私はここに転職して本当に良かったと思います。
 以前は「フルタイム研究者になんかなりたくない」、「絶対に教職にはつきたくない」、「頭の悪い学生は嫌いなんです!」と言っていた私ですが、そういうことを公言することが恥ずかしいと、最近はそう思うようになりました。先月はF大学で1コマ講義を担当させていただいて、つくづく、教えることの困難さを実感しました。でも、学生さんと話すのは楽しかった。私もいつかは、フルタイム研究者になりたい、他人に教えたいと思うようになるのかもしれません。

 絶対に相容れることがないと思っていた国●開発学会にも出席してみようと思うようになりました。来月には、同学会の研究会で報告をさせていただく予定です。NGOの実践報告や成功例(またはその代弁)をもっともらしく羅列するみたいな報告は大嫌いで、フィリピン研究会でそういう報告があっても毎回耳を塞ぐ気持ちでいましたが、それでは何も変わりません。大嫌い大嫌い言っていないで、カウンター・アーギュメントを提示してみたいと思っています。

 そのようなわけで、転職後、少しずつ、人生が転換していっている気がします。
 役所から議員事務所、そしてNGOへの転職。傍から見れば、どんどんdowngradeしているように見えることでしょう。事実、給与は減るばかりですし、おまけに、担当している仕事は半分くらい、会計処理。博士号をもっているのに簿記の教科書と首っ引きって、いったい何をしているこっちゃ、と思われるかもしれません。

 でも、これでよかったのだと思います。
 改めて、フィリピンとタイの友人たちの寛容さ、そして日本の友人たちの寛容さを思い起こし、胸に強く強く響くものを感じています。
 もうかつてのように、「NGO嫌い」がすべての先に立つような思考回路ではなくなったのだと、そう思っています。

 私は今月で32歳になります。まだまだ呆れるくらいに意固地ですが、きっと今年は、もう少し寛容に生きられる気がしています。寛容とは決して、許せないものに目を瞑って見ないふりをするということではないのだとも思っています。
 友人の皆さん、これからもよろしくお願いします。
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# by saging | 2012-06-18 00:14 | その他
いまさらNGO その1

 約1ヶ月前に、再就職しました。
 新しい勤務先は…日本のNGOです。

 知人からの紹介とか、もちろん元上司(議員)からの紹介とかではなく、公募情報を見て、書類を送って、3月の末に面接を受けて、4月上旬に採用通知を受け取りました。
 迷いはあったのですが、その後、4月にフィリピン、5月初旬にタイに行き、信頼できる友人たちと話をするなかで、この仕事をしたいと確信するに至り、5月下旬からここで勤務することになりました。

 NGO大嫌い、と公言してきた私がなぜNGOに勤めることになったのか?
 以下、パブリックなことを書いているようで、実際はいつもにも増して長い自分語りとなってしまうことをお許し下さい。

 私は90年代後半に日本の国際協力NGOで、その後、2000年代前半に日本のODA改革運動団体で活動してきました。前者は、外務省から資金を調達して事業を進めるタイプの、いわゆる「事業型/連携型」と呼ばれるNGOで、後者は日本のODA事業の問題点を追究し、NGOが日本政府から資金をもらうなんてとんでもないと考える、いわゆる「提言型/対抗型」と呼ばれるNGOでした。同じNGOでも両者にはわかりあえない壁があり、その壁の高さは、「NGOと外務省との間の壁」をはるかに凌駕するものでした。単に棲み分けているだけならいいのですが、互いに互いを批判するのですから、困ったものです。

 そして、その構図は、2012年の現在まで、基本的には変わることがなかったように思われます。洗練されたのは、棲み分けの手法だけ。
 フィリピンで活動する組織を見ても、日本の「事業型NGO」は外務本省や大使館との定期的な協議を着々と進め、いかにして外務省の資金を得るかという点に意識を集中させてきました。他方、「提言型NGO」はそうした協議には一切の関心を示さず(というか批判しつつ)、ODA改革という文脈で別の協議(ODA批判セッション)を展開。
 前者はフィリピンの開発NGOをパートナーとするのに対し、後者のパートナーはフィリピンのゴリゴリの社会運動組織。日本大使館のなかでも、経済担当の職員と面会に来るNGOは助成金が目的なので非常に「従順」、他方、政治担当の職員に面会に来るNGOは話の通じにくい活動家、…という、非常にわかりやすい構図ができていたように思います。(私はフィリピンでかの職場に勤務中、まさにそのことに関するペーパーを作成し、フィリピンと日本のNGOの分類表も添付して、組織の決裁を得て報告書として東京に送りました。)
 「ほっとけない」のホワイトバンド運動で知られるG-CAPジャパンの存在とか、2008年の洞爺湖サミットにおける「事業型」と「提言型」の部分的な協働とか、その後の「動く→動かす」の発足とか、フィリピンに限って言えばIBONの存在とか、例外的なものはありましたが、基本的には何も変わっていないように思われます。

 2002年に大学院に入ったとき(フィリピンにはまだ旅行でしか行ったことがなかった頃のことです)、私は実は、こうした「日本のNGO界の二分化とその政治的影響」について、特にフィリピンで活動する組織を中心として研究したいと思っていました。が、私はすでに「事業型」と「提言型」の双方で活動した経験があり、特定の組織や人々に関わってしまっていたので、そんなリスクのあることはできません。
 そこで思いついたのが、
 「代わりに、フィリピンのNGO界の分裂について研究するのはどうか?」
ということでした。当時はフィリピン「ど素人」の私でしたが、フィリピンの社会運動やNGOがすごく分裂しているということくらいは、伝聞で知っていました。さっそく、当時、京都のR大学にいらっしゃったフィリピン研究の先輩のAさん(いまでも、ものすごくお世話になっています)を訪ねてご相談したところ、
 「方向性としては決して間違っていないと思います。私も、日本で働くフィリピン人について直接的に言えない、調査できないことを香港で働くフィリピン人の事例を通じて言おうとしているところがあります。ただ、そういう隠喩的な研究はとても難しいし、やりたいことが明確にあるなら、ものすごく遠回りになってしまいます。」
と言われました。
 つまり、修士課程に入ったばかりの私にはそんな手法は無理ということです。…が、私は、フィリピンのNGOの政治的分裂そのものについてもものすごく興味があったので、日本のNGOのことはとりあえず忘れて、そちらに集中しよう、と思いました。
 …そしてフィリピン大学に留学し、先生方や、所属していた研究所の研究員の方々に、
 「政府との距離の取り方や支持政党の違いによるNGO同士の分裂とか、ひいては住民の分裂、について研究したいのですが、どのセクターがいいでしょうか。やっぱり農地改革でしょうか?(当時、Boy Morales氏が農地改革長官を退いて間がなかったため)」
と聞くと、誰もかれもが、
 「分裂といえば都市貧困セクターに決まってる。あんなに分裂してるセクターはほかにない!」
と口を揃えるので、都市貧困セクターを専門にすることにしました。
 …いまではすっかり「専門は都市スラムの住民運動」と公言している私ですが、当時は、都市貧困のトの字にも関心がなかったことをここに告白します。
 あれから10年。その間、フィリピンNGO界のとんでもない分裂っぷり、対立っぷりに圧倒されつづけ、タイにいたときもタイ人の活動家から「フィリピンNGOって些細なことで分裂しすぎだからダメなんだよ!」と指摘されてやっぱりそうかといささかショックを受け、でも、分裂の只中で理念のもとに奮闘する熱すぎる活動家たちの熱を感じるにつれ、そして、そうした分裂の連続が生み出す住民運動のダイナミズムと、上のほうで起こっているゴタゴタを冷静に眺める住民たちの落ち着きぶりを知るにつれ、どんどんフィリピンの都市貧困セクターに惹かれていって、現在に至っています。もちろん、その間もずっと、日本のNGOのことを忘れることはありませんでした。分裂や対立の現場に瀕したときの活動家や普通の住民の対応を見るたびに、日本だったらどうだろう、と思いつづけてきました。
 
 でもこの10年間、日本のNGOのことは大嫌いでした。「大嫌い」なんて単語をBlogに書くなんて非常に大人げないと思うのですが、本当に「大嫌い」としか言いようのない感情だったので許してください。次回からの投稿ではできるだけ書かないようにします。
 フィリピンに長期滞在をする前の私は、そこまでNGOが嫌いではありませんでした。ただ、自己啓発や「何かスピリチャルなもの」に頼らないといけないような崇高すぎる「ミッション」の置きかた、誰かの自己犠牲によってしか成り立たないような組織運営のありかたはおかしい。従業員の福利厚生の不足を精神論でカバーするような組織はやはりNGOとしておかしい。私が思っていたことはそれだけでした。
 もちろん、明らかにdo-gooderな人たちやスタディツアーと称してスラムを「見学」に行くような困った人たちを見て憤りを感じることはありました。でも、私は関わらないから距離を置こう…という感じでした。別に喧嘩する必要もないでしょうに、と。
 大学に入ってから途上国支援に目覚めた友人たちに、「あなたはなぜ突然にNGOをやめたのか」と訊かれることも多々ありました。中高生時代、地元ではかなり有名なNGO活動家だった(地元メディアに頻繁に出演し、学校の朝礼にも幾度となく登壇)私が大学に入った途端に活動をやめ、自分のためだけに時間とお金を使う普通の大学生の生活に切り替えたのですから、友人たちの戸惑いはいかばかりであったかと思います。でも、私は彼女たちに何も説明しませんでした。あえて喧嘩する必要はありませんから。
 大学院の研究室の先輩に勧められた、中野敏男(1999)「ボランティア動員型市民社会論の陥穽」『現代思想』第27巻第5号には、さすがに、『ゴーマニズム宣言 脱正義論』並みの衝撃を受けました(読んでいらっしゃらない方はいますぐお近くの図書館へ!)。でもまあ、それはそれだし、私はそういう人たちには関わらなければいいのだし、と思っていました。

 しかし、フィリピンに渡航してから、私は大きく考え方を変えました。フィリピンは良くも悪くもNGO大国。あちらにいたときはことさらに、「日本のNGO」の能力の低さ、感度の低さ、嫌らしさ(またこんな単語を…ごめんなさい)に苛立つことばかりでした。

●なぜか「村人と一緒に」家だのパイプラインだのを作ることで「彼らを支援している」気分になって自己満足する日本のNGO、または大学生サークルのスタディツアーとかワーキングキャンプ。まったく体力のない日本人が、「邪魔」と「感謝の強要」以外に、いったい何ができるというのでしょう? という私の質問に、誰も答えてくれない。この質問への模範解答は、「何もできない。日本人が遊びに行って、経験させてもらって帰ってくるだけ。こちらが得るものは確実だけれど、あちらが得るものがあるかどうかはわからない。」だと思うのですが、それを明言する人っていないものですね。
●ろくに英語もできないのに、フィリピン人たちに対して明らかに上から目線の日本人駐在スタッフ。フィリピン人は会計ができない、なんてことを平気で言いますが、だからといって彼/彼女自身に簿記のスキルがあるわけでもなく、優秀なフィリピン人スタッフたちから英語で嫌味を言われても陰口を言われていても気づきません。お気楽すぎ。
●安全上、午後2時以降は事業地(スラム)には行きません、と公言することで危機管理をしたつもりになっている日本人駐在スタッフ。日が暮れはじめる午後4時半ではなく、「午後2時」である根拠は、いくら尋ねてもまったく不明でした。私も調査のために一時期、その地域でお世話になりましたが、他のスラムに比べると、少なくとも午後6時までは安全と感じました。逆に、2時は午前の授業を終えた小学生たちが帰宅してきてもっとも活気づく時間帯。子どもをもつ女性を支援していたはずのNGOが、なぜ2時には引き上げなくてはならないのか、本当に謎でした。
●そんな不透明な↑のNGOに対し、興味本位で「スラムを見たいので案内してください」と無邪気にコンタクトする大学生グループ。
●それに対して「1日1万円で案内します」と返答する駐在スタッフ。スラムって見世物ですか?
●そのことに対してまったく疑問を抱かずに「スラム観光」を依頼し、「日本人が失った心の豊かさがここにある」などと、少なくともここ15年は使い古された勝手な感想を述べる大学生グループ。いったい、いつの日本人のことを言ってるの!?
●スタディツアーの前日に「明日から当団体はフィリピンに行くのですが、現地にいる方、どなたかボランティアで通訳をしてくれませんか? 私も英語には自信がなくて。」とメーリングリストで流すスタディツアー引率者。…アカウンタビリティとか危機管理とかスタディツアー費用の会計とか、いったいどうなっているの?
●ADBやUSAID, 日本国外務省、JICAがやることは、何も聞かなくてもなんでも憎いと確信している日本のNGO活動家。でも、国連やCIDAにはいつも寛容。なぜカナダはいいの? 単に米国嫌いなだけでは?

 その後、いわゆる役所と呼ばれる職場に勤めたことで、私の「フィリピンで活動する日本NGO嫌い」はさらに加速したのですが、他方で、フィリピンのNGO、あるいはフィリピンで活動する他国のNGOにおいては、本当に尊敬できる組織、そして心から素晴らしいと思えるスタッフと出会うことができました。2007-2008年に日-フィリピンEPAの批准をめぐって大活躍したフィリピンの「批准反対派NGO」の中には、ものすごく聡明で、話が上手で、かつ人当たりが良い(ついでに美男・美女の)、そして建設的な議論のできるスタッフが何人もいました。フィリピン政府もフィリピンの上院議員も、そして日本国政府も、あれには完敗でしたよ…。私は上司にそのまま、
 「勝てる気がしません。かつてのネリア・サンチョみたいなものです。」
と報告しました。(それに対して「そうですか、ネリア・サンチョね。」と言った我が上司の理解の深さもかなりのものですが。) …彼女たちのその後はいまでもFacebookでフォローしていますが、本当に優秀で、人間的にもできた人たちばかりです。

 当時の仕事と関係して、忘れられない出来事が2つあります。1つ目は、フィリピン国内の左派動家の殺害がきわめてセンシティブな政治的問題になっていた時期のこと。私はある真夜中に開催された、超党派の活動家たちによるStop the Killingというチャリティライブに参加しました。外交団が参加するようなものではなく、完全にフィリピン人のためのイベントで、左派政党の議員の方々や、それぞれに対立する左派グループの幹部の方々も多数出席していました。皆、当時の私の所属を知っていましたから、それぞれにいろいろと言いたいことはあったでしょうに、何も言わずに、ただ順々に黙って強くハグしてくれただけでした。それに気づいた各組織のスタッフや若い活動家たちはすぐに私を取り囲んで議論を吹っ掛けようとしてきたのですが、各組織の幹部たちが「今夜は音楽を聴く時間だから質問は慎みなさい」と強く制してくれたのでした(それぞれが互いに牽制し合っていたこともあるのでしょうが)。
 2つ目は、有給を取ってキアポでの都市貧困層の集会に参加したときの日のことです。どちらかというと急進的なNGOが主催する集会でしたので、私は幹部の方々にご挨拶したあとは、目立たないように、少し離れたところからステージを見ていました。するとまったく偶然にも、かねてから存じ上げている日本NGOの活動家の方に見つかってしまいました。私は彼がフィリピンに来られていることすら知りませんでした。私が立っていた場所がたまたま、その日本NGOの支援するコミュニティの方々の立っておられるすぐ近くだったのです。彼は私に、なぜこんな場所に来ているのか、日本政府のスパイなんじゃないか、と決めつけ(日本政府はキアポでの小集会に人員を送るほど潤沢な資源を有してはいません)、私が「いえ、今日は個人的な関心で、有給を取って来ています」と言っても聞く耳をもたず、「名刺を下さい、持ってますよね、名刺!」と詰め寄られました。もちろん持っていましたから差し上げましたが、とにかくしつこく絡んでいらっしゃるのです。結局、そばにいたフィリピン人の活動家数名が、彼を引き離してくれたのでした。そして数週間後、今度は仕事でその急進的なNGOの幹部(私も頻繁に会っていた人で、キアポでの集会には参加していなかった)と同じ場に居合わせることになったとき、彼はなんと、私に謝罪したのです。
 「君が我々の集会に姿を見せるときはほとんどがプライベートであることは、皆が知っている。日本政府はそんなところに人を送ったりしない。でもあの日本人はそのことを知らなかった。もっと早く止めに入るだったのに、と担当者が言っていた。ごめんね。」
 …KYとか、空気を読む、という日本語が定着し始めたのはちょうどあのころだったと思いますが、私はその意味を、あの夜のライブで実感したものです。(なんて、ちょっと持ち上げすぎですね。普段はもっと頑固な人たちなのですが…。)
 経験からNGOを語ろうとすると、どうしても、組織じゃなくて組織に所属する個人の話になってしまいがちですが、上記の2つのエピソードで私が申し上げたいのは、それらの組織にたまたま優秀で柔軟な幹部やスタッフ(理事なり事務局員なり)がいたのが素晴らしということではなくて、そうした優秀で柔軟な幹部やスタッフの価値観が組織内で共有され、指示として伝達されていたのが素晴らしい、ということなのです。

 大学院での私の研究内容は、フィリピンのNGOの政治的分裂と、それらのNGOに「支援される側」である貧しい人々がそれをどう見ているかを分析するものでした。そのために私は、NGOのことを批判的に冷静に眺める「支援される人々」の側に立つことを決めていました。研究者なんだから「側に立つ」じゃなく中立でいるべきだ、と言われるかもしれませんが、こんな政治的なテーマで研究をしていて、中立でいるなんてできるはずがありません。私が知るかぎりにおいて、「中立」を標榜している研究者は100%、NGOの側に立っています。当然のことです。NGOのほうが声が大きいし、彼らは英語で情報を発信してくれるのですから。かなり意識しないと、「支援される」側の声を拾い集めることはできません。だから私は調査中、調査に協力してくれていたNGOの側と住民の側のそれぞれに、「私は住民組織の肩をもつことになると思う」と申し上げました。NGOに対しては、失礼千万な話です。もともと、私は彼らの手引きを受けて各スラムのコミュニティに入ったのですから!
  …でも、NGOの幹部やオーガナイザーたちはそれを聞いて、
 「かまわない。君の研究テーマを最初にきいたときから、きっとそういうことになるのだと思っていた。俺たちのワルグチをいっぱいきいてきてくれればいい。Reflection, Self Reflection. でもあとで情報くれよな。ちょっとでいいから。」
と言いました。そもそもそれ以前から私は、彼らに対し、
 「それって本当に住民主導なの?」
 「このあいだのあの件って、住民を誘導してなかった?」
と、失礼なコメントを発しまくり、何時間もの議論にお付き合いいただいていました。私が博士論文なんてものを書くことができたのは、こうした、本当に理解のある、寛容な人たちに恵まれて調査をさせていただくことができたからなのだと思います。
 そして私はスラムに入り、NGOについてのたくさんの批判をきかせていただきました。「支援される人々」が「支援する人々」に抱く不満、失望、そしてそれを表だって述べることに対する躊躇や、「支援してもらっている分際で…」という後ろめたさ。でも、彼らは本当に雄弁でした。決して感情的ではなく、何が許せて何が許せないのかを、具体的に、説明をつけて語ってくれました。
 私は論文を書く前には、あるいは学会報告をする前には、必ず、私の研究の中で不幸にも槍玉にあげられることになってしまったNGOの幹部やオーガナイザーの方々に原稿を見てもらいました。あるいは、プレゼンをして意見をいただく時間をとってもらいました。彼らの側から見たら、ひどすぎる話です。要は、勝手にワルグチを書かれて、それを見せられて、「はい、何かご反論はありますか。なければ学会で報告します。」と言われるようなものですから。無茶苦茶です。にもかかわらず、彼らは何度も付き合ってくれました。彼らの理解の深さと寛大さには、私は一生頭が上がりません。
 もちろん、私はできるかぎりの「御礼」として、両者の橋渡しをするようには務めました。住民の側から
 「NGOに直接話すのは嫌だから匿名でこの不満を伝えておいてほしい」
 「いまから言うことを英語でうまくとめて手紙としてNGOに持って行って。」
と言われてそのとおりにしたり、NGOの側から、
 「いやそれはものすごい誤解だからこの資料を持って行ってこの5人の人たち全員に一人ひとり説明して訂正してきてほしい」
と言われてその務めを果たしたり、むくれてしまったNGOワーカーと和解したくてたまらないのにウジウジしている住民リーダーのおばちゃんをNGOのオフィスに引っ張っていったり、逆に、訣別を告げられてしまった住民リーダーとまた関係を復活させたいと願っているNGOオーガナイザーに、私のアシスタントという名目で一緒にコミュニティについてきてもらって、私をダシに会話してもらって、なあなあに和解をしてもらったりしました。
 「研究者としてそれはどうなのか? イシューにも組織にも関わりすぎでは?」
と言われるかもしれませんが、私は自分のやりかたを決して後悔してはいません。公害に第三者はいない、と言ったのは宇井純先生ですが、本当に入り込もうと思ったら、第三者ではいられないのですよ、絶対に。それでなければ私は博士論文を書けなかったと思います。そして、NGOの方々も住民の方々も皆、彼らの協力がなければ私が博士論文を書けなかったということを知っています。本当に、彼らには一生、頭が上がりません。
 
 フィリピンでお世話になった通算6年半のあいだ、そんな寛容なNGOワーカーの人たちに出会い、心を許せる友人を得ることができた一方、日本のNGOで尊敬できるような組織には、ついに出会うことができませんでした。私は日本のNGOに心底失望していました。フィリピン研究会全国フォーラムをはじめとした研究会で「活動報告」なるものを行うNGOというか学生グループも本当に素人っぽくてイノセントで、話をきいているだけでつらくなるくらい(ごめんなさい、またこんな感情的な表現を…)でした。友人の皆さんはよくご存じのように、私は日本の気心知れた友人たちとお酒を飲むと、ものすごい勢いで、この世のかぎりのNGOのワルグチをまくしたてます。そしてフィリピンでは、お酒を飲まなくても日常的にNGOを批判しまくっています。

 フィリピンの友人たちは、(現役のNGOワーカーや活動家も含め、)そんな私のワルグチに、何時間も忍耐強く付き合ってくれました。日本NGOやdo-gooderのあふれるマニラ首都圏。私の「日本NGO嫌い」、「do-gooder嫌い」は友人たちには広く知られていて、彼らも、
 「saging, こんなすごいdo-gooderのスタディツアーを見たぜ!」
 「君が大嫌いなあの日本人の映画監督、またゴミ捨て場で映画撮ってるぜ! それがひどくてさ…。」
といった情報で私を煽ってきました。ただ、彼らは私の嫌悪感は理解してくれたものの、なぜ私がそこまで不寛容なのかは理解できないといった感じでした。
 「君が憤るのはよくわかる。でも、放っとけよ。たかが数百万円のプロジェクトじゃないか。そんなことにいちいち怒るなって。もっとわかりやすい『悪』はほかにあるだろう。」
彼らが言っているのは、要は、そういうことでした。

 2009年に、フィリピンの洪水被害への日本のNGO事業に関するモニタリングを担当したとき、私は信頼できるフィリピンの友人たちに助手をお願いしました。当時、私はフィリピンをしばらく離れてタイに住んでいて、いまなら真っ新な心で日本のNGOの新しい面を発見できるかもしれないと密かに思っていたのです。偏見を排除してありのままのモニタリングをしたいから、そのように助けてほしい、と彼らに依頼していました。が、結果としては友人たちは私の暴走を止めるどころか私と一緒になって、日本のNGOの能力の低さにつくづくショックを受ける結果に。たまたまかもしれませんが、このときに対象となった日本NGOったら、7団体のうちの5団体は現地(フィリピン)での活動経験がなく、私から見れば、本当にトンデモナイって感じでした。

 ……。
 このモニタリングのずっと前から、私は感じはじめていました。こうやって日本のNGOの悪口を言い続けていても、私はどこにも行けない。お世話になったフィリピンの方々に、何もお返しすることはできない。
まだ10代だったときにお世話になっていたNGOで、こう言われたことがありました。
 「君は他人に厳しすぎる。偽善だっていいじゃん、善なら。」
…「ボランティアは偽善」だなんて懐かしい言葉がまだ流通(?)していた頃のことです。あの中野敏男論文が世に出るよりもっと前ですね。

長くなるので、続きます。
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# by saging | 2012-06-18 00:13 | その他
マニラ到着
 イースター・サンデーを控えた土曜の夜、フィリピンに到着しました。

 初めて、全日空便を利用。マニラに到着して、少し見ない間に空港ずいぶんきれいになったなーと思ったら、ターミナル3でした。セブ・パシフィック以外も運航しているのですね。
 空港で偶然、友人のTさんとに遭遇。「自分探しの旅」ってからかわれました。違いますって!

 空港からの道すがら、マニラの夜の暗さに、驚きました、こんなに暗かったのですね。東京が明るすぎるのですが、それにしても。バンコクよりはるかに暗いです。特にオスメーニャハイウエイ(国鉄線路沿い)、真っ暗で怖すぎます。
 あと、道を歩いている人たちの服装がカジュアルすぎることにも驚きました。久しぶりに見た、チネラス(ゴム草履)にだらだらのTシャツ・短パンスタイル。バンコクの人はこんな格好で外を歩きません。やっぱマニラって、違いますね。初めて来る人は、けっこう怖いことと思います。

 古き良き下町Sta Anaにある、今年1月に100歳のお誕生日を迎えたJessie Lichauco叔母さまの邸宅にお世話になっています。かつて、1年くらい住まわせていただいたおうちです。オバマ大統領夫妻のサイン入りのお誕生日カードがテーブルの上にごく当たり前のように置かれているようなおうちです(在フィリピン米国大使を通じて届けられたそうです)。

 ラジオからはイエスの復活の意味を説くフィリピン訛りの英語が流れていて、パシグ川の遠くのほうで爆竹が鳴り、ジープニーかトライシクルの音が響いています。
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# by saging | 2012-04-08 01:42 | フィリピン(全般)
春休み
 突然ですが、3月末をもって、退職しました。
 もちろん、上司とトラブルがあったとか、もう永田町が嫌になったとか、日本政治に失望したとか、そんなことではありません。増税に反対だから、でもありません。(元)上司のことはいまも尊敬しているし、永田町は好きだったし、日々の仕事もおもしろかったけれど…まあ、いろいろあるのです。
 しばらくは何もしたくなく、春休み(東南アジアでは夏休み)だと思って、ゆっくりしようと思います。
 持ち帰ってきた残務もあり、まったく別の方面から翻訳の仕事をいただく幸運もあったりして、なかなか「ニート」にはなりきれないところですが、無職生活を楽しみます。

 無職生活1日目(日曜日)は、私物や書類を引き取るために朝、永田町まで走り、それらをタクシーで自宅に運んでから、自転車で出かけ、ちょっと外濠を走って、千鳥ヶ淵にも寄って、桜のつぼみでほんのわずかに奥ゆかしく紅色になった木々を眺めて、夕暮れまで、神保町の古書街を散策してきました。b0031348_0182662.jpg
 写真で撮るのは難しいのですが、咲きはじめる直前の桜の木々の薄い色づきは、本当にすばらしいものです。


 無職生活2日目(月曜日)は、記念すべき、久しぶりの平日のお休み。自転車で川崎市の鶴見まで行きました。
 10時に自宅を出て、まず向かった先は赤坂~虎の門~六本木。前の職場から徒歩圏内の大好きなエリアなのですが、前職ではせいぜい上司の支払いをするくらいでしか行ったことがなく、また、休日は別世界のようになるエリアですので、ぜひ、平日の昼間にゆっくり行ってみたかったのです。
 坂道は厳しいものの、平日の昼間に都心でサイクリングをする贅沢を噛みしめました。
 お昼どきになり、赤坂~六本木の道路に一斉に勤め人と思われる人たちが出てきたとき、心の底から、解放感を覚えました。私はもう、ここを歩いている、「日本の中心地で労働している人たち」、「日本の中心地で生産している人たち」とは無縁なんだな、と思って。(実際は、私は永田町勤務中、ランチで外食などしたことがなく、議員会館の地下の食堂ですら、一度も食事をしたことがありません。昼食はお弁当かパンを持って行って、スケジュールの空いたときに5分以内で食べるのが当然と思っていました。)
 そのまま、お昼どきで人通りの多い芝浦~品川のオフィス街を抜けて、お昼休みの会社員と思われる「生産している(productiveな)人たち」を眺めて、海岸通り沿いに南下を始めました。
 目的地は、JR鶴見線の「海芝浦」駅。とても尊敬している神奈川出身の友人に教えてもらったスポットです。海の上に浮かぶ駅だそうです。
 芝浦からすでに港湾エリアが見え、テンションは急上昇。途中、大井競馬場の近くに美しい公園があったので立ち止まり、自転車をちょっと置いてジョギングしてみたり、京浜大橋の美しさに夢中になっていたらうっかり京浜島にたどり着いてしまったり。私は港湾風景と河川敷と昔ながらの工場風景が大好きなので、湾岸の道路はひたすら魅惑のエリアでした。(そういえば、マニラでの私の調査地も、港湾エリアか河川沿いばかりでした。)
 京浜島を脱出し、昭和島~大森に出たものの、住宅街の中で迷ってしまい、産業道路(この名前にもしびれます)に出ればいいものを、なぜか、糀谷から蒲田へ。京急線に沿って(=第一京浜を)走ればいいと思い込んでいたのです。後でよくよく地図を見ると、ものすごく遠回りでした。
 多摩川を渡るときに嬉しくてまた土手に寄り道してしまい、鶴見線「国道」駅(すごい名前ですが、駅舎もすごい)に到着したときには14時を過ぎていました、そこで初めて時刻表を見て、本数の少なさに改めて驚きました。あえて事前に調べていなかったのですが、海芝浦行の到着は1時間半後。
 自転車ですので、時間つぶしには事欠きません。先の新芝浦駅や安善駅まで行って時間をつぶし、浅野駅から待望の鶴見線に2駅だけ乗って、海芝浦まで行きました。
b0031348_0201525.jpg
 春休みですが、駅も車内も、とても静かでした。浅野駅には太った猫が3匹もいました。
帰りは、ほとんど信号機のない産業道路を飛ばして、途中、また大井競馬場付近に寄ってから旧海岸通に出て、三田~麻布十番~六本木~青山の上り坂を耐えて、新宿区に帰ってきました。ひたすら平坦でノンストップで存分にスピードを出せる鶴見~品川間や海岸道路での数時間よりも、人が多くて坂と信号だらけの都心の数十分のほうが、はるかに疲れるものでした。
 軽量で高速、軋むことすらしないブリジストンの愛車も、久しぶりに本領を発揮できて、喜んでくれたと思います。いつも新宿区や千代田区ばかりでは申し訳ないので。18時半、私が四谷のジムに帰り着き、ジャグジーで身体をやすめてこの世の幸せを噛みしめているあいだ、愛車は同じく四谷の自転車屋さんでメンテナンスをしてもらいました。
 都内も川崎も、桜はまだ0.5分咲きくらいで、空気もひんやりしていて、昨年の今頃よりも寒いくらいでした。が、サイクリングには最高の気候です。ランニング用の半袖シャツに薄手の(風を通す)長袖パーカー、冬用のランニング用サポートタイツとランニング用のシューズ。不安定な季節なのでそのほかにも着替えを持っていましたが、結果的には着替えの必要もなく、ベストの装備でした。
 毎日ジムで運動していても、あんなに気持ちよく感じたのは久しぶりです。脚の疲労など、まるで感じませんでした。冷えた風がとても心地よく、まるで、さんざん泳いだ後に上がった砂浜みたいで、あるいは、最高のダイビングを終えた後に上がったボートみたいで、ひたすら気持ちがよくて、いつまでもどこまでも走っていられそうな気がしました。


 無職生活3日目(火曜日)は、日本全国で暴風雨が予想されていた日。朝のうちにジムに行って、がらがらのプールで泳ぎました。このプールからは、中央線と総武線が見えます。朝の出勤前、7時~8時台に泳ぎ、最後にコースの端でストレッチをしているときに、2分と間を置かず走る電車の満員ぶりがプールの中からもはっきりと見えて、そのたびに、あの空間を耐えなくていい自分の幸福に心から感謝し、少々家賃は高くても、どこへでも自転車で行ける都心に引っ越してきて、本当に良かったと思ったものです。
 お昼頃、その中央線に乗って、フィリピン研究のY先生にお会いいただくために、西荻窪へ。お天気が良ければ自転車で行こうと思っていましたが、さすがに断念しました。といっても、平日の昼間の中央線は決して混んではいませんでしたが…。
 夕方は「台風並みの暴風」が来てしまったので、自宅にこもって、12月に通販で買ったレンジ台付のキッチンキャビネットを組み立てました。決して難しいことではないのですが、まとまった時間が必要な作業なので、買ったまま3ヶ月も放置していたのです。…3時間で完成し、これまでキッチンに散らばっていたいろいろを収納し、11月の引っ越し以来開けていなかった段ボールも開けて、片付けました。ずっと飾ることができなかったタイの食器やインテリアにも定位置ができました。少なくとも、これで気兼ねなく人を呼ぶことができます。ご近所の皆様、ぜひ遊びにいらしてください。


 無職生活4日目(水曜日)は、目黒でリラクゼーション・サロンを経営する友人Mさんと恵比寿で海南鶏飯(シンガポール料理)のランチをしたあと、早咲きの桜のあふれる目黒川沿いを散策し、目黒雅叙園を見学。そして、Mさんのサロンで、タイ古式マッサージの復習をさせてもらいました。プロのお店とプロの身体を使わせてもらって復習だなんて、なんという贅沢。
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 夜はもちろんジムに行って、その後、友人Iさん(男性)に、以前からどうしても行ってみたかった、新宿某所の「立ち飲みの焼鳥屋さん」に連れて行ってもらいました。ああいうお店って、男性と一緒でないと行けませんから!


 無職生活5日目(木曜日)は、国際交流基金のライブラリへ。我が家から自転車で10分もかからないのですが、平日しか開いていないのです。目当ては、20年前のフィリピンのミュージカル、「エル・フィリ――愛と反逆2部作」のDVD映像。昨年5月に国際交流基金のイベントでこの映像を観て以来、すっかり虜になってしまった私は、昨年8月、半日だけの夏休みがもらえたときに、先方に懇願して、本来はライブラリ所蔵のものではないDVDを特別にライブラリで視聴させていただきました。しかし、全編で5時間もあるので一度には観ることができず、「次に平日に休めるときがあったら真っ先にあの続きを観に行きたい」と思い続けて早8ヶ月。
 エル・フィリ、やはり最高でした。喉から手が出るほど、自宅にあの映像のコピーがほしいです。朝に夜に、あの美しいミュージカルをずっと観ていたいものです。


 明日は、無職生活6日目(金曜日)。いよいよ桜も満開でしょうから、外濠~靖国神社、千鳥ヶ淵、上野公園を自転車で走り、大好きな千住まで行って、荒川をサイクリングする予定です。


 そして、土曜日からは3週間、フィリピンに行ってきます。懐かしい友人たちとの約2年ぶりとのおしゃべり、可愛い洗礼子との再会、久しぶりの調査、2年を迎えるアキノ政権での変化を見ること、そして、大好きなドゥマゲッティを拠点としてのアポ島やダーウィンでのダイビングが、楽しみでなりません。ジープの初乗りが何ペソかわからないし、FXの乗り方も忘れてしまいましたが…、きっと、フィリピンはそんなには変わっていないはず。私自身もそんなに変わっていないし。
 行きはお土産でいっぱいですが(日清のシーフードヌードルも一箱買いました)、それを抜いてしまえばスーツケースはガラガラ。フィリピンから必要な書籍などがある方は、どうぞ個別にご連絡くださいませ。


 写真は、目黒川の桜です。
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# by saging | 2012-04-06 00:27 | その他
訃報
あのBoyさんが、亡くなりました。

http://www.abs-cbnnews.com/nation/02/29/12/ex-dar-chief-boy-morales-dies

マルコス政権の、86年政変の、民主化後の…そしてエストラダ政権のキーパーソンだった彼が、そして、それ以上に、ムードメーカーで、あんなに素敵で、お話上手だった彼が、この世から消えてしまったということが、あまりに衝撃的で、理解することができません。

著名人でしたが、本当に気さくなお父さんみたいな方で、、私の大好きな、そして尊敬する人生の先輩の一人でした。会うたびに、幸せになれるような人でした。
お父さんみたい、とはいっても、いろいろな事情はあったようですが、そこはいつもフィリピン人らしく振る舞っていて、それがなおさら、フィリピンのお父さんみたいな感じでした。

もっともっと、お話をきかせてほしかったのに。
毎年9月のお誕生会――エストラダ大統領夫妻も現れるあのお誕生会――が、いつまでもいつまでも続くものだと思っていたのに。
もっともっと、懐かしい音楽に包まれた嬉しそうな姿を見たかったのに。
得意だというヨガの「ヘッドスタンド」を、一度でいいから見たかったのに。

2007年、中間選挙で野党連合のスポークスマンだったのに、4月のイースター休暇はバギオでFamily Dayを過ごし、友人たちを誘ってのんびりゴルフでもしたいのだと言って、私の当時の職場の上司を誘っておられました。彼女(上司)は快諾し、バギオへ。なんだか、とても楽しかったようです。
その上司も、1年前に旅立ってしまいました。
どうか、天国でプレイの続きを楽しんでください。

ご冥福を、心からお祈りします。
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# by saging | 2012-02-29 23:26 | フィリピン(全般)
窓の半分は空(そら)
 新宿区民になりました。
 新宿区役所は、毎週第四日曜日は特別にオープンしていて、届出手続きを受け付けてくれるのです。平日に仕事を休みにくい者にとっては、とてもありがたいサービスです。(ちなみに、板橋区からの転出届の提出と印鑑登録の抹消の手続きは郵送で可能。書類を発送した3日後には、転出証明書が返送されてきました。日本ってすごい。)
 実は、新宿区民になったことの感慨より、「東京1区民」になった感慨のほうが大きいのですが(だって、東京1区ですよ! 海江田先生の選挙区です)、そんなマニアックな話はさておき、新居の魅力を語らせてください。
 新居から新宿までは徒歩でも25分くらい。まさか、こんな都心に住むことになるとは思っていませんでしたが、新宿に近いとは思えない、とても静かな住宅街です。
 毎日、「新居、最高!」と思うことの連続です。

 自転車通勤、最高。
 家から職場までは、普通に運転して20分、安全運転で25分。温かい空気が漏れる地下鉄の駅の出口の脇を通過するたびに、そして、黒っぽい防寒着に身を包んでそこを出入りする人たちを見るたびに、ああ、私はもうあそこにいなくていいんだ、もうあの空気に触れなくていいんだ、と思って、とても幸せな気持ちになります。(もちろん、25分の自転車通勤よりも1時間以上の電車通勤のほうがよほどましだ、と思っておられる方がたくさんいらっしゃることは承知の上です。)
 自転車通勤は寒いでしょうと言われますが、いまのところは、決してそんなことはありません。私はいまのところ毎日、春秋用のジャケットにパシュミナのストールただけで通勤していますが、3分も自転車に乗っていると、ストールもいらないくらいに暑くなります。夜は、ちょうど通り道にあるスポーツジムで泳いで、お風呂に入って、暖かい更衣室でドライヤーを使って…それから帰るので、ジャケットもいらないくらいです。街ゆく人たちが、まだ11月だというのにダウンやトレンチを着ていることが信じられません。コート着用はできるだけ先延ばしにしたいものです。年が明ければ嫌でも、あの重いものを2ヶ月以上にわたって飽きるほど羽織る羽目になるのですから…。

 陽あたり、最高。
 かなり日照時間の短いこの時期ですが、晴れた日の朝は、カーテンを開け放しておくと、朝7時半に朝ごはんを食べて新聞を読みながら、「暑いな~」って思ってしまうくらいです。セレトニンをたっぷり生成できそうです。東京の冬は晴れの日が多くていいですね。冬の「寒さ」よりも「暗さ」が苦手な私にとって、この部屋の陽当たりの良さは、とても貴重です。(夏はさぞ暑くて明るすぎることと思いますが…。)

 ベランダ、最高。
 引っ越し後、新居で使うさまざまなものを一気に洗濯し、片っ端から干してみましたが、まだまだ余裕があります。ベッドシーツが5枚くらいは干せそうな広さです。おまけに、このマンションは上の階がセットバックしているので、我が家のベランダは下からは見えません。唯一の欠点は、屋根も「軒下」もないので雨が降るとどうしようもないことですが、それくらいは許容範囲です。

 眺望、最高。
 新居は6階ですが、ちょうど坂の上にあることに加え、周りに高い建物がないため、非常に見晴らしが良く、窓の半分は空です。日中はカーテンを全開にしていています。引っ越してきた日の夜、あまりの解放感に実際にカーテンを薄くあけてベッドから夜空を眺めてみたら、上限の月が見えました。究極の贅沢です。都会の夜空はずいぶん明るいのですが、それでも、都心でこの解放感は、なかなか手に入らないと思います。

 来週はさっそく、秘書仲間の友人たちが遊びに来ることになっています。
 皆さま、ぜひ遊びに来てくださいね。都心とは思えない何もない夜景を見ながら、お酒を飲みましょう。
 
※※※
 友人(先輩なのですが)のみゆきさんには、レトロで素敵な家具と、洗濯機、冷蔵庫、電子レンジ、そして収納グッズから食器までを譲っていただきました。本当にありがとうございました。大切にします。みゆきさんのボーイフレンドのNさんには梱包や家電の運搬など、いろいろなことを助けていただきました。

 引っ越しは、EC引越センターさんにお願いしました。私の板橋の旧居と横浜のみゆきさん宅での二ヶ所積みという面倒なお仕事を格安で引き受けてくださり、追加料金はいっさいかかりませんでした。おまけに、2tトラックの助手席に乗せてくださいました。私は電車も車も高速道路も嫌いですが、目線が高いトラックはとても珍しくて、楽しませていただきました。本当にありがとうございました。移動中、日本シリーズの話とか、どこそこのつけ麺が人気だとか、B級グランプリがどうだとか、そんなことを話しかけられて、自分がそうしたいわゆる日本の「常識」的な話にやっとついていけるようになったことを、改めて嬉しく感じました。1年前に日本に戻ってきた当初、私はぜんぜん世間話ができなくて、東京で物件を借りるために訪れた不動産屋さんが雑談の中でおっしゃることがほとんど理解できなくて、とても気まずい思いをしました。人と普通に話ができるようになったのは、ここ半年くらいのことです。フィリピンに住み始めて1年くらいたったときの感覚を思い出しました。その土地に1年住んで、新聞を1年間読み続けて、いろんなものごとがやっと見えてきて、人々の使う略語とか、ジョークのパターンとかが理解できるようになって、フィリピンの人たちの普通の会話に、普通に交じることができるようになってきた、…そんな感じ。

 …引っ越しといえば、もうひとつの懸念は、退去時の敷金です。
 1年余り住んでいた板橋の部屋は、家具・家電から食器や寝具まで貸与という特殊な物件だったので、管理業者さんによる退去時の「立ち会い」があり、備品や設備の傷みを事細かにチェックされました。1年以上も済んだのですから、お借りしていたさまざまな備品や家電の償却が気になるところ。数日前から気合を入れて掃除し、お風呂場は壁も床も漂白、台所のシンクは磨き上げ、寝具はアイロンをかけてピカピカにして、食器類もすべて漂白しておきました。その甲斐あって、
 「ぜんぜん生活感がないですね。クリーニング後の空家みたいですよ?」
 「寝具も食器も、未使用みたいですが…? ご自身のを使われてたんですかね。貸与の寝具なんてかえって邪魔でしたかね。」
と言われました。1年と2ヶ月住んだのに、敷金は全額返金していただけるとのこと。
 マニラでは3回、いずれも家具付きの物件を借りましたが、3回とも、depositは全額返ってきました。一番長く住んでいた家(3年間)では、退去直前に室内のチェックに来た中国人オーナーに、
 「3年前より綺麗になっている! 敷金全額返金はもちろん、端数の家賃は無料にしよう。」
と言われ、とてもラッキーでした。住んでいると、経年による水回りや床の傷みについつい目がいってしまい、いろいろ請求されるものとばかり思って毎回覚悟しているのですが、フィリピンでも日本でも、そういうわけではないのですね。

 新しく住み始めたこの家も、大切に住もうと思います。内装はフルリフォームされて床も窓もピカピカの家です。とはいえ、さすが築40年、窓枠は古いし、玄関の扉は思いっきり昔のアパート風で、廊下の光が差し込むくらい隙間がありますから、暖かくなったらさまざまな虫が侵入してくることは必至という感じですが、でもまあ、そういうところも、フィリピンで住んでいた「一見きれいに見えるけれど手抜き工事のコンドミニアム」みたいなものだと思っています。フィリピンやタイで使っていた強力な虫除けを備えて、清潔に快適に住めるように努力しようと思います。


 先週は上野に用事があり、もちろん自転車で行きました。靖国神社と千鳥ヶ淵の紅葉を眺めて、素敵な神保町をゆっくりと通って、絶対に歩けないと思っていた秋葉原を車道から眺めて…。40分でアメ横に到着。私はこれまで東京の地名と位置関係を地下鉄の路線図をもとに覚えていたのですが、地上を走ってみると、自分の認識が覆されます。
 これからはゆっくり時間をかけて、東京を自転車で走ってみたいと思っています。
 もちろん、交通ルールとマナーには気をつけます。私が通勤に使っている靖国通りや新宿通りは道がとても広く、歩道にも自転車レーンがあり、非常に走りやすいのですが、そのぶん、いったい、車道と歩道、どちらを走ったらいいのかわからないし、どちらにも信じられないようなマナーの自転車が多くて、驚いてしまいます。私の自転車はブリジストン社の「ノルコグ」。ひどい名前ですが、BRIDの後継モデルです。震災の後しばらく通勤のために友人が借してくれた自転車がBRIDで、その軽さと乗り心地の良さに魅了され、練馬の自転車屋さんに「こういう感じのがほしい」と相談したところ、たまたま、車体の後ろに少し傷がついたノルコグが3割引になっていて、即、購入。グリーンの車体が美しく、いまでも「新車ですか?」ってきかれますし、機能も素晴らしく、かなり乗りやすくてそれなりにスピードも出ます。
 が、見た目はシティサイクルというかママチャリみたいなものですのですから、車道を走るにも歩道を走るにも遠慮してしまいます。かっこいい自転車ツーキニストみたいにはいきません。事故が怖くてたまらない私は、百円均一で買ったバックミラー(こんなの付けてる自転車、めったに見ません。格好悪い…ですが付けていないと不安)と、スポーツ自転車についているチカチカするLEDの後方ライトを両方つけているので、見た目も微妙すぎます。どれだけ自己PRしたいんだ、って感じです。
 きっといまはちょうど、自転車の交通ルールの過渡期だと思いますので、様子を見つつ、とりあえず安全に移動できることを最優先にします。
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# by saging | 2011-11-28 23:08 | その他
新居
 また、帰りの地下鉄で喧嘩を見ました。乗ろうとした車両でちょうど掴み合いの喧嘩が進行中で、若い男性がホームに降り立って大声で駅員さんを呼んで、駅員さんが当事者を車両から引きずり降ろしました。怖くてたまらない私は、いったん地上に引き返すためにホームを歩いてエスカレーターに向かったのですが、引きずり降ろされた当事者の一人は車両の壁を殴る蹴るの大騒ぎ。私は、気持ちを落ち着かせるために一駅歩いてから、別の線を使って帰りました。
 私は外回りはほとんどしませんから、朝と夜の1日2回しか地下鉄に乗ることはありません。それなのに、月に3回くらいは、喧嘩や「危ない人」に遭遇します。靴を踏んだとかなんとかで口論している人(女性同士でも!)は頻繁に見かけますし、酔っ払って車両に寝ている人や叫んでいる人は珍しくありません。2週間前の土曜日には、数メートル先を歩いていたおじさんが突然、下りのエスカレーターにダイブするように乗り込んだかと思うと、そのまますごい音を立てて転げ落ちました。前後に誰もいなかったことが不幸中の幸いで、エスカレーターの下にいた人がすぐに緊急停止ボタンを押しましたが、おじさん、頭から血が出ていました。周りの方によると、その前から駅構内をふらついておられたとか。17時台なのに、酔っ払っていたようです。
 あれ以来、私はエスカレーターに乗るときは必ず前後を確認します。怖いものがまたひとつ増えました。
 エスカレーターの中ほどで倒れている酔っ払いのおじさんのところに駆け寄り、肩を貸して駅員さんのところに連れて行ったスーツ姿の男性もいたというのに、つくづく、私は自分のことしか考えていません。でも本当に怖いのです。マニラの高架鉄道で鞄を切られた私ですが、東京の地下鉄の恐ろしさは、それを上回っている気がします。
 地下鉄を利用していて唯一、安心できるのは、終電に近い電車から降りて地上に出たとき。まもなく業務を終える地下鉄の出入口付近に、作業服姿の男性の方々が立ち話をしながら待っておられます。電車の止まっている真夜中に、あんなに暗くて深い地下で、線路や車両のメンテナンス作業をしてくださるのでしょう。ものすごく頼もしく思えて、最敬礼したくなります。

 地下鉄に乗りたくない、というだけで引っ越しを決めた日から2ヶ月半。ようやく、新居が決まりました。1ヶ月半以上、ス●モとかat ●omeとかC●INTAIとかで探して、不動産屋を回って内見させていただいて、でもどれも気に入らなくて…の繰り返しだったのですが、やっと、住みたいと思える場所が見つかりました。
 職場から自転車で通える距離で、6階建マンションの最上階、30平米を超える1DKです。築40年、いかにも古いマンションって感じの建物ですが、数年前に耐震工事が施されていて、内装は昨年リフォームされてとてもきれい。洗濯機も室内に置けますし、独立洗面台がついていて、収納も大きくて、管理人さんも日勤されています。家賃が驚くほど安いのは、どの駅からも離れていて、おおよそ自転車通勤には向かない坂の上に位置しているからかと思いますが、そのぶん眺望が良くて、南向きの広いベランダがついていて、本当に素敵な物件です。

 住居さがしというのはつくづく、深層心理が露わになるプロセスだと思います。
 通常、不動産を借りるときには、希望条件を挙げて、それに優先順位をつけて、予算に合わせながら、譲れないところと妥協できるところを振り分けていくわけですが、実際にいろいろと物件を見ていくうちに、思いもよらなかった自分の欲望に気づいたり、大切だと思っていたところがどうでもよくなっていたりするのです。
 私は当初、自転車置き場があって2階以上でガスコンロが2口以上ある25平米以上の物件なら、どこでもいいと思っていました。(いまの家はワンルームなので台所が狭く、効率の悪い電熱コイルが1つしかありません)。
 決して難しい条件ではないはずです。7万円も出せば、四谷の古いマンションくらい借りられると思っていました。
 ところが実際に物件をあれこれ内見してみると、私が惹かれる物件というのは、30平米以上あって、窓が大きくて陽当たりが良く、ベランダが広くて、お風呂が清潔な物件ばかり。25平米のワンルームさえ狭く感じました。古いアパートはどれも、水回りの掃除のしにくさが気になってダメでした。いま住んでいる物件の見晴らしが良すぎるせいか、窓から隣家の壁しか見えない物件やベランダの狭すぎる物件も「論外」と思ってしまいました。
 私は、自分が広さやベランダやバスルームにそんなにこだわりをもっていたなんて、まったく自覚していませんでした。いま住んでいる部屋(25平米)を特に狭いと思ったことはないし、日中に自宅にいることはまずないので陽当たりや眺望なんてあまり関係ないと思っていました。洗濯は好きですが平日は部屋干しですので、そんなに毎日ベランダを使うわけでもなく。お風呂も、バランス釜(四谷エリアの安い物件の大半はバランス釜です)でいいと思っていました。私は基本的にジムでお風呂に入るので、いま住んでいる家でも、バスタブにお湯を張ったことがないのです。
 でも考えてみたら、私はいつも内心で、25平米のワンルームを狭すぎると思っていたのかもしれません。そして、そんなこと思っちゃいけない、都内で25平米あれば上々でしょ、と無理に自分に言い聞かせてきたのかも。マニラでは、元職場在職中は39階90平米、その後のフィリピン大学所属中も4階40平米の部屋に住んでいたので…。
 ベランダについても、いま住んでいるマンションのベランダが狭く、布団が干しにくいうえに、物干し竿が胸の高さくらいのところまでしかかけられないことに、内心、いら立っていたのかもしれません。
 そしてバスルーム。私はバスタブにお湯を張ることこそしませんが、冬でも毎朝、夏はそれこそ日に3回くらいシャワーを使い、そのたびにバスルームを掃除します。が、いまの家のユニットバスは、バスタブの外側の「エプロン」部分が外せない構造になっていて、私はそのことが不安でたまらないのです。エプロンを放置すると、内部がカビと水垢と害虫の温床になる気がして、気が気ではありません。毎週末、細長いブラシを差し込んでエプロン内部を無理やり洗い、隙間からキッチンハイターをスプレーしまくっています。工務店の方に来ていただいて相談し、そんなところ掃除しなくても大丈夫ですよ、と笑われましたが、私は気が気ではありません。
 …いまでさえこんななのに、古いアパートのバランス釜の物件に住むとしたら、エプロン部分どころかバランス釜の四方の隙間まで磨かなくてはなりません。初めてバランス釜の物件を見たときにそう思い、以後はそればかり考えてしまって、お風呂場の掃除のしやすさにしか目がいかなくなってしまいました。やっぱり、最近の住宅のお風呂――エプロンが外せるバスタブ、あるいはバスタブが床や壁と一体化してエプロンのないユニットバス――がいいなあと。

 …そんなわけで、すぐ見つかるだろうと思っていたのに、案外、気に入ったものは見つからず、予算や立地の考え直しを迫られ、時間ばかりが過ぎてしまいました。さすがにすこし焦りはじめていたところ、たまたま見に行った物件をものすごく気に入ってしまい、15分で即決。
 南向きで広くて、窓が多くて、明るいのです。窓が多いって、夏は暑くて冬は寒いのかもしれませんが、それでもいいです。内装は新築みたいにきれいだし、キッチンは広いし、バスタブもとても清潔。
 いまよりきれいにするために、頑張って磨きます。

 実は、この物件に決める数日前に、別の仲介業者さんの紹介物件で気に入った物件があって申し込みをした(つまり私の勤務先や年収や連帯保証人情報をお伝えした)のですが、私の職業が原因で、大家さんに繋いでいただくことすらできませんでした。私の現在の職業が、そして私の上司が、多くの敵をつくるものであることは承知していますが、逆に言えば、家賃を滞納したりトラブルを起こしたりする可能性は限りなく低いはずなのに(そんなことをしたら、私たちが一番恐れている「週刊誌」に書かれます)。
 …ともかく、契約前にこのような勉強をさせていただいただけ、幸せだと思っています。
 そして、今回決めた物件は、ダメだった物件よりはるかに素晴らしく、仲介業者さんは地域密着で物件情報に詳しく、担当者の方は非常に誠実で信頼できる方です。オーナー法人兼管理業者の担当者の方々も、とても親切です。このご縁を、大切にしたいと思います。

 友人の皆さま、ぜひ、気軽に遊びに来てくださいね。
 この物件の一番の特長はベランダです。不思議なくらいに広いのです。BBQセットを置いてテントを張れそうな広さです。暖かくなったら、東南アジアでおなじみの小さな白いプラスチックのテーブルや椅子をホームセンターで買ってきて、ベランダに置くつもりです。
 そして、暖かくなったら、植物もたくさん置きたいです。私は現在、自宅でモヒート(ラムベースのカクテル)を楽しむためにスペアミントを鉢植えで細々と育てています。新居ではもっと生い茂るくらいにハーブを植えて、レモングラスやパクチーも植えて、お茶やタイ料理に贅沢に散りばめて楽しみたいです。
 ちょっと狭いのですが、DKスペースでよろしければ、お泊りいただくこともできるかと思います。近いうちに寝具も揃えておきますので、いつでもお越しください。
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# by saging | 2011-11-17 00:27 | その他